目次 |
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01 |
吉野神宮駅・六田駅~吉野神宮~黒門~発心門~金峯山寺 |
02 |
金峯山寺~吉野朝宮跡~脳天大神~吉水神社~勝手神社~如意輪寺/後醍醐天皇陵~花矢倉展望台~ |
03 |
吉野水分神社~高城山~修行門~金峯神社~西行庵~安禅寺宝塔院跡~七曲り~吉野駅 |
1050、子守集落に鎮座する吉野水分神社(子守宮)。大峯奥駈道の第七十二靡「水分神社」です。
楼門の奥にひっそり佇む社殿。厳かな雰囲気です。正殿に天之水分大神、左殿に高皇産霊神、少名彦神、御子神。右殿に天萬栲幡千幡姫命、玉依姫命、瓊々杵命をお祀りします。
2016年12月29日。廻廊に囲まれた境内に社殿が並びます。
創建年代は不明。天之水分大神の神名が表すように、山の水を田畑に分配する神様として崇敬されています。平安時代の『延喜式神名帳』にも記載される古社であり、後に「みくまり」が「みこもり」に転じて子守明神に。この辺りは子守集落と呼ばれます。
社殿と廻廊の間は中庭でしょうか。吉野らしく桜の木が植えられています。
2018年4月8日。境内の枝垂桜。桜の季節もいいな、と思いました。
道端には吉野三橋の「丈之橋跡」の記念碑。橋は現存せず谷も埋め立てられてしまいましたが、護良親王の吉野城の史跡として語り継がれています。
吉野山の牛頭天王社は、高城山のツツジが城の鎮守として創建。後醍醐天皇の息子の護良親王が吉野で挙兵した歴史を伝える社でした。しかし神仏習合の牛頭天王は明治時代の神仏分離・廃仏毀釈の対象となり、山内の仏教・修験道の寺院と同じように破壊されてしまいました。現在、石垣と石段だけが残されています。
1112、ツツジが城跡の高城山休憩所。標高698mの山頂に展望台が設置されています。
元弘3年(1333年)、護良親王が吉野で鎌倉幕府に対し挙兵。吉野城に押し寄せる幕府の軍勢と激戦を繰り広げたと伝わります。形勢は不利になり、護良親王は負傷するも高野山への脱出に成功。隠岐島を脱出した父の後醍醐天皇とともに鎌倉幕府を滅ぼしました。
建武の新政が始まると足利尊氏と対立して一触即発の情勢になり、父の命令で捕らえられ鎌倉の足利直義(尊氏の弟)に引き渡されます。幽閉された護良親王は、直義の命を受けた淵辺義博によって殺害。僅か28歳という若さでこの世を去りました。無念でなりません。
展望台から北の眺望。水越峠(516m)がよく目立ちます。吉野山内を見渡すなら花矢倉展望台(p.2)のほうがいいです。
2018年4月8日。曇り空と桜。このシーズンだけ賑やかになります。
2018年4月8日。高城山から南の眺望。金峯神社前の桜が一際目立っていました。
1130、金峯神社の境内に至る修行門。門前町の「発心門」(p.1)が金峯山の一の鳥居、「修行門」が二の鳥居という位置付けになります。
金峯神社まで急坂を登ります。
2018年4月8日。道が狭く、桜の季節は非常に混雑します。タクシーを走らせるのは無理があると思う。
吉野山の桜は役小角と蔵王権現の伝説に由来。役小角が金峯山で感得した蔵王権現の姿を桜の木に刻み、大峯山と吉野山で祭祀を行ったのが金峯山寺の起源です。以来、吉野では桜を御神木として崇める風習が生まれ、山中に桜が植えられて桜の名所になりました。
この山の美しい桜は蔵王権現にお供えするもの。近世の参拝者にはその信仰が徹底されていたようです。残念ながら明治以降は修験道や蔵王権現の信仰が衰退し、桜の歴史を大切にしようという心すら失われつつあります。ただの名所で済ませず、歴史的背景を理解してほしい。
急な参道を登って金峯神社に到着。大峯奥駈道の第七十一靡「金峯神社」です。
祭神は吉野山の地主神である金山毘古命。創建年代は不明ながら『延喜式神名帳』に記された古社です。この山域は古くから金峯山や金の御岳と呼ばれる聖地であり、神仙境や黄金浄土という観念から黄金の産出地と信じられ、金山毘古命の社が創建されたとする説があります。
後世には黄金にまつわる数々の伝説が作られ、神仏習合の時代は金精大明神として崇敬されました。実際のところ、金峯山で金鉱脈は見つかっていませんが、古代の人々の霊山の意識は現代にも受け継がれています。
2018年4月8日。金峯神社は奥千本の入口に鎮座しています。山麓の近鉄吉野駅から道なりに歩いても6km以上。ウォーキング・ハイキングに対応した装備が必要です。
鎌倉時代初期の文治元年(1185年)、源頼朝の軍勢に追われた源義経が吉野に逃れました。義経は塔に隠れるも追手に囲まれ、屋根を蹴破り脱出。それで蹶抜塔とか隠れ塔と呼ばれるようになりました。現在の塔は大正時代に再建されたものです。
金峯神社から奥千本へ。山道に入ります。この先の分岐を直進すると大峯奥駈道に直通。右に入ると、奥千本を経て奥駈道に合流します。
整備が進む奥千本エリア。様々な事情で桜が減少してしまったため、杉林を伐採して桜の苗木を植えるそうです。
2018年4月8日。同じ場所で撮りました。あと何年も経てば一面桜の風景になるでしょう。もちろん蔵王権現の信仰が根幹にあるのですよ。
西行法師が暮らした西行庵が再現。内部に西行像が安置されています。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、全国を旅しながら風流な歌を残した西行法師。桜と月を愛した歌聖として知られる偉大な僧侶です。若くして出家した後、吉野山で暮らした時期があり、この山の美しい桜を愛していました。
西行は50歳を過ぎてから熊野詣に行き、極めて過酷な修行で知られた大峯奥駈道にも挑戦。順峯と逆峯どちらで踏破したのか定かではないものの、『山家集』に大峯の山々や宿の名が記されていることから、間違いなく熊野~吉野を修行しながら歩き通しています。
交通手段やアウトドア装備が未発達の時代に、感傷的な歌を残しながらも屈強な精神で道を進んだ西行。歌聖というより徒歩の旅人、遊び人として尊敬すべき人物です。西行は私の徒歩旅のあり方に大きな影響を与えてくれました。大峯奥駈道の踏破を思い立った動機の一つです。
2016年4月、桜が満開の頃に「弘川寺探訪 II」を実施。西行法師終焉の地である河内国(大阪府)の弘川寺を訪れました。偉大な旅人、西行の軌跡を紹介していますので興味ある方はどうぞ。当サイトの主題である「東方舞台探訪」に基づいた探訪レポです。……ここでようやく東方の話題になりましたね。
2018年4月8日。西行庵周辺の桜。西行が暮らした頃の吉野山を訪れたいです。
2018年4月8日。
「吉野山 梢の花を見し日より 心は身にも そはずなりにき」
梢の花を見て心を奪われた気持ちをありのままに詠んだ歌です。
西行も詠んだ奥千本苔清水。
「とくとくと 落つも岩間の苔清水 汲みほすまでも なきすみかかな」
後世、西行ファンの松尾芭蕉が吉野を訪れて苔清水を詠んでいます。
2018年4月8日。奥千本の様子。また吉野山を訪れることになるでしょう。
1218、安禅寺宝塔院跡。かつて第七十靡の「愛染の宿」がありました。先程の分岐を直進すると、この場所に至ります。
「宿」とは修験者が利用した宿所のこと。修験者は宿に逗留し、周辺の行場を訪れて修行しました。時代の流れとともに山中の宿の大部分は衰退して失われ、靡と同じく、跡地としてその名を残すだけになっています。
安禅寺の愛染の宿は大峯奥駈道の入口に置かれました。吉野山の奥の院とも呼ばれて諸堂が並ぶ寺院であったのが、明治時代の廃仏毀釈で跡形もなく抹消。何も残っていません。破壊された寺院と史跡…こんな話題ばかりなのが悲しいです。
安禅寺跡より先は大峯奥駈道の縦走路。山上ヶ岳、行者還岳、弥山、八経ヶ岳、釈迦ヶ岳を経て南奥駈道。紀伊山地の大峰山脈を一直線に縦走する非常に険しく長い道のり。登山家の中では上級者向けのロングトレイルに位置付けられ、十分な経験、装備、体力、気力を必要とします。
初めて吉野山を訪れてから2年後の2019年4月、重い腰を上げて「大峯奥駈道トレッキング」を実施しました。吉野から熊野に至る修験道の史跡、西行法師の足跡を辿る旅。どのような結末を迎えるのか、この時には分かりませんでした。
1327、七曲りの上部まで戻りました。ここから近鉄吉野駅に下ります。
2016年12月29日。七曲りの攻ヶ辻(由緒はp.1で紹介済み)。下に丹治川沿いの吉野線と吉野駅が見えます。
2018年4月8日。七曲りの一帯は下千本と呼ばれます。桜は山麓から山奥にかけて順番に咲くため、奥千本が満開の頃、下千本は葉桜になります。
2018年4月8日。葉桜の中に満開の桜。山麓からアクセスしやすく花見客が多いです。
吉野ロープウェイ沿いに下ると千本口駅。ロープウェイは2017年4月の事故から運休状態が続き、2019年3月、桜のシーズンを前に運行を再開されました。
2016年12月29日。麓の千本口駅と尾根上の街道を結ぶロープウェイ。観光で訪れる際はご利用ください。私は徒歩派なので。
1340、近鉄吉野線の吉野駅。充実の史跡巡りを終えて帰ります。
2016年12月29日。昭和3年(1928年)、吉野鉄道の延伸に伴って開業した吉野駅。吉野山北麓の谷間に整備された吉野観光の玄関口になります。土産物屋が数軒並び、こじんまりとした雰囲気です。
2018年4月8日。桜のシーズンは大混雑。冬に史跡を巡り、春に桜を補完して正解でした。それにしても物凄い混雑ぶりです。