東方巡遊記

九州ツーリング II

目次

01
プロローグ
02
鹿児島中央駅~鹿児島港~桜島港~愛宕枚聞神社~湯之平展望所~腹五社神社~垂水
03
垂水~志布志~串間~都井~南郷
04
南郷~鵜戸神宮~吾平山上陵~波切神社
05
青島青島神社宮崎宮崎神宮/宮崎縣護國神社
06
***
07
***
08
***
09
***
10
エピローグ

2017年8月14日(月) 3日目

雨の気配。

※当サイトの内容を過信して発生したトラブルには一切の責任を負いかねます。必ず注意事項に目を通してからレポをお楽しみくださいますよう、強くお願いします。サイト内に掲載している写真・文章等のコンテンツは、形態を問わず転載厳禁。野宿要素が大変多く含まれているので、苦手な方はお引き取りください。

3_94 
1040、鵜戸神宮を出発。R433の鵜戸隧道を抜けて宮崎方面へ。次の探訪ポイントは青島神社です。

3_95 
R220、日南フェニックスロードに合流。快晴だった空が曇り、雨の気配を感じました。長旅をやっていると物凄く敏感になってしまう。

3_96 3_98 
R220から海沿いの地道へ迂回します。

3_99 
3_101 
適度なアップダウンで走りやすい。車が少なくて穴場っぽいルートです。

3_103 3_104 
再びR220に復帰。1150、日南市から宮崎市に入りました。

3_105 3_106 
R377に乗り換えて内海トンネルを通過。高台にある道の駅まで上ります。

3_109 
1220、観光客だらけの道の駅「フェニックス」に到着。ここまで約50kmでした。

以前は競輪選手かロードレーサーと間違われることが多かったのに、最近は行く先々で「日本一周してるの?」と聞かれるようになりました。悪気がないのは分かっていても、毎回同じことばかり聞かれるのは面倒です。話を合わせて、「日本一周九州編」の設定で適当に答えてみたり。

3_108 
冷たいアイスを調達して昼休憩。ちょっと目を離した隙に、観光客が自転車に群がっていました。私が戻ると目を合わせようともせず退散。なんやねん。しばくぞ。

4サイド仕様の自転車は相変わらず目立ち、旅の実情を知らない奴に大袈裟だと馬鹿にされることもあれば、野宿セット一式をパッキングしていると信じてくれない人まで色々。「自転車なんか使わずキャンピングカーで旅すればいいじゃん」とか言い放つ卑劣な輩もいます。こういうの絡まれると最悪。

3_107 3_110 
道の駅から日南海岸、日向灘の眺望。鬼の洗濯板なる波状岩が広がっています。日南海岸とは、青島から都井岬に至る海岸線の総称。串良の肝属川まで「日南海岸国定公園」に指定されています。

青島神社まで5km。そこから宮崎まで20km。宮崎神宮を探訪しても時間には十分余裕があります。まだ3日目ながら、熊本へのルート的には宮崎が中間点。どうせ往復は新幹線を利用するスーパー贅沢プランだし、宮崎でビジネスホテルにINするのもアリ?

3_111 
1330、出発。1時間以上休みました。堀切峠(62m)を越えて青島市街に下ります。

青島

3_112 
青島市街に入りました。

3_113 3_114 
1345、JR日南線の青島駅。ここまで約55kmでした。ローカル線を利用して訪れるのも良さそうです。

青島神社地図 
こちらが青島神社周辺の地図。青島神社は青島駅から近くアクセスしやすいです。というか、鵜戸神宮が日南線から離れすぎているだけ。九州の社を巡るには、やはり自転車が最も適しています。

※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋。「カシミール3D」で出力し、ポイントを追記しています。

3_115 3_116 
自転車を置いて散策タイム。青島神社周辺は観光地として整備され、あらゆるタイプの観光客で溢れていました。神話にあやかって、パ○ースポットとかス○リチュアルみたいな宣伝もよく見かけます。現代的な信仰スタイルなのだと理解していますが、そっち系は全く興味ないからレポでは触れません。

青島神社

3_118 
3_117 3_119 
弥生橋を渡り、青島神社のある青島へ。青島海岸と青島は干潮時には陸続きになります。今にも雨が降り出しそうな天気。足早に探訪します。

3_121 3_125 
青島は隆起波食台という地形の上に堆積した島。砂岩と泥岩の地層が隆起や侵食によって凸凹状になり、一帯では鬼の洗濯板と呼ばれる独特の風景が見られます。

3_122 3_123 
青島神社の祭神は彦火火出見命、豊玉姫命、塩筒大神。以下も『古事記』と『日本書紀』のエピソードが続きます。

彦火火出見命と豊玉姫命が結ばれて生まれたのが、午前中に訪れた鵜戸神宮(p.4)の主祭神である鵜葺草葺不合命。塩筒大神は彦火火出見命に助言を与えた神様として知られています。既に紹介したように、彦火火出見命は瓊瓊杵命と木花咲屋姫命の三男。またの名は火遠理命(山幸彦)で、長男は火照命(海幸彦)といいました。

『古事記』では火照命、火須勢理命、火遠理命が生まれたとする一方、『日本書紀』には火闌降命、彦火火出見命、火明命と記載されています。他にも諸説併記しており、神日本磐余彦尊の諱が彦火火出見命であるとも。どれが定説か分からないので、ここでは『古事記』に基づいておきましょう。古い時代の伝説だから、多少の矛盾があっても気にしない。

3_124 
境内へ。古くから島全体が神域で禁足地だったのが、江戸時代になって庶民でも参拝できるように開放。島を一周して珍しい亜熱帯植物も鑑賞することができます。残念ながら、どんよりした天気のせいで南国感はありません。

海で漁をする兄の火照命と、山で猟をする弟の火遠理命。ある時、お互いの道具を交換して海と山に出かけたところ、全く獲物が取れなかった挙句、火遠理命は兄の釣り針を紛失。火遠理命が兄に責められ途方に暮れていると塩筒大神が現れ、船で海積宮(綿津見神の宮)に向かうよう助言を与えました。

海積宮にやってきた火遠理命は豊玉姫命と出会い、豊玉姫命の父で海神の大綿津見神に認められて結婚。海積宮に滞在して釣り針も発見し、3年後に故郷に帰ります。火遠理命は大綿津見神のマジックアイテムで兄を服従させ、天孫の子のうち、火遠理命が最も有力な存在になりました。

後に、豊玉姫命は天孫の子を産むため陸に上がり、作りかけの産屋に隠れて鵜葺草葺不合命を出産します。その際、本来の姿を火遠理命に目撃されて海に帰ってしまい、妹の玉依姫命を派遣。鵜葺草葺不合命は玉依姫命と(以下略)

……というのが有名な山幸彦と海幸彦の伝説。火遠理命が海積宮で豊玉姫命と出会って結婚する展開は、浦島太郎が竜宮城で乙姫に出会うエピソードにも似てますね。『日本書紀』では豊玉姫命の正体が竜だったとありますし。

3_126 3_127 
神門をくぐって本殿へ。

創建年代は不詳。社伝によると海積宮から帰った彦火火出見命は青島で暮らし、その跡地で三柱の神々をお祀りしたのが当社の起源とのこと。平安時代初期の嵯峨天皇御代(809~823年)には、既に青島大明神として崇敬されていたと伝わります。

『古事記』によると彦火火出見命は高千穂宮に580年暮らし、高千穂山の西に埋葬されました。高千穂峰のことでしょうか。『日本書紀』には日向の高屋山上陵に埋葬されたと記されており、大隅国(鹿児島県)には高千穂宮に創建された鹿児島神宮、その北に彦火火出見命の御陵があります。

ちなみに彦火火出見命に服従した火照命の子孫は、九州南部に暮らした先住民族の隼人になったのだとか。隼人は大和朝廷に服従し、平安時代まで精強な兵士として利用。神日本磐余彦尊の東征の主力部隊だったと想像することもできますが、奈良時代まで度々反乱を起こし、鎮圧されています。

2018年12月の「九州探訪 III」(pp.4-5)では、彦火火出見命を祀る鹿児島神宮と高屋山上陵を訪れました。古代の日向は薩摩国と大隅国を含む九州南部の地域であり、神話の舞台は宮崎県だけでなく鹿児島県にも点在します。

3_128 
拝殿にて参拝。祭神は彦火火出見命、豊玉姫命、塩筒大神です。

拝殿右手には豊玉彦命(大綿津見神)、少彦名命をお祀りする海積神社。左手には彦火瓊瓊杵命、木花咲屋姫命、磐長姫命をお祀りする石神社。島の中央には、古来より祭祀が行われたという元宮があります。曇り空で人が多く、掲載できるような写真が少なかった。

3_129 
境内を出て自転車に戻ります。いずれ補完することになるでしょう。

またまた前回のレポからコピペ。この辺りで「儚月抄」にも触れておきます。月の都の使者である綿月豊姫と綿月依姫の姉妹は、大綿津見神の娘、豊玉姫命と玉依姫命に因んだネーミング。明言されてませんけど、綿月姉妹は海の神様の家系のようです。

「儚月抄」が日本の神話をベースにした作品であることを踏まえると、豊姫がサメだかワニの姿になって鵜葺草葺不合命を出産したり、依姫が鵜葺草葺不合命と結婚して若御毛沼命が生まれる展開に。ストレートな元ネタだとすれば神武天皇は豊姫の孫で依姫の子。月の民が日本の成り立ちに深く関わっていることになります。

「儚月抄」では水江浦嶋子(浦島太郎)のエピソードも登場。彦火火出見命と豊玉姫命が結婚する展開とは全く異なりますが、山幸彦と浦島太郎の伝説を混ぜこぜにしていることが分かります。綿月豊姫の二つ名である「海と山を繋ぐ月の姫」とは、やはり豊玉姫と山幸彦に因んだものでしょう。

神話における豊玉姫命と玉依姫命は海積宮で暮らす国津神。玉兎を使役して地上を監視する綿月姉妹の設定とは異なるものの、豊玉姫命と玉依姫命がモチーフになっているのは間違いありません。大綿津見神が月に移住し、海積宮が月の都にあったと解釈すれば、一応、綿月姉妹と神武天皇の繋がりは神話に沿った形になります。

東方屈指の問題作である「儚月抄」の話題については、2014年9月の「九州ツーリング I」(p.7)でも長々と書いています。文章を書くのは疲れるので、そちらのレポも参照してください。

3_130 
1420、出発。R377で宮崎市街へ。宮崎神宮を訪れたら寝場所を探します。

3_131 
宮崎南バイパス(R220)に乗りました。向かい風がきつくて前に進みません。

3_133 
自転車も通行できるハイウェイのような道。あくまで自動車用のバイパスですから、サイクリストのナビゲーションは考慮されていません。うっかり緑看に従って宮崎自動車道に進入しないように。

宮崎

3_136 3_137 
1535、宮崎市街の高千穂通り。ここが宮崎の中心部になります。

右折するとR25でJR宮崎駅へ。左折してR10&R268を乗り継ぐと西の小林方面へ。3年前は小林を経て、霧島六社権現と高千穂峰を巡りました。高岡の先で変速ケーブルが切れた事案を思い出す……

歴史的には日向国宮崎郡が今の宮崎県宮崎市に相当。明治6年(1873年)時代に宮崎県が誕生するも鹿児島県に吸収。西南戦争後の明治16年(1883年)、再び宮崎県が設置されました。大正13年(1924年)に宮崎郡の宮崎町など3町が合併して宮崎市が誕生。平成22年(2010年)に清武町が宮崎市に編入され、宮崎郡は消滅しました。

律令制の成立から用いられた行政区分が失われたのは諦めるとして、残された宮崎の地名は神武天皇の宮があったことに由来するらしい。『日向国風土記』の大部分は現存しておらず当時の記録は不明。『続日本後紀』には宮埼郡の江田神との記載があります。古い記録は大切にしましょうね。

宮崎神宮

3_138 3_139 
まずはR44で宮崎神宮に向かいます。

3_140 
1603、宮崎神宮の駐車場に到着。ここまで約75kmでした。

3_141 3_142 
正面の参道へ。本日最後の探訪となります。

神日本磐余彦天皇を主祭神としてお祀りする宮崎神宮。創建年代は不詳ながら古くから神武天皇宮、神武天皇廟と称しました。御存知のように、神日本磐余彦天皇とは初代天皇である神武天皇のこと。神武の諡号は後世に贈られたものです。

神日本磐余彦尊が生まれるずっと昔。山神の大山祇神は、瓊瓊杵尊が長女の磐長姫命(不変の象徴)と次女の木花開耶姫命(繁栄の象徴)の二柱を娶ることを望みました。しかし瓊瓊杵尊は磐長姫命の容姿が醜かったことを理由に拒否。美しい木花開耶姫命だけを娶った結果、その子孫の天皇は繁栄を手にするも寿命は限りあるものになったそうな。

『日本書紀』の一書では瓊瓊杵尊が磐長姫命に恨まれ、その呪いで葦原中国に暮らす人々の命は儚くなったとか。木花開耶姫命からも貞操を疑った件で当然のように恨まれてしまい、悲しんで愛の歌を詠んでみたものの返答はありませんでした。神日本磐余彦尊の曽祖父は、こういう神様だったんです。

天孫降臨は神話における最重要エピソードに位置付けられ、天照大御神の直系の子孫である天皇が日本を治める根拠です。が、葦原中国の統治を任せられたはずの瓊瓊杵尊は宮殿を築いて満足。日向三代の神々は日向に留まり、曾孫の時代まで天下を治めませんでした。瓊瓊杵尊の言動で、天皇と国民の寿命が短くなったことまで記されています。

3_143 3_144 
神話を振り返りながら本殿に向かいます。

『日本書紀』の記述によると瓊瓊杵尊が天降ってから179万2470余年後。高千穂宮で暮らしていた神日本磐余彦尊(当時45歳)は東方の地に饒速日尊が天降ったことを知り、繁栄を求めて遠征を決意。兄と共に軍勢を率いて船出し、数多くの戦いを経て東征を成功させます。饒速日尊に言及すると収拾がつかないので、今回も省略します。

神日本磐余彦尊は畝傍山南東(奈良県)に橿原宮を築き、初代天皇に即位。大和朝廷を立ち上げて日本という国が始まりました。東征にかかった期間は『古事記』によると16年、『日本書紀』では6年。西暦における紀元前660年が即位紀元、皇紀元年と制定されたのは、国を挙げて神武天皇の功績を顕彰することになった明治時代の話。神武天皇の在位期間は紀元前660~585年とされており、 2017年は平成29年、皇紀2677年になります。

天照大御神の子孫である神武天皇は橿原宮で天下を治め、『古事記』では大物主神の娘の伊須気余理比売命を后として、『日本書紀』では事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を后として、三柱の子(日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命)をもうけます。『古事記』と『日本書紀』で異なってますね。

『古事記』によると137歳で崩御され、畝傍山北方の白檮尾上に埋葬。『日本書紀』では127歳で崩御、畝傍山東北陵に埋葬されたとあります。しかし後世には橿原宮も御陵も所在不明になり、長らく伝説上の存在に。江戸時代に調査が始まって、畝傍山東北の陵墓を神武天皇陵として整備。明治23年(1890年)には、橿原宮の推定地に橿原神宮が創建されました。

3_145 3_146 
神門をくぐって本殿へ。とても静かで落ち着いた雰囲気の境内。観光客で賑わう鵜戸神宮・青島神社とは対照的です。

神武天皇が大和朝廷を立ち上げた後、出身地の九州は未だに統治できていなかったらしい。神八井耳命の子の建磐龍命は九州を治めるよう命じられ、阿蘇津彦命と名乗って未開の阿蘇を開拓、統治しています。その途上で祖父が暮らした高千穂宮を訪れ、神武天皇の神霊をお祀りしたのが当神宮の起源とのこと。崇神天皇御代(紀元前97~30年頃)に社殿が造営されたと伝わり、景行天皇御代(71~130年頃)にも天皇によって社殿が造営されました。

第12代の景行天皇は荒ぶる熊襲・土蜘蛛の討伐を決意。神武東征とは逆のルートで九州に乗り込んで各地を平定しました。九州の『風土記』には天皇が各地を訪れたエピソードが沢山記載され、『日本書紀』では阿蘇に入った天皇の前に阿蘇津彦命が現れます。6日目(p.8)には、建磐龍命を祀る阿蘇神社を訪れました。

3_147 
外拝殿にて参拝。主祭神は神日本磐余彦天皇。相殿に鵜草葺不合尊と玉依姫命をお祀りしています。

2014年9月の 「九州ツーリング I」では、神日本磐余彦尊の生誕地と伝わる宮崎県の皇子原(p.6)を探訪。今回は宮崎神宮のほか、東征の船出の地とされる立磐神社(p.6)を補完します。東方では「儚月抄」のバックストーリーに存在してそうな神武天皇。関連史跡をしっかり探訪しておきます。

宮崎縣護國神社

3_148 3_149 
こちらは英霊をお祀りする宮崎縣護國神社。戦後の昭和30年(1955年)に創建されました。明日、8月15日は終戦記念日です。

3_150 3_151 
1700、JR日豊本線の宮崎駅にやってきました。工事中の足場じゃなくて、こういうデザインなの。3年前、ここで今後のルートを検討しましたね。

3_152 3_153 
今から郊外で野宿する気はありません。駅から近いビジネスホテルを探して確保します。結局、雨は降りませんでした。ありがたいことです。

3_154 3_155 
1720、「ビジネス宮崎ロイヤルホテル」にIN。本日の走行距離は約80kmでした。

鹿児島を出発してから初めてのシャワー&洗濯。初日に吹き付けられた桜島の火山灰を洗い流します。焦げるような快晴が続いたおかげで派手に日焼けしました。カメラの充電と装備の点検も、忘れずにやっておきましょう。

3_156 
ローソンで買い出しを済ませてリフレッシュ。こんな贅沢な旅があってもいいと思います。

九州略地図 
一息ついたら今後のルートを検討します。

8月12日に鹿児島を出発。ノープランのまま桜島に渡り、日南海岸の鵜戸神宮・青島神社を経て宮崎にやってきました。雨に遭わず順調に走り、3日間の走行距離は約244km。前回カットしてしまった宮崎の社は無事に補完。これで旅の前半は終了となります。

明日からは熊本方面を目指して北上。美々津から椎葉を経て阿蘇に抜けるプランです。深く険しい山越えが予想され、自転車で攻略できるか不明。状況次第では別ルートに迂回するかもしれません。後は走りながら決めましょう。

3_157 
天気予報によると、明日の午前中は雷雨の模様。う~ん、雨は避けられないのですね。昼から晴れてくる予想には期待しないほうがよさそう。もうレインウェアを出しておきます。

2145、天気を心配しながら就寝。
4日目に続きます。

ページトップに戻ります。

「九州地方の旅」のレポ一覧に戻ります。
「東方巡遊記」に戻ります。