東方巡遊記

九州ツーリング II

目次

01
プロローグ
02
鹿児島中央駅~鹿児島港~桜島港~愛宕枚聞神社~湯之平展望所~腹五社神社~垂水
03
垂水~志布志~串間~都井~南郷
04
南郷~鵜戸神宮~吾平山上陵~波切神社
05
~青島~青島神社~宮崎~宮崎神宮/宮崎縣護國神社
06
宮崎~江田神社/御池~高鍋~都農神社~美々津/立磐神社~東郷
07
東郷椎葉上椎葉ダム/日向椎葉湖椎葉厳島神社/鶴富屋敷国見峠蘇陽
08
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09
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10
エピローグ

2017年8月16日(水) 5日目

強行突破。

※当サイトの内容を過信して発生したトラブルには一切の責任を負いかねます。必ず注意事項に目を通してからレポをお楽しみくださいますよう、強くお願いします。サイト内に掲載している写真・文章等のコンテンツは、形態を問わず転載厳禁。野宿要素が大変多く含まれているので、苦手な方はお引き取りください。

東郷

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0300、戦闘モードで起床。現在地は日向国/宮崎県日向市、東郷の道の駅「とうごう」。速やかにテントを撤収、朝食を済ませて出動準備。

椎葉地図 
美々津から椎葉に至る地図。本日はR327を飛ばし、九州最深部の椎葉へ。余裕があればR265で北の阿蘇方面に抜けるプランです。昨日発覚した状況としては…椎葉~日向を結ぶR327のうち、佐土の谷~東郷の区間は道路改良工事のため交通規制中。

工事が実施されるのは0800~1630ですから、8時までに佐土の谷を通過しなければなりません。4時に東郷を出発し、7時前に中間点の諸塚を通過。そして10時前に上椎葉に到着する設定で走ります。

※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋。「カシミール3D」で出力し、ポイント及びルートを追記しています。

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今から出発すると、明るくなるのは6時前でしょう。ルート上に電灯が設置されているとは思えませんし、トンネルが連続するので夜間走行の装備が必要です。

自転車にヘッドライト(スペア含む)とテールライト、ヘルメットにはヘッドランプとセーフティライトを装着。走行中の振動で外れないようテープで脱落防止。視認性向上のため安全ベストも着用します。
(詳細はライトのページを参照)

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0400、滞りなく出発。R327に乗って西の椎葉方面へ。標識によると上椎葉の鶴富屋敷まで63km。R327から別ルートに逸脱しないよう、青看と『ツーリングマップル』で確実にナビゲーション。夜間走行では現在位置を見失いルートを外しやすいです。

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東郷市街を出ると、濃霧で真っ暗な山道に。最大光量で路面を照らしながら黙々と走ります。PETZLのヘッドランプは特に信頼性が高くて安心。

雨が降っていたらしく路面が濡れており、諸塚方面に稲光が見えて怯んでしまいます。このルートで雷雨に遭遇すればエスケープは困難。だからといって別ルートで熊本方面へ迂回するなんて論外です。思い切って椎葉へ進むべきか…もちろん進むべきでしょう!

後から思えば滅茶苦茶なプランなのに、状況に入るとそんな余計なことは一切考えません。精神論で突き進む強行軍。はっきり言ってアホです。

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東臼杵郡美郷町に入りました。古くは臼杵郡だったのが、明治時代に西臼杵郡・東臼杵郡に分割。現在では門川町・美郷町・諸塚村・椎葉村が東臼杵郡に属します。

この時間帯でも交通量が皆無というわけではなく、工事・物流関係の車がハイビーム&ハイスピードで疾走。サイクリストが走っているなんて思ってもいないでしょうから、セーフティライトや安全ベストによるアピールは欠かせません。R327で遭遇したドライバーは減速して追い越したり、ロービームに切り替えてすれ違うなど優しい運転でした。対向車のハイビームは眩しくて視力を奪われるんです。狂ったサイクリストに気を使ってくれてありがとう。

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小八重トンネルを抜けると少し明るくなりました。緩いアップダウンをノンストップで快走します。

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0545、諸塚村。もう夜明けです。既に深い山の中を走っていることを実感。秘境と呼ばれる椎葉村への期待が膨らみます。

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夢の大橋&虹の大橋で耳川を渡ります。霧が晴れて青空が見えてきましたね。

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まもなく諸塚。ペースは快調です。こんなに走りやすいとは思いませんでした。案の定サイコンは不調。今で30kmぐらいかな?

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耳川に沿って椎葉~日向を結ぶR327。この道路案内はちょっと古いです。

元々、昭和8年(1933年)に県道として開通。当時の住民にとっては画期的な交通ルートだったのが、狭すぎたので最近になって広く快適なバイパスが整備。先程の立派な橋もバイパスの一部だったわけですね。佐土の谷では現在もトンネル工事が進行中。一部の区間には狭い旧道が残っていたりします。今回出くわした道路改良工事による交通規制とは、旧道の代替となるバイパス整備のことだったのです。

尚、これらの情報は後から調べて分かったこと。九州に乗り込んだ時点で知っていたのは、「R327で椎葉に行けるらしい」…それだけでした。

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0620、中間点の諸塚に到着。2時間20分で約34km。 設定より40分早くタッチできました。この集落は整備されたばかりでしょうか。必死に走ってきたので少しだけ休憩。0635、椎葉に向けて出発します。

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九州電力の塚原発電所。そろそろ上りがきつくなってくるはず。

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塚原ダムを通過。堤高87m、堤頂長215mの重力式コンクリートダム。昭和13年(1938年)の完成当時は日本一の高さでした。

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歩道を通行できないタイプのトンネルが連続。工事区間を過ぎるまで気を緩めてはいけません。

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佐土の谷2号トンネルの工事現場。この先は旧道を走ることになります。

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雰囲気の良い旧道。ダイナミックな地形の割には平坦で走りやすく、車には狭くて不便でも自転車には絶好のルートです。但し、集落が点在しているので意外と交通量があります。地元のドライバーが優先であることを忘れないでください。

椎葉

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佐土の谷を通過して、いよいよ椎葉村にIN。サイクルツーリストのグループとすれ違いました。彼らは交通規制の情報を知っているのでしょうか?というか、どこまでが工事区間だったの??

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岩屋戸大橋と大イチョウトンネルで山際の集落をパス。序盤の桜島や都井岬のようなきつい急坂は全く存在せず、これまで走ってきた道の中では最高級のコンディション。とにかく深い!長い!そして走りやすい!!

早朝出発で深い山道を突破するシチュエーション。ルートのロケーションやコンディションの素晴らしさ、更には時間制限や強行軍といった要素が融合し、走りながら興奮してハイになってしまいました。鼻血が出そう。

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せっかくだからトンネルを通らず旧道へ迂回。いいですね~素晴らしい道です。

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0800、椎葉村物産センター「平家本陣」で一旦停止。ここまで約55km。 流石に小休止が必要です。

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ご覧のように椎葉は四方を山に囲まれ、自転車でまともにアクセスできるルートはR327のみ。それ以外の道はつづら折れの急坂や峠越えが連続し、自転車どころかバイクや車を駆使しても険しそうです。阿蘇に抜けられるのは北のR265のみ。椎葉を12時に出発すると五ヶ瀬に下るまで3時間ぐらい。午後から峠越えなんて…いや、必ず突破します。

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0835、出発。耳川と十根川の合流点に架けられた那須橋を渡り、R265に乗り継ぎ。阿蘇方面へ繋がる分岐もあります。

海に面した美々津から標高400mぐらいの椎葉へ。地形的には耳川沿いに70km以上かけてアプローチするため、峠越えは存在せず緩やかなアップダウンを超快走できるルート。補給とエスケープは限られていますが、険しい山越えとは無縁。ここは自信を持ってオススメできるツーリングコースですよ!

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トンネルを回避して旧道へ。崖の下に上椎葉発電所が設置されています。

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上椎葉まであと一息です。

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0900、5時間かけて上椎葉入口に到着。観光に力を入れているようで案内板が充実。右手のR142に乗り換え、まずは上椎葉ダムへ。

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上椎葉の集落をかすめる上り道。これが一番きつかった。

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女神像公園まで急坂を上ります。

上椎葉ダム/日向椎葉湖

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0920、女神像公園に到着。ここまで約62km。広場やトイレがあって寝場所に使えそう。車のキャンパーがテントを張っていました。

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公園から上椎葉ダムと日向椎葉湖の眺望。昭和30年(1955年)に完成した日本初のアーチ型コンクリートダムです。堤高110m、堤頂長341mの大規模ダムで、以降のダム建設の礎となりました。ダムマニアではありませんので、詳しい構造やスペックについては割愛します。

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当時はバイパスが整備されておらず、資材輸送においても困難を極めたそうです。難工事により殉職された105名の作業員を追悼するため、ダムを見下ろす高台には三女神慰霊像が設置されています。

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公園から堤頂道路に下って上椎葉の集落へ。ダムも発電所も無人。九州電力が遠隔管理しています。

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山奥に建設された巨大なダム。間近で見ると、そのスケールに圧倒されます。

私が椎葉なる村を知ったのは柳田國男氏の『後狩詞記』。後に日本の民俗学の第一人者として知られることになる柳田氏は、明治41年(1908年)、まだ平地人が興味を示さなかった椎葉村に滞在。当時の村長が語った椎葉の狩猟(鉄砲による猪猟)についてまとめ、翌年の明治42年(1909年)に『後狩詞記』を発表されました。

柳田氏は同年、岩手県の山間部にある遠野を探訪。遠野出身の佐々木喜善氏が蒐集した民話をまとめて、明治43年(1910年)には有名な『遠野物語』を発表します。あくまで狩猟に関連する習俗を記した『後狩詞記』に対して、『遠野物語』は山の神や妖怪といったエピソードが満載です。

急速な近代化に伴って迷信じみたものが消滅していく時代に、「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」と発表した『遠野物語』。100年後の今では民俗学という学問の先駆けとして認識されており、その民俗学の出発点こそ『後狩詞記』の椎葉なのです。

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下流に架かる針金橋と、上流の日向椎葉湖。

民俗学は学問だけでなく娯楽としても広まり、東方の元ネタを考察する上では欠かせない要素です。中でも有名なのが「妖々夢」の2面道中曲「遠野幻想物語」。日本の原風景をイメージさせる幻想的なタイトルとメロディー。私は「遠野幻想物語」から『遠野物語』という著作を知り、民俗学の世界に足を踏み入れました。

2009年8月に実施した「東北ツーリング I」では、新潟から北の遠野を目指すも連日の雨に阻まれリタイア。2010年8月の「東北ツーリング II」では青森から南の遠野を目指し、あっさり辿り着いたのに写真が少なすぎて微妙なレポになりました。

今年の夏期遠征は遠野を再訪する東北ツーリングの予定。探訪ポイントを検討して行程表や乗換地図まで作っていました。残念がら雨の予報でキャンセルを決め、直前で九州ツーリングに変更。遠野の代わりに椎葉を訪れるプランを詰め込んだのです。この経緯は最初に書いたっけ。

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対岸に渡ってR265に復帰。

山を見渡すと民家が点在し、棚田が設けられていました。『後狩詞記』にも書かれたように、椎葉は九州で最も深い山地。平地が少ない地形なので、斜面を開いて田畑にするしかありません。昔は山の斜面を焼いて畑にする焼畑農業が主たる生業であり、今でも一部の地域で続けられています。

せっかくなので補足しておくと、柳田氏が椎葉の次に訪れた遠野は古い城下町。鉄道が通っており、椎葉ほどの秘境ではありません。それでも中心市街を出ると昔の田舎らしい雰囲気。自転車や徒歩の探訪にオススメです。

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ヘアピンカーブを経て耳川に下り、針金橋から上椎葉ダムを見上げます。

民俗学とかなんとか堅苦しい文章が続きましたけど、研究や考察みたいな難しいことは基本的にやってません。私は後先考えず現場に行くだけの鉄砲玉みたいな存在です。もちろんレポは各種資料に基づいて執筆しておりますので、写真を載せるだけの投げやりな内容ではありません。念のため。

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1010、西側の上椎葉入口にやってきました。

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前半戦を終え、ここまで約67km。自転車を休ませて探訪タイムです。

上椎葉地図 
こちらが上椎葉の地図。上椎葉ダム下流の平地にあり、椎葉村の中心部となる集落。周辺の地形を見ると、深く険しい山の中だと分かると思います。上椎葉だけなら徒歩でも十分観光できるのでご安心ください。ちなみに、最も無難なアクセス手段はバスになります。

※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋。「カシミール3D」で出力し、ポイントを追記しています。

椎葉厳島神社

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早速、椎葉厳島神社へ。

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左手には、平成9年(1997年)にOPENした椎葉民俗芸能博物館。椎葉の神楽や歴史を紹介する施設。時間が無いのでパスします。

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本殿まで石段を登ります。

かつては厳島大明神と称した椎葉厳島神社。社伝によると鎌倉時代初期の元久元年(1204年)に、安芸国(広島県)の厳島神社から平家の守護神を勧請したのが起源。主祭神は宗像三女神の一柱である市杵島姫命。素盞嗚命も合祀されています。

平安時代末期の僅かな期間に繁栄するも、源氏との間に色々あって平清盛が死去してしまい、治承・寿永の乱(1180~1185年)に敗れて没落した平家一門。平家の落人は全国各地に逃亡して隠れ住んだと伝わっており、外界から隔絶された椎葉に辿り着いた者もいたそうです。

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椎葉に潜伏する残党の噂は源頼朝に知られ、弓の名手として知られる那須与一宗隆の代わりに、弟の那須大八郎宗久が派遣されることになりました。大八郎に与えられた任務は、もちろん残党狩りです。

軍勢を率いて椎葉に入った大八郎が見たのは、反乱の意思もなくひっそりと暮らす人々の姿でした。憐れに思った大八郎は任務完了の報告をでっち上げた後、当地に滞在し、平家に崇敬された厳島神社の祭神を勧請。清盛の子孫の鶴富姫と恋仲になり、仲睦まじく暮らしました。

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拝殿にて参拝。平成8年(1996年)に社殿が改修され、小さいながらも平家の信仰を感じられる立派な社です。

3年経って鶴富姫が大八郎の子を身籠った頃、鎌倉幕府から大八郎の元に帰還命令が下ります。二人は離れ離れになって二度と会えなくなりますが、大八郎が椎葉を去った後に生まれた娘は婿を迎え、婿と子孫は那須の姓を名乗り椎葉を治めたそうな。

……以上が、当地で語り継がれる大八郎と鶴富姫の伝説。二人の悲恋と椎葉の成り立ちは住民の誰もが知っています。尚、鎌倉時代の記録は残っておらず、明確な資料と言えるのは江戸時代中頃に編纂された『椎葉山根元記』と『椎葉山の由来』のみ。矛盾もあったりして、二人が実在の人物だったのか定かではありません。

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境内の裏には平家さくらの森が広がっています。ここから遊歩道で上椎葉ダムに行けるらしい。

北の五ヶ瀬から椎葉に入ってきた大八郎の軍勢は十根川に本陣を構え、椎の葉で風雨を凌いだことから当地は椎葉山、あるいは奈須山の地名になったのだとか。奈須というのは那須の古い表記のようです。

柳田氏が椎葉村を訪れた頃も奈須と呼ばれており、那須与一(大八郎の誤りでしょう)が平家を追い詰めた後に子孫を残して去ったという伝説が元になったと紹介しています。ところで、椎葉村の住民の大半は「椎葉」か「那須」の姓です。800年前の伝説が、ずっと受け継がれているんですね。

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境内右手には、鶴富姫化粧の水という湧き水。その名の通り鶴富姫が化粧するときに使ったとか。

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大八郎はここで鶴富姫に出会って恋に落ちました。源氏方の武士と平家の姫の恋…とてもロマンチック。私は実話を元にしたストーリーだと信じます。

鶴富屋敷

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こちらは標識にもあった鶴富屋敷。正式には那須家住宅といいます。大八郎と鶴富姫の子孫の那須氏が代々暮らしたそうで、現在保存されているのは江戸時代後期の建築と推定。斜面が多い地形に合わせた横長の構造が特徴です。裏手には鶴富姫の墓もありました。

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大八郎と鶴富姫の像。実は日向国の二人のエピソードには続きがあり、遠く離れた大和国(奈良県)に鶴姫哀歌として伝わっています。

……いつまでも椎葉から戻らなかった大八郎。幕府の帰還命令で鶴姫(鶴富姫のこと)と別れた後、紀伊半島の深い山中、熊野に左遷されてしまいます。当時の熊野は俗界から隔絶された地域でした。

1年後、大八郎に会いたくなった鶴姫は熊野行きを決意。山を越えて海を渡り、また深い山を越えていく険しい道のり。交通手段やアウトドア装備が発達していなかった時代に、九州最深部から紀伊半島最深部を目指したのです。単独行は危険すぎるので、同行者もいたらしい。

鶴姫はようやく高野山南部の水ヶ峰に辿り着きますが、遂に力尽き、大八郎に再会するという願いは叶いませんでした。水ヶ峰は今の和歌山県伊都郡高野町と奈良県吉野郡野迫川村の境界。野迫川村では水ヶ峰に鶴姫公園を整備して、悲恋のエピソードを紹介。鶴姫の墓も残っています。

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自転車に戻り、村役場に向かいます。マイカーの観光客が意外と多かった。

熊野三山の説明は長くなるから割愛して…鶴姫は高野山を経て南の熊野に入る小辺路を選んだらしい。椎葉村と同じく、野迫川村の一帯も秘境と呼ばれる山地です。大峯奥駈道を除けば熊野古道で最も深く険しいルートであり、水ヶ峰を越えても伯母子峠、三浦峠、果無峠が続きます。

2010年12月の「熊野古道トレッキング II」(p.8)では、本宮から北の高野山を目指すも野迫川村で大雪に阻まれ、踏破を断念し4WDで脱出。東北のようなリタイアとなりました。2015年12月の「熊野古道トレッキング V(執筆中)」では、高野山から水ヶ峰を経て南の本宮に到着しています。

岩手県の遠野市と奈良県の野迫川村。どちらも宮崎県の椎葉村から遠く離れているのに、柳田氏の探訪と鶴富姫の伝説で深い繋がりがあります。自転車と徒歩で3つの地域を巡り、その関連を楽しむ旅。ここまで走ってきた甲斐がありましたね。

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中心部は集落というより小さな街。通りには商店や旅館などが並んでいます。秘境と呼ばれる割には整備が行き届いており、生活に必要なインフラも揃っている住みやすそうな村。毎年11月には盛大な「椎葉平家まつり」が開催されます。

今回訪れたエリアは秘境の入口に過ぎません。秘境=寒村みたいなイメージで語ってはいけませんが、もっと山奥に入れば日本の原風景が見られるのでしょう。自転車でも脱出できなくなりそうなので深入りはしません。

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1105、椎葉村役場。平成24年(2012年)に新庁舎が完成。現在の村長は6期目となる椎葉氏です。

秘境の村として観光に力を入れる一方で、過疎化が進んでおり人口は今年で約2600人。こんな綺麗な庁舎を新築するぐらいだから、財政的には潤っているのでしょうか?

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地元の人達とお喋りしながら昼休憩タイム。はるばる兵庫県から来た旅人であることを伝えると、誰もが一様に珍しがって異邦人扱いされるのでした。

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1155、休憩終了につき後半戦開始。

早朝から飛ばしたせいで物凄く疲れました。今度はバスを利用して徒歩で椎葉を訪れたい。集落を出ると正午のサイレンが鳴り響きました。気温は30℃。相変わらずの快晴です。

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中椎葉トンネルから旧道へ迂回。R265を引き返します。

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下椎葉第1隧道。左手の旧隧道に気付いてしまいました。

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狭くて真っ暗な素掘りの隧道。素晴らしい。

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隧道を出ると下椎葉の集落。その先でR265の分岐に復帰します。

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1218、十根川に架かる音ヶ瀬大橋を渡って北の五ヶ瀬方面へ。今日はキャンプ場にテントを張ってゆっくり寝たいです。

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国見トンネルまで十根川沿いにR265を北上。地元のドライバーに応援され、手を振って応えます。

舗装された車道が存在しなかった時代、五ヶ瀬と椎葉を行き来するには霧立越が利用されました。霧立越とは小川岳(1542.3m)から扇山(1661.7m)に至る山道。集落から尾根への取り付きを含めて大変険しい道のりでした。平家の落人と大八郎の軍勢も霧立越を通ったそうです。

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R327に比べると山道らしいR265。狭いトンネルや片側交互通行の区間がありました。こちらも緩やかなアップダウンで走りやすいです。

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R265を外れて十根川の集落に入ると、大八郎の陣屋跡と伝わる十根川神社があります。が、時間に余裕が無くなってきたので寄り道せず。この先は五ヶ瀬へ抜けることに専念します。

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徐々に上りがきつくなってきました。天気も怪しくなっている感じ。

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仲塔渓谷を過ぎて国見トンネルが見えました。

国見峠

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1335、国見トンネル。

以前のR265は国見峠(1130m)を越えなければならず、つづら折れの狭い急坂が連続する、いわゆる酷道でした。平成8年(1996年)にはトンネルを含む国見バイパスが開通。峠を回避して椎葉に出入りできる便利なルートになっています。

そんなわけで、美々津から椎葉を経て阿蘇へ抜けるルートは大部分が険しい旧道の代替として整備されたバイパスでした。私が自転車旅を始めたのは10年前のこと。その頃には殆どの酷道が改善されていたんです。

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トンネル内の歩道には反射ポールが設置され、例によって自転車は物理的に通行不能な最悪なデザイン。サイクリストが利用するなんて想定していないのでしょう。仕方なく、後続の車に注意して車道を走ります。はぁ……

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トンネルの北は西臼杵郡五ヶ瀬町。今度は五ヶ瀬川沿いに下ります。

臼杵郡が西臼杵郡・東臼杵郡に分割された当初、椎葉村と諸塚村は五ヶ瀬町と同じ西臼杵郡に属しました。昭和8年(1933年)に県道(後のR327)が開通したことで東部との結びつきが強くなり、東臼杵郡に所属が移っています。

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鞍岡の集落を過ぎると熊本まで73km。いよいよゴールが近付いてきました。

阿蘇を南下して霧立越に差し掛かった大八郎は、あまりの険しさに馬を乗り捨てて山を越えました。馬の鞍を置いたことから鞍置と呼ばれ、今では鞍岡の集落になっています。

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1445、肥後国/熊本県上益城郡山都町に入りました。ポールにくまモンのシールが貼られていて熊本っぽい。鹿児島を出発して宮崎を縦断、遂に熊本です。

古くは火国だったのが、飛鳥時代末期に肥前国・肥後国に分割。肥前国は現代の長崎県と佐賀県、肥後国は熊本県に相当します。益城郡は江戸時代に上益城郡・下益城郡に分割され、山都町を始めとする町によって維持されています。

『肥前国風土記』と『肥後国風土記』の共通エピソードによると、崇神天皇御代(紀元前97~30年頃)、益城郡の朝来名峯に土蜘蛛が潜伏。天皇に派遣された健緒組は荒ぶる土蜘蛛を討伐して、この国を調査します。健緒組は八代郡の白髪山で、空から降りてきた火が山を焼くのを目撃。報告を受けた天皇は、火が下るから火国と命令したそうな。

『日本書紀』では景行天皇御代(71~130年頃)、荒ぶる熊襲を討伐するため天皇が九州に乗り込み、八代県の豊村を航行中に不思議な火を見て火国と命名しました。上述の『風土記』では景行天皇が八代郡の火邑で火を目撃し、火国と呼ばれる理由に納得したと記載されています。

これは八代海で観測される自然現象のこと。古くから不知火と呼ばれ、妖怪の一種と考えられました。ただ不知火だけで火国と命名したのはインパクト不足。阿蘇山の噴火のイメージも重なっていると思います。明日は阿蘇を訪れますよ。

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1450、馬見原のヤマザキショップで停止。ここまで約100km。もう走れません。なんでもいいから休みたい。まだ15時前ですけど、早めの夕食&しばらく休憩。熊本に抜けるルートも検討しておきます。

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16時過ぎ、出発。R265を乗り継いで蘇陽のキャンプ場へ。アップダウンがあって中々前に進みません。この辺りは九州の分水嶺になっているらしい。

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行き過ぎてしまったのかキャンプ場は見当たらず。引き返して探す気力が残っていません。道の駅で野宿すればいいです。

蘇陽

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1700、道の駅「そよ風パーク」に到着。本日の走行距離は約115km。夜明け前から走りすぎて疲れ果ててしまいました。

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営業時間を過ぎるとトイレは閉鎖。道の駅の機能はおまけで追加しただけで、テーマパーク的な観光施設がメインのようです。

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暗くなって人目に付かないことを確認し、パーク内の東屋にインナーテントを設営。最後の難所、阿蘇に備えて体を休めます。

2030、長い一日を終えて就寝。
6日目に続きます。

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