東方巡遊記

吉野山探訪 II

目次

01
吉野神宮駅・六田駅~吉野神宮~黒門~発心門~金峯山寺
02
金峯山寺吉野朝宮跡脳天大神吉水神社勝手神社如意輪寺/後醍醐天皇陵花矢倉展望台
03
吉野水分神社~高城山~修行門~金峯神社~西行庵~安禅寺宝塔院跡~七曲り~吉野駅

2017年12月2日(土)

金峯山寺

金峯山寺の蔵王堂 蔵王堂の由緒 
0925、金峯山寺の蔵王堂。標高は365m。大峯奥駈道の第七十三靡吉野山」です。

蔵王堂は金峯山寺の中心となる本堂であり、秘仏の本尊、蔵王権現三体のほか多くの尊像を安置。文献上は平安中期の康和5年(1103年)には存在しており、現存の建物は安土桃山時代の天正20年(1592年)の再建。仁王門と同じく国宝に指定されています。

大峯奥駈道踏破の目安となる七十五箇所の「靡(なびき)」。昔は山中の道や里(距離の単位)を示す言葉だったと考えられ、近世または近代になって霊場・行場という解釈に変化したようです。大峯で行われた山岳修験は詳しい記録を残さずに衰退してしまい、残念ながら靡の多くも廃絶。古態は謎に包まれています。

2019年4月に実施した「大峯奥駈道トレッキング」では、第七十三靡「吉野山」から第一靡「本宮大社」を目指しました。全てチェックできず見落としてしまった箇所もありますが、森沢義信氏の『大峯奥駈道七十五靡』に基づき、七十五箇所の靡を簡潔に紹介しています。

金峯山寺の蔵王堂 金峯山寺の蔵王堂 
金峯山寺の蔵王堂 金峯山寺の蔵王堂 
荘厳な金峯山寺蔵王堂の全景。

金峯山とは吉野山から大峯山(山上ヶ岳)に至る山域のこと。古来より神聖な山々として人々に崇拝される聖域でありました。飛鳥時代の白鳳年間、山岳呪術者の役小角が金峯山に修行に入り、修験道独自の本尊である金剛蔵王大権現を感得されたと伝わります。

寺伝によると役小角が桜の木に蔵王権現の姿を刻み、大峯山と吉野山で祭祀を行ったのが金峯山寺の始まり。以来、吉野では桜を御神木として崇める風習が生まれ、山中に桜が植えられて桜の名所になりました。

平安時代、都で密教や修験道が隆盛。金峯山の蔵王権現の信仰も盛んになりました。末法思想の流行で金峯山詣が行われるようになり、熊野と吉野を結ぶ長く険しい修行の道が開かれました。これが大峯奥駈道として知られるルートの起源です。

やがて熊野三山を巡る熊野詣が始まり、大峯と熊野の山々は修験道や巡礼で栄えます。深い山中を抜けるための道や宿坊が各地に整備され、熟練の修験者が先達として奥駈を指導する体制が成立。中世から近世にかけて、多くの人々が大峯に入りました。

ところが明治に神仏分離・廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、神仏習合の修験道は廃絶に追い込まれる事態になりました。金峯山寺は明治7年(1874年)に廃寺となるものの破壊は免れ、明治19年(1886年)から天台宗寺院として再興されています。

戦後の昭和23年(1948年)には天台宗から独立し、1952年(昭和27年)からは金峯山修験本宗の総本山に。山上ヶ岳の蔵王堂(大峯山寺)とは分離されてしまいましたが、一度は衰退した大峯奥駈の修験道の復興に尽力されています。

金峯山寺の蔵王堂 
金峯山寺の蔵王堂 金峯山寺の蔵王堂 
2016年12月29日。年末年始の準備が進んでいました。冬は静まり返って落ち着いた雰囲気です。

金峯山寺の蔵王堂 金峯山寺の蔵王堂 
黒門 金峯山寺 
2018年4月8日。桜のシーズンは吉野山一帯が大混雑。蔵王堂に参拝して桜を見るのが精一杯です。これが3回目の探訪。大峯奥駈の1年前でした。

金峯山寺の威徳天満宮 威徳天満宮の由緒 
蔵王堂前、菅原道真をお祀りする威徳天満宮。平安時代初期の天徳3年(959年)に創建されました。

昔、道賢(日蔵)上人が大峯山中での修行中に絶命。かつて大宰府に流されて怨霊になった菅原道真に出会い(あるいは道真を配流して地獄に落ちた醍醐天皇に出会い)、13日後に蘇生して威徳天満宮を造営したと伝わります。大峯は人が暮らす俗界から隔絶された特殊な世界。このような体験は本当にありえることです。

蔵王堂の正面には「大塔宮御陣地」の記念碑。元弘3年(1333年)に護良親王が吉野で挙兵した際、ここに陣幕を張り、最期を覚悟して酒宴を催したといいます。吉野山に壮絶な戦乱の時代があったことを忘れてはなりません。

金峯山寺の「後醍醐天皇導稲荷大神」 
2016年12月29日。蔵王堂の南に鎮座する導之稲荷社。社号標に「後醍醐天皇導稲荷大神」とあるように、後醍醐天皇を吉野に導いた稲荷大明神をお祀りします。

p.1で書いたように後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、京の都に戻って建武の新政を始めたけど短期間で失脚。離反した足利尊氏によって花山院に幽閉されてしまいました。延元元年(1336年)、天皇は花山院を脱出して遠く離れた吉野へ。日が暮れて一行は闇路に迷いますが、そこは稲荷社の前でした。

むば玉の くらきやみじにまよふ也 吾にかさなんみつのともし火

天皇が歌を詠んで稲荷社前で伏し拝むと、社の上から赤い雲が現れて臨幸の道を照らしました。一行が大和国の内山に至ると金の御岳(金峯山)で消え、無事に京を出た天皇は吉野で南朝を立ち上げるのでした。

後醍醐天皇が伏し拝んだ稲荷社とは、山城国深草の稲荷山に鎮座される稲荷大明神の社。今では京都府京都市伏見区の伏見稲荷大社として知られます。2014年4月の「伏見稲荷大社探訪 V」では稲荷山を徹底的に探究。天皇が迷った稲荷社前(p.3)、その伝説を刻んだ歌碑(p.5)など、関連する史跡を詳しく紹介しております。

蔵王堂から南朝妙法殿へ 金峯山寺の蔵王堂 
2016年12月29日。蔵王堂から南朝妙法殿に下ります。

吉野朝宮跡

後醍醐天皇の皇居があった吉野朝宮跡 吉野朝宮跡の案内板 
2016年12月29日。後醍醐天皇の皇居があった吉野朝宮跡。

吉野に逃れた天皇は吉水院に行宮を設けた後、この付近で最も大きい実城寺を金輪王寺に改称し、南朝の行宮(吉野朝宮)に定めて天皇の御座所としました。北朝打倒は叶わず、吉野入りして3年後の延元4年(1339年)、この行宮で息子の後村上天皇に譲位して崩御されました。

南北朝の対立は以降も続きますが北朝の優勢は変わらず、正平3年(1348年)、室町幕府の軍勢が吉野を攻略して行宮は焼失。後村上天皇は賀名生に逃れ、吉野の南朝が栄えたのは僅かな期間でした。その後の金輪王寺の事情は不明ながら江戸時代には実城寺に戻されており、明治時代の廃仏毀釈で廃寺となり、やはり跡形すら残っていません。

南朝妙法殿 
南朝妙法殿 南朝妙法殿 
2016年12月29日。昭和33年(1968年)に建立された南朝妙法殿。南朝四帝の尊霊と戦没者追悼のための施設です。

脳天大神

仏舎利宝殿 脳天大神に至る階段 
2016年12月29日。仏舎利宝殿から脳天大神に下ります。

脳天大神に至る階段 脳天大神に至る階段 
2016年12月29日。金峯山寺の尾根から谷に下る階段。脳天大神の鳥居が立ち並ぶ参道です。

左曽川の脳天大神 左曽川の脳天大神 
2016年12月29日。左曽川に下ったところ。

左曽川の脳天大神 
2016年12月29日。左曽川の舗装路は吉野川(p.1)に通じます。

脳天大神龍王院の本堂 脳天大神龍王院の本堂 
2016年12月29日。金峯山寺塔頭、脳天大神龍王院の本堂。

金峯山寺初代管長の五條覚澄大僧正が行場を探し求めた時、谷で頭を割られた蛇に出会い、お経を唱えて埋葬されました。蛇は蔵王堂の本尊たる蔵王権現が顕現した姿であったと分かり、昭和26年(1951年)、現在にてお祀りすることになりました。首から上の守護神として広く崇敬されています。

脳天大神龍王院の本堂 脳天大神龍王院の本堂 
2016年12月29日。本堂にて参拝。厳かな雰囲気でした。

吉野山の街道 
2016年12月29日。蔵王堂に戻り、吉野山の街道を南に進みます。

吉水神社

吉水神社の鳥居 吉水神社の参道 
左手には後醍醐天皇ゆかりの吉水神社。鳥居をくぐって尾根上の境内に向かいます。

吉水神社の社号標 吉水神社の社号標 
「従是 吉水院」の標柱 
2016年12月29日。社号標には「吉水神社」「南朝皇居舊跡」。寺院だった頃の「従是 吉水院」の標柱もあります。

見ての通り、実際の漢字は「士」ではなく「土」。文字化けするからレポ内では「吉」と表記しています。特殊な漢字でも文字化けせず使えるようになってほしい。

吉水神社の参道 吉水神社の神門 
吉水神社の神門 吉水神社の由緒 
坂を登って神門へ。隠岐島に流される後醍醐天皇に児島高徳が贈ったという十字の詩、「天莫空勾践時非無范蠡」が門前に掲げられていました。(難しい)

吉水神社の神門 吉水神社からの眺望 
静かな境内…吉野山の史跡はどれも静かです。

社伝によると飛鳥時代の白鳳年間、役小角によって創建。元々は吉水院と称し、金峯山寺の格式高い僧坊として栄えました。後醍醐天皇が吉野に逃れた際は吉水院の宗信法印の援助を受けて、ここに南朝の行宮を設置。後に実城寺を行宮に定めました。吉水院は南北朝時代の始まりの地なのです。

後醍醐天皇は延元4年(1339年)に吉野行宮で崩御。息子の後村上天皇が自ら刻んだ尊像を吉水院に安置し、長い間、後醍醐天皇を仏式で供養してきたと伝わります。尚、吉水院は源義経や豊臣秀吉ゆかりの寺院でもあり、様々な文化財・宝物が現存しています。

吉野神宮(p.1)の由緒の中で説明したように、明治の神仏分離・廃仏毀釈で吉水院の寺号は廃止。明治6年(1873年)に後醍醐天皇社という神社に改められ、2年後の明治8年(1875年)には吉水神社に改称されました。

寺院を改修して天皇を奉斎するのは好ましくなかったようで、明治22年(1889年)、明治天皇の意向で吉野宮の創建が決定。明治25年(1892年)に吉水神社から吉野宮に尊像が遷されました。吉野宮は大正7年(1918年)に吉野神宮に改称。現在に至ります。

これまで何度も書いてきた明治の神仏分離と廃仏毀釈。修験道の廃絶、吉野山の諸堂破壊、金峯山寺と吉水院の廃止…史跡巡りの旅をやっていると各地で明治の寺院抹消の跡を目にします。急激な近代化と国家の発展の影で、多くの文化が葬り去られたのです。

吉水神社の神門 吉水神社の境内 
二つ目の神門をくぐります。この佇まいは素晴らしいですね。

豊臣秀吉が設計した吉水院庭園 蛭子神社/恵比須神社 
左手には、豊臣秀吉が花見の際に基本設計を行った吉水院庭園。蛭子大神と事代主神をお祀りする蛭子神社/恵比須神社もありました。

後醍醐天皇、楠木正成、宗信法印を祀る吉水神社の本殿 
かつて護摩堂だった本殿にて参拝。祭神は後醍醐天皇、楠木正成、宗信法印です。

吉水神社の神門 吉水神社の神門 
吉水神社の本殿 
2016年12月29日。初めて吉野を訪れた頃は南北朝時代に疎く、じっくり南朝の史跡を巡りながら歴史を学びました。『神皇正統記』『太平記』『吉野拾遺』などの文献も必須。本レポは歴史を概観するだけで、深くは踏み込みませんが。

勝手神社

吉野山の勝手神社 勝手神社の由緒 
2016年12月29日。吉水神社の先、街道の一角に鎮座する勝手神社。天之忍穂耳命を主祭神として、大山祇命、久々能智命、木花咲耶姫命、苔虫命、葉野姫命を配祀する社です。

勝手神社 勝手神社 
2016年12月29日。勝手神社に社殿はありません。

創建年代は不明ながら吉野八社明神の一社。金峯山の入口に鎮座することから吉野山口神社と称しました。平成13年(2001年)に不審火で焼失し、御神体は吉水神社に遷座。以来、本殿再建のための寄付金を募りながら現在に至っています。寺社を破壊するなど絶対に許されない。必ず罰が当たります。

如意輪寺/後醍醐天皇陵

吉野山の分岐 
1000、分岐です。左に下ると吉野山の中千本エリア。谷の向こうに如意輪寺と後醍醐天皇陵があります。右に進むと吉野水分神社、金峯神社に直通します。

吉野山の分岐 吉野山の御陵道 
2016年12月29日。分岐を左に入って後醍醐天皇陵へ。「御陵道」の標柱が設置されています。

冬の中千本 冬の中千本 
冬の中千本 冬の中千本 
2016年12月29日。中千本エリア。谷を二つ渡ります。

如意輪寺に至る道 如意輪寺の階段 
2016年12月29日。登り返すと如意輪寺の山門が見えました。

如意輪寺の山門 
2016年12月29日。こちらが如意輪寺の山門です。

如意輪寺の本堂 如意輪寺の由緒 
2016年12月29日。如意輪寺の本堂。

平安時代前期の延喜年間(901~923年)、日蔵(道賢)上人によって開かれた真言宗の如意輪寺。後世には吉野に逃れた後醍醐天皇の勅願寺になりました。天皇は延元4年(1339年)に崩御、当寺の裏山に埋葬されます。江戸時代初期の慶安3年(1650年)、文誉鉄牛上人によって再興。浄土宗に改宗され、現在に至るまで御陵を守護する寺院となります。

後村上天皇御代の正平2年(1347年)、南朝の武将である楠木正行(忠臣楠木正成の息子)が、四條畷の戦いに出陣する直前に如意輪寺の御陵に参拝。本堂の扉に鏃で辞世の句を刻んだものが現存します。決戦に赴いた正行は二度と帰りませんでした。

本堂の脇から後醍醐天皇陵へ 
2016年12月29日。本堂の脇から後醍醐天皇陵に向かいます。

後醍醐天皇陵の入口 後醍醐天皇陵の案内板 
2016年12月29日。御陵の入口。宮内庁により塔尾陵として管理されています。

世泰親王墓 世泰親王墓の案内板 
2016年12月29日。世泰親王墓。後醍醐天皇の孫で南朝3代目の天皇、長慶天皇の息子の墓所です。

後醍醐天皇陵 
2016年12月29日。
後醍醐天皇陵。静かに手を合わせました。

北向きの後醍醐天皇陵 後醍醐天皇塔尾陵 
2016年12月29日。「後醍醐天皇塔尾陵」。

不屈の精神で鎌倉幕府を倒したものの建武の新政に失敗し、山深い吉野の地で南朝を立ち上げて北朝と対立した後醍醐天皇。「身は仮へ南山の苔に埋まるとも魂魄は常に北闕の天を望まん」と、最期まで北朝討伐を願っていたとされます。(諸説あり)

一般的な天皇陵とは異なり北向きに造られた御陵は、吉野から遠く離れた京の都を見据える向きになっています。この御陵を訪れたとき、後醍醐天皇の強烈な思念を感じました。建武の新政を打ち立てた後醍醐天皇は、実在の人物なのですから。

吉野山の分岐 吉野山の車道 
2016年12月29日。分岐に戻り、右の道を進んで金峯神社方面へ。

速須佐之男命を祀る小山神社 
喜蔵院、善福寺、桜本坊の前を通り、速須佐之男命を祀る小山神社に着きました。ここには吉野三橋の一つ、天王橋があります。

吉野山の小山神社 吉野山の分岐 
2016年12月29日。小山神社前の分岐を左に進みます。山内にはバスも運行しておりますので、歩き回るのが辛い方はご利用ください。

大峯奥駈道の標識 宗信法印の墓所 
徐々に登りがきつくなります。宗信法印の墓所を過ぎて上千本へ。この辺りにも色々な史跡が点在します。

吉野山の生活道路 吉野山の生活道路 
交通量皆無の車道。あくまで山中の生活道路ですから、地元住民の車両を優先してください。

冬の上千本 冬の上千本 
上千本エリア。つづら折れの急坂です。

上千本と吉野山の眺望 冬の上千本 
吉野山の眺望。冬の景色は地味ですね。

獅子尾坂 上千本の車道 
横川覚範の供養塔と首塚 上千本と吉野山の眺望 
2016年12月29日。車道に沿って獅子尾坂が復元されています。坂の一角には僧兵、横川覚範の供養塔と首塚あり。吉野に逃れた源義経を追跡するも佐藤忠信に討たれ、当地に埋葬されたと伝わります。

上千本へ 雪が降る吉野山 
2018年4月8日。上千本へ。吉野は奈良県南部の深すぎる山域の入口。桜の季節でも冷え込み、雪が降ったりします。春のピクニック感覚で訪れたら後悔しますので。

雪雲に覆われた吉野山 雪雲に覆われた吉野山 
2018年4月8日。雪雲に覆われた吉野山。フィルムはFUJIFILM PROVIA 100F(リバーサル)。吉野のイメージに合わせて意図的に暗く撮りました。

吉野山の上千本の桜 上千本の桜 
上千本の桜 
2018年4月8日。午後から晴れ模様。混みすぎて探訪・撮影どころではありません。

花矢倉展望台

花矢倉展望台 
1035、子守集落の花矢倉展望台。吉野水分神社の手前です。

吉野山の花矢倉展望台 
高台に位置する花矢倉展望台。かつて金峯山寺塔頭の世尊寺がありました。源義経に仕えた佐藤忠信が陣取って矢を放ち、僧兵の横川覚範を討ち取った伝説も残ります。

花矢倉展望台から吉野山の眺望 花矢倉展望台から吉野山の眺望 
花矢倉展望台から北の眺望。尾根上には金峯山寺を中心とする吉野の町並み。ネガフィルムでレトロスペクティブな風景にしました。

ここは大和国吉野郡/奈良県吉野郡吉野町。奥の山々は大和国(奈良県)と河内国(大阪府)の境界の金剛山地。左から最高峰の金剛山(1125m)、水越峠(516m)、葛城山(959.2m)。そして雌岳(473.9m)と雄岳(517m)から成る双耳峰の二上山です。役小角は金峯山に入る前、金剛山地で修行したと伝わります。

吉野は『古事記』と『日本書紀』にも登場する地名です。神日本磐余彦尊は日向国(宮崎県)から東方を目指して船出し、熊野神邑(和歌山県新宮市)に着き、八咫烏の導きで吉野へ北上。奈良県の畝傍山南東に橿原宮を築いて初代天皇(神武天皇)に即位。大和朝廷を立ち上げて日本という国が始まったことになっています。

神日本磐余彦尊が訪れた頃には先住民が暮らしていたらしく、応神天皇や雄略天皇の時代には吉野宮なる離宮が設けられました。西暦672年。天智天皇の弟の大海人皇子が吉野へ隠棲するも挙兵し、近江朝廷を滅ぼして飛鳥浄御原宮を築き天皇(天武天皇)に即位。これが古代史上最大の内戦とされる壬申の乱です。

尚、古代の天皇が設けた吉野宮跡は宮滝遺跡と推定。これより東の吉野川沿いに大きな建物跡が確認されています。同時期には吉野山にも一定規模の集落が存在していたと思われ、役小角の時代など、古代の吉野山を想像するのも楽しいです。吉野はただの観光地ではなく、深い歴史的背景があります。

花矢倉展望台から吉野山の眺望 花矢倉展望台 
花矢倉展望台から吉野山の眺望 
2016年12月29日。金峯山寺の風景。飛鳥時代の舒明天皇6年(634年)に大和国茅原に生まれ、葛城山や金峯山で修行して修験道の礎を築いたという役小角。p.1にも書いたように、その活躍は伝説化され実態は不明です。

平安時代に成立した『日本霊異記』の伝説によると、役優婆塞(役小角)は修行により呪術を身につけ鬼神を操りました。ある時、鬼神を使い金峯山と葛城山の間に橋を架けさせようとしますが、葛城山の地主神である一言主大神が文武天皇に讒訴したことで逮捕。伊豆島(東京都の伊豆大島)に流されます。(配流は実話です)

『続日本紀』には文武天皇3年(699年)の記録が残っています。役小角の能力が人々を惑わせているとの讒言により伊豆島に配流。世間の噂では、鬼神を使役して水を汲んだり薪を採らせたりして、命令に従わなければ呪術で縛ることもできたといいます。この噂が後世の伝説の基になったのでしょう。

『日本霊異記』によると伊豆島から富士山に飛び修行を続けた役小角。大宝元年(701)に赦免されて都に戻り、仙人になり空に飛び去ったとか。「役小角の伝説は多すぎて紹介できないから省略する」と記されており、平安時代の時点で超人的呪術者と認識されていたことが分かります。赦免後の動向は不明ながら、 大宝元年の入寂が定説のようです。

中世に修験道が隆盛する中で偉大な修験者として崇敬され、入寂から1100年を迎える江戸時代後期の寛政11年(1799年)、時の光格天皇によって「神変大菩薩」の諡号を送られました。修験道が衰退した今でも、信仰は受け継がれています。……これも前ページの重複でした。

雪が降る吉野山 吉野山の桜と雪 
雪が降る吉野山 花矢倉展望台 
2018年4月8日。桜吹雪じゃなくて本物の雪の吹雪。吉野山だけ雪雲に覆われています。

雪が降る吉野山 雪が降る吉野山  
春の吉野山 
2018年4月8日。晴れました。どうやら開花のタイミングを外したらしく、山内が桜色に染まる風景は撮れませんでした。

吉野水分神社へ 
花矢倉から吉野水分神社へ。
3ページ目に続きます。

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