東方巡遊記

九州ツーリング I

目次

01
プロローグ
02
神戸港~新門司港~宇佐神宮~院内
03
院内~宇佐~別府~由布~大分~清川
04
清川~尾平越~天岩戸神社~高千穂神社~高千穂峡~延岡~日向~美々津
05
美々津~宮崎~高岡~小林~霧島岑神社/夷守神社~東霧島神社~小林
06
小林狭野神社皇子原神社霧島東神社御池霧島神宮高千穂河原
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08
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09
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10
エピローグ

2014年9月11日(木) 10日目

神々の山へ。

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小林

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0600起床。天気は晴れ。現在地は日向国/宮崎県小林市の「今村旅館」。手早く朝食と洗面を済ませ、バッグを積んで出発準備。

……と思ったら後輪がパンクしていることに気付く。タイヤにホッチキスの針が刺さり、チューブに貫通していました。多分、小林駅前で刺さったのでしょう。直ちにチューブを交換します。余裕のあるときにパンクしといて良かった。

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JR小林駅前にて準備完了。0805、探訪モードで出発します。

霧島地図 
というわけで霧島連山周辺の地図。昨日はR268で小林市街に入り、霧島六社権現のうち、霧島岑神社(夷守神社を合祀)と東霧島神社を巡りました。

本日はR223に乗って狭野神社、霧島東神社、霧島神宮を探訪。高千穂峰(1573.6m)への登山口となる高千穂河原まで上ります。時間的にはギリギリの予感。頑張りましょう。

※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋して掲載。「カシミール3D」で出力し、ポイントを追記しています。

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R405で西諸県郡高原町に入ります。今日も空気が霞み、霧島連山はよく見えません。

『続日本後紀』に記載されたように、古くは日向国諸県郡。『古事記』と『日本書紀』によると諸県君牛諸井に髪長媛という娘がおり、美女であると聞きつけた応神天皇は摂津国(大阪府)に呼び寄せます。応神天皇の子の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)は髪長媛に惚れて結婚し、二人の間には大草香皇子と草香幡梭姫皇女が生まれました。

それぐらい歴史的な地名にも関わらず、明治時代になって東西南北の諸県郡に分割。自治体が続々と合併・独立して原型を留めなくなりました。平成の大合併で沢山の市が生まれ、旧来の郡は縮小あるいは消滅。西諸県郡は高原町のみ属し、もはや意味を成していません。

現在、日本の郡は町村をまとめる程度の枠組み。しかし律令制の成立から用いられた歴史的な行政区分であり、今でも『風土記』に記された地名を残す重要な役割を担っています。無意味だと決めつけて、安易に廃止して良いものではありません。そうやって古い文化が失われてきたのです。

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0907、高原市街のセブンイレブン。これは昭和の時代に入ってきた文明です。

この先コンビニはありません。今のうちに水と食糧を最終補給しておきます。現代人が古い史跡を巡るには、現代の文明が不可欠という皮肉。地元の方に声をかけられても、訛りが強くて半分ぐらい分からない。東北に比べたら、まだ聞き取れるほうかな……

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補給を済ませて出発。R223に乗ると霧島神宮まで一本道。南西に高千穂峰が見えました。

狭野神社

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0957、狭野神社にやってきました。ここまで約17.6km。表参道から境内に入ります。

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車道を歩いて二の鳥居。猿田彦命をお祀りする猿田彦神社が新築されていました。

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鳥居の島木には天皇のシンボルである菊の御紋。以前は神日本磐余彦天皇を祀る宮崎神宮の別宮でした。神日本磐余彦天皇とは、初代天皇である神武天皇のこと。神武の諡号は後世に贈られたものです。

『古事記』と『日本書紀』の記述によると、天孫の瓊瓊杵尊は葦原中国の日向に天降った後、山神である大山祇神の娘の木花開耶姫命に出会って結婚。木花開耶姫命は一夜で身籠り貞操を疑われたことから、天孫の子であることを証明するため自ら産屋に火を放ち、三柱の子(火照命、火須勢理命、火遠理命)を出産します。

ある時、三男の火遠理命(山幸彦または彦火火出見尊)は、長男の火照命(海幸彦または火闌降命)の道具を紛失。それがきっかけで海神、大綿津見神の娘の豊玉姫命と結ばれます。海で暮らす豊玉姫命は天孫の子を出産するため陸に上がり、作りかけの産屋で鵜葺草葺不合尊が生まれました。

出産中の姿を彦火火出見尊に目撃された豊玉姫命は海に帰ってしまいますが、代わりに妹の玉依姫命を派遣。成長した鵜葺草葺不合尊は育ての親である玉依姫命と結婚し、四柱の子(五瀬命、稲飯命、御毛沼命、若御毛沼命)が生まれ、四男の若御毛沼命が神日本磐余彦尊、後の神武天皇となります。

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鬱蒼とした杉並木の参道。

社伝によると孝昭天皇御代(紀元前475~393年頃)、西の皇子原で生まれた神武天皇をお祀りしたのが当社の始まり。『日本書紀』の一書では神日本磐余彦尊の幼名が狭野尊とあり、神武天皇生誕の地として狭野神社を称しています。

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R406で皇子原公園に繋がっているらしい。後で寄り道します。

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神門をくぐって本殿へ。他の社と同じく霧島連山の噴火で焼失し、江戸時代初期の慶長15年(1610年)には現在地に遷座。狭野大権現と称し、別当寺として神徳院が置かれました。

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外拝殿にて参拝。主祭神は神日本磐余彦天皇。妃である吾平津姫命、天津彦火瓊瓊杵尊と木花開耶姫命、彦火火出見尊と豊玉姫命、鵜葺草葺不合尊と玉依姫命を配祀しています。

神日本磐余彦尊が生まれるずっと昔。山神の大山祇神は、瓊瓊杵尊が長女の磐長姫命(不変の象徴)と次女の木花開耶姫命(繁栄の象徴)の二柱を娶ることを望みました。しかし瓊瓊杵尊は磐長姫命の容姿が醜かったことを理由に拒否。美しい木花開耶姫命だけを娶った結果、その子孫の天皇は繁栄を手にするも寿命は限りあるものになったそうな。

『日本書紀』の一書では瓊瓊杵尊が磐長姫命に恨まれ、その呪いで葦原中国に暮らす人々の命は儚くなったとか。木花開耶姫命からも貞操を疑った件で当然のように恨まれてしまい、悲しんで愛の歌を詠んでみたものの返答はありませんでした。神日本磐余彦尊の曽祖父は、こういう神様だったんです。

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では、境内を出て皇子原公園へ。

皇子原神社

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R406を軽く上ると皇子原公園。高千穂峰の東麓にあります。

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公園の一角には、神武天皇生誕の地と伝わる皇子原神社。慶長3年(1598年)まで狭野神社が鎮座していました。

『日本書紀』の記述によると瓊瓊杵尊が天降ってから179万2470余年後。高千穂宮で暮らしていた神日本磐余彦尊(当時45歳)は東方の地に饒速日尊が天降ったことを知り、繁栄を求めて遠征を決意。兄と共に軍勢を率いて船出し、数多くの戦いを経て東征を成功させます。饒速日尊に言及すると収拾がつかないので、ここでは省略しましょう。

神日本磐余彦尊は畝傍山南東(奈良県)に橿原宮を築き、初代天皇に即位。大和朝廷を立ち上げて日本という国が始まりました。東征にかかった期間は『古事記』によると16年、『日本書紀』では6年。西暦における紀元前660年が即位紀元、皇紀元年と制定されたのは、国を挙げて神武天皇の功績を顕彰することになった明治時代の話。神武天皇の在位期間は紀元前660~585年とされており、2014年は平成26年、皇紀2674年になります。

天照大御神の子孫である神武天皇は橿原宮で天下を治め、『古事記』では大物主神の娘の伊須気余理比売命を后として、『日本書紀』では事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を后として、三柱の子(日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命)をもうけます。『古事記』と『日本書紀』で異なってますね。

『古事記』によると137歳で崩御され、畝傍山北方の白檮尾上に埋葬。『日本書紀』では127歳で崩御、畝傍山東北陵に埋葬されたとあります。しかし後世には橿原宮も御陵も所在不明になり、長らく伝説上の存在に。江戸時代に調査が始まって、畝傍山東北の陵墓を神武天皇陵として整備。明治23年(1890年)には、橿原宮の推定地に橿原神宮が創建されました。

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神武天皇をお祀りする小さな社。社殿後背に存在する産婆石の辺りで、玉依姫命が狭野尊を出産されたと伝わります。

2017年8月の「九州ツーリング II」では、高千穂宮に創建されたと伝わる宮崎県の宮崎神宮(p.5)、東征の船出の地とされる立磐神社(p.6)を訪れました。東方では「儚月抄」のバックストーリーに存在してそうな神武天皇。関連史跡をしっかり探訪しておきます。

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1120、出発。R223に復帰して霧島方面へ。

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御池の手前でR223を逸れて、霧島東神社に向かいます。

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突然現れる急坂。自転車を押さないと無理です。

霧島東神社

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1208、霧島東神社。ここまで約28.3kmでした。

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南東には霧島連山の火口湖、御池が見えます。これも後で寄り道しよう。

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地形的には高千穂峰東麓、尾根上のピーク(488m)に位置。石段の参道を登ります。

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本殿エリアまで登ってきました。立派な神門です。

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本殿へ。

社伝によると崇神天皇御代(紀元前97~30年頃)の創建と伝わる社。平安時代の天暦年間(947~957年)には性空上人が別当寺の錫杖院を建立。霧島大権現東御在所之宮と称して修験道の拠点として栄えました。噴火で幾度も被害を受けますが、復興を重ねて現在に至ります。

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拝殿にて参拝。主祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊。天照大神、天忍穂耳尊、瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鵜葺草葺不合尊、神日本磐余彦尊を配祀しています。

『古事記』と『日本書紀』の記述によると、伊弉諾尊と伊弉冉尊は多くの島々と神々を生みますが、伊弉冉尊は火の神である迦具土神を産んで亡くなります。それから伊弉諾尊が黄泉比良坂を通って黄泉国を訪れると、腐って醜い姿になった伊弉冉尊を目撃して恨まれてしまい、一騒動あって黄泉国を脱出するのでした。

伊弉諾尊は水辺で黄泉国の穢れを祓い、多くの神々が生まれました。左目を洗うと天照大御神、右目を洗うと月読尊、鼻を洗うと素盞嗚尊が誕生。最後に生まれた三柱の神々は三貴子と呼ばれ、父に使命を与えられます。天照大御神は高天原、月読尊は夜、素盞嗚尊は海を治めることになり、素盞嗚尊だけは使命を拒否して勘当されてしまいます。

高天原に向かった素盞嗚尊は天照大御神に警戒されますが、潔白を証明するために誓約を行い、やはり多くの神々が誕生しました。その際に生まれた天忍穂耳尊が、高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫命と結婚。天火明命(一説には饒速日尊とも)と瓊瓊杵尊という二柱の子をもうけます。天津神の代表格、天照大御神の孫だから天孫と呼ばれるのですね。

瓊瓊杵尊から神日本磐余彦尊の系譜は上述した通り。かなり割愛したのに、神武天皇が即位するまで凄く長いです。このレポを読んでいる方は神話についてよく御存知でしょうけど、神話を知らずに九州の社を訪れたら意味不明かもしれません。予習は必須です。

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境内には石の天逆鉾がありました。高千穂峰に立つ天逆鉾は霧島東神社の社宝。明日、高千穂峰へ登ります。

御池

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境内を出て御池まで下りました。時刻は1255、カロリーメイトを食べて昼休憩です。

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湖岸から西方にそびえる高千穂峰。

左右の目立つピークは高千穂峰の寄生火山である二子石。左(南側)が1300mのピーク、右(北側)が1321mのピークです。その奥に少しだけ頭を出しているのが、標高1573.6mの高千穂山頂。お~、あそこに天逆鉾が突き立てられているんだ。

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休憩していると猫ちゃんが擦り寄ってきました。私は動物に警戒されるタイプの人間なのに、これほど近寄ってくる猫は珍しい。

霧島六社権現の探訪、最後に向かうのは霧島神宮です。天気は大丈夫そうなので、早めに高千穂河原に到着したい。1330、出発します。

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再びR223に乗って都城市に入ります。高千穂峰の南に回り込んで霧島神宮へ。なかなか飛ばしやすいアップダウン。

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幹線道路なので交通量は結構多いです。工事のため片側交互通行の区間がありました。

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1432、宮崎県都城市から鹿児島県霧島市に入りました。福岡県~大分県~宮崎県を縦断して、とうとう鹿児島県です。霧島神宮と高千穂峰の一帯は、古くは日向国に属しました。

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まもなく霧島神宮。

霧島神宮

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霧島神宮の大鳥居までやってきました。奥に高千穂峰が見えます。

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1445、霧島市観光案内所で小休止。いい時間になりました。

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こじんまりした観光地。ロータリーを直進して霧島神宮へ。

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1510、霧島神宮。ここまで約47.4kmでした。自転車を置いて境内に入ります。

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表参道へ。

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展望台から南西方面の眺望。残念ながら何も見えず。

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境内を散策。広くて全部回れません。2018年12月の「九州探訪 III」では霧島神宮と周辺の史跡を補完しています。そちらのレポもどうぞ。

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本殿エリアの様子。ここも観光客だらけ。

社伝によると欽明天皇元年(540年頃)、慶胤上人が御鉢~高千穂峰の脊門丘にて瓊瓊杵尊を奉斎したのが霧島の社の起源です。この辺りの経緯は9日目(p.5)にも書きましたね。

霧島神宮元宮は霧島連山の度重なる噴火で炎上・焼失。平安時代の天暦年間(947年~957年)、性空上人によって高千穂峰西麓の高千穂河原に遷座されるも噴火によりことごとく焼失。戦国時代の文明16年(1484年)になって兼慶上人が現在地に社殿を移転。霧島西御在所六社権現と称し、別当寺として華林寺が置かれました。

かつての霧島六社権現の中心は『続日本後紀』に記された霧島岑神社だと思うのですが、長い歴史の中で荒廃や遷座を繰り返すうちに関係が変わり、現在では霧島神宮が中心的な社になっています。

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勅使殿にて参拝。豪華な社殿です。主祭神は天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊。相殿に妃の木花咲耶姫尊、彦火火出見尊と豊玉姫尊、鵜葺草葺不合尊と玉依姫尊、神倭磐余彦尊をお祀りしています。

勅使殿の左右に西長庁・東長庁が設けられ、その奥に拝殿・幣殿・本殿が並ぶ独特の建築様式。社殿手前には櫛磐間戸神と豊磐間戸神をお祀りする門守神社。天孫降臨に加わり、天石戸別神とも称します。

これで霧島六社権現の探訪を終え、高千穂峰への道が開けました。初日から雨続きだったのに、神社を訪れた時はいつも晴れ。私の旅は、こうやって神様に見守られているのです。

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1545、散策を終えて高千穂河原に直行。……の前に観光案内所前で一休み。

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地図を眺めていると、いかにもベテランなサイクルツーリスト3名が登場。三重県在住のグループで、大阪南港から志布志港にフェリーで上陸したとか。マシンはクロモリのランドナー。サイドバッグや装備の積載もベテランそのもの。これからコンビニで食糧を調達し、キャンプ場に向かうそうです。

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ついでに私も水を調達。R60沿いのローカルコンビニ、Aマートまで先導してもらいます。自転車旅の苦労や楽しさについて語り合った後、それぞれの目的地に向かうのでした。

高千穂河原

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1635、本日のラストスパート。R223からR480に乗り換えて「高千穂河原ビジターセンター」へ。

高千穂峰地図 
霧島神宮から高千穂河原に至る地図。R480の一本道ですが急坂が延々と続きます。

※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋して掲載。「カシミール3D」で出力し、ポイント及びルートを追記しています。

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高千穂峰の中腹まで7km。傾斜は8~10度。終わりが見えません。

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鬱蒼としたルート。もうきついです。これ以上漕ぐのは無理でしょう。

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自転車を押して、のろのろ上ります。まもなく日没。天気が怪しくなってきた。

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気力を失って歩いていると、ゴールが現れました。ああ…あれが私の寝場所なのですね……

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軒下に入った瞬間、突然土砂降りに!時刻は18時前、ここが「高千穂河原ビジターセンター」です。本日の行程はギリギリ終了。走行距離は約57.8kmとなりました。

自転車の脇でに倒れ込んでいたら退勤するスタッフからテント設営の許可をいただき、差し入れにカップ麺とお酒まで恵んでもらいました。もしかして、この人は神様なのでは……?

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軒下にインナーテントを設営して夕食に。明日の天気を心配するより、今はゆっくり眠りたい。

2010、雨が降りしきる中、就寝。
11日目に続きます。

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