東方巡遊記

九州ツーリング I

目次

01
プロローグ
02
神戸港新門司港宇佐神宮院内
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エピローグ

2014年9月2日(火) 1日目

夏、始まる。

※当サイトの内容を過信して発生したトラブルには一切の責任を負いかねます。必ず注意事項に目を通してからレポをお楽しみくださいますよう、強くお願いします。サイト内に掲載している写真・文章等のコンテンツは、形態を問わず転載厳禁。野宿要素が大変多く含まれているので、苦手な方はお引き取りください。

神戸港

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1400に兵庫県の自宅を出発し、神戸市東灘区の阪九フェリー神戸乗り場に到着したのは1625。走り慣れているとはいえ、全く面白くないR2を流してやってきました。

一口に神戸港と言っても、ここは住吉から下った六甲アイランド。三宮から下った神戸らしい港とは10kmも離れています。天気は曇り。観光客やライダーの姿はまばら。もう夏休みシーズンは終わっています。

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事前に予約した新門司港行き、1830~0700の乗船券を購入。2等船室は自転車込み&予約割引で7280円と中々リーズナブルな運賃。自転車を置いたら、セブンイレブンで夕食&明日の朝食を補給します。

乗船開始は出港30分前の18時頃。貴重品入れのウェストバッグ、地図や小物類を詰めたフロントバッグの他、着替えや水、食糧を用意して乗船準備。こんな時はナップサックが便利です。

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1800、数名のライダーと「フェリーせっつ」に乗船。その名の通り摂津国(兵庫県)~豊前国(福岡県)を結ぶフェリー。自転車の固定は係員さんにお任せして、車両甲板から2等船室へ。野宿同様、速やかにINして寝場所を確保する流れ。

こうして遠方のツーリングを扱うレポは初めてだったり。2013年4月の「東海道ツーリング」は自宅から東京まで幹線道路を走っただけ。同年8月の「佐渡島ツーリング」は導入部の北海道を丸ごとカットしています。今回は旅らしいレポになるよう、旅の実情をじっくり書いていきましょう。

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夏休みが終わって2等船室はガラガラ。この部屋は自分だけの貸切状態でした。洗面を済ませて、あとは寝るだけ~

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「フェリーせっつ」は1830に出港。隣の部屋のBBA達が甲高い声で喋りまくって寝られない。ウォークマンで東方の曲を聴いたり、船内をぶらぶらしたり。1930、ライトアップされた明石海峡大橋の下を通過しました。

22時過ぎ、消灯時間になってようやく就寝。初日の自走、走行距離は約29.7kmでした。明日から九州の行程が始まります。

2014年9月3日(水) 2日目

雨の予感。

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0600起床。あまり寝ていません。

本船は周防灘を航行中、あと1時間で新門司港です。瀬戸内海を通って九州に向かう、神武東征と逆の海路。神戸の微妙な曇りから、とても嫌な感じの雨雲の中へ。朝食を済ませたら下船準備を始めますよ。

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0645、下船のアナウンスで車両甲板へ。ライダー達と談笑しつつバッグの荷物をまとめます。雨天装備を展開しなければ…もう萎えてきました。

新門司港

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「フェリーせっつ」は、定刻通り新門司港に到着。0715、自転車と共に下船。西海道/九州に上陸しました。現在の気温は25℃で涼しいぐらい。上陸したのに大して盛り上がらない悲しさ。

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ここは豊前国/福岡県北九州市。竜宮城をイメージしているらしい阪九フェリー新門司乗り場。ライダー以外に旅人の姿は見当たらず、閑散としています。

実は今回のツーリング、雨の影響で1ヶ月遅れています。8月上旬に台風11号、その後も大雨が続き、延期を重ねて9月に。このプランも9月1日に出発するつもりが、直前の雨で2日に変更。出発前からずっと雨に悩まされていたのです。

おかげでモチベーションは過去最低レベル。走りを楽しめず、自転車と装備を濡らすだけの苦行にはしたくない。本ツーリングの目的は探訪ポイントに絞って、早めに引き上げます。

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……とか言っても、もはや雨は避けられない空気。フロントバッグとサイドバッグにレインカバーを装着して雨天装備に。野宿セットやレインウェアを入れているパニアバッグは雨ざらし。バッグ内部は防水処置を施してあるので問題ありません。

0735、自転車と装備の点検を終えて出発。ここから九州の旅がスタートします。

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まずはR25に乗って下曽根へ。

本日は海沿いに下り、宇佐神宮を目指します。70kmほどの行程で、ルートは基本的にノープラン。補給や寝場所は適当に探せばOKです。

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下曽根のローソンで小休止して、R10に乗り換え。R25やR10のバイパスが交錯していてよく分からない。とりあえず幹線道路っぽいルートを進行します。

道路のコンディションは本州と同じぐらい。路側帯が狭いところでは無理して車道を走らず、狭い歩道をゆっくり進みます。もちろん歩行者優先で。

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市街地を抜ける退屈な幹線道路。曇りがちな空と相まってモチベーションは低いまま。

ドライバーの交通マナーも関西と同等。路側帯を走っているだけでクラクションを鳴らされるなど、そこそこ荒い感じ。県外のトラックのほうが大人しいです。

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1030、R10沿いの松原展望台広場で一旦休憩。ここまで約36.6km。晴れ間が見えました。

この広場は空自の築城基地に面しており、マニアの姿がちらほら。F-2が轟音を上げて離陸していたり、F-15が上空を飛んでいたり。今でこそ陸至上主義ですが、昔は戦闘機が好きでした。

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1050、出発。R10が続きます。晴れたと思ったのに少しポツリ。風も出てきたし、本降りの前触れかもしれません。

ぼちぼち走っていたら、私を追い抜いたライダーが手を振ってくれました。北海道では皆やってるのに、内地ではまず見かけません。あのライダーは北海道を走ってきたのでしょう。私も手を振って応えます。

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1207、豊前のセブンイレブンにピットイン。ここまで約52.3km。休憩&昼食タイムです。出発から4時間半、かなりスローペース。

私の旅には欠かせないコンビニ休憩。カップ麺を食べたら以降のルートを検討します。明日の雨は避けられそうにありませんから、国東半島はカット。宇佐からR10で別府・大分方面へ抜けるのが無難でしょう。寝場所になりそうな道の駅は、豊前付近のR10沿いに2箇所。一応、宇佐の手前でR387を下ったところにも1箇所あります。宇佐を過ぎて別府方面に向かうと、道の駅はありません。

このペースだと宇佐神宮まで2時間はかかります。寝場所は到着時間と天候によって決めることに。1250、出発します。

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1325、福岡県豊前市から大分県中津市に入りました。豊前国に属した自治体の中で、豊前市だけが豊前を称します。それでも国名を消滅させたり、変な市名を作り出さないだけマシ。今日のルートはずっと平坦。広い歩道をゆっくり進みましょう。

宇佐神宮

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1355、中津市から宇佐市にIN。山際を抜ける軽いアップダウン。

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1500、宇佐神宮前に到着。最初の探訪ポイントまで約78.2kmでした。

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表参道商店街を通って境内へ。時間的に観光客は少なく、閑散としています。結局、雨は降りませんでしたね。よかったよかった。

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一の鳥居をくぐり、神橋で寄藻川を渡ります。

豊前国(福岡県・大分県)一之宮の宇佐神宮は、全国の八幡宮の総本宮。主祭神の八幡大神は誉田別尊(第15代の応神天皇)と同一視される神様です。『古事記』によると応神天皇は神功皇后の子。筑紫国(福岡県)で生まれました。神功皇后が子を身籠ったまま三韓征伐を成したことから胎中天皇とも呼ばれ、生まれながらの武神として、軽島豊明宮(奈良県)で天下を治めました。在位期間は270~312年とされています。

八幡大神という神様は『古事記』や『日本書紀』に登場せず、そのルーツは不明。元々は渡来氏族の秦氏が奉斎した神様だったとする説が知られています。秦氏系とされる辛島氏の祭祀が、大神氏によって宇佐氏の信仰に組み込まれ、東大寺造営に代表される国家鎮護の神様に。奈良時代~平安時代に応神天皇と習合したと考えられています。

古代、九州北部に存在したという秦王国。秦氏が奉斎した八幡神。神功皇后と応神天皇の伝説。その辺りのテーマを取り上げるのは難解すぎるし収拾がつかなくなるから、本レポでは割愛させてください。私の手には負えません。

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表参道の大鳥居。笠木と島木が反り上がった宇佐鳥居です。額束が無いのも特徴の一つ。

宇佐神宮が創建されるよりずっと昔。神日本磐余彦尊(後の神武天皇)の東征の際、当地を訪れた一行を宇佐津彦、宇佐津姫が出迎えました。『日本書紀』によると二人は宇佐国造のご先祖様だったとか。宇佐国造を務めた宇佐氏は宇佐神宮にも深く関わっています。

神武天皇が大和朝廷を立ち上げた後、出身地の九州は未だに統治できていなかったらしい。第12代の景行天皇は荒ぶる熊襲・土蜘蛛の討伐を決意。神武東征とは逆のルートで九州に乗り込んで各地を平定しました。九州の『風土記』には天皇が各地を訪れたエピソードが沢山あります。

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境内は広く、この時間からじっくり散策するのは不可能。左手には菱形池と能楽殿、右手には初沢池と宝物館があります。完全に日が暮れるのは19時頃。18時には行程を終えたいところ。

社伝によると欽明天皇32年(571年頃)、菱形池に誉田天皇広幡八幡麿が顕現。奈良時代初期の神亀2年(725年)、八幡大神が小椋山に鎮座されたのが当神宮の始まりとされます。『豊前国風土記』では神亀4年(727年)、馬城峯に広幡八幡大神の宮を造営したそうです。小椋山に創建された宇佐神宮は馬城峯(御許山:647m)の北西麓に位置しており、御許山には比売大神を祀る宇佐神宮奥宮の大元神社が鎮座します。

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手水舎の先には、夏越祭の茅の輪くぐり。

古くから神仏習合になり、八幡大菩薩と称された八幡大神。神託により朝廷を助けたエピソードが数多く記録されています。『続日本紀』によると奈良時代、聖武天皇御代の天平勝宝元年(749年)、東大寺の大仏造営を助けるため大和国(奈良県)の平城宮を訪れています。霊験あらたかな八幡大神に「護国霊験威力神通大菩薩」の尊号が贈られたのは、奈良時代末期の天応元年(781年)のことでした。

山城国(京都府)の平安京へ遷都した後も重視され、平安時代初期、清和天皇御代の貞観2年(860年)になると、八幡大神の託宣により都の南西を守護する八幡宮が創建されました。これが石清水八幡宮の起源であり、遠方の宇佐神宮より身近になったのです。尚、神様は無限に勧請できるので宇佐神宮が不在になったわけではありません。

応神天皇と同一視されたことで皇祖神や武神の要素も加わり、国家鎮護のみならず武士の守護神としても崇敬された八幡大神。長らく神仏習合で栄えますが、明治時代の神仏分離・廃仏毀釈の影響を大きく受け、現在の宇佐神宮に仏教要素は残っていません。明治の近代化の影で多くの文化や信仰が失われました。本当に残念です。

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分岐から上宮へ向かいます

『続日本紀』によると奈良時代の神護景雲3年(769年)。女帝の称徳天皇は僧侶の道鏡と怪しい関係にありました。天皇は仏教重視の政治を行い、道鏡に権力を与えて法王なる地位に任命。遂には道鏡を天皇に即位させようとする偽の八幡大神の託宣が出回ります。神意を確認するため近衛将監の和気清麻呂が宇佐神宮に派遣されると、八幡大神が現れて無道の人(道鏡)を排除するようにと託宣します。

真の託宣を奏上された称徳天皇は何故か激怒。清麻呂を別部穢麻呂に改名させる陰険極まりない処分を下し、大隅国(鹿児島県)へ配流。途上では激怒した道鏡にも暗殺されかけます。しかし称徳天皇は翌年に崩御し、権力を失った道鏡は下野国(栃木県)に追放。清麻呂は朝廷に呼び戻され、桓武天皇御代には様々な事業で活躍しました。皇統を守った功績により、後世には「護王大明神」の神号を贈られています。

2018年12月の「九州探訪 III」(p.6)では、清麻呂の配流地に創建された鹿児島県の和氣神社を探訪。天孫降臨の伝説で知られる高千穂峰の西に位置しています。そちらのレポも併せてどうぞ。

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石段を登ると平成大修理の看板。平成24年(2012年)11月から本殿の修理が開始。工事が完了するのは平成27年(2015年)3月です。

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西大門をくぐり上宮本殿エリアへ。上宮は小椋山(亀山)の山頂に位置します。

東方と宇佐神宮の関連といえば、「永夜抄」や「花映塚」に登場した因幡てゐ。てゐのテーマ曲である「お宇佐さまの素い幡」とは、源氏が掲げた八幡大菩薩の白旗に因んだものでしょう。

但し、てゐのバックストーリーは『古事記』と『因幡国風土記』に記された因幡の白兎に基づきます。てゐの出身地は因幡国(鳥取県)の高草郡とするのが自然で、宇佐神宮はウサを掛けただけで小ネタ程度の繋がりです。応神天皇とも関係無さそうだし。

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予告通り修復工事中。本殿はシートに覆われて見えません。

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南中楼門にて参拝。この奥が工事中の本殿。出雲大社と同じく二拝四拍手一拝なのですが、両社の関係は分かりませんでした。

祭神は左から、一之御殿に八幡大神(誉田別尊=応神天皇)。二之御殿に比売大神(宗像三女神の多岐津姫命、市杵嶋姫命、多紀理姫命)。三之御殿に神功皇后 (息長帯姫命)。現在は下宮の仮殿に鎮座されています。

一之御殿の創建は神亀2年(725年)。天平5年(733年)には比売大神をお祀りする二之御殿、弘仁14年(823年)には神功皇后をお祀りする三之御殿が造営されました。『延喜式神名帳』には八幡大菩薩宇佐宮、比売神社、大帯姫廟神社とあり、平安時代には八幡信仰が確立していたことが分かります。

八幡大神の鎮座以前は比売大神が地主神として崇敬されたらしい。宗像三女神は天照大御神と素戔嗚尊の誓約の際に生まれ、筑前国(福岡県)の宗像大社に鎮座する航海の神様として知られています。『日本書紀』の一書では三女神が葦原中国の宇佐嶋に天降ったとあり、宇佐神宮では宇佐嶋を小椋山南東の御許山と位置付けています。私は中央の二之御殿の比売大神が主祭神のように感じました。

神功皇后は第14代の仲哀天皇の后で応神天皇の母。住吉三神の神託により、天皇崩御後に朝鮮半島征服を決意。子(後の応神天皇)を身籠ったまま軍勢を率いて九州から出発し、新羅・高句麗・百済の三韓征伐を成した後に誉田別尊が生まれました。こういった経緯から、八幡大神は武神として信仰されてきたのですね。

尚、三韓征伐を成功に導いた住吉三神も航海の神様であり、伊邪那岐尊の禊で生まれた底筒男命、中筒男命、表筒男命の総称。神功皇后は遠征の帰途、摂津国(大阪府)の住吉で三柱の神様を奉斎。一連のエピソードは住吉三神を祀る住吉大社の起源とされており、『古事記』と『日本書紀』にも記載されています。

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石段を戻って摂社の若宮神社。応神天皇の子である大鷦鷯尊(仁徳天皇)をお祀りします。

第16代の仁徳天皇は難波高津宮(大阪府)で天下を治め、水路や堤防を整備する大規模な公共事業を実施しています。当時は海に面していた住吉にも港(住吉津)を整備させており、神功皇后を導いた住吉三神は航海・港湾の守護神として、古代から崇敬されていたと考えられます。

「儚月抄」では、月を目指す三段式ロケットの推進力に選ばれた住吉三神。色んな要素を詰め込んだ「儚月抄」で、これが一番やりたかったネタのはず。

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次は下宮(御炊宮)にて参拝。祭神は上宮と同じ。上下両宮にてお祀りする形式です。

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分岐にリターン。ここに菟道稚郎子命をお祀りする摂社の春宮神社があります。(写真撮り忘れ)

菟道稚郎子命も応神天皇の子。かつて山代国(京都府)の菟道宮で暮らした人物です。父に寵愛されて皇太子となりますが兄の大鷦鷯尊に皇位を譲り、延々と兄弟で譲りあったせいで次期天皇が一向に決まらなかったそうな。『日本書紀』では、皇位を譲るため自害したと記載されています。

兎の道と書いて菟道…宇治の古い表記です。これは因幡てゐに関係あるかも?

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境内を出ると雨が降り出しました。そう遠くないところで雷鳴が響いています。時刻は1608、ここは寝場所に向いてなさそうな雰囲気。R10を引き返してR387を下り、道の駅「いんない」へ。道の駅まで15km程度、1時間もあれば着くはず。

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『ツーリングマップル九州・沖縄 2010年版』でルート確認。まだ使い込んでおらず、新品同様のツーリングマップル。この旅を終える頃にはボロボロになっているでしょう。
(詳細はナビゲーションのページを参照)

1620、雨が小康状態になった隙に出発。本降りにはならないと思ってレインウェアとシューズカバーは着用せず。この判断は致命的なミスでした。

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R10を走り出すと突然の土砂降り。退避出来そうな軒下は無く、服と靴はびしょ濡れ。ああ…初日から靴の中を濡らしてしまった……

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激しい雨はすぐに止み、駅館川沿いのR387を無気力に走ります。宇佐神宮でもう少し休んでいれば、レインウェアを着ていれば…今更判断ミスを嘆いても仕方ありません。

院内

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1745、道の駅「いんない」に到着。バスツアーの観光客が引き上げ、まもなく営業時間終了。本日の走行距離は約97km。上陸初日でえらい目に遭いました。

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落ち着いたらジュニアバーナーで自炊。手早く湯を沸かしてワンタンメンを作ります。

いつでもコンビニがあるとは限りませんので、温かいラーメンを作れる自炊セットを重宝します。料理は面倒だからインスタント麺しか作りませんけど。
(詳細は自炊セットのページを参照)

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洗面を済ませて野宿セット展開。蚊が多すぎるので軒下にインナーテントを設置。風呂や洗濯のような都合のいいものは存在しませんから、ウェットティッシュでリフレッシュ。疲れた体を癒やします。

2000、遠くの雷鳴を聞きながら就寝。
3日目に続きます。

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