東方巡遊記

大枝山探訪

目次

01 桂駅老ノ坂峠老ノ坂トンネル首塚大明神大枝山
02 ~大暑山~淳和天皇陵~小塩山~大原野神社~樫本神社~東向日駅

2014年12月7日(日)

伊吹萃香・茨木華扇・星熊勇儀の元ネタ巡り。鬼の頭領、酒呑童子の伝説を辿る補完探訪企画。もう一つの大江山、丹波-山城国境の大枝山を訪れました。

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阪急桂駅

阪急京都線・嵐山線の桂駅 
0852、阪急京都線・嵐山線の桂駅にて下車。ここは山城国乙訓郡/京都府京都市西京区です。

本日の天気は晴れ。気温は5℃。京阪京都バスを利用して老ノ坂峠・大枝山方面へ。桂駅東口バス停から、0917のJR亀岡駅行きに乗車します。

老の坂峠バス停 老ノ坂峠の山陰道(R9) 
0940、老の坂峠バス停にて下車。運賃は390円でした。首塚大明神に向かう前に、老ノ坂峠の歴史を紹介。まずは老ノ坂峠横断歩道橋で反対側へ渡ります。

※バスの運賃や時刻表は頻繁に改正されます。レポ記載の情報は古くなっていることがありますので、必ず最新の運賃・時刻表を確認した上で訪れてください。

大枝山地図 
こちらが大枝山周辺の地図。本日の目的は老ノ坂峠、首塚大明神、大枝山の探訪。大暑山と小塩山を辿って南春日の大原野神社に下ります。史跡巡りと山歩きを兼ねた、いつもの気楽なプランです。

※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋。「カシミール3D」で出力し、ポイント及びルートを追記。利用規約に基づいて掲載しています。

老ノ坂峠

老の坂峠バス停 
2019年1月13日。4年ぶりの老ノ坂峠(230m)。

大枝山の北側を通る老ノ坂峠は京都府京都市西京区と亀岡市の境界。山陰道(R9)の老ノ坂トンネル、京都縦貫自動車道の新老ノ坂トンネルが設置。R9はJR山陰本線の丹波口駅付近が起点。老ノ坂峠を越えて京都市街を出て、丹波国~丹後国を経て山陰地方を横断。山口県の下関に至ります。

老ノ坂峠は、古くは「大江山(大枝山)」と呼ばれた交通の要衝。都が大和国(奈良県)にあった時代から山背国と丹波国の境界でした。奈良時代末期の『万葉集』にも国境たる大江山が登場します。
丹波道の 大江の山の さな葛 絶えむの心 我が思はなくに
1200年以上前の大江山は、深く険しい山だったでしょう。

後世には大江坂→老ノ坂の表記に変わって定着し、現在、大江山といえば老ノ坂峠ではなく丹後地方の山を指します。中世以降、丹後の大江山が酒呑童子の本拠地として広く知られるようになり、昭和26年(1951年)には京都府加佐郡にある河守町が大江町に改称されました。大江町は平成18年(2006年)に福知山市に編入されるも、大江山の伝説は健在。一方で、老ノ坂峠が大江山と呼ばれていた歴史的事実は忘れ去られつつあります。

山背国は平安遷都以前の京都のこと。丹波国は兵庫県と京都府の一部を含む広大な地域でした。『丹後国風土記』の逸文によると、遠い昔に豊宇気大神が伊去奈子嶽に天降り、天道日女命等が真名井を掘って水を濯ぎ、水田陸田を定めて五穀の種を植えました。それを見た大神は喜んで「阿那迩恵志田、植弥之与田庭」(良い田庭である)と言い、田庭(たにわ)の地名が生まれ、後に「丹波」の表記になったそうです。

同じく『丹後国風土記』の逸文によると崇神天皇御代(紀元前97~30年頃)、青葉山中に陸耳御笠と匹女を首領とする土蜘蛛がおり、人々を苦しめていました。そこで開化天皇の子である日子坐王が討伐のため派遣され、土蜘蛛と戦います。日子坐王に追い詰められた陸耳御笠は与謝の大山に逃げ込んだと記され、丹後の大江山は古くは「与謝の大山」と呼ばれていたことが分かります。

『古事記』の崇神天皇御代にも同じエピソードがあり、日子坐王を旦波国に派遣して玖賀耳之御笠(陸耳御笠)を殺害。一方『日本書紀』では崇神天皇10年(紀元前88年頃)の出来事として、彦坐王(日子坐王)の子の丹波道主命を丹波に派遣して平定しています。この時、大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西海に派遣し、丹波を平定した丹波道主命とともに四道将軍と呼ばれます。

北陸・東海・西海と並んで平定の対象になった丹波地方。『丹後国風土記』の土蜘蛛討伐の伝説は決しておとぎ話ではありません。古代丹波に存在した、大和朝廷に服従しない強大な勢力を想像できます。大江山の酒呑童子の伝説はそのような背景の上に誕生したのであって、老ノ坂峠と大江山、それぞれの歴史から学んでいくことが重要です。

老ノ坂峠横断歩道橋 老ノ坂峠の山陰道(R9) 
2019年1月13日。老ノ坂峠横断歩道橋から京都側のR9。交通量が多いから必ず歩道橋を渡ってください。とても危険です。

本格的な国家建設を目指した藤原不比等の主導により、大宝律令が制定され、平城宮への遷都が行われて始まった奈良時代。『続日本紀』によると元明天皇御代の和銅6年(711年)に丹波国を分割、丹波北部の加佐・与佐・丹波・竹野・熊野の五郡を割いて丹後国を設けました。このとき制定された丹後国・丹波国の区分が定着して、今でも使われています。

都が大和国にあった時代、山背国は秦氏や賀茂氏の領域。平城山の向こう、という意味で山背国の表記が用いられていました。桓武天皇が訳アリで平城京→長岡京→平安京に遷都を決行した際、山背国は山河に守られた自然の要塞であると評して山城国に改称。丹波国や近江国に抜けるには険しい峠を越えなければならず、大江山(老ノ坂峠)もその一つでした。

桓武天皇が遷都を行った理由は色々あります。側近の藤原種継が乙訓郡の長岡宮造営の監督中に何者かによって暗殺。天皇の弟であった早良親王が犯人の一味と断罪、配流の途上で憤死します。息子に皇位を継がせたかった天皇にとって、弟を始末できたのは好都合でした。しかし息子が病気になり、家族は次々に病死、天変地異も多発する異常事態に。早良親王の祟りと恐れられ、崇道天皇の称号を授けて何度も謝罪するのでした。

桓武天皇が弟の祟りを恐れる気持ちは変わらず、種継が計画した長岡京を10年で放棄して再び遷都することに。延暦13年(794年)、葛野郡に造営した新都に遷り平安時代が始動。地形的に四隅を結界で囲まれた平安京は、弟の怨霊から隠れるには十分でした。ところが後年、淳和天皇御代の天長年間(824~834年)から物怪が相次いで出現。いわくつきの事情で造営された都に、鬼や妖怪が跋扈する時代が幕を開けました。

平安京の四隅の結界・境界として四堺の概念があり、丹波国境界の大江坂、摂津国境界の山崎、近江国境界の逢坂と和邇が相当。大江山の山城国側には大江関が置かれ、この時代も大江山と呼ばれました。中世に成立したとされる『百人一首』に小式部内侍の歌が載っています。
大江山 生野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天橋立
大江山を越え、丹波の生野を経て丹後の天橋立へ。徒歩の時代は長い道のりです。

老ノ坂峠の山陰道(R9) 
2019年1月13日。歩道橋から亀岡側。本能寺の変に際して明智光秀も通った老ノ坂峠。今でもR9とR478が設置された交通の要衝なのです。

京の都の辺境に位置する大江山。古い時代の様相はよく分かっていませんが、平安末期の乱世に山賊などが跋扈することがあり、都の人々から鬼の山と見なされるようになったのでしょう。昔の山には舗装路も街燈もない。暗く恐ろしい空間でした。

さて、そろそろ酒呑童子の話を始めましょう。鬼の伝説の起源には諸説あり、安易に断定できません。バリエーションも多種多様で、全てを網羅するのは不可能。本レポでは老ノ坂峠(大江山)の酒呑童子に絞って紹介します。諸説あるうちの一つに過ぎない、という前提でお読みください。

酒呑童子を描いた最古の資料として『大江山絵詞』があり、南北朝時代~室町時代初期に成立したと考えられています。欠損している箇所もありますが大筋は後世の『御伽草子』と同様で、大きな違いは物語の舞台が当時の大江山(老ノ坂峠)であること。この老ノ坂峠が鬼の本拠地と想定されていたようです。

酒呑童子の伝説で最も有名なのは『御伽草子』でしょう。室町時代~江戸時代初期に成立した物語集の一話であり、従来の酒呑童子伝説を上手くまとめた完成度の高い作品です。興味深いことに、物語の舞台の大江山に千丈岳という山名が登場。丹後の大江山の最高峰である千丈ヶ嶽を指していることが分かります。

かつては鬼の山と見なされた老ノ坂峠ですが、『御伽草子』のおかげで丹後の与謝の大山のほうが有名に。古代には大和朝廷に服従しない強大な勢力があったと想像され、『丹後国風土記』には土蜘蛛討伐の舞台として記された丹後の山々。そのような歴史的背景があったからこそ、鬼の伝説が定着したと考えられます。近世以降、大江山といえば丹後の大江山が思い浮かべられるようになりました。

『御伽草子』のあらすじは後述します。鬼の頭領である酒呑童子が都で悪行の限りを尽くし、勅命を受けた源頼光らが山伏に扮して大江山の鬼ヶ城へ。一行は神仏の加護により、酒呑童子を抹殺することに成功。攫われた姫君を救出し、都に凱旋する場面で物語は終わります。

鬼退治の伝説には続きもあります。頼光一行が酒呑童子の首を携えて都に戻る途上、老ノ坂峠で道端の地蔵尊に不浄を咎められて首を埋めることに。酒呑童子の首塚は現存し、首塚大明神として丁重にお祀りされています。長々と紹介した伝説の上に、今回探訪する首塚大明神が成立したのです。

老ノ坂トンネル

老ノ坂トンネル 
鬼の話題は一旦置いといて近代的な史跡を探訪。現在の老ノ坂峠には「老ノ坂トンネル」が2本設置され、南(写真左)が自動車用。北(右)が歩行者・自転車用です。

老ノ坂峠の和風洞 老ノ坂峠の和風洞 
2019年1月13日。長さ225mの老ノ坂トンネル。隧道の上部に「和風洞」の扁額が掲示。昭和8年(1933年)に開通、長らく車道として用いられ、今では歩行者・自転車用の快適なトンネルです。

老ノ坂峠の松風洞 老ノ坂峠の松風洞 
2019年1月13日。「和風洞」の脇に「松風洞」の扁額があります。

明治16年(1883年)、老ノ坂峠に最初の隧道「松風洞」が開通。続いて右隣に「和風洞」が開通しますが交通量が増えすぎたため、昭和39年(1964年)に「松風洞」を二車線のトンネルに拡張したとのこと。その際、初代「松風洞」の扁額を外してこの場所に設置したのでしょう。老ノ坂峠開拓の記念碑になっています。

和風洞の内部 
「和風洞」で山城国から丹波国へ。昔はこのトンネルも自動車用でした。

和風洞の内部 和風洞の電燈 
和風洞の非常電話 和風洞の非常通報装置 
2019年1月13日。非常電話や非常通報装置が設置されています。徒歩と自転車で通行するトンネルとしては豪華な設備。自動車用だった時代の名残でしょうね。

老ノ坂トンネル 亀岡に通じる山陰道(R9) 
亀岡側から見た老ノ坂トンネル。この先、約7kmも下るとJR山陰本線の亀岡駅。山陰本線は老ノ坂峠より北の保津峡を通ります。

老の坂隧道 老ノ坂隧道 
北(左)の「老の坂隧道」(歩行者・自転車用)と、南(右)の「老ノ坂隧道」(自動車用)が並びます。地形図に記載されているのは南のトンネルだけ。

和風洞と松風洞 「遠邇之利往来之便」と刻まれた扁額 
和風洞 和風洞の内部 
2019年1月13日。「遠邇之利往来之便」と刻まれた扁額があります。「遠いところにも近いところにも利益をもたらし、往来の便がよくなった」という意味だそうです。暗い峠道を越えた時代から、隧道を通る便利な時代へ。明治時代の急激な近代化により、鬼の恐怖を身近に感じることもなくなりました。

老ノ坂トンネル 老ノ坂トンネル入口 
2019年1月13日。歩道橋を戻って長さ189mの老ノ坂トンネル入口へ。亀岡方面にツーリングに向かうサイクリストが多いけど、私はこんなに交通量が多いトンネルを走りたいと思わない。自転車の場合は車が来ない旧道を選びます。

R9から首塚大明神へ 
老ノ坂トンネルの左手前。首塚大明神に通じる車道へ。ここから鬼の本拠地の探訪が始まります。

モーテル「サンリバー」の廃墟 首塚大明神に通じる竹林 
廃モーテル「サンリバー」の前を通り、竹林を抜けていきます。心霊スポット扱いされているそうですが、興味ないから普通に進行。

モーテル「サンリバー」の廃墟 モーテル「サンリバー」の廃墟 
2019年1月13日。モーテル「サンリバー」の廃墟。こういう場所に肝試しに来る連中のほうが怖い。

首塚大明神に通じる竹林 首塚大明神に通じる竹林 
2019年1月13日。竹林の先に民家があります。この真下が京都縦貫自動車道の新老ノ坂トンネル。自動車しか通れない道には興味ないです。

首塚大明神に通じるT字路 首塚大明神に通じるT字路 
竹林を抜けて、T字路を左に進むと首塚大明神。民家が点在しており寂しいところではありません。

老ノ坂峠 老ノ坂峠 
2019年1月13日。T字路を右に進むと老ノ坂峠。左の車道は老ノ坂トンネルの向こうのR9へ接続。右はトンネルの真上に出ます。

愛宕山常夜燈 首塚大明神へ 
愛宕山常夜燈の前を通ります。向こうに見えるのはごみ処理施設。大枝山を登る際のランドマークになります。

「従是東山城國」と刻まれた境石 大枝山に通じるゲート 
首塚大明神の手前。「従是東山城國」と刻まれた境石があり、これより東が山城国、西が丹波国であることを示します。尚、現在は京都市西京区と亀岡市の境界です。

古くから山背国と丹波国の境界であった大江山(老ノ坂峠)。山背国は畿内、丹波国は山陰道に属する畿外でしたから、ここでは内側と外側が明確に意識されていたと思います。実際に峠を訪れると、境界の雰囲気を強く感じます。

明治時代に近代化の一環で廃藩置県が断行され、歴史的な地域区分を全く無視してしまう形で京都府が誕生。山城国を中心に、丹波国どころか丹後国まで京都府に入りました。別々の地域を寄せ集めた府県は兵庫とか静岡とか色々ありますね。

古代には大和朝廷に服従しない勢力があったと思われる丹波国。都から遠く離れた僻地にあり、鬼の本拠地として親しまれた丹後国。それらが京の都の一部になったのは、何だか違和感があります。丹後地方って絶対に京都じゃないよね……

「従是東山城國」と刻まれた境石 
2019年1月13日。境石の右手のゲートを通ると大枝山への登り口。まずは首塚大明神へ。ゲートは一旦スルーします。

首塚大明神

首塚大明神 首塚大明神 
1010、本日の目的地である首塚大明神に到着。ザックを下ろして探訪準備をしていると、ハイヤーの観光客が登場。こんな隠れた社に観光で訪れるのは珍しい。とてもマニアックです。

首塚大明神 
首塚大明神 首塚大明神の社号標 
2019年1月13日。首塚大明神を再訪。平成30年(2018年)の台風21号は京都中に被害をもたらし、老ノ坂峠に鎮座する首塚大明神の境内も随分荒れていました。

首塚大明神前の車道 首塚大明神前の車道 
民家から首塚に通じる車道はここで通行止め。この先で舗装も終わります。

首塚大明神の鳥居 首塚大明神の社号標 
探訪開始。鳥居をくぐって境内に入ります。首塚大明神は酒呑童子の首をお祀りする社です。安易に心霊スポットとか言いふらして荒らすのはやめてください。凶悪な鬼だったとはいえ、もはや人に害をなす存在ではありません。

首塚大明神の手水石 首塚大明神の鳥居 
鳥居の脇には皇紀2600年(1940年)奉納の手水石。社号標の裏を見ると、首塚大明神は昭和59年(1984年)に宗教法人として認可。昭和61年(1986年)に鳥居と社殿が建立。現在の神社の姿になったようです。

首塚の伝説が成立した経緯は分かっていません。江戸時代前期の学者、貝原益軒の紀行文『西北紀行』によると、大江坂に地蔵堂があり、その付近が酒呑童子の首塚と伝わっていたらしい。益軒の旅は元禄2年(1689年)のこと。それ以前の首塚の有無は不明ながら、酒呑童子の物語の普及とともに首塚の信仰が定着したのではないでしょうか。

首塚大明神の木の根道 首塚大明神の木の根道 
木の根道を登って社殿へ。小高い山の上に鎮座しています。

この辺りで『御伽草子』の内容を紹介しておきましょう。時代設定としては平安時代中期の出来事として語られます。

……丹波国の大江山には鬼神が棲み、多くの人々を攫っていました。ある時、一条天皇に仕える池田中納言くにたかの娘である姫君が行方不明に。村岡まさとき(安倍晴明とも)の占いにより、大江山の鬼神の仕業であることが判明。事件は帝に知らされ、頼光、定光、末武、綱、公時、保昌に鬼神討伐の勅命が下りました。

源満仲(多田満仲)の子で、藤原道長に仕えた源頼光。その配下の碓井貞光、卜部季武、渡辺綱、坂田公時、藤原保昌。平安時代中期に生きた実在の人物ですが、もちろん物語はフィクションです。頼光は武士の側面を持った貴族の一人であり、勇猛な武将というのは後世のイメージ。史実との相違に突っ込みまくるのは野暮なので、ここでは物語上の人物として話します。

一行は八幡宮、住吉社、熊野社に参籠して神仏に祈願し、山路に迷った山伏に偽装して鬼ヶ城に潜入する作戦を立てます。それぞれ特別な武具を用意し、都を出て丹波国の大江山へと急行。(※作中では丹波国とありますが、明らかに丹後の大江山を指しています。 彼らが都を出る際には、丹波-山城国境の老ノ坂峠を通ったでしょう)

大江山に到着し、地元の柴刈人に千丈岳と鬼の岩屋の位置を尋ね、谷や峰を越えて進むと、岩穴の柴の庵の中に三人の翁を見つけました。翁は摂津国、紀伊国、山城国の者で、酒呑童子に妻子を攫われたと答えます。一行の目的を知った翁は「神便鬼毒酒」と「星甲」を授けて千丈岳への道を先導。その正体は出発前に祈願した八幡宮、住吉社、熊野社の神様だったのです。

川辺では鬼共に攫われてきた花園中納言の姫君に出会い、姫君の血を飲む鬼の悪逆非道ぶりや鬼ヶ城の様子など詳しい情報を入手。星熊童子、熊童子、虎熊童子、金童子なる屈強な鬼が守る鉄門に辿り着きます。鬼は山伏一行を引き裂いて食おうとしますが、とりあえず中に通してから食うことに。鬼ヶ城に入った頼光達の前に、不気味な風貌の鬼の頭領、酒呑童子が現れます。

勇猛な頼光は酒呑童子を恐れずに山伏の由緒を語り、酒盛りを提案。攫った人間を切断した残虐な料理を出されても動揺せず食べてしまいます。「鬼神に横道なし」とか言って鬼が油断したところで例の「神便鬼毒酒」を出すと、酒呑童子は最愛の女であるくにたかの姫君と花園の姫君を座敷に呼びました。神酒に酔ってすっかり嬉しくなった童子は身の上話を始めます。

首塚大明神の境内 首塚大明神の境内 
2019年1月13日。台風の影響で木々が倒れていました。

酒呑童子は元々、越後国(新潟県)の山寺の児でした。法師に妬みがあったことから数多くの法師を刺し殺してしまい、その夜に近江-山城国境の比叡山に着いて住もうと思いました。しかし伝教法師(最澄)には力及ばず、山を追われて大江山へと移住。すると今度は弘法大師(空海)によって山を追い出されます。(※酒呑童子の出生譚には多くのバリエーションがあります)

後に空海は紀伊国(和歌山県)の高野山にて入定。酒呑童子は自分の邪魔をする者がいなくなった大江山に戻り、都から姫君をほしいままに攫い、鬼ヶ城で愉快な日々を送っていました。そんな酒呑童子にも気がかりなことがありました。大悪人の強者「頼光」です。その郎党である定光、末武、公時、綱、保昌も、童子にとって厄介な存在でした。

過ぎたる春のこと。酒呑童子の配下の茨木童子が都に向かったとき、七条の堀川(一条戻橋とも)で渡辺綱と渡り合いました。茨木童子は女の姿になり、綱に近寄って髻を掴みますが、三尺五寸の刀(髭切とも)で片腕を斬り落とされてしまいます。(※茨木童子の話にも多くのバリエーションがあります)

その後、茨木童子は片腕の奪還に成功したものの、頼光や綱の存在が邪魔で都には行けなくなったと語る酒呑童子。ここでようやく、山伏一行の正体が頼光達に似ていると気付いて荒ぶるも、頼光は動じることもなく笑って山伏の話を続け、うまく童子を騙し続けました。そのうち鬼共は神酒に酔って寝てしまい、いよいよ皆殺しの時間が訪れます。

首塚大明神の境内 
2019年1月13日。今でも鬼の住処になってそうな雰囲気。

頼光一行は武装し、攫われた姫君の案内で酒呑童子の寝床へ。恐ろしい姿の童子の前に至ると、再び八幡、住吉、熊野の神様が現れました。作中では、ここまで順調に事が運んだのは神仏のおかげであることが強調されます。「鬼の手足は鎖で縛るから、頼光は首を斬れ。残る五人はずたずたに斬り捨てよ」と三神。頼光は「南無や三社の御神」と神仏を拝みつつ、名刀「血吸」を抜いて童子を斬りつけます。

情けなしとよ客僧たち、いつはりなしと聞きつるに、鬼神に横道なき物を

酒呑童子は目を見開き、頼光の騙し討ちに怒ります。手足を鎖に繋がれて反撃できず、大声を上げて殺された童子。「血吸」で撥ねられた首は天に舞い上がって頼光に噛みつこうとするも、神様に授けられた兜「星甲」に恐れをなして致命傷には至りませんでした。童子はそのまま八つ裂きにされ、鬼の頭領はあっけなく抹殺されたのです。

酒呑童子の配下には多くの鬼が残っていました。主を殺された鬼が茨木童子を名乗って反撃を仕掛け、かつて茨木の片腕を斬った渡辺綱が立ち向かって互角の戦いに。綱が押し伏せられると、頼光が茨木の細首を撥ね飛ばしてしまいます。そうやって、残りの鬼共も六人の武士によって皆殺しにされるのでした。

頼光達は囚われていた姫君を解放するとともに、白骨死体や手足を切断されながらも生きている人など、おぞましい光景を目にしながら大江山の麓のしもむらに下ります。事態を聞きつけた丹波国司の大宮の大臣殿が食事を用意して、解放された人々は馬と乗り物で都へと帰ることになりました。

見事くにたかの姫君を救出し、都に凱旋する頼光一行。帝から褒め称えられ、国土安全長久に治まる御代になりました。頼光の手柄は上一人から下万人まで感心しない者はおりません。……というのが『御伽草子』のあらすじ。原文も読んでみてください。

森の中に鎮座する首塚大明神 根本まで裂けた木の幹 
鬱蒼とした森の中に鎮座する首塚大明神。鬼の頭領、酒呑童子をお祀りする社です。元々は円墳だったという説もあるらしい。

根本まで裂けた木の幹 根本まで裂けた木の幹 
2019年1月13日。木の幹が根本まで裂けて炭化しています。落雷があったのでしょう。

首塚大明神の社殿 首塚大明神の扁額 
鳥居と社殿。首塚大明神は怖いところではありません。酒呑童子の神霊に敬意を払って参拝します。

酒呑童子の最古の資料である『大江山絵詞』によると、撥ねられた首は都に持ち帰り、宇治の宝蔵に収められました。後世の『御伽草子』では酒呑童子の首について記述はありませんが、宇治に収められたとか、老ノ坂峠に埋められたと書くパターンもあります。やはり、鬼の首の行方は読者にとって重要な関心事だったからでしょう。

『御伽草子』の成立後、江戸時代後期に作られた話として、丹後の大江山の鬼ヶ茶屋で発行されて広まった『酒呑童子由来』があります。それによると大江山(老ノ坂のこと)に籠もる酒呑童子は都で悪行の限りを尽くした後、配下の茨木童子に城を預け、手下を連れて丹後国の千丈ヶ嶽(丹後の大江山です)に移住。源頼光に鬼賊討伐の勅命が下され、藤原保昌、碓井貞光、卜部季武、渡辺綱、坂田公時を伴い、大峰修行の山伏に偽装して千丈ヶ嶽に向かいました。

物語の大筋は『御伽草子』と同じです。道中で神様から「神変奇特酒」と兜を授かって鬼の本拠地へ。酒呑童子を宴会で油断させた隙に名剣「鬼切丸」で胸板を突き刺します。童子は「たとい命尽くるとも魂魄首にとどまり、禁廷へ飛び入り恨みを晴らさん」と叫び、撥ねられた首は空中を舞って頼光の兜に噛み付くも切り払われました。

酒呑童子の首は火烟を吹きながら都へ飛んでいき、丹波国と山城国の境界である大江坂(老ノ坂)に落下します。神様から授かった兜には7枚まで鬼神の歯が通っていましたが、あと1枚のところで止まり、頼光は無事だったそうな。

さて、茨木童子が籠もる大江山には源頼国(頼光の子)が攻め入りました。童子を滅ぼし、鬼ヶ城を焼いて帰路に着くと、鬼の首が落ちていくのを目撃。千丈ヶ嶽の鬼共も滅んだと知り、酒呑童子の首を槍に刺して父とともに都に帰還します。首は京中の大路を引き回されて、七条河原に七日間晒された後、国境の大江坂に埋葬。首塚明神と名付けて地蔵堂が建立されたのでした。

『大江山絵詞』が成立した頃、鬼の本拠地といえば老ノ坂峠でした。『御伽草子』の普及に伴って丹後の千丈ヶ嶽のほうが有名になりましたが、一方の老ノ坂峠にも茨木童子の鬼ヶ城や酒呑童子の首塚の伝説が残ります。

古くから畿内と畿外の境界であり、京の都の四堺の一つになった老ノ坂峠。うまく表現できないけど老ノ坂峠にはなんとなく影のイメージが存在して、その影響から、後世まで鬼の伝説が語り継がれたのだと思います。

首塚大明神の由緒碑 
社殿の前に由緒碑がありました。重要な内容ですから紹介しておきましょう。

平安時代初期、丹波国の大江山を本拠地とする酒呑童子が、都に出て悪行の限りを尽くし、人々に大きな不安を与えていました。天子は源頼光ら四天王に酒呑童子とその一族を討伐するよう命じ、大江山の千丈ヶ嶽に分け入った一行は見事に鬼を滅ぼします。大筋は上述の物語と変わりませんね。

頼光達は酒呑童子の首級を携えて帰還。都に入る手前の老ノ坂で休憩していたところ、道端の子安の地蔵尊に「不浄なものを持ち込んではならん」と咎められました。相模国(神奈川県)の足柄山で熊と相撲をとったという坂田金時が持って行こうとしますが、ここまで携えてきた鬼の首が突然持ち上がらなくなり、止むを得ず首を埋めたと伝わります。

『御伽草子』や『酒呑童子由来』には記されなかった首塚の由緒。『西北紀行』から分かるように、江戸時代前期には存在していました。酒呑童子は頼光に首を撥ねられる際、今までの悪逆な行いを後悔して、「これからは首から上に病を持つ人々を助けたい」と言い残したとか。そういう伝説から、首より上の病気に霊験あらたかな社になっています。

酒呑童子が極悪非道な鬼として描かれているのは事実です。しかし比叡山を追われ、山々を転々として老ノ坂峠や大江山に落ち着き、信用した山伏(源頼光)に騙し討ちの形で首を撥ねられ殺害される場面や、都で晒し首にされた後に老ノ坂峠に埋葬される話は、どこか哀愁を感じます。社会の外側に生きた存在に対する、恐れと憐れみが込められているのでしょう。

本レポでは酒呑童子の正体やルーツまでは踏み込みません。古代の土蜘蛛伝説を背景に、辺境で鉱山開発に従事した人々とか、漂着した外国人、不平を持つ貴族の反抗、酒造に従事した渡来人、寺を追われた稚児、山賊など様々な正体が考察されている酒呑童子。ただ凶悪なだけではなく、影のイメージを持っているのは間違いありません。

首塚大明神の社殿 首塚大明神の扁額 
2019年1月13日。「首塚大明神」の扁額が掲げられた鳥居。

上述したように、酒呑童子の出生譚には多くのバリエーションがあります。かなり省略しますが、近江国(滋賀県)の伊吹山で育ったという伝説が有名。東方の伊吹萃香の元ネタとして欠かせないので、できるだけ簡潔に紹介します。

室町時代に成立した『伊吹童子』によると、その昔、伊吹山には伊吹弥三郎という恐ろしい者が暮らしており、伊吹大明神(かつて素盞鳴尊に殺された八岐大蛇)の山を司っていました。大野木殿の娘と愛し合う関係になりますが正体が発覚して斬り捨てられてしまい、子は伊吹山に捨てられ、伊吹童子として神様に育てられるも乱暴だったことから追放。後の酒呑童子の伝説に繋がっていきます。

『酒典童子』では伊吹大明神(八岐大蛇)と玉姫御前の子。比叡山の伝教大師(最澄)の元で稚児になった酒典童子ですが、鬼踊りの宴会を開いたとき、自作の鬼の面が外れなくなってしまいました。最澄によって山を追放され、伊吹山に籠もりとうとう本物の鬼になった酒典童子。そうして大江山に辿り着いた姿は、やはり社会の外側の存在として描かれています。

ここまで紹介してきた全ての伝説が東方の元ネタ。酒呑童子は「萃夢想」に登場する鬼、伊吹萃香のモデルです。萃香の出自は詳しく語られず、おそらく酒呑童子と同一人物ではない。そのバックストーリーはある程度共通している、と考えていいと思います。まあ、首を撥ねられて殺害されてたら「萃夢想」に登場できませんし、そういうのを忠実に再現するとグロいから別にいいです。

人外の子として生まれ、伊吹山に捨てられて育ち、各地の山々を転々として人攫いなど悪行の限りを尽くした話、源頼光や藤原妹紅(妖怪狩りに明け暮れた時代と重なります)と戦った話、人間に愛想を尽かして幻想郷にやってきた話など、色んな過去が妄想できる萃香。作中でシリアスさは出さず、脳天気な酔っぱらいのキャラクターにしか見えないけど、裏側には幽々子並みに暗い過去がありそうです。

首塚大明神の社殿 首塚大明神の社殿 
2019年1月13日。首塚大明神の社殿です。

「萃夢想」の伊吹萃香≒酒呑童子とすれば、「地霊殿」の星熊勇儀、「茨歌仙」の茨木華扇も、それぞれ星熊童子と茨木童子に相当する鬼だと言えます。萃香しかいなかった時代から一気に鬼関係の元ネタが増えました。酒呑童子の伝説が残る地を、東方舞台探訪と称して楽しめるのです。

星熊勇儀のテーマ曲の「華のさかづき大江山」、茨木華扇が何らかの理由で右腕を失ったという設定。明らかに『御伽草子』に登場する酒呑童子の一味を意識していますね。尚、茨木童子は渡辺綱を押し伏せるも頼光に細首を撥ね飛ばされて死亡。星熊童子はモブ鬼に紛れて始末されており、物語中では全員殺されています。

『酒呑童子由来』によると老ノ坂峠には茨木童子が籠もり、頼光の子である源頼国によって滅ぼされたことになっています。萃香の首塚だけでなく、華扇の最期の地としても探訪できる老ノ坂。あっ、昔の鬼伝説と東方の設定が区別できなくなってきた……

首塚大明神の由緒碑 首塚大明神の大例祭 
拝殿の様子。昭和61年(1986年)に鳥居と社殿が建立。毎年4月15には大例祭が斎行されます。

首塚大明神の拝殿 
2019年1月13日補完分の拝殿。日本酒やウィスキーなどのお酒が供えられていました。境内が台風で荒れても、参拝者が途絶えることはありません。

酒呑童子の首塚 酒呑童子の首塚 
社殿裏手、玉垣の中に首塚があります。ここに酒呑童子の首が埋められたのでしょう。

死の直前に悪行を後悔したという酒呑童子。その首を携えて都に戻り、当地に埋葬した頼光達。長く語り継がれてきた伝説上の場面が浮かんできます。何度でも言いますが、ここは怖いところではありません。

首塚大明神の社殿 
酒呑童子の首塚 酒呑童子の首塚 
2019年1月13日。かなり荒れていますが首塚は健在です。酒呑童子の伝説が失われないよう記録したい。

六体の蛙の置物 六体の蛙の置物 
2019年1月13日。玉垣の前に六体の蛙の置物が並んでいました。酒呑童子討伐に向かった六人の武士が無事に帰る、みたいな意味があるのかな?

お酒の空き瓶 首塚大明神の境内 
社殿の下には休憩所のような小屋があります。酒呑童子に供えられたと思われるお酒の空き瓶が沢山。

首塚大明神の小屋 首塚大明神の小屋 
小屋の中には鬼関連の資料が掲示されていました。酒呑童子の伝説は、これからも語り継がれます。

首塚大明神の小屋 首塚大明神の小屋 
2019年1月13日。そろそろ書く内容が尽きてきました。

首塚大明神の鳥居 
短い探訪を終えて境内を出ます。酒呑童子の伝説を語る上で特に重要な老ノ坂(大江坂)。丹後の大江山だけでなく、是非こちらも訪れてみてください。

大枝山

大枝山・小塩山方面への標識 
1055、「従是東山城國」の境石があるゲートに戻りました。大枝山・西山団地経由、大暑山・小塩山方面への標識あり。次は、ここから南の大枝山に登ります。

大枝山地形図 
首塚大明神から大枝山に至る地形図。正式な登り口やルートらしきものはありません。多少の藪漕ぎが必要なので無理しないでください。

※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋。「カシミール3D」で出力し、ポイントを追記しています。

ゲートを通って大枝山へ 
ゲートの左を通って一応の登り口へ。気温は4℃。既に曇りがちな天気です。

大枝山への取り付き箇所 大枝山・小塩山方面への標識 
1100、大枝山への取り付き箇所。

所々に標識はあるけどナビゲーションが必要。里山とはいえ、あっという間に道に迷うぐらい深い山です。2017年1月には大枝山周辺で遭難・死亡する事案も起きています。この時点で進むべき尾根が分からない方は、どうか引き返してください。

大枝山に至る沢 大枝山の地形図 
取り付き開始。現在地は亀岡市と京都市の境界線の沢。地形図から分かるように、山頂に至る道筋はいくつかあります。今回はごみ処理施設の南に位置する尾根から登っていきましょう。

大枝山に至る沢 
2019年1月13日。台風の影響で荒れまくっている沢。こういうのは慣れてるから気にせず登ります。真夏には訪れたくないですね。

大枝山に至る沢 
まずは沢の西を登り、適当な場所で東に乗り換え。

大枝山に至る尾根 
尾根に乗りました。地形的に一番分かりやすいルートです。

大枝山から北の眺望 
大枝山から北の眺望はこんな感じ。手前にごみ処理施設、その向こうに霊園のある団地。木々の間には、京都市街からよく目立つ愛宕山が見えます。

大枝山への道 大枝山山頂の無線鉄塔 
尾根に乗ってしまえば一本道。送電鉄塔の下を通過すると、南に山頂の無線鉄塔。よく見ると鉄塔上のアンテナは撤去されています。

大枝山への道 
関西電力の作業道らしい道。この辺りで鹿を見かけました。

大枝山への道 大枝山山頂のフェンス 
まもなく大枝山の山頂です。

標高480mとする情報を見かけますが、山頂があった場所は平坦に整地されて存在せず。一帯はNTTの西山無線中継所だったのが役目を終え、空っぽの敷地だけが厳重にフェンスで囲われています。

大枝山山頂の無線鉄塔 標高456mを示す杭 
敷地内には標高456mを示す杭。アンテナが撤去された無線鉄塔を見ながらフェンスの周りを歩きます。整地・整備される以前の大枝山の風景を見たかった。とても残念です。

大枝山山頂のフェンス 大枝山山頂へ 
大枝山山頂のフェンス 大枝山山頂のフェンス 
2019年1月13日。役目を終えていた無線鉄塔が撤去され、NTTの西山無線中継所は完全に跡地になりました。せめて展望台として開放してくれたら良かったのですが。

大枝山の最高峰 
フェンスに沿って敷地の西側へ。実際の地形的には、この盛り上がりが最高峰でしょうか。無理矢理でもいいから茨木童子の鬼ヶ城を想像してみます。

大枝山山頂の無線鉄塔 標高456mの大枝山山頂 
もう少し進むと、フェンスに「大枝山」の看板あり。ここが標高456mの山頂…です。

標高456mの大枝山山頂 
2019年1月13日。更地になった無線中継所跡。まるで源頼国に焼き払われた鬼ヶ城のようです。

NTT西日本の西山無線中継所 
無線中継所の正面へ回ります。この建物も、もう使われていないのでしょう。

大枝山山頂周辺 大枝山山頂周辺 
2019年1月13日。荒れてます。

NTT西日本の西山無線中継所 NTT西日本の西山無線中継所 
こちらが正面。NTT西日本の西山無線中継所。西山団地を経由して、小塩山方面へ向かいましょう。

メガーソーラーと化した大枝山 
2019年1月13日。管理道路で西山団地へ。以前は何もなかった山手の土地がメガソーラー化。山林が削られて大規模に整備されていました。この開発ほんまに必要なんか?

大枝山東方の眺望 大枝山東方の眺望 
2019年1月13日。東方の眺望。手前の台は京大桂キャンパスがある桂坂ニュータウン。その向こうの平地に京都駅が鎮座する中心市街が広がります。老ノ坂峠/大枝山が都の辺境に位置することが実感できますね。

桂坂ニュータウンの中心には大枝山古墳群があり、6世紀後半~7世紀前半に築かれた円墳23基のうち13基が現存。古墳時代末期の5~6世紀頃に大陸由来の高い技術を持って渡来し、未開の地であった山背国に定住した秦氏の墓地と推測されています。

南側には光仁天皇の夫人にして桓武天皇・早良親王の母親、高野新笠(延暦8年に薨去)の陵墓に比定される大枝陵があり、山陰道を越えた西側(大枝山東麓)には京都霊園も整備。一帯は古代から現代までの墓地が集まっています。

七条河原に晒された酒呑童子の首が埋葬された、あるいは京の都に持ち込めなくなり、止むを得ず老ノ坂に埋葬した。この大枝山は、鬼の首塚伝説が定着するのに相応しい場所なのです。

大比叡と四明岳から成る比叡山 大比叡と四明岳から成る比叡山 
2019年1月13日。北東の眺望。大比叡(848.3m)と四明岳(838m)から成る比叡山が見えます。

奈良時代末期の延暦7年(788年)、最澄が比叡山に薬師如来を本尊とする草庵、一乗止観院を建立。遷化の翌年、平安時代初期の弘仁14年(823年)に延暦寺の寺号を賜り、天台宗の総本山たる一大道場として発展。戦乱を乗り換えて現在に至ります。貞観8年(866年)には清和天皇から最澄に伝教大師の諡号が送られました。高野山を開いた弘法大師こと空海と並んで有名な僧侶です。

酒呑童子の伝説にも登場する最澄と空海。鬼ですら勝てない強力な術者として描かれるのが面白いです。童子が源頼光に討伐されるのは平安時代中期の一条天皇御代ですが、最澄と空海が活躍したのは平安初期。およそ200年ぐらい開いています。酒呑童子の一味は、それほど長い間、大江山に潜んでいたのですね。

滋賀県の比良山地 
2019年1月13日。比叡山の北、滋賀県の比良山地も見えます。手前が蓬莱山(1173.9m)、奥が最高峰の武奈ヶ岳(1214.2m)。この季節は普通に冠雪します。かなり寒そう……

大枝山の北にそびえる愛宕山 
2019年1月13日。大枝山の北にそびえる愛宕山(924m)。

雲に覆われて分かりにくいけど、山頂付近のシルエットが特徴的な山。京都のどこから見ても愛宕山だと分かります。その昔、愛宕山と比叡山が高さ比べの喧嘩をして、愛宕山が比叡山に頭を殴られてコブが出来たのだとか。

飛鳥時代末期の大宝年間(701~704年)、役小角と泰澄が朝日峰(愛宕山)に神廟を建立。奈良時代末期の天応元年(781年)には慶俊と和気清麻呂が白雲寺を創建。愛宕大権現をお祀りする修験道の一大道場に発展し、広く崇敬を集めました。しかし明治時代の神仏分離で白雲寺は廃絶。今では愛宕神社になっています。

東方では「儚月抄」の綿月依姫の神降ろしで「愛宕様」が登場。愛宕権現は後世に火伏せ(防火)の神様として全国的に有名になり、現在の愛宕神社でも伊弉冉尊や迦遇槌命(伊弉冉尊の子)をお祀りしています。依姫が使った「愛宕様の火」とは、伊弉冉尊を焼き殺した迦遇槌命のことでしょう。

ちなみに茨木童子は渡辺綱を愛宕山に連れ去ろうとして失敗。その際、片腕を斬り落とされています。華扇ちゃんかわいそう。

大枝山の管理道路 大枝山の西山団地 
管理道路のゲート 
1205、管理道路から西山団地に出ました。このゲートは車両用。徒歩の場合は跨いで通ってもOK。

大枝山の西山団地 メガーソーラーと化した大枝山 
2019年1月13日。西山団地の一角に新設されたメガソーラー。全国の里山を切り開き、緑のある景観を一変させ、自然環境を徹底的に破壊しています。何がエコロジーやねんボケカス。

西山団地のグラウンド前 大暑山経由小塩山の標識 
1220、団地を抜けて南のグラウンド前にやってきました。大暑山経由小塩山の標識に従い、グラウンドの門を通過。門が閉まっていても、左の隙間から抜けていい…らしい。

グラウンド脇を抜けて山道へ 
グラウンドには入らず右側の山道へ。
次ページ、大暑山を経て小塩山に続きます。

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