東方巡遊記

大枝山探訪

目次

01 桂駅~老ノ坂峠~老ノ坂トンネル~首塚大明神~大枝山~
02 大暑山淳和天皇陵小塩山大原野神社樫本神社東向日駅

2014年12月7日(日)

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西山団地から小塩山へ 
1225、西山団地の南から山道に入りました。左折すると、そのまま東麓の北春日に下ります。

大枝山地図 
再び大枝山周辺の地図。西山団地の南から尾根伝いに登り、大暑山を経て淳和天皇陵がある小塩山方面へ。以降は南春日の大原野神社に下って探訪終了です。

※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋。「カシミール3D」で出力し、ポイント及びルートを追記しています。

里山らしい山道 
里山らしい山道。踏み跡はありますが標識は殆どありません。そういえば、今日は昼休憩もありませんでした。

オフロードバイクのタイヤ痕 オフロードバイクのタイヤ痕 
2019年1月13日。タイヤ痕が残っています。よく見るとMTBにしては太い。オフロードバイクです。ハイカーが歩くような道を走っていいのでしょうか?

大暑山へ寄り道 
前方に分岐。直進すると小塩山へ。右折すると大暑山への寄り道です。

大暑山

大暑山へ寄り道 標高567.9mの大暑山山頂 
1240、寄り道して大暑山山頂(567.9m)。

標高567.9mの大暑山山頂 大暑山山頂周辺 
2019年1月13日補完分の大暑山。眺望のない地味なところでした。

小塩山に至る尾根 
大暑山を過ぎると緩いアップダウン。南の小塩山に至る尾根伝いのルートとは別に、西の542mのピークに通じる尾根も存在します。地形図を確認しながら進みましょう。

道迷い遭難が起こりそうな分岐 小塩山・淳和天皇陵への標識 
2019年1月13日。道迷い遭難が起こりそうな分岐。小塩山・淳和天皇陵への標識に従って右に進みましょうか?

542mのピークに通じる道 道端に積まれた石 
2019年1月13日。分岐を右に進むと、小塩山ではなく542mのピークへ。そのまま山道は途切れ、道に迷って尾根に戻れなくなりそう。ここ要注意です。必ず地形図を見てナビゲーションしてください。

東の京都市街 道迷い遭難が起こりそうな分岐 
2019年1月13日。小塩山方面への正しいルートは標識の左です。左手に京都市街を見下ろしながら歩いてください。この標識、台風で向きが変わってしまったのかな。

小塩山への道標 山中に放置された廃車 
2019年1月13日。山中に放置された廃車。こんなものが小塩山への道標になっています。

小塩山に通じる山道 高電圧を示すフェンス 
木々の向こうには京都市街。やがて高電圧を示すフェンスが現れます。

日章突撃隊修練道場なる施設 道場前の山道 
左手に日章突撃隊修練道場なる施設。関わらないほうがよさそう。足早に下ります。

小塩山のR141 小塩山のR141 
1310、R141に合流しました。山道は一旦終わり。小塩山まで車道を歩きます。

標高642mの小塩山には淳和天皇陵のほか、民間放送局や官公庁など数多くの無線中継所が設置。R141は一般車両通行禁止の管理道路になっていますが、歩行者は通行可能です。ぜひ淳和天皇陵へご参拝ください。

大原野市有林の看板 小塩山のR141 
2019年1月13日。ここは大原野市有林。近郊緑地特別保全地区の標柱もありました。

小塩山に点在するアンテナ 山火事予防のポスター 
2019年1月13日。車道の脇に点在するアンテナと山火事予防のポスター。洛西高校イラストレーション部の生徒さんが手掛けた作品。こういうシリアスな絵柄大好きです。

小塩山のR141 小塩山から東の京都市街 
一般車両は進入できない林道のような道。東には広大な平安京…現代の京都市街が見えます。

車道をショートカットする山道 車道をショートカットする山道 
つづら折れの車道をショートカットする、ちょっとした山道。反対側には南春日方面からの登り。帰りはこの道で下ります。

小塩山に至る山道 小塩山に至る山道 
2019年1月13日。台風の影響で荒れてます。

小塩山に至る山道 カタクリの群生地「炭の谷」 
2019年1月13日。小塩山はカタクリの群生地があります。群生地の一つである「炭の谷」の周囲には、獣害対策のネットが設けられていました。

小塩山に至る山道 NTTドコモのアンテナ 
カタクリの群生地「Nの谷」 小塩山に至る山道 
2019年1月13日。NTTドコモのアンテナを過ぎると「Nの谷」。こちらもカタクリ群生地。冬なので閉鎖中です。

小塩山のR141 西山自然ネ保護ットワークの掲示板 
2019年1月13日。車道に復帰すると西山自然保護ネットワークの掲示板。小塩山の自然や歴史に関する案内が貼られています。

大原や 小塩の山も 今日こそは 神代のことも 思ひ出づらめ

『古今和歌集』に載る在原業平の歌。『伊勢物語』にも採録されており有名だと思います。貞明親王(後の陽成天皇)の母の藤原高子が小塩山東麓の大原野神社に参拝した際、祭神の天児屋根命(中臣・藤原氏の祖神)が瓊々杵尊(天皇の祖神)に従って天降ったという、『古事記』や『日本書紀』に記された神代の伝説を思い出しているだろう、と解釈される歌です。この辺りの経緯を語りだすと止まらないから割愛で。

小塩山に点在するアンテナ 国土交通省の小塩山無線中継所 
2019年1月13日。車道を上がりきると、正面に国土交通省の小塩山無線中継所。時折、山麓の大原野神社から登ってきたハイカーを見かけます。

山火事予防のポスター 小塩山のR141終点 
2019年1月13日。車道の終点です。洛西高校の生徒さんが手掛けた山火事予防のポスター。この女の子は炎を操る程度の能力を持ってそうです。

淳和天皇陵

小塩山のR141終点 
1330、R141の終点。淳和天皇陵のある小塩山山頂の入口です。

小塩山山頂の入口 西山自然保護ネットワークの掲示板 
2019年1月13日。西山自然保護ネットワークの掲示板があります。

ここにかく 日野の杉むら埋む雪 小塩の松に 今日やまがへる

『紫式部集』に載る紫式部の歌。越前守(福井県)に任命された父(藤原為時)と現地で暮らした頃、冠雪した日野山を眺め、都の小塩山の様子を思い出して詠んだそうです。平安時代から歌に読まれた小塩山。歴史的背景を知って登ると楽しいですね。

淳和天皇陵の参道 淳和天皇陵の参道 
淳和天皇陵に向かいます。これより先は宮内庁が管理する天皇の陵墓です。単なるハイキングコースではないことにご留意ください。

淳和天皇陵の参道 
淳和天皇陵の参道 発砲注意の看板 
2019年1月13日。淳和天皇陵の参道。猟期はハンターによる発砲に注意してください。

ちなみに山麓の大原野は桓武天皇の遊猟(鷹狩)の場。淳和天皇も度々狩りに訪れたことが記録に残っています。もちろん平安時代に猟銃はありませんが。

淳和天皇陵の参道 淳和天皇陵の参道 
2019年1月13日。平成30年(2018年)の台風21号で山が荒れ、淳和天皇陵に通じる参道が閉鎖されていました。後に復旧され、現在では参拝可能になっています。

小塩山山頂の淳和天皇陵 小塩山山頂の淳和天皇陵 
小塩山山頂の淳和天皇陵にて参拝。大原野西嶺上陵として管理されています。

奈良時代末期の延暦5年(786年)、桓武天皇と藤原旅子の間に生まれた大伴親王。平安遷都を決行した父が崩御した直後の大同元年(806年)、皇太子(次代の平城天皇)に臣籍降下を請願するも許されず皇族に留まり、弘仁14年(823年)、嵯峨天皇から譲位されて仕方なく第53代天皇になりました。その治世は比較的安定していたと言えるでしょう。(他の時代と比べた場合)

桓武天皇が陰謀に巻き込んで死なせた弟(早良親王)の怨霊を恐れ、長岡京を僅か10年で放棄して平安京に遷都した経緯はp.1で紹介しました。地形的に四隅を結界で囲まれた平安京は怨霊から隠れるには十分でしたが、淳和天皇御代の天長年間(824~834年)から京の都で物怪が相次いで出現。鬼や妖怪が跋扈する時代の幕開けとされています。

先代の嵯峨天皇御代、空海が東寺を賜り、国家鎮護の寺院として整備を開始。後に淳和天皇の許可を得て、稲荷社が鎮座する稲荷山の木々を伐採してしまいました。天長4年(827年)、天皇の病気が治らなくなり、占いにより稲荷山伐採の祟りと判明。渡来氏族の秦氏が奉斎する稲荷山の神様に従五位下の神階を贈って怒りを鎮め、以来、稲荷社は都での存在感を急速に増していくのでした。
(詳細は2014年4月の「伏見稲荷大社探訪 V」を参照)

淳和天皇御代に反乱など大きな事件は起こらず、天長17年(833年)、正良親王(仁明天皇)に譲位して太上天皇に。承和7年(840年)、病床にあった淳和上皇は恒貞親王に後を託し55歳で崩御。とても謙虚な人柄で、他人に迷惑をかけることを好まなかった上皇の遺勅により、葬儀は簡素に執り行われ、大原野西山嶺上に散骨。陵墓は設けられませんでした。

それから千年後。江戸時代末期の文久2年(1862年)から大規模な陵墓修復事業が行われました。既存の天皇陵の修復だけでなく、これまで存在しなかった淳和天皇陵が新たに築造。大原野西山嶺上に散骨された記録に基づき、小塩山山頂が淳和天皇陵として整備。現在では宮内庁が管理する「大原野西山嶺上陵」になっています。

人が死ぬと魂は天に帰り、空っぽの墓には鬼が憑いて祟りをなす

淳和上皇はこう語り、遺骨は大原野西山嶺上…おそらく小塩山の土に還りました。酒呑童子や百鬼夜行のイメージが普及する以前から意識されていた鬼の存在。北の大枝山/老ノ坂峠は確かに鬼の本拠地の伝説で有名になりましたが、小塩山の淳和天皇陵は清浄な空間として保たれています。

淳和天皇の治世は『日本後紀』から『続日本後紀』に記録されています。『日本後紀』の大部分は散逸するも『類聚国史』や『日本紀略』で補完可能。今では現代語訳も入手できますので、淳和天皇について知りたい方はどうぞ。

天皇陵の左手を回って山頂へ 
天皇陵の左手を回って山頂へ。

山陵の築造は淳和天皇にとって不本意かもしれません。しかし『日本後紀』と『続日本後紀』を読んで天皇の事績を知り、小塩山に登って陵墓に参拝することで、確かに実在したと感じられます。淳和天皇こと大伴親王は、千年以上前に日本という国を治めたのですから。

小塩山

標高642mの小塩山山頂 
1340、小塩山山頂(642m)に到着。ここも眺望無し。かなり地味なところです。気温は2℃。少し休んでから下りましょう。

NHK小塩山FM放送所とエフエム京都小塩山送信所 木々の間から見える京都市街 
下山する前に京都市街が見えるポイントを探してみます。一番高いNHK小塩山FM放送所とエフエム京都小塩山送信所。残念ながら、ここからも十分な眺望は得られませんでした。

R141をショートカットする山道 
1400、R141と交差する山道に戻りました。後は南春日の大原野神社に下るだけです。

湿った落ち葉で滑りやすい山道 
なかなか急な下り。登ってくるのは結構きついかも。湿った落ち葉と岩場で滑りやすいです。

山道を下って大原野へ 道端に積まれた石 
山道を下って大原野へ 
2019年1月13日。里山らしい落ち着いた雰囲気の山道です。……と思っていたらオフロードバイクが登ってきました。小塩山周辺はバイカーの間で有名なコースらしいです。

山道を下って大原野へ 金蔵寺への分岐 
南の中腹にある金蔵寺への分岐。そのまま東の山麓に下ります。

ザックを下ろして一旦休憩 
南春日までもう少し。ザックを下ろして一旦休憩。

獣害対策の侵入防止扉 獣害対策の侵入防止扉 
麓の竹林へ下りました。獣害対策の侵入防止扉を開けて通行します。

獣害対策の侵入防止扉 
獣害対策の侵入防止扉 電気柵に注意 
2019年1月13日。電気柵も設置されているから気を付けてください。ビリビリ。

小塩山東麓の竹林 小塩山東麓の竹林 
2019年1月13日。竹林を抜けていきます。

小塩山東麓の竹林 小塩山東麓の竹林 
2019年1月13日補完分の竹林。いい雰囲気です。

京都縦貫自動車道の上 
山道を終えて普通の車道に。京都縦貫自動車道の上を通ります。

京都縦貫自動車道の上 北東の京都タワーと京都駅 
京都縦貫自動車道を跨ぐ橋 
2019年1月13日。京都縦貫自動車道を跨ぐ橋。北東に京都タワーと京都駅が見えました。

正法寺裏の千原池から小塩山の眺望 
1500、正法寺の裏手へ下りました。小塩山のアンテナ群が見えますね。

小塩山東麓の竹林 大原野の歴史を紹介する案内板 
正法寺裏の千原池から小塩山の眺望 
2019年1月13日。正法寺裏の千原池から小塩山の眺望。水(ため池)、土(棚田)、里(神社仏閣)で水土里。風光明媚な大原野の歴史を紹介する案内板がありました。

平安遷都より10年前の延暦3年(784年)、桓武天皇が大和国の平城京から山背国乙訓郡の長岡京に遷都。理由は色々ありますが、利便性の向上や旧勢力(寺院・貴族)からの脱却、また当地を開拓した渡来氏族の秦氏を取り込む目的があったと考えられています。天智天皇系の桓武天皇としては、天武系の影響が強い地域から出たかったのでしょう。付け加えると、天皇の母(高野新笠)は百済の渡来人の家系でした。

遷都に伴い、新京に近い大原野が遊猟のために開拓。狩猟(鷹狩)を特に好んだ桓武天皇は度々大原野に行幸しており、摂津国の水無瀬野、河内国の交野と並ぶ遊猟地として知られました。桓武天皇ほどではありませんが平安遷都後の天皇も狩猟を嗜み、淳和天皇も都から小塩山東麓の大原野を訪れています。長い歴史の中で大原野の集落が生まれたのですね。

小塩山東麓の大原野神社へ 
日没までもう少し。最後は大原野神社を探訪しましょう。

大原野神社

大原野神社の一の鳥居 大原野神社の鳥居 
1510、大原野神社。紅葉シーズンが終わって静かです。

小塩山東麓の大原野神社 小塩山東麓の大原野神社 
2019年1月13日。まだ正月の空気感が残る大原野神社を再訪。境内入口から小塩山のアンテナ群が見えます。

大原野神社の一の鳥居 東海自然歩道の案内板 
2019年1月13日。大原野神社の一の鳥居。勝持寺(花の寺)~金蔵寺に至る東海自然歩道の一部です。

「官幣中社 大原野神社」の社号標 「大原野大神」の扁額 
大原野神社の由緒 
2019年1月13日。「官幣中社 大原野神社」の社号標。鳥居の扁額には「大原野大神」とあります。

延暦3年(784年)に桓武天皇が長岡京に遷都した際、皇后の藤原乙牟漏が藤原氏の氏神である大和国の春日社を当地に勧請。嘉祥3年(850年)には藤原冬嗣を祖父とする文徳天皇により壮麗な社殿が造営。京の都の守護神として天皇(藤原氏の血筋)と藤原氏から篤く崇敬されてきました。『延喜式神名帳』には記されませんが、朝廷に重視された二十二社の一つであり、伊勢の斎宮や賀茂の斎院に倣い、藤原氏の子女が斎女として奉仕しました。

祭神は建御賀豆智命、伊波比主命、天之子八根命、比賣大神。春日社では武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神と表記されます。奈良時代中期の神護景雲2年(768年)、藤原永手が称徳天皇の勅命により、大和国の御蓋山西麓に中臣・藤原氏の氏神様を勧請して春日社を造営しました。平城遷都が行われた和銅3年(710年)に藤原不比等が創建した興福寺とともに、藤原氏ゆかりの社として発展。現在では奈良県の春日大社と称します。

武甕槌命は常陸国の鹿島社(茨城県の鹿島神宮)、経津主命は下総国の香取社(千葉県の香取神宮)、天児屋根命と比売神は河内国の枚岡社(大阪府の枚岡神社)から勧請されました。『古事記』と『日本書紀』では、瓊々杵尊に従い天降った天児屋根命の末裔が中臣氏。中臣氏を東国出身とする説によると、鹿島・香取社の神様を自らの氏神として奉斎し、後代の藤原氏が春日社の祭神に勧請したそうです。(諸説あるうちの一つです)

鳥居をくぐって境内へ 鳥居をくぐって境内へ 
鳥居をくぐって境内へ。観光客が少ない冬の夕暮れ時。こういうタイミングで訪れるのがベストです。

鳥居をくぐって境内へ 
大原野神社の二の鳥居 参道に並ぶ春日燈籠 
2019年1月13日。参道に並ぶ春日燈籠。火袋に春日社の神使である鹿が彫刻されています。

常陸国の鹿島社を大和国の御蓋山に勧請した際、武甕槌命が白鹿に乗ってやってきたという伝説があり、春日社では鹿が神使として大切に保護されるようになりました。火袋に神鹿が彫られた燈籠は春日社に奉納されて全国に普及。藤原氏とは関係ない神社でもよく見かけます。

大原野神社の参道 「大原野社 神鹿苑」の記念碑 
2019年1月13日。できるだけ沢山撮ります。参道脇に「大原野社 神鹿苑」の記念碑がありました。昭和41年(1966年)から平成7年(1995年)まで、春日社の鹿が飼われていたとのこと。

大原野神社の参道 鯉沢の池 
参道を進むと右手に鯉沢の池が現れます。

鯉沢の池 鯉沢の池の由緒 
2019年1月13日補完分の鯉沢の池。文徳天皇が大和国の猿沢池を模して作ったと伝わります。

鯉沢の池の島に鎮座する地主社 鯉沢の池の島に鎮座する地主社 
2019年1月13日。鯉沢の池の島に鎮座する地主社。この土地の神様をお祀りしています。

大原野神社摂社の若宮社 若宮社の札 
大原野神社摂社の若宮社 若宮社の由緒 
2019年1月13日。大原野神社摂社の若宮社。祭神は天押雲根命。天児屋根命と比売神の子にして水徳の神様です。平成の社殿修理の際、江戸時代中期の元禄14年(1701年)まで遡れることが判明。創建年代は不明ながら、古くから鯉沢の池の守護神としてお祀りされたと想像できます。

土俵と「神相撲三百年記念碑」 
2019年1月13日。参道の左手には土俵(相撲場)と「神相撲三百年記念碑」。享保2年(1717年)から神相撲という神事が続けられています。

高天原を追放された素盞嗚尊の子孫、大国主命の尽力により開拓された葦原中国。高皇産霊尊と天照大御神を中心とする天津神はその統治を画策し、思兼神の立案で神々を派遣しますが作戦はことごとく失敗してしまいます。最後は精強な建御雷神が天鳥船神に乗って出雲国(島根県)に降下しました。

稲佐の浜に降り立った建御雷神は十拳剣を突き立てて威嚇。国津神の代表格である大国主命と息子達に国譲りを要求します。子の事代主神はすぐに隠れ、建御名方神も軽く捻じ伏せられて逃走。大国主命には天日隅宮という立派な宮殿を与えて納得してもらい、天津神は穏便に葦原中国の支配権を手に入れるのでした。

以上が『古事記』に記された平和(?)な国譲りのエピソードであり、この時の建御雷神と建御名方神の戦いが相撲の起源とされています。大原野神社で始まった神相撲は、神代の故事に基づいているのでしょう。

玉垣で囲われた名水「瀬和井」 
玉垣で囲われた名水「瀬和井」 名水「瀬和井」の由緒 
2019年1月13日。玉垣で囲われた名水「瀬和井」。清和天皇の産湯に使われたと伝わり、数々の歌にも詠まれた清水だそうです。

大原野神社の参道 修復の協力を呼びかけるパネル 
2019年1月13日。平成30年(2018年)に京都中を荒らした台風21号により、大原野神社の境内でも倒木や社殿の損壊など甚大な被害が発生。被害の様子や修復の協力を呼びかけるパネルが設置されていました。ここ最近、水害・台風・地震など異常な災害が増えているように感じます。

紅葉が残る参道 
大原野神社の手水舎 紅葉が残る参道 
長い参道を歩いて本殿へ。僅かに残った紅葉が良いです。

椎の大木跡 大原野神社の参道 
手水舎の神鹿 大原野神社の由緒 
2019年1月13日。手水舎には神使の鹿が鎮座。口に咥えた巻物から水が流れる構造です。覆屋が設けられているのは椎の大木跡とのこと。

大原野神社の社殿 大原野神社の社殿 
中門にて参拝。この奥に四棟の本殿が並びます。

平安時代は藤原氏に崇敬された大原野神社ですが、室町時代に勃発した応仁の乱以降は社運が衰えて荒廃。江戸時代前期に入り、後水尾天皇御代の勅命で再興されました。現在の本殿は慶安年間(1648~1652年)の再建とする説がある一方、擬宝珠の文政5年(1822年)の銘から江戸末期に再建または大改修を受けた、とも考えられています。

大原野神社の社殿 大原野神社の社殿 
2019年1月13日。地元のスポーツ少年達が初詣に訪れていました。中門の両側には東西楼。神饌所に掛けられたブルーシートが痛々しいです。

社殿を守る狛鹿 大原野神社の由緒 
2019年1月13日。狛犬ならぬ狛鹿が中門を守っています。左は雌鹿、右は立派な角を持った雄鹿。全国的に見て珍しいものです。

祓戸社 八幡社、稲荷社、八坂社 
2019年1月13日。本殿の前に鎮座する祓戸社。奥に八幡社(相殿に白髭社と藤森社)、稲荷社、八坂社が並んでいました。

大原野神社の参道 
探訪終了。境内を出てバス停に向かいます。

樫本神社

樫本神社 樫本神社 
2019年1月13日。大原野神社から東に歩くと樫本神社があります。平成29年(2017年)に伊勢神宮の古材を使って本殿を再建。朱塗りの神門と鳥居も綺麗です。

仁徳天皇を祀る樫本神社 樫本神社の由緒 
2019年1月13日。樫本神社の祭神は第16代天皇の仁徳天皇(大鷦鷯尊)。『古事記』と『日本書紀』によると応神天皇(誉田別尊)と仲姫命の子。難波高津宮(大阪府)で天下を治め、聖帝と讃えられる天皇です。学術的には古墳時代の実在の大王と考えられています。

大鷦鷯尊は弟の菟道稚郎子に譲られる形で即位。国見をして人民の窮状を知り、3年間課税を止めて宮殿を作らなかったとか、後に水路や堤防を整備する大規模な公共事業を実施した事績が記されています。美女に浮気して皇后(磐之媛命)に嫉妬された話まで載っているのが面白いですね。『古事記』では「毛受之耳原」、『日本書紀』によれば「百舌鳥野陵」に埋葬され、日本最大の前方後円墳「大仙陵古墳」が仁徳天皇陵に治定されています。

社伝によると仁徳天皇の崩御後に争いがあり、巻き込まれた人々が天皇の御霊を奉じて難を逃れ、当地に辿り着いて分霊をお祀りしたのが起源とされています。『古事記』と『日本書紀』には住吉仲皇子が反乱を企てた事件の記述あり。皇太子の去来穂別天皇(履中天皇)が難波宮から逃れて即位しており、この事件が樫本神社の創建伝承に繋がっていると思います。

時は流れて平安時代の嘉祥3年(850年)。文徳天皇により大原野神社の壮麗な社殿が造営。樫本神社は大原野神社に付属して藤原氏に庇護されました。江戸時代初期の寛永5年(1628年)には徳川和子(東福門院)から、同7年(1630年)には徳川家光から祈祷料を奉納されて神殿を修理。同時期に大原野神社も再興されています。

明治15年(1882年)から大原野神社の境内摂社となるも、戦後の昭和24年(1949年)に社地を無償譲与されて独立。現在でも大原野神社とは密接な関係にあります。

樫本神社の社殿 樫本神社の社殿 
2019年1月13日。綺麗な神殿の前で参拝します。

樫本神社の社殿 猪形にくり抜かれた竹 
2019年1月13日。猪形にくり抜かれた竹がありました。

2019年は平成31年、皇紀2679年。干支は己亥。第125代の天皇陛下は今年の4月をもって退位され、5月から新時代が始まります。(後に「令和」と決定)

南春日町バス停 
東に進み、南春日町バス停から帰りましょう。1540の阪急バス、JR向日町駅行きに乗車します。

南春日町バス停から小塩山の様子 熊出没周囲 
2019年1月13日。南春日町バス停から小塩山の様子。

京都市街から程よく離れた大原野の里。桓武天皇も度々訪れた自然豊かな地域です。釈迦ヶ岳~ポンポン山の山道で熊が出没しており。小塩山や大枝山に登る際は十分な注意が必要です。

阪急東向日駅

阪急京都線の東向日駅 
1557、阪急京都線の東向日駅に到着。運賃は280円。後は特急に乗り換えて帰ります。本日の歩行距離は約13km。お疲れ様でした。

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