目次 |
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01 |
吉野神宮駅・六田駅~吉野神宮~黒門~発心門~金峯山寺 |
02 |
金峯山寺~吉野朝宮跡~脳天大神~吉水神社~勝手神社~如意輪寺/後醍醐天皇陵~花矢倉展望台~ |
03 |
吉野水分神社~高城山~修行門~金峯神社~西行庵~安禅寺宝塔院跡~七曲り~吉野駅 |
番外編:歴史の舞台探訪。
役小角によって開かれた修験道の一大道場、吉野山。都を逃れた後醍醐天皇が南朝を立ち上げた地でもあります。大峯奥駈道の下見を兼ねて、山深い吉野の史跡を探訪しました。
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0752、近鉄吉野線の吉野駅にて下車。ここは大和国吉野郡/奈良県吉野郡吉野町です。
吉野は奈良県南部の深い山域の入口。兵庫県南東部の自宅から3時間ほどかかり、特急を乗り継いで長野方面に向かうのと同じぐらいの遠さ。もちろん京都や奈良の都からも遠く離れた場所にあります。
昭和3年(1928年)、吉野鉄道の延伸に伴って開業した吉野神宮駅。その名の通り、明治25年(1892年)創建の吉野神宮の最寄駅です。駅前の通りには吉野神宮の社号標と一の鳥居がありました。
探訪のメインカメラは工事現場用のコンデジ、RICOH G800。今回はサブカメラでオートフォーカスのMINOLTA α8700iを試用。フィルムはFUJIFILM SUPERIA X-TRA 400(ネガ)です。
(詳細はカメラ及びフィルムのページを参照)
こちらが吉野山周辺の地図。吉野山とは金峯山寺を中心とする山域のこと。吉野川から金峯神社に至るまで寺社や史跡が連なり、じっくり歴史探訪をすると丸一日かかるほど広い地域です。
※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋。「カシミール3D」で出力し、ポイントを追記。利用規約に基づいて掲載しています。
吉野~熊野を結ぶ大峯奥駈道の起点/終点でもあり、大峯奥駈の行場である七十五靡を辿って熊野を目指す場合、近鉄六田駅で下車して吉野川を渡るところから行程が始まります。金峯神社の先で山道に入ると、熊野まで果てしなく険しい縦走です。
以前から大峯奥駈道の単独踏破を構想しており、今回の吉野山探訪は奥駈初日の事前調査を兼ねていました。吉野から縦走路に入るまで少しの遅延も許されないシビアな行程。2019年4月、万全の態勢で「大峯奥駈道トレッキング」を実施しました。
尚、奥駈の方法は順峯と逆峯の二通りあります。古くは熊野から吉野を目指す順峯が主流だったようですが、後に吉野から熊野を目指す逆峯が始まり、今ではそちらが一般的に。交通アクセス的にも吉野発のほうが都合がよく、私は逆峯を選びました。
0800、誰もいない駅前を出発。R167を上がって吉野神宮に向かいます。
ここから金峯神社まで道なりに歩くと8km以上。史跡の寄り道や帰路を含むと、もっと長くなります。吉野山には舗装路が整備されていますが急な坂も多く、トレッキングシューズなどハイキング用の装備が必須。観光地だと思っていたら滅茶苦茶歩かされます。
深い山中に入っていく気配。神宮まで少し歩かなければなりません。
鳥居をくぐって境内へ。この常夜燈は明治31年(1898年)奉納。道路拡幅や風雪害による倒壊から修復され、現在地に移設、永久保存されているとのこと。
参道の先には大鳥居と社殿。紅葉シーズンが終わって静かな境内。こういう落ち着いた雰囲気が好き。
明治25年(1892年)、明治天皇の意向で創建された吉野神宮。南朝を立ち上げた後醍醐天皇を奉斎、顕彰する新しい社です。
鎌倉時代の正応元年(1288年)に生まれた尊治親王(後醍醐天皇)。文保2年(1318年)、花園天皇に譲位される形で第96代天皇に即位しました。天皇親政を行う中で武家政権である鎌倉幕府の打倒を目指すようになったらしく、元弘元年(1331年)には息子の護良親王や武将の楠木正成たち支持者とともに挙兵。反乱は一時的に失敗し、天皇は逮捕・廃位されて隠岐国(島根県の隠岐島)に流されます。
倒幕を諦めなかった後醍醐天皇は隠岐島を脱出。幕府側の武将であった足利高氏を味方につけて勢力を結集し、元弘3年(1333年)に北条氏の鎌倉幕府を滅ぼすことに成功します。京の都に戻った後醍醐天皇は 天皇親政の建武の新政を始めますが、あらゆる滅茶苦茶ぶりから忠臣、足利尊氏の離反を招いてしまい、僅か2年半で失脚。花山院に幽閉されるのでした。
それでも諦めない天皇は延元元年(1336年)に都を脱出。山深い吉野の地で南朝を立ち上げて北朝・室町幕府と対立しますが、北朝打倒は叶わず、3年後の延元4年(1339年)に吉野行宮で崩御されました。後醍醐天皇の野望や南朝については現代に至るまで様々な評価が下されており、本レポで事細かに解説するのは不可能。簡潔な紹介に留めさせていただきます。
後醍醐天皇の崩御後も南北朝の対立は続きました。正平3年(1348年)、室町幕府の軍勢が吉野を攻略して行宮は焼失。後村上天皇は賀名生に逃れ、吉野の南朝が栄えたのは僅かな期間でした。その後、元中9年/明徳3年(1392年)の明徳の和約により両朝が合一。天皇が二人も存在した57年に及ぶ南北朝の混乱が終わりました。
後世、南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)の正統性について論争が行われ、本物の三種の神器を所持した後醍醐天皇の南朝が正統とする説が登場します。明治維新後、南北朝の正統性を巡って学者や政治家を巻き込む論争が勃発。明治天皇(北朝の子孫)の裁定で南朝が正統ということになっています。
神門前、右手に摂社が鎮座しています。左から日野資朝、日野俊基をお祀りする御影神社。児島範長、児島高徳、桜山茲俊をお祀りする船岡神社。土居通増、得能通綱をお祀りする瀧櫻神社。全員が南朝の功臣です。
武家政権である江戸幕府の時代が終わり、天皇を中心とする近代国家を志向した明治時代。建武の新政を行った後醍醐天皇と忠臣達が高く評価され、吉野神宮を筆頭に建武中興十五社として顕彰されました。今でも南朝のほうが人気ありますよね。
さて、後醍醐天皇の社の創建には紆余曲折がありました。後醍醐天皇が延元4年(1339年)に吉野行宮で崩御された後、息子の後村上天皇が自ら刻んだ尊像を吉水院(p.2)に安置し、長い間、後醍醐天皇を仏式で供養してきたと伝わります。吉水院は最初に行宮を設けた寺院でもありました。
しかし明治時代の神仏分離・廃仏毀釈で吉水院は廃止。明治6年(1873年)に後醍醐天皇社という神社に改められ、2年後の明治8年(1875年)、吉水神社に改称されました。信心深い後醍醐天皇が廃仏毀釈を見たら激怒しそうです。
寺院を改修して天皇を奉斎するのは好ましくなかったようで、明治22年(1889年)、明治天皇の意向で吉野宮の創建が決定。明治25年(1892年)に吉水神社から吉野宮に尊像が遷されました。大正7年(1918年)になって吉野神宮に改称。現在に至っています。
拝殿にて参拝。京の都を見据える北向きの配置です。建武の新政を打ち立てた後醍醐天皇の精神は失われず、吉野神宮という形で平成の時代にも語り継がれています。
これより2016年12月29日。1年前にも大峯奥駈道の下見に訪れました。
9時前、近鉄吉野線の六田駅にて下車。六田駅は大正元年(1912年)に吉野軽便鉄道の吉野駅として開業。昭和3年(1928年)には吉野山麓まで延伸して新しい吉野駅が設けられ、当駅は吉野駅から六田駅に改称されました。昔は終点だったのですね。
駅を出発して吉野川北岸のR169を進行。ここは大和国吉野郡/奈良県吉野郡大淀町です。
大峯奥駈道の七十五靡を辿って熊野を目指す場合、吉野川北岸に位置する六田駅が行程の起点になります。ここから柳の宿跡、丈六山まで二箇所の靡を確認しましょう。「大峯奥駈道トレッキング」(p.2)の中でも紹介しています。
吉野川の両岸を結ぶ柳の渡し跡。北が吉野郡大淀町、南が吉野町です。
平安時代、大峯修験を再興した聖宝によって開かれたと伝わり、大正8年(1919年)に美吉野橋が架かるまで大いに賑わったそうです。柳の傍らに江戸時代後期の天明6年(1786年)の常夜燈が移設・現存。実際の渡し場は少し上流にあったそうですが消滅。面影はありません。
南詰には修験道の開祖とされる役行者(役小角)像。飛鳥時代の舒明天皇6年(634年)に大和国茅原に生まれ、葛城山や金峯山で修行し修験道の礎を築いたと伝わります。その活躍は伝説化されており、実態はよく分かっていません。
中世に修験道が隆盛する中で偉大な修験者として崇敬され、入寂から1100年を迎える江戸時代後期の寛政11年(1799年)、時の光格天皇によって「神変大菩薩」の諡号を送られました。修験道が衰退した今でも、信仰は受け継がれています。
集落を抜けて山に入ります。この車道を直進すると左曽川沿いに吉野に入り、金峯山寺の西麓の脳天大神(p.2)に通じています。
世界遺産の記念碑。この辺りに第七十五靡の「柳の宿」があったらしい。大峯奥駈道の靡の多くは廃絶し、その古態は不明です。
初詣の準備が進む吉野神宮の境内。ここまで2016年12月29日撮影分でした。
R15に面した東側の鳥居。境内周辺で誰も見かけませんでした。初詣や桜のシーズンは混雑するようです。
駐車場に丈六平の記念碑がありました。吉野神宮は標高272mの丈六平に位置します。元弘3年(1333年)、護良親王が吉野で鎌倉幕府に対し挙兵。その際、幕府の軍勢が本陣を置いた場所として知られています。
吉野山は神仏習合の修験道の一大道場であり、丈六平にも蔵王堂を始めとする諸堂が並んでいました。残念ながら吉野神宮を造営する際に整地されて跡形もなく消滅。この辺りが大峯奥駈道の第七十四靡「丈六山」の跡地と思われます。後醍醐天皇を顕彰する一方で、歴史ある寺院が抹消されてしまいました。
0845、吉野神宮から金峯山寺方面へ。車の通行しか想定されないR15を歩きます。
2016年12月29日。急な不動坂を上がると峰の薬師堂跡。丈六平と同じく明治時代に跡形もなく破壊され、本尊の薬師如来像は金峯山寺に移されました。一部の仏像が破壊を免れたことは幸いです。
2016年12月29日。薬師堂跡の先に村上義光の墓所(宝篋印塔)があります。
村上彦四郎義光は護良親王に仕えた武将。元弘3年(1333年)の戦いで吉野城が落城した際、護良親王の身代わりになって切腹したと伝わります。首級は北条方に検分されて親王のものでないと分かり、ここに捨てられた亡骸を里人が弔って埋葬したとのこと。
引き続きR15を進みます。右手には広い駐車場。マイカーの観光客のために整備されたのでしょう。
左手に山々の眺望が開けました。この先、吉野駅から吉野山に登る七曲りの急坂があり、一帯に植えられた桜の木々は下千本と呼ばれています。他にも中千本・上千本・奥千本なるエリアが存在し、満開のシーズンは花見客で溢れて大混雑します。
吉野山の桜は役小角と蔵王権現の伝説に由来。役小角が金峯山で感得した蔵王権現の姿を桜の木に刻み、大峯山と吉野山で祭祀を行ったのが金峯山寺の起源です。以来、吉野では桜を御神木として崇める風習が生まれ、山中に桜が植えられて桜の名所になりました。
この山の美しい桜は蔵王権現にお供えするもの。近世の参拝者にはその信仰が徹底されていたようです。残念ながら明治以降は修験道や蔵王権現の信仰が衰退し、桜の歴史を大切にしようという心すら失われつつあります。私の考えと全く同じことが、案内板に書かれていました。
2016年12月29日。満開の桜とは関係ない季節の下千本。人が少ないほうが史跡巡りに好都合です。
2016年12月29日。尾根上のR15と七曲りの急坂の合流地点。幕府の軍勢が坂を登って攻めたことから、攻ヶ辻と呼ばれるようになりました。
七曲りを下ると近鉄吉野駅(p.3)へ。探訪後は吉野駅に下って帰りましょう。
2016年12月29日。街道には吉野三橋の一つ、大橋があります。実は橋そのものより谷の地形が歴史的に重要。護良親王の吉野城の空堀の役割を果たしました。あっ…谷の写真を撮ってませんでした。
0905、大橋手前の無料休憩所。北に見えるのは丹治川沿いの吉野線と吉野駅。大峯奥駈道を七十五靡にこだわらず踏破する場合、吉野駅からスタートするのが一般的だと思います。
吉野ロープウェイの吉野山駅。麓の千本口駅と尾根上の街道を結びます。ロープウェイは2017年4月の事故から運休状態が続き、2019年3月、桜のシーズンを前に運行を再開されました。
2016年12月29日。金峯山寺、吉野山の総門である黒門。公家大名といえども槍を伏せ馬を降りて通りました。現在の黒門は昭和60年(1985年)に改築されています。
2016年12月29日。商店が並ぶ門前町。銅の鳥居が見えました。冬の吉野は観光客が少なく静寂そのものです。
室町時代に建てられたと伝わる銅の鳥居。扁額に「発心門」とあり、聖域の入口を示します。中世の修験者も気持ちを引き締めて通ったでしょう。
2016年12月29日。鳥居の傍らには吉野山と大峯奥駈道の地図が設置。吉野駅を出発して熊野本宮大社まで約100kmの行程。ひと目で長く険しい道のりだと分かってしまいます。
いつか単独で縦走しなければならない大峯奥駈道。登山ビギナーの私が無事に踏破できる気がしません。孤独な苦行が予想され、ただただ先が思いやられます。今のところ、モチベーションは非常に低いです……
では金峯山寺へ。門前町の雰囲気はとても良いです。
0920、金峯山寺の仁王門に到着。標柱には「修験道 根本道場 金峯山寺」。現代においても修験道の一大道場であります。
仁王門が建てられた年代は不詳ながら、下層は室町時代の延元年間(1336~1340年)頃、上層は康正年間(1455~1457年)頃の再建と推測。金峯山寺では最古の貴重な建築物であり、国宝に指定。現在、内部の仁王像とともに大修理が始められています。
さて、金峯山寺の本堂たる蔵王堂は南向き。にもかかわらず北の仁王門が正門になっています。かつては南に正門としての二天門が存在していましたが、正平3年(1348年)に戦乱で焼失して以来再建されていません。
中世に隆盛した大峯修験の形式にも流行り廃りがあり、熊野から順峯する修験者がいなくなって南門の役割が失われ、逆峯する際の北門(仁王門)が正門になったと考えられています。こうした修験道の聖地としての歴史的背景を大切にしたいです。
2016年12月29日。大修理が始まりつつあった仁王門。北に広がる門前町…平和な風景です。
最初の吉野山探訪は大峯奥駈道の下見で訪れ、奥駈のページに掲載する写真だけ撮ろうと思っていました。しかし実際に訪れると、広すぎる上に興味深い史跡が多すぎ。歴史を学びなおして再訪し、探訪レポとして独立させた次第です。これは「大峯奥駈道トレッキング」でも役立ちました。
修理予定の仁王像(金剛力士立像)。延元4年(1339年)、南都大仏師康成によって造られました。大修理を終えるのは何年も先のこと。その時また訪れましょう。
参道の階段を登ると蔵王堂へ。
2ページ目に続きます。