2022-02-05 改訂
2009-05-15~2020-10-02 実施
京都の史跡探訪。蹴上インクラインを中心に琵琶湖疏水の関連史跡を巡ります。
蹴上駅~ねじりまんぽ~南禅寺~水路閣~蹴上発電所~蹴上インクライン~蹴上疎水公園~蹴上船溜~九条山浄水場ポンプ室~南禅寺船溜/琵琶湖疏水記念館
「蹴上探訪」の概要|探訪活動に用いるカメラ|京都一周トレイルのご案内|近代京都の礎 琵琶湖疏水|舟を輸送した蹴上インクライン|高瀬川と琵琶湖疏水|田邉朔郎博士の功績
2020年10月2日。1020、地下鉄東西線の蹴上駅。ここは京都府京都市東山区です。
本記事の主題は京都の史跡探訪です。明治時代に整備されて近代京都の礎となった琵琶湖疏水の関連史跡を、蹴上インクラインを中心に巡ります。後述するリバーサルフィルム(PROVIA 100F)の発色を試すための探訪でもあり、史跡のフィルム写真をお楽しみいただける内容だと思います。当サイトのテーマである東方の元ネタ巡りの要素は全くありませんが、秘封倶楽部の時代の京都や、東方のイベントが行われる現代の京都の基礎として抑えておきたい史跡です。
探訪のメインカメラはアウトドア用のコンデジ。RICOH WG-6です。印象的な写真を撮るためにフィルム式の一眼レフカメラも多用。マニュアルのASAHI PENTAX SP、オートフォーカスのMINOLTA α-8700iを使っています。フィルムはFUJIFILM SUPERIA X-TRA 400(ネガ)とPROVIA 100F(リバーサル)。歴史探訪にはフィルムが適していると考えます。
蹴上駅周辺の地図。まずは「ねじりまんぽ」を抜けて南禅寺へ。それからインクラインを探訪します。
蹴上駅の出入口から三条通(R143)を北に進むと「ねじりまんぽ」の入口が現れます。明治21年(1888年)に完成した「ねじりまんぽ」は、蹴上インクライン(後述します)の下を通る煉瓦造りの隧道です。「まんぽ」とは隧道を意味する古い言葉。史跡の案内板が新設されました。
「ねじりまんぽ」の西口には、京都一周トレイル東山コース、30-2番の標識(以降E-30-2と表記)が設置されています。
京都一周トレイルは京都市街に接する里山に整備されたトレイルコース。その名の通り京都を一周(正確には北側を半周)できるのが売りで、都市の周りにこれほど豊かな自然が残っていたのかと驚かされます。東山コースは京阪伏見稲荷駅を起点として、伏見稲荷大社が鎮座する稲荷山中腹から比叡山のケーブル比叡駅に至ります。頑張れば一日で踏破可能であり、その場合は蹴上が中間点になります。
隧道の扁額には「雄観奇想」。琵琶湖疏水の整備を計画した京都府知事、北垣国道氏の揮毫です。意味は「見事なながめとすぐれた考えである」とのこと。
4枚目は2014年7月12日。台車に乗った舟が行き交うインクラインの重さに耐えられるように、煉瓦が螺旋状に積まれています。隧道自体もインクラインとは斜めに掘られた高度な設計です。
「ねじりまんぽ」の東口は左京区です。ここには東山コースのE-31が設置。右折すると蹴上疏水公園、日向大神宮を経て比叡山に至ります。東口の扁額には「陽気発処」。意味は「精神を集中して物事を行えば、どんな困難にも打ち勝つことができる」とのこと。2年前に有毒害虫のセアカゴケグモが発見。警告の貼り紙がありました。恐ろしい……
路地を歩いて南禅寺境内へ。中門から東に進むと三門、法堂、琵琶湖疏水の水路閣に通じます。
南禅寺の正門である三門。江戸時代初期の寛永5年(1628年)に再建されました。
南禅寺の中心となる法堂。明治42年(1908年)の再建です。鎌倉時代後期の正応4年(1291年)、亀山法皇が無関普門禅師を迎えて開いたのが南禅寺の始まり。東山の麓に位置する広大な寺院です。
南禅寺の境内に建設された水路閣。琵琶湖の水を京都に引き込む琵琶湖疏水の水路橋です。
煉瓦造りでアーチ構造の美しい水路閣。歴史的景観を損なうとの批判を受けるも、今では京都の歴史の一部になっています。史跡というより撮影スポットとして有名かもしれません。
琵琶湖疏水の開通から100年以上経った平成20年(2008年)、水路閣の橋脚にひび割れが見つかりました。倒壊の恐れはないそうで、監視が続けられています。
緑を強調するためPROVIA 100Fを使用。4枚目だけネガです。Velvia 100のほうが良かったかも。
南禅寺から引き返し、三条通(R143)と仁王門通(R182)が合流する蹴上交差点に戻りました。琵琶湖疏水の一部として建設された煉瓦造りの蹴上発電所が現存。関西電力が管理しています。
蹴上インクラインは蹴上~南禅寺間で舟を輸送するための傾斜鉄道でした。既に鉄道としての役割を終えており、正確には蹴上インクライン跡です。
桓武天皇の平安遷都以来、千年以上も日本の中心として栄えた京の都。明治2年(1869年)に東京遷都が決行されると、京都の人口は減少し産業も衰退に向かいます。その窮状を危惧した第3代京都府知事の北垣国道氏は、滋賀県の琵琶湖から京都に水を引き入れる大規模な水路の整備を計画。新進気鋭の技術者、田邉朔郎氏を設計責任者に迎えて明治18年(1885年)から工事が始まりました。
東山を貫通する隧道を掘って水路を設けるという途方も無い難工事を経て、明治23年(1890年)に琵琶湖疏水の第1疏水が開通。琵琶湖の水が京都に流れました。翌年には疏水を利用して発電を行う蹴上発電所が運転を開始しています。水路は順次南に延伸され、明治27年(1894年)に全ルートが完成。衰退しつつあった京都が近代都市に生まれ変わる基礎が築かれたのです。
琵琶湖疏水を運河に利用するには、上流の蹴上船溜~下流の南禅寺船溜の高低差を克服する必要がありました。この区間は舟で往来できないため、舟を台車に載せて輸送するインクライン(傾斜鉄道)が明治24年(1891年)に整備。同年に運転を開始した蹴上発電所の電力でワイヤーを巻き上げ、台車を運ぶ方式が採用されました。高瀬舟が行き交った時代から20年余り、京都は急激に機械化されました。
東海道の難所であった逢坂山を回避できることから、人々や物資の輸送に重宝された琵琶湖疏水。後年には京阪電車や国鉄といった鉄道路線が主流になって急激に需要が失われ、蹴上インクラインは戦後の昭和23年(1948年)に運行休止。昭和26年(1951 年)に砂を積んだ三十石船が下り、60年の任務を終えたと記録されています。あくまで物流手段としての需要が消滅しただけであり、疏水自体は現在の京都に欠かせないインフラです。
役割を失ったインクラインは無用の長物となり、昭和48年(1973年)、愚かにもレール等の設備が撤去されてしまいました。しかし歴史的価値に気付き、4年後の昭和52年(1977年)になって復元。二度と舟の輸送に使われることはありませんがレールが敷き直され、三十石船を載せた台車(これも復元)も展示。明治時代の様子が再現されています。流石にワイヤーまでは張られておりません。
平成8年(1996年)、琵琶湖疏水の関連施設が国の史跡に指定。平成19年(2007年)には「近代化産業遺産群」の一つにも認定され、今では観光名所として賑わっています。昭和48年の撤去は愚行としか言いようがありませんが、後から復元しようと考えついたことは評価したい。何も残っていない史跡は山ほどあり、そのような場所を訪れるたびに私は心を痛めます。
京の都には琵琶湖疏水より古い運河がありました。江戸時代初期の慶長19年(1614年)、豪商の角倉了以と息子の角倉素庵により、鴨川と宇治川を南北に繋ぐ運河が整備。高瀬舟が用いられたことにちなんで高瀬川と呼ばれました。明治時代に琵琶湖疏水が開通すると、江戸時代から用いられた高瀬川は役割を失いました。後年には市街地を流れる普通の小川になり、高瀬舟が行き交った時代の面影は殆ど残りません。京都の風景は明治の近代化の中で一変。それ以前の文明を想像するのは難しくなりました。
1枚目は2015年4月25日。上流の蹴上船溜へ。史跡というより遊歩道のような佇まいです。
先程くぐった「ねじりまんぽ」の上を通ります。東口は南禅寺方面、西口は地下鉄蹴上駅。導水管や蹴上浄水場の施設も見えます。
2009年5月15日、2014年7月12日、2013年5月2日。フィルムはSUPERIA Venus 400、SUPERIA X-TRA 400、SUPER GOLD 400。3種類とも生産終了のネガフィルムです。
4枚目は2014年7月12日。上流の一角は蹴上疏水公園として整備されています。
京都一周トレイルの昼休憩に丁度いい蹴上疏水公園。田邉朔郎氏の銅像があります。
大正12年(1923年)の「工學博士田邉朔郎君紀功碑」。当初は疏水が鴨川に注ぐ地点にあったのが、昭和16年(1941年)に蹴上の現在地に移設されました。左隣には昭和57年(1982年)の「田辺朔郎博士像」。どちらも田邉氏の功績を後世に伝えるため建立されました。
江戸時代末期の文久元年(1861年)、江戸に生まれた田邉朔郎氏。工部大学校の学生だった頃、琵琶湖疏水の整備を計画していた京都府知事の北垣国道氏に会い、卒業後は疏水の設計責任者に任命されました。明治18年(1885年)から始まった難工事を測量技師の島田道生氏とともに指導し、明治23年(1890年)に琵琶湖疏水の第1疏水が開通。その後も数々の工事に関わりました。
琵琶湖疏水は、東京遷都で衰退しつつあった京都の命運を賭けた一大事業でした。近代化をお雇い外国人に任せていた時代に、若き日本人技術者が工事を主導したことにも大きな意義があります。京都市では「わが国土木技術の黎明期を開拓した偉大な先覚者であると同時に、近代都市京都の基礎を作った恩人」として顕彰されています。これが桓武天皇の時代なら渡来人の秦氏が担当していたでしょうね。
公園に隣接する関西電力の施設。蹴上発電所に通じる巨大な導水管が伸びています。
2015年4月25日。北西の正面には愛宕山(924m)。飛鳥時代末期の大宝年間(701~704年)に、修験道の開祖とされる役小角と泰澄によって神廟が建立されました。奈良時代末期の天応元年(781年)には慶俊と和気清麻呂が白雲寺を創建。長らく愛宕権現をお祀りする神仏習合の道場として栄えますが、明治時代の神仏分離で愛宕神社に改められました。
2015年4月25日。北東には大比叡(848.3m)と四明岳(838m)から成る比叡山。トレイルコースの終点です。奈良時代末期の延暦7年(788年)、最澄が比叡山に薬師如来を本尊とする草庵、一乗止観院を建立。遷化の翌年、平安時代初期の弘仁14年(823年)に延暦寺の寺号を賜り、天台宗の総本山たる一大道場として発展。戦乱を乗り越えて現在に至ります。
2014年7月12日と2020年10月2日。蹴上インクライン上流の蹴上船溜。平成22年(2010年)に寄贈された木造の三十石船が台車に載った状態で展示されています。北垣氏や田邉氏の偉業だけでなく、史跡を後世に残す取り組みも称賛されるべきです。歴史は大切にしましょう。
1枚目は2014年7月12日。大神宮橋から下流側の様子。案内板のおかげで分かりやすいです。
1枚目は2014年7月12日。大神宮橋から上流側の様子。奥の煉瓦造りの建物は九条山浄水場ポンプ室(御所水道ポンプ室)。奥に琵琶湖から通された第1疏水第3トンネルの出口があります。
琵琶湖疏水の運河としての歴史が見直され、平成30年(2018年)に蹴上~大津を結ぶ観光船「びわ湖疏水船」が運航開始。九条山ポンプ場が乗船場です。この日も観光客が並んでいました。
2013年5月2日。蹴上船溜の大神宮橋を渡ると日向大神宮。トレイルコースを北に進んで五山送り火で知られる大文字山(456.3m)に至ります。ここの眺望はオススメなので、ぜひ歩いてみてください。
1枚目は2013年5月2日。琵琶湖疏水の開通から100年後の平成元年(1989年)に開館した琵琶湖疏水記念館。蹴上発電所で用いたペルトン水車が展示されています。疏水の高低差を利用した水圧式の噴水があり、その向こうに見えるのが京都市動物園です。
琵琶湖疏水記念館に隣り合う扇ダムの放水路。扁額には北垣国道氏が遺した「楽百年之夢」の言葉。琵琶湖疏水記念館の開館に際して、当時の京都市長であった今川正彦氏が揮毫しました。その意味は「百年の夢を楽しむ」。北垣氏の願い通り、100年後の京都は凄まじい発展を遂げました。
水路は南禅寺船溜の西で折れ曲がり、冷泉放水口で鴨川に合流。鴨川沿いに南進する鴨川運河も設けられており、東山沿いに流れて最終的に宇治川に注ぎます。宇治川は別の機会に紹介しましょう。