東方巡遊記

九州ツーリング II

目次

01
プロローグ
02
鹿児島中央駅~鹿児島港~桜島港~愛宕枚聞神社~湯之平展望所~腹五社神社~垂水
03
垂水~志布志~串間~都井~南郷
04
南郷~鵜戸神宮~吾平山上陵~波切神社
05
~青島~青島神社~宮崎~宮崎神宮/宮崎縣護國神社
06
宮崎江田神社/御池高鍋都農神社美々津/立磐神社東郷
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08
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09
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10
エピローグ

2017年8月15日(火) 4日目

熊本へ。

※当サイトの内容を過信して発生したトラブルには一切の責任を負いかねます。必ず注意事項に目を通してからレポをお楽しみくださいますよう、強くお願いします。サイト内に掲載している写真・文章等のコンテンツは、形態を問わず転載厳禁。野宿要素が大変多く含まれているので、苦手な方はお引き取りください。

宮崎

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0630起床。よく寝ました。本降りの雨で雷が鳴っています。

現在地は日向国/宮崎県宮崎市の「ビジネス宮崎ロイヤルホテル」。朝食と洗面を済ませて、小康状態になるまで様子見。熊本まで抜けられるか怪しくなってきました。

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雷雨だからといって停滞していられません。フロントバッグとサイドバッグにレインカバーを装着。レインウェアとシューズカバーを着用して雨天走行の準備です。

宮崎地図 
こちらが宮崎周辺の地図。美々津からR51で内陸部に入るのが本日のプラン。探訪ポイントとしては江田神社と立磐神社があります。宮崎を出る前に、江田神社に寄り道していきましょう。

※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋。「カシミール3D」で出力し、ポイントを追記しています。

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0920、出発。R11に乗って北の宮崎郊外へ。どんな状況でもペダルを漕ぐのがサイクリストです。

江田神社

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1003、江田神社に到着。ここまで約8kmでした。

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境内へ。

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創建年代は不詳。黄泉国から戻った伊邪那岐尊が阿波岐原の地で禊をしたのが当社の起源とされます。

『続日本後紀』によると平安時代初期、仁明天皇御代の承和4年(837年)に宮埼郡の江田神が官社に指定。『延喜式神名帳』にも江田神社とあり、有力な社だったことが分かります。しかし江戸時代前期の寛文2年(1662年)に発生した外所地震の津波により流失。以降は村落の産土神として扱われました。

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拝殿にて参拝。祭神は伊邪那岐尊。伊邪那美尊を配祀しています。

『古事記』と『日本書紀』の記述によると、伊邪那岐尊と伊邪那美尊は天沼矛を持って天浮橋に立ち、混沌とした大地をかき混ぜて淤能碁呂島を生み出しました。二柱は淤能碁呂島に降り立って結婚し、大八島が生まれます。これが国産みの伝説であり、後に天津神が統治する葦原中国、すなわち日本列島の起源とされています。

国産みを終えた二柱は多くの神々を生みますが、伊邪那美尊は火の神である迦具土神を産んで亡くなり、『古事記』では出雲国(島根県)と伯伎国(鳥取県)の境界の比婆山に埋葬。『日本書紀』の一書には紀伊国(三重県)の熊野の有馬村と記されています。尚、伊邪那岐尊に斬り裂かれた迦具土神からも多くの神々が生まれ、建御雷神や経津主神といった武神のご先祖様になりました。

伊邪那美尊に会いたくなった伊邪那岐尊は、黄泉比良坂(出雲国の伊賦夜坂)を通って黄泉国を訪れます。そこで腐って醜い姿になった伊邪那美尊を目撃して恨まれてしまい、一騒動あって黄泉国を脱出。千引の岩で現世との境界を封鎖しました。この際、伊邪那美尊は現世の人々を1日に1000人絞殺すると宣言。伊邪那岐尊は1日に1500軒の産屋を建てると宣言したそうな。

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境内から遊歩道を歩いて、みそぎ池へ。阿波岐原森林公園、市民の森の中にあります。

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森の一角に佇む、みそぎ御殿。祭神は天照皇大御神、月読尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊、級長津彦命、級長戸辺命、豊受大御神、倭姫命、瀬織津姫命。昭和40年(1965年)、神託により阿波岐原の地に創建されました。

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市民の森はシーガイアとかいうリゾート施設に隣接。日向灘沿いには一ツ葉有料道路が整備されています。前回は一ツ葉有料道路を通って宮崎市街に入りました。

御池

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伊邪那岐尊が禊を行ったという御池(みそぎ池)の様子。

『古事記』によると伊邪那岐尊は竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に至り、装備を捨てて水に入ると黄泉国の穢れで八十禍津日神と大禍津日神が発生。その禍を祓うため神直毘神、大直毘神、伊豆能売が生まれました。次に水の底で身を清めると底津綿津見神と底筒男命が生まれ、中程で中津綿津見神と中筒男命、水面で表津綿津見神と表筒男命が誕生します。

更に左目を洗うと天照大御神、右目を洗うと月読尊、鼻を洗うと素盞嗚尊が誕生。最後に生まれた三柱の神々は三貴子と呼ばれ、父の命令で天照大御神は高天原、月読尊は夜、素盞嗚尊は海を治めることになりました。ところが素盞嗚尊だけは使命を拒否し、根の国に行きたがって勘当。高天原を治める姉の天照大御神の元に現れて大暴れするのでした。

伊邪那岐尊の禊によって生まれた底津綿津見神、中津綿津見神、表津綿津見神の綿津見三神は阿曇氏の祖神に。底筒男命、中筒男命、表筒男命は住吉三神と称し、共に海の神様になりました。ところで豊玉姫命と玉依姫命の父の大綿津見神は、伊邪那岐尊と伊邪那美尊の子。伊邪那岐尊から生まれた綿津見三神と混同されがちですが別の神様です。海の神様が沢山いてややこしい。

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綺麗に整備された阿波岐原の池。伊邪那岐尊は流れのある水辺で穢れを祓ったと描写され、池のイメージはありません…いや、細かいことは気にしない。

ここから東方の話題。天照大御神は「儚月抄」においても太陽を象徴する神様であり、綿月依姫の神降ろしに登場。豊姫によると三本足の鴉(八咫烏)を使役するとか。神話には殆ど登場しない月読尊は穢れた地上から月に移住したことになっており、八意永琳の助けで穢れなき世界を築き、夜と月の王として君臨している設定。直接登場しませんが、世界観を考察する上で重要な位置付けの神様です。

博麗霊夢は月で大禍津日神を悪用した弾幕を展開。依姫が穢れを祓うために伊豆能売を降ろすエピソードがありました。特に活躍するのが、月を目指す三段式ロケットの推進力に選ばれた住吉三神。住吉三神は航海の神様であるため、宇宙を航海するロケットにピッタリという理論。色んな要素を詰め込んだ「儚月抄」で、これが一番やりたかったネタなのでしょう。上・中・底の三巻で構成されているのも、住吉三神に因んだものですよね。

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1055、出発。R372に乗り継いで宮崎市街を出ます。既に雨は止み、晴れ間が見えてきました。

鵜戸神宮・青島神社・宮崎神宮を訪れても、終わらないどころか次々と明らかになる神話の舞台。『古事記』や『日本書紀』を読み込むだけでは足りません。フルコンプリートするのは一生かかっても不可能でしょう。

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宮崎市から児湯郡に入り、路側帯の狭いR10で新富町、高鍋町を抜けていきます。安全運転のドライバーが多く、煽られることはありません。

宮崎県は縦長で東部が海に面しており、晴れていれば九州で一番南国っぽい雰囲気。。『日本書紀』によると景行天皇が九州遠征の際に子湯県を訪れ、この国の地形が日の出に向かっているから日向と命名したそうな。子湯県とは後の児湯郡のこと。『日向国風土記』にも記載されています。

明治時代に宮崎県が生まれると同時に日向国は廃止。日向国に属した自治体が独立して日向市を名乗ったりする一方、新富町や高鍋町を始めとする町村は児湯郡を維持しています。郡の枠組みは古い地名を残す歴史的な行政区分です。安易に廃止して良いものではありません。

高鍋

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1230、高鍋市街のセブンイレブンで昼休憩。

これより西の西都市には西都原古墳群があります。奈良時代から平安時代にかけて日向国府が設置され、調査の結果、古代の日向の中心だったことが分かっています。瓊々杵尊と木花開耶姫命が結婚後に暮らした地とも伝わっており、国府跡の近くには木花開耶姫命を祀る都萬神社が鎮座しています。

今回のツーリングは探訪ポイントを絞り、西都に寄り道せず美々津に直行するルート設定。自転車では効率よく探訪できる半面、走ることを優先しがち。レポ執筆の段階になって、カットしなければよかったと激しく後悔。そいつか鉄道とバスを乗り継いで徒歩でじっくり探訪することになるでしょう。

さて、4日目になってようやく九州の環境に適応。体力と食欲が完全に回復して体のだるさも消えました。久々にまともな昼食。めんどくさがらず、昼はしっかり食べたほうがいいです。1300、出発。徐々に距離を伸ばしていきましょう。

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引き続きR10を北上。1358、川南町から都農町に入りました。反対方向から来たサイクルツーリストに手を振ってすれ違います。

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R10沿いに道の駅を発見。あれ?こんなところにあったっけ……?

都農神社

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1415、道の駅を過ぎて都農神社に寄り道。ここまで約48.8kmでした。

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日向国一之宮の都農神社。祭神は大己貴命(大国主命)です。

社伝によると神日本磐余彦尊が初代天皇に即位する6年前、東征に向かう途上で国土平安のため創建されたそうです。日向三代と神日本磐余彦尊が主役となる日向国で、大国主命がお祀りされているのは意外でした。

『続日本後紀』によると江田神社と同じく、承和4年(837年)に子湯郡の都濃神・妻神が官社に指定。『延喜式神名帳』にも都農神社・都万神社と記載されており、平安時代には都農神社と都萬神社が確立していました。

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静かな境内。地元では有名な社のようです。

御存知のように、大己貴命は素盞嗚尊の子孫。素盞嗚尊は高天原でクレイジーすぎる乱暴狼藉を働き、姉の天照大御神に多大な迷惑をかけたとして地上へ追放。現地で八岐大蛇なる怪物を退治して稲田姫命と結ばれました。『古事記』によると素盞嗚尊の6世の孫が大己貴命。『日本書紀』では素盞嗚尊と稲田姫命の子。諸説あってよく分かりません。

大己貴命は数々の試練を乗り越えて素盞嗚尊に認められ、大国主命を名乗って少彦名命と共に葦原中国の開拓に尽力。素盞嗚尊の娘である須勢理毘売命を正妻として多くの妻を娶り、『古事記』では180柱、『日本書紀』では181柱の子をもうけたとか。『出雲国風土記』には所造天下大神、大穴持命と記され、出雲国に鎮座する国津神の代表格になりました。

因幡の白兎の伝説でも有名な大己貴命。「永夜抄」に登場した因幡てゐのバックストーリーは『古事記』と『因幡国風土記』に記された因幡の白兎に基づきます。てゐは神話と同じく大己貴命に命を救われたことがあると思われ、「儚月抄」でも、てゐや兎達が最も尊敬する神様として言及されています。

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神門をくぐります。

高天原を追放された素盞嗚尊の子孫、大国主命の尽力により開拓された葦原中国。高皇産霊尊と天照大御神を中心とする天津神はその統治を画策し、思兼神の立案で神々を派遣しますが作戦はことごとく失敗してしまいます。結局、精強な建御雷神が天鳥船神に乗って出雲国(島根県)に降下しました。

稲佐の浜に降り立った建御雷神は十拳剣を突き立てて威嚇。国津神の代表格である大国主命と息子達に国譲りを要求します。子の事代主神はすぐに隠れ、建御名方神も軽く捻じ伏せられて逃走。大国主命には天日隅宮という立派な宮殿を与えて納得してもらい、天津神は穏便に葦原中国の支配権を手に入れるのでした。実態は武力侵略なのに、神話的には穏便な譲渡らしい。

これが『古事記』と『日本書紀』における天孫降臨のプロローグ。一方で大穴持命の本拠地の出雲国には独自の世界観が存在しており、『出雲国風土記』に一連のエピソードは全く記載されていません。開拓した国は皇御孫命(瓊々杵尊あるいは天皇)に譲る代わりに、八雲立つ出雲国は自分で治めようと言ったそうです。出雲の人々の意地が感じられますね。

「儚月抄」では、大国主命が天津神に国を略奪され、注連縄で出雲の社に封印された経緯が明かされました。東方の世界観でも、国譲りは天津神が国津神を武力で抑え込む侵略だと解釈。その通りだと思いますが、天津神が中心となる九州の神話探訪のレポでは書きづらい話題です。

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拝殿にて参拝。後半戦も頑張ります。

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先程スルーした道の駅「つの」にて一休み。

当駅がOPENしたのは2013年7月のこと。2010年版の『ツーリングマップル』に記載されているはずがなく、以前は海沿いのR302で宮崎に向かったので気付きませんでした。次に訪れるか分かりませんが、地図に情報を書き込んでおきます。

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トライアスロンバイクに乗ったサイクリストを発見し、声をかけてみると高鍋在住の方。周辺のルートを熟知しており、椎葉へのアクセスはR51からR327に乗り継ぐのが最も無難とのこと。それしか存在しないだけで、深いルートであることに変わりはないとか。

椎葉から阿蘇に抜けるまで補給の欠乏も予想されます。自炊用のインスタント麺は5食分を携行しているので当面問題なし。隣接するローソンで軽食、2Lの水、1Lのスポーツドリンクを最終補給。突然の雨に備えて、レインカバーは外さずに装着しておきます。

1510、休憩終了につき出発。東郷の道の駅が寝場所になりそうです。

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1532、日向市に入りました。日向国の一部でしかない自治体が日向市を標榜。何度も書いているように、違和感のある市名です。

美々津

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前回も通過した美々津市街。この先でR51に乗り換えます。

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R10を逸れて海沿いの立磐神社に下ります。

美々津地図 
こちらが美々津周辺の地図。立磐神社と美々津港は耳川の河口に位置。3年前は見落としてしまい、後から気付きました。

※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋。「カシミール3D」で出力し、ポイントを追記しています。

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美々津の町並み。古くは児湯郡に属しており、美々津村、美々津町を経て昭和30年(1950年)に日向市に編入。幹線道路のR10から見えず、こんな街があるとは知りませんでした。

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古い町並みを歩いて耳川の河口へ。「日本海軍発祥之地」なる碑がありました。

神日本磐余彦尊は東征のために大水軍を編成。兄と共に軍勢を率いて日向から船出したと伝わります。『古事記』や『日本書紀』に美々津の記述はありませんが、古くから神武東征の船出の地として知られていたようです。数多くの戦いを経て東征を成功させると、畝傍山南東(奈良県)に橿原宮を築いて初代天皇に即位。大和朝廷を立ち上げて日本という国が始まりました。3日目の宮崎神宮(p.5)でも書きましたね。

明治時代に国を挙げて神武天皇の功績を顕彰することになり、西暦における紀元前660年が即位紀元、皇紀元年と制定。明治23年(1890年)には橿原宮の推定地に橿原神宮が創建されました。帝国主義に走った日本が中国に進出して国際関係が急速に悪化する中、昭和15年(1940年)には盛大な紀元二千六百年記念行事が開催されます。

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アメリカとの戦争を始めた翌年の昭和17年(1942年)。日本海軍がミッドウェー海戦に敗れて多くの犠牲者を出した頃、美々津を神日本磐余彦尊による日本海軍発祥の聖地として顕彰し、記念碑と海軍両爪錨が設置されました。書いていて虚しくなります。戦後の混乱を経て復元され、今では恒久の平和のシンボルとのこと。

明治維新後の日本が天皇を中心とする国として発展する過程で、皇国史観に基づく帝国主義や軍国主義が生まれて戦争に突入しました。そういった思想の根拠が『古事記』や『日本書紀』に代表される神話であり、神武東征は疑う余地のない歴史的事実として軍国主義に利用されました。国家神道という思想が生まれたのもこの時代です。

そもそも神話では神武天皇による日本の建国が語られ、天皇が日本の中心という皇国史観の基礎とも言える内容です。戦後は批判的に研究されて神話が全否定されることもありましたが、様々な論争を経て『古事記』と『日本書紀』は再評価されています。但し、その成り立ちを理解しながら読む必要があるでしょう。

私は神話の舞台探訪を楽しみ、宗教・政治関連の話題は極力書かないと決めています。しかし日本の神話が破滅的な戦争に利用され、多くの人々が犠牲になった負の歴史について触れないわけにはいきません。この歴史を隠蔽したり、無かったことにはできないのです。

立磐神社

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立磐神社の境内へ。

社伝によると神日本磐余彦尊が船出する際に航海の安全を祈願し、美々津の埠頭にて住吉三神をお祀りしたのが当社の起源とのこと。景行天皇御代(71~130年頃)に社が創建されたと伝わり、かつては立磐権現または立磐大明神と称しました。

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境内の様子。安土桃山時代の天正6年(1578年)、当地で起きた耳川の戦いにより社殿が焼失するも再興。後に、紀元二千六百年記念事業で境内が拡張整備されました。神武天皇を顕彰する機会がなければ荒廃していたかもしれません。

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神武天皇御腰掛之磐。出発前、この岩に座って休んだそうな。

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社殿の前には立派な楠木。奥には立磐の由来と思われる磐座がありました。神日本磐余彦尊に東征を助言した塩土翁をお祀りしたとか。

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拝殿にて参拝。祭神は住吉三神の底筒男命、中筒男命、表筒男命と神武天皇です。

住吉三神が初めて神威を発揮するのは、神武東征から900年ぐらい後のこと。第14代の仲哀天皇御代(192~200年頃)、天皇が九州の筑紫橿日宮(福岡県)にいて熊襲を討とうとしていた時、神功皇后(息長帯姫命)を介して新羅を攻めるようにとの託宣がありました。ところが天皇は神託を相手にせず、神様の怒りに触れて崩御してしまいます。

そこで皇后は住吉三神の神託に従い、新羅征討を決意。子(後の応神天皇)を身籠ったまま軍勢を率いて九州から出発し、新羅・高句麗・百済の三韓征伐を成した後に誉田別尊を産みました。皇后は遠征の帰途、摂津国(大阪府)の住吉で三柱の神様を奉斎。以来、住吉三神は津守氏によって代々お祀りされたと伝わり、現在の住吉大社の起源とされています。

第15代の応神天皇(誉田別尊)は後世に八幡神と習合し、母の神功皇后と共に武神として崇敬されるようになりました。2014年9月の 「九州ツーリング I」(p.2)では応神天皇、比売大神、神功皇后を祀る豊前国(大分県)の宇佐神宮を訪れています。

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境内を出て美々津港を歩きます。観光地というわけでもなく静かな港でした。

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七ッ碆と呼ばれる岩礁には、昭和9年(1934年)に設置された美々津港灯台。神日本磐余彦尊の東征に因んで「神のみあかし灯台」とも称します。住吉の灯籠をイメージしたデザインらしいけど、住吉大社の高灯籠にはあまり似てません。

昭和15年(1940年)、古代の船を復元した「おきよ丸」が美々津を出港。神日本磐余彦尊ゆかりの地に寄港しながら大阪まで航海しています。大阪に上陸した一行は、陸路で橿原神宮に向かい御楯を奉納。紀元二千六百年を象徴する一大イベントだったそうです。

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1635、出発。R51に乗って東郷へ。海を見られるのはこれが最後です。

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日向~椎葉のメインルート、R327に合流。耳川沿いに西の内陸部に入っていきます。

東郷

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まもなく東郷の道の駅。もう晴れてますね。

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1735、東郷市街のファミリーマートにIN。コンビニが存在しているうちに豪華な夕食。今日は自炊するつもりだったから嬉しい~

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1800、道の駅に向けて出発します。

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1808、道の駅「とうごう」に到着。本日の走行距離は約77.8kmとなりました。

ここにはスーパーやショッピングセンターが併設され、マイカーの観光客より地元の人が利用している様子。休憩するついでに寝場所に適した軒下をスキャン。暗くなったらテントを張りましょう。

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トイレに行くと不穏な貼り紙を発見。椎葉~日向を結ぶR327のうち、佐土の谷~東郷の区間は道路改良工事のため交通規制中。工事は0800~1630に実施されて断続的に開放されるものの、明らかに自転車を考慮していない時間設定です。これはまずい……

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直ちにルートを確認、距離と時間を計算します。

ここから椎葉まで60km。道のコンディションは不明。ノンストップで飛ばしても4時間以上かかるのは確実です。諸塚を7時前に通過できれば規制に引っかからないので、余裕をもって4時には出発しなければなりません。4時出発だと明るくなるのは6時前。真っ暗な山道をひたすら飛ばすことになります。早朝出発、暗闇の走行、長い山道、時間制限付き。明日の行程は、かつてない強行軍になるでしょう。

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とりあえず洗面を済ませて寝る準備。広い軒下にインナーテントを設営します。諸塚方面に稲光が見えたけど気にしない。

2030、明日に備えて就寝。
5日目に続きます。

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