東方巡遊記

九州探訪 III

目次

01
川内駅~新田神社/可愛山陵~霧島神宮駅~霧島神宮~高千穂河原
02
高千穂河原霧島神宮古宮址御鉢霧島神宮元宮高千穂峰/天逆鉾高千穂河原
03
高千穂河原~霧島神宮~鎮守神社/若宮神社/御手洗川~華林寺跡/両度川~千滝~亀石坂
04
霧島神宮~国分駅~隼人駅~鹿児島神宮~卑弥呼/卑弥弓呼神社~石體神社~宮内の田の神
05
~隼人塚~隼人駅~嘉例川駅~鹿児島空港~高屋山上陵~嘉例川駅
06
嘉例川駅~安楽温泉~犬飼滝~和氣神社~熊襲の穴~妙見温泉~国分駅~鹿児島中央駅

2018年12月30日(日) 2日目

天逆鉾。

※当サイトの内容を過信して発生したトラブルには一切の責任を負いかねます。必ず注意事項に目を通してからレポをお楽しみくださいますよう、強くお願いします。サイト内に掲載している写真・文章等のコンテンツは、形態を問わず転載厳禁。野宿要素が大変多く含まれているので、苦手な方はお引き取りください。

高千穂河原

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0500に起床するも暗かったので二度寝。0600起床しました。

現在地は日向国/鹿児島県霧島市の「高千穂河原ビジターセンター」。シュラフをパッキングして朝食と洗面を済ませ、明るくなるまで待機します。気温は-1℃。九州とは言え冬であることに変わりはありません。高千穂河原の標高は1000mぐらい。意外と寒いです。

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天気は快晴。7時を過ぎて明るくなってきました。駐車場の東には、大きく陥没した御鉢が見えます。既にマイカーの登山者が出動。もう登っているらしい。

霧島地図 
高千穂峰地形図 
再び高千穂峰周辺の地図。霧島連山とは、韓国岳(1700.1m)を最高峰とする火山群の総称。天孫降臨の地とされる高千穂峰(1573.6m)は、その南端に位置します。

本日は高千穂河原ビジターセンターをスタートし、霧島神宮古宮址から高千穂峰登山道に取り付き。御鉢の北縁を通って脊門丘の霧島神宮元宮を経て、天逆鉾が立てられている高千穂峰山頂まで登るプラン。登りも下りも同じピストンルートとなります。

※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋して掲載。「カシミール3D」で出力し、ポイント及びルートを追記しています。

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霧島連山の登山基地として整備されたビジターセンター。活火山であることから、噴火に備えて避難壕も設けられています。火山活動が続いており、ここからアクセスできるのは高千穂峰のみ。中岳~新燃岳方面は入山規制が続いています。

霧島神宮古宮址

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0720、「高千穂峰トレッキング II」の行程を開始。まずは鳥居をくぐって霧島神宮古宮址へ。ここから見える御鉢の西斜面(左側)を直登し、北縁から東の高千穂峰に向かうルートになります。

霧島神宮の社伝によると西麓の古宮址には、鎌倉時代の文暦元年(1234年)まで後の霧島神宮が鎮座。社殿は霧島連山の噴火により焼失・移転するも廃絶してしまったわけではなく、天孫降臨神籬斎場として現在でも祭祀が続けられています。

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ヘルメットを着用し、火山灰が堆積した参道を歩きます。今回のルートは2014年9月に実施した「九州ツーリング I」の「高千穂峰トレッキング I」と同一。以降、コピペを多用します。

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ここは霧島神宮境内。登山好きで知られた秩父宮親王の登山記念碑もありました。皇族にとって、初代天皇の曽祖父が降臨した聖地なのです。

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0727、天孫降臨神籬斎場。社殿は存在せず、後背にはどっしり構えた御鉢のシルエット。山自体が畏怖の対象だったであろう、古代の信仰を感じられます。

以下、ひたすら『古事記』と『日本書紀』のエピソードを紹介。説明が重複する部分もありますから、以前のレポと併せてどうぞ。特に東方関連の元ネタについては、今回は大部分を省略しています。「九州ツーリング I」(p.7)では「儚月抄」や「伊弉諾物質」など、東方の話題をうんざりするほど長々と書きました。

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御鉢の向こうの高千穂峰を遥拝。

高天原を追放された素盞嗚尊の子孫、大国主命の尽力により開拓された葦原中国。高皇産霊尊と天照大御神を中心とする天津神はその統治を画策し、思兼神の立案で神々を派遣しますが作戦はことごとく失敗してしまいます。結局、精強な建御雷神が天鳥船神に乗って出雲国(島根県)に降下しました。

稲佐の浜に降り立った建御雷神は十拳剣を突き立てて威嚇。国津神の代表格である大国主命と息子達に国譲りを要求します。子の事代主神はすぐに隠れ、建御名方神も軽く捻じ伏せられて逃走。大国主命には天日隅宮という立派な宮殿を与えて納得してもらい、天津神は穏便に葦原中国の支配権を手に入れるのでした。 但し、大穴持命(大国主命)の本拠地の出雲国には独自の世界観があり、『出雲国風土記』に一連のエピソードは一切記載されていません。

建御雷神が任務を終えて高天原に戻ると、いよいよ葦原中国を統治するための本隊派遣が決定。天照大御神の孫である瓊々杵尊が天津神の代表に選ばれます。天忍日命と天津久米命が先導を務め、思兼神、手力男神、天石門別神、五伴緒(天児屋命、布刀玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉祖命)が随行。一行は竺紫の日向の高千穂のくしふるたけに天降りました。

『日本書紀』によると、瓊々杵尊が天降ったのは神日本磐余彦尊の東征開始より179万2470余年前。天孫降臨は神話における最重要エピソードに位置付けられ、天照大御神の直系の子孫である天皇が日本を治める根拠です。神話をおとぎ話と片付けるのか、実際の出来事を基にした伝説とするか、あるいは日本の歴史の一部と考えるか。それは各自の判断にお任せします。

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これから登る御鉢の西斜面。険しい岩場を越えると高千穂峰です。

天孫一行が葦原中国に下る前には怪しい神が現れ、天鈿女命が誰何したところ国津神の猿田彦命であると答えました。猿田彦命は天孫を出迎え、道を照らして先導するために現れたのです。この出来事により、天鈿女命は猿女君を名乗って猿田彦命と結婚。子孫も猿女君と称し、一部は稗田氏という氏族になりました。

特に有名な人物が『古事記』の編纂に携わった稗田阿礼。飛鳥時代末期、天武天皇の命令により日本の歴史をまとめました。奈良時代初期の和銅5年(712年)、太安万侶が完成させた『古事記』を元明天皇に献上。これが日本最古の歴史書であり、同時期に完成した『日本書紀』と共に現在まで語り継がれています。

稗田阿礼が語った神話は東方の元ネタを考察する上で欠かせない要素です。「幻想郷縁起」を編纂した稗田阿求のストレートな元ネタでもあり、稗田阿礼が転生した9代目の御阿礼の子が阿求とされています。面白い設定ですね。

また、天孫を先導した猿田彦命は特異な容姿から天狗と同一視され、「文花帖」や「風神録」に登場する射命丸文の元ネタの一つです。文の種族は烏天狗ですけど、もしかしたら猿田彦命の末裔なのかもしれません。

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北には入山規制中の中岳が見えます。神籬斎場では天孫降臨御神火祭が行われ、手前の八角形の台に天孫を迎える御神火が焚かれます。

『日本書紀』の記述によると瓊瓊杵尊が天降ってから179万2470余年後。高千穂宮で暮らしていた神日本磐余彦尊(当時45歳)は東方の地に饒速日尊が天降ったことを知り、繁栄を求めて遠征を決意。兄と共に軍勢を率いて船出し、数多くの戦いを経て東征を成功させます。饒速日尊に言及すると収拾がつかないので、ここでは省略しましょう。

神日本磐余彦尊は畝傍山南東(奈良県)に橿原宮を築き、初代天皇に即位。大和朝廷を立ち上げて日本という国が始まりました。東征にかかった期間は『古事記』によると16年、『日本書紀』では6年。西暦における紀元前660年が即位紀元、皇紀元年と制定されたのは、国を挙げて神武天皇の功績を顕彰することになった明治時代の話。神武天皇の在位期間は紀元前660~585年とされており、 2018年は平成30年、皇紀2678年になります。

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では、高千穂峰登山道に向かいましょう。登山だけでなく散策路も楽しめるようです。

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0740、登山口から取り付き開始。前回より重装備で1時間遅れのスタート。写真を撮りまくって12時頃に下山する想定です。

※高千穂峰の北西にある中岳(1332.4m)と新燃岳(1421m)は入山規制中。新燃岳噴火の影響により、高千穂峰も入山規制されていた時期があります。必ず最新の規制情報を入手し、火山の危険性を理解した上で登りましょう。

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火山灰に覆われた登山道。硫黄の臭いが漂っています。

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自然研究路との分岐を通過。朝日が中岳を照らします。

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0800、樹林帯を抜ける前に一休み。もう暑くなってきたのでジャケットを脱ぎます。私を追い抜く登山者は全員マイカー利用&日帰り軽装備。大型ザックを背負ってヘルメットを着用する人は皆無です。

年末にかけて全国的に寒波に覆われるとの予報。霧島連山もシーズンによっては凍結・積雪があり、念のため冬山登山に準じて軽アイゼンを携行。安全第一が基本ですよ。

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すぐに出発。火山灰は滑って歩きにくい。ローカットでは砂利が入るのでハイカット推奨。

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振り返ると南に国分・隼人市街と桜島が見えました。中岳に御鉢のシルエットが投影されています。

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御鉢西斜面の岩場へ。

ザックとウェストバッグの重量は約20kg。山歩きに対応したバックパッキング用の装備。野宿メインということで敢えてテントは携行していません。「熊野古道トレッキング」(「熊野の旅」を参照)で確立したスタイルです。

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ゴツゴツした岩場を直登。鎖が設置されるほど険しくありませんが、バランスを崩しやすいので手足をフル活用。滑ったり踏み外さないよう慎重に登りましょう。

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あと半分ぐらい。ビジターセンターからここまで登りました。

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0845、岩場を越えると高千穂峰が現れました。強風で一気に寒くなり、岩陰に隠れて小休止。樹林帯を抜けてから30分もかかっています。

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北西の中岳に連なる新燃岳と韓国岳。現在、中岳~新燃岳方面は縦走出来ません。韓国岳は、えびの高原からアクセス可能です。

御鉢

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御鉢の北縁を通って高千穂峰へ。南を覗くと直径約600m、深さ約200mの火口。活火山であり、当然ながら立入禁止となります。

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このルートは鹿児島県霧島市と宮崎県小林市の境界。御鉢の北には鹿ヶ原、北東には小林市街が広がっています。

霧島神宮と高千穂峰の一帯は古くは日向国に属しており、高千穂峰を信仰の対象とする霧島神宮の社有地でした。明治時代に大部分が官有地として取り上げられてしまい、後に鹿児島県側の祭祀に必要な土地だけが返還されています。

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足早に北縁を抜けました。高所恐怖症だから覗きたくないんです。

霧島神宮元宮

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0900、御鉢から脊門丘(1408m)に下りました。

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高千穂峰を遥拝する霧島神宮元宮。欽明天皇元年(540年頃)、慶胤上人が瓊々杵尊を祀る社を創建。ここが、天孫をお祀りする霧島の社の起源であると伝わっています。

昨日(p.1)も紹介したように、霧島神宮元宮は度重なる噴火で炎上・焼失。平安時代の天暦年間(947年~957年)、に性空上人によって高千穂峰西麓の高千穂河原に遷座されるも噴火によりことごとく焼失。戦国時代の文明16年(1484年)になって兼慶上人が南西麓に社殿を移転。それが現在の霧島神宮になりました。

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脊門丘から高千穂峰に向かいます。写真やインターネットが存在しない時代に、稗田阿礼が語った「竺紫の日向の高千穂のくしふるたけ」。どんな雰囲気の山が想像されたのでしょう?

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これが最後の登り。風が更に強くなってきました。

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御鉢を振り返りながら山頂へ。強風と砂利で中々進みません。

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まもなく山頂…超寒い。山頂付近は鹿児島県霧島市、宮崎県小林市、西諸県郡高原町、都城市の境界が入り組んでいます。

日向に天降った瓊々杵尊は、笠沙の御前で木花咲耶姫命に出会って結婚。そこから神日本磐余彦尊の誕生に至る経緯は新田神社(p.1)で書きました。笠沙の御前とは、薩摩国(鹿児島県)の野間半島にある野間岬に相当します。『日本書紀』では木花咲耶姫を鹿葦津姫または神吾田津姫とも記しており、『薩摩国風土記』では閼駝郡の竹屋守の娘を娶ったとあります。

山神の大山祇神は、瓊々杵尊が長女の磐長姫命(不変の象徴)と、次女の木花咲耶姫命(繁栄の象徴)の二柱を娶ることを望みました。しかし瓊々杵尊は磐長姫命の容姿が醜かったことを理由に拒否。美しい木花咲耶姫命だけを娶った結果、その子孫の天皇、繁栄を手にするも寿命は限りあるものになったそうな。

『日本書紀』の一説では瓊々杵尊が磐長姫命に恨まれ、その呪いによって葦原中国に暮らす人々の命は儚くなったとか。木花咲耶姫命からも貞操を疑った件で当然のように恨まれてしまい、悲しんで愛の歌を詠んでみたものの返答はありませんでした。神日本磐余彦尊の曽祖父は、こういう神様だったんです。

高千穂峰/天逆鉾

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0935、高千穂峰山頂(1573.6m)に到着。前回の登山から4年。楽々再訪できましたね。

瓊々杵尊は葦原中国の統治を任せられて天降ったのに、高千穂峰から見える風景に満足。立派な宮殿を築いて暮らしました。『日本書紀』によると筑紫の日向の可愛山陵に埋葬されたとあります。子孫の彦火火出見尊と鵜葺草葺不合尊も葦原中国を統治したわけではなく、天孫降臨から179万2470余年経ってから神日本磐余彦尊が東征を決意。数多くの戦いを経て大和朝廷を立ち上げました。

神様の時間感覚は分からないけど、179万年ぐらい何もせず高天原の高皇産霊尊と天照大御神に怒られなかったのでしょうか。天津神が葦原中国を統治する経緯が語られる最重要エピソードなのに、日向三代の神々は日向に留まり、曾孫の時代まで天下を治めていません。神日本磐余彦尊の活躍を強調するストーリーと思えば一応は納得できます。

付け加えると、九州南部には熊襲や隼人と呼ばれる先住民族が存在。隼人は火遠理命(彦火火出見尊)に服従した火照命(火闌降命)の子孫とされ、大和朝廷に服従し平安時代まで精強な兵士として利用されました。神日本磐余彦尊の東征の主力部隊だったと想像することもできますが、奈良時代まで度々反乱を起こし、鎮圧されています。

神日本磐余彦が日向を出発した頃の熊襲については不明。第12代の景行天皇は荒ぶる熊襲・土蜘蛛を討伐するため九州に遠征しています。子の小碓命も九州に派遣され、熊襲の首領である熊襲建(川上梟帥)を抹殺。その勇猛さを讃えられて倭健命(日本武尊)と称するようになりました。

4日目には小碓命が熊襲建を抹殺した現場と伝わる熊襲の穴(p.6)を探訪。熊襲建の住処は瓊々杵尊が天降った高千穂峰の西。意外と近いです。

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山頂に突き立てられた青銅製の天逆鉾。東麓に鎮座する霧島東神社の社宝となります。

伊弉諾尊と伊弉冉尊は天沼矛を持って天浮橋に立ち、混沌とした大地をかき混ぜて淤能碁呂島を生み出しました。二柱は淤能碁呂島に降り立って結婚し、大八島が生まれます。これが国産みの伝説であり、後に天津神が統治する葦原中国、すなわち日本列島の起源とされています。

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せっかくなので撮りまくり。気温は4℃。強風で0℃ぐらいに感じます。

高千穂峰の天逆鉾の解釈については諸説あり、伊弉諾尊と伊弉冉尊が国産みに用いた天沼矛という説や、天孫降臨の際に瓊々杵尊が天照大御神から授かった鉾とする説も。神仏習合の時代には多様な解釈が生まれ、信仰の対象となりました。

天逆鉾がいつ頃から山頂にあるのか定かではありません。霧島の修験者が神話に倣って設置したと考えられ、少なくとも江戸時代には存在が知られていたらしい。坂本龍馬が新婚旅行の際に引き抜いたエピソードも有名です。

尚、昔からあったオリジナルの天逆鉾は噴火で破損した後、色々あって行方不明に。この天逆鉾はレプリカとなります。国産みに用いた本物の天沼矛には現存説があり、伊勢神宮にあるとかないとか。実に興味深いです。

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鉾というより呪術的なデザイン。坂本龍馬は天狗面のようだと評しました。

東方では「伊弉諾物質」で高千穂峰の天逆鉾に言及。天逆鉾のビジョンを見た宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンが神代の風景を求めて高千穂&戸隠の探訪に出かけるストーリー。これも「九州ツーリング I」(p.7)で紹介済み。東方の元ネタは全て書きました。

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方位盤と三角点。今日は空気が澄みきって九州南部一帯を見渡せます。そういえば前回は霞んでいて桜島すら見えませんでした。真夏でカメムシが大量発生していたことを思い出します。

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高千穂峰からの眺望を余すことなく撮影。『古事記』と『日本書紀』の記述を踏まえた上で周辺に点在する神社や山陵の位置を確認してみると、高千穂峰に神話の舞台が集中していることが分かります。

まずは南西方面。手前には先程通ってきた御鉢の火口。烏帽子岳(987.9m)の北東麓に湯之野温泉の湯煙が見えます。地形的に霧島神宮は見えず、大鳥居付近を望むことができます。白い扇形の建物はロマネスクリゾート霧島。現在は放置され廃墟に。

国分市街に隣接する隼人市街には鹿児島神宮が鎮座。彦火火出見尊の高千穂宮に創建されたと伝わっており、郊外には彦火火出見尊の高屋山上陵があります。先住民族の隼人が暮らした地でもありますね。

その向こうには鹿児島湾(錦江湾)に突き出た桜島。流石に直接見えませんが、薩摩半島の南西には野間岬。瓊々杵尊が木花咲耶姫命に出会った笠沙の御前に相当します。遥か西方には新田神社が鎮座。瓊々杵尊の可愛山陵があります。

新田神社と可愛山陵は初日(p.1)に探訪。霧島神宮は昨日訪れ、下山後に再び補完します(p.3)。明日は鹿児島神宮(p.4)と高屋山上陵(p.5)を訪れますよ。

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北西方面には霧島連山。中岳~新燃岳~韓国岳が連なっており、奥に甑岳(1301.4m)が頭を出しています。

右(北側)には夷守岳(1344.1m)が連なり、その北東麓に小林・高原市街が広がっています。小林には霧島六社権現の中心であった霧島岑神社。高原には神日本磐余彦尊の生誕地と伝わる皇子原があり、東麓に狭野神社が鎮座しています。

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東方の手前には高千穂峰の寄生火山である二子石。左(北側)が1321mのピーク、 右(南側)が1300mのピーク。狭野神社より南の東麓には霧島東神社と東霧島神社が鎮座。御池の東岸が僅かに見えています。

2014年9月の「九州ツーリング I」では霧島六社権現を巡り、霧島岑神社→東霧島神社→狭野神社→霧島東神社→霧島神宮の順に探訪。夷守神社は霧島岑神社に合祀されています。(pp.5-6

高原市街の向こうには宮崎市街と日向灘。宮崎の地名は神日本磐余彦尊の高千穂宮に由来するらしく、高千穂宮に創建されたと伝わる宮崎神宮が鎮座しています。郊外には伊弉諾尊が三貴子を生んだという江田神社も。ここから見える地域の全てが神話の舞台なのです。

2018年8月の「九州ツーリング II」では、宮崎神宮(p.5)と江田神社(p.6)を探訪しました。

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南東方面には都城市街。鰐塚山(1118.1m)を最高峰とする鰐塚山地の向こうに、ツーリングに最適すぎる日南海岸が延びています。日南海岸には彦火火出見尊が暮らしたという青島神社。鵜葺草葺不合尊の生誕地と伝わる鵜戸神宮があります。

九州ツーリング II」では鵜戸神宮(p.4)と青島神社(p.5)も訪れました。

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高千穂山頂小屋から南の大隅半島。大箆柄岳(1236.24m)を最高峰とする高隈山地の向こうに鹿屋市街。郊外に鵜葺草葺不合尊の吾平山上陵があり、その奥には急峻な山々。神話に興味がない方でも登山と眺望は十分楽しめると思います。

九州ツーリング I」と「九州ツーリング II」では、鹿屋郊外を走っているにも関わらず吾平山上陵をカット。神代三山陵の一つだけ訪れないのは良くありません。いずれ補完することになるでしょう。

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1010、下山開始。登りと同じルートで下ります。

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1035、再び脊門丘を通過。軽装備の登山者が続々登ってきました。

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御鉢の北縁を戻ります。ヘルメット着用者は数名見かけました。

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1048、御鉢西斜面の岩場。ビジターセンターまで遠いです。

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滑らないよう慎重に下ります。

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1120、岩場を下って樹林帯へ。

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ここまで下れば楽な山道です。

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1145、登山口。明らかに山歩きの装備でない観光客グループが、私のヘルメットを見て激しく躊躇していました。怖がるぐらいなら登らないほうが賢明です。

高千穂河原

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天孫降臨神籬斎場。素晴らしい補完探訪でした。

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参道を引き返します。

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1153、鳥居に戻りました。想定通り12時前に下ってきましたね。

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登山者で賑わうビジターセンター。気温は8℃。雲一つない快晴です。

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御鉢の直登ルートを眺めて昼食タイム。4時間半も行動してそこそこ疲れたとはいえ、霧島神宮まで徒歩で戻らなければなりません。バスが限られているのが非常に不便。運行させてほしいです。

しっかり休憩してから出発準備。
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