東方巡遊記

伏見稲荷大社探訪 V

2022-02-05 改訂
2009-05-29~2021-07-25 実施

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目次

01.「伏見稲荷大社探訪」の目次と概要

09.荷田氏の稲荷信仰と東丸神社の由緒

東丸神社/荷田春満旧宅御茶屋

荷田春満を祀る東丸神社荷田氏の祖神 竜頭太荷田氏の稲荷信仰羽倉家に受け継がれた御茶屋

荷田氏の稲荷信仰と東丸神社の由緒

東丸神社/荷田春満旧宅

外拝殿 「東丸神社」の社号標
2014年4月25日と2020年9月19日。外拝殿の南に、荷田春満をお祀りする東丸神社が鎮座します。この社号標は昭和35年(1960年)に建てられました。

荷田春満を祀る東丸神社 荷田春満旧宅
「史蹟 荷田春満舊宅」の記念碑 荷田春満旧宅の説明
2018年5月20日、2019年2月24日、2020年9月19日。東丸神社の右隣は東羽倉家の荷田春満旧宅。大正11年(1922年)に国の史跡に指定され、表門、書院、神事屋が現存します。一角にある神事屋は楼門前から見えました。(p.7を参照

荷田春満を祀る東丸神社

荷田春満は江戸時代中期に活躍した国学者の一人。中世に荷田氏の後裔を称して稲荷社の社家になった東羽倉家に生まれました。稲荷社の御殿預であった羽倉信詮の次男であり、本名は羽倉信盛。弟子の賀茂真淵、その影響を受けた本居宣長、平田篤胤と並んで国学の四大人と称されます。(社家についてはp.5を参照

東丸神社は明治23年(1890年)に稲荷神社の摂社として創建。明治の神社改革で社家が衰退する中、春満ゆかりの羽倉家の敷地半分が境内として整備されました。大正2年(1913年)には稲荷神社の羽倉信義氏が社司となって独立。伏見稲荷の中にありながら別の神社になりました。今でも社司は羽倉家の末裔が務めます。

荷田氏の祖神 竜頭太

東寺に伝わる『稲荷大明神流記』によると、奈良時代初期の和銅年間(708~715年)から100年もの間、稲荷山の麓に庵を結んで農耕を行う竜頭太という山神がおりました。平安時代初期の弘仁年間(810~824年)、稲荷山で修行していた空海の前に現れ、仏法を守護すると宣言。空海は竜頭太を敬い、その面を作り竈戸殿にお祀りしたそうな。

竜頭太とは、その名の通り竜のような頭の異相の山神。稲を荷なうことから姓は荷田氏といい、後の荷田氏の祖神に位置付けられます。同じく『稲荷大明神流記』に登場する、空海が紀州で出会った稲荷大明神の姿と似ていますね。竜頭太の面は竈戸殿にお祀りされたことから、山神、竜神であるとともに竈神の要素も持っていたと思われます。竈の火を守る竈神は田の神様でもあり、荷田氏の信仰を考察する上で重要な存在です。

謎の山神、竜頭太の伝説は秦氏の伊奈利社の創建伝承とは全く異なります。空海のエピソード(p.5を参照)自体は中世以降に普及したものですが、こういった話は突然降って湧いてくるものではありません。竜頭太は荷田氏の古い稲荷信仰に通じる伝説と考えていいでしょう。荷田氏と対立した秦氏が竜頭太の存在を認めたくなかったあたりにも、異質な信仰であることが窺えます。

荷田氏の稲荷信仰

奈良時代の『山背国風土記』の逸文(p.5を参照)に記された秦氏の「伊奈利社」は、平安時代の『類聚国史』では「稲荷社」に表記が変わりました。これは単純に地名を良い二文字で表記するよう改めたのではないという見方があります。深草に移住した秦氏が「伊奈利山」の山上で神様を奉斎する一方、竜頭太の末裔とされる荷田氏は「稲荷山」の西麓で祭祀を行ったとして、同じイナリ山でも異なるイナリ信仰があったと考えられるのです。

かつての荷田氏は稲荷山麓で竜頭太(竈神)を信仰しており、収穫した稲を荷なって神様に捧げる祭祀があった。それが空海の伝説に登場する稲を荷なった老翁(稲荷大明神)の姿に反映されたのであろう。とする説が提唱されており、荷田氏の稲荷信仰の成り立ちとしては非常に説得力があります。もちろん仮説であり、荷田氏が秦氏以前の土着の勢力であったとまで断言するのは強引すぎます。

後世に稲荷社の運営を担った社家のうち、御殿預の東羽倉家が竈家と称したのも竈神信仰の名残と思われます。毛利公治が江戸時代前期の元禄7年(1694年)に編纂した『水台記』によると、古くは神供を調する竈役であった荷田氏が、後世に勢力を増して御殿預に成り上がったと苦言を呈しています。毛利公治は秦氏系の社家。やはり荷田氏の台頭を快く思っていませんでした。

秦氏の伊奈利信仰(山上)と荷田氏の稲荷信仰(山麓)が並立した説。土着の荷田氏が渡来氏族の秦氏の支配下に入り、その信仰が伊奈利社から稲荷社に発展した説。秦氏から独立した一派が荷田氏を称して稲荷信仰を展開した説。色々な説を挙げてみても、イナリの表記が「伊奈利」から「稲荷」に変わった理由は不明です。平安時代の時点では秦氏が優勢ですから、『類聚国史』の稲荷社が荷田氏の社を指しているとは到底思えません。

謎に包まれた荷田氏の出自。実態不明とはいえ荷田氏の伝承は空海に関係があり、東寺の密教に接近することで稲荷社での影響力を増していったと考えられます。中世に荷田氏の後裔を称して台頭した羽倉氏は明らかに部外者であり、稲荷山が応仁の乱の戦場になったのは羽倉氏が秦氏を打倒するための策が原因でした。羽倉氏は室町幕府管領の細川氏を後ろ盾に増長していたのです。(応仁の乱についてはp.5を参照

応仁の乱の後、明応の稲荷山西麓への正遷宮は荷田氏が主導。三ヶ峰で祭祀を行った秦氏との確執は根深いものがありました。荷田氏が秦氏以前の土着の勢力であったとするなら、山麓の稲荷社に回帰したと見ることもできるでしょう。但し、正遷宮の主導権を握った荷田氏の役職は御殿預・目代に留まり、秦氏の神主・禰宜・祝の地位までは得られませんでした。(明応の正遷宮はp.8を参照

実際のところ、秦氏系・荷田氏系の社家が本当に古代の伊侶巨秦公や竜頭太の末裔なのかも不明です。近世に社家が書き記した系譜や由緒はどう見ても古代にルーツを求めて創作されており、社家同士で対立しながら家柄の正当性を主張していた空気を感じます。このような対立は多くの寺社で発生しましたが、後世の人から見ると不毛です。稲荷社が武力を伴う内紛の舞台にならなかったのは幸いでした。

東丸神社の境内 東丸神社の由緒
2018年5月20日。境内の様子。学問の神様、荷田東丸命として崇敬されており、合格祈願の絵馬が沢山掛けられています。「東丸神社由緒略記」には荷田春満の功績が詳しく記載。こうして偉人の存在が後世まで語り継がれるのです。

東丸神社の社殿
2019年2月24日。立派な社殿です。「いなこん」原作では、うか様が燈日くんの合格祈願のため東丸神社に参拝するシーンが有りました。春満からすれば、代々祀ってきた稲荷社の神様に神頼みされるという面白すぎる展開です。

荷田社の由緒 荷田社と春葉殿
2019年2月24日。左には荷田氏の遠祖である荷田殷、嗣、早、龍の四霊を合祀する末社の荷田社。右には春葉殿が鎮座します。案内板によると、奈良時代初期の和銅4年(711年)に稲荷大神が稲荷山三ヶ峰に顕現された際、最初に奉仕したのが雄略天皇の子である磐城皇子の裔の荷田殷でした。以来、荷田家は稲荷社正宮御殿預を奉職。高徳な龍は空海と親交があり、龍頭太と称された記されます。秦氏と異なる荷田氏の独自伝承も興味深いです。

荷田東丸大人墓道
荷田東丸大人墓道 「荷田東丸大人墓道」の記念碑
2019年2月24日と2020年9月19日。東丸神社の左手には、荷田春満の墓地に通じる路地があります。「荷田東丸大人墓道」の記念碑は明治32年(1899年)に建てられました。

荷田東丸大人墓道 荷田東丸大人墓道
2020年10月11日。東丸神社と御茶屋の間を抜ける伏見稲荷の裏口のような道です。

「左 東丸大人墓道」の案内碑 「左 東丸大人墓道」の案内碑
2020年10月11日。「左 東丸大人墓道」の案内碑。この先で「いなこん」のOPに登場する通学路に接続。1話のいなりちゃんの近道、ここを抜けるルートだったのかも。モデルになった学校はもっと南にあるけど、位置関係の相違は気にしない……

御茶屋

社家の松本家の屋敷跡 社家の松本家の屋敷跡
2018年10月14日。「荷田東丸大人墓道」の左手は社家の松本家の屋敷跡です。

松本家に移築された羽倉家の御茶屋
松本家に移築された羽倉家の御茶屋 御茶屋の案内板
2020年9月19日。松本家に移築された羽倉家の御茶屋が現存。その複雑な来歴を見ていきましょう。

羽倉家に受け継がれた御茶屋

江戸時代初期の慶長11年(1606年)、宮中の雑用を担当する非蔵人の役職が再興。稲荷社からは目代家の羽倉延次(荷田氏系)と神主家の大西親明(秦氏系)が出仕しました。羽倉延次は後陽成天皇の非蔵人と後水尾上皇の上北面を務め、寛永18年(1641年)に古御殿の茶席書院を下賜。西羽倉家の敷地(p.4で紹介した参集殿に相当)に移築されて明治時代まで使用されます。

社家が衰退しつつあった明治17年(1884年)、稲荷神社の権禰宜であった竹(羽倉)良豊氏が松本為鎮氏の屋敷(現在の御茶屋がある場所)を買い取って移り住みました。明治22年(1889年)には羽倉延次の後裔である信度氏から茶席書院を譲り受けて自らの屋敷に移築し、修理を行いました。茶席書院は禁裏→西羽倉家→松本家と所在地を変えてきたのです。

良豊氏亡き後は屋敷ごと転売。大正6年(1917年)に「松の下屋」が新築されて料亭となる予定だったのが中止に。幸いにも茶席書院には大きな手が加えられず、大正15年(1926年)、稲荷神社が全敷地を買い取って社有地に統合されました。更に昭和12年(1937年)、大正8年(1919年)に社務所に建てられた「瑞芳軒」が移築され、文化財として保存されています。

近藤芳介氏により設置された記念碑
2020年9月19日。御茶屋前には達筆すぎて読めない記念碑。明治15年(1882年)、稲荷神社の宮司であった近藤芳介氏により建立されました。

なんじゃもんじゃの木 なんじゃもんじゃの木の案内板
2020年9月19日。御茶屋前の「なんじゃもんじゃの木」。案内板が設置されているということは、伏見稲荷にとって重要な木なのでしょう。私は植物のことは全然知らないです。

神供水の井戸 神供水の井戸
2020年9月19日。ここにも「神供水」の井戸がありました。早速、裏側を確認します。

「願主 中川」「取次 毛利」と刻まれた井戸 「願主 中川」「取次 毛利」と刻まれた井戸
2020年9月19日。この井戸は江戸時代後期、安永6年(1777年)丁酉歳の7月に奉納。「願主 中川」「取次 毛利□□」と刻まれています。ポンプのようなものが取り付けられており、防火用水として現役らしい。243年後も稲荷社の役に立っているなんて、願主の中川さんは嬉しいでしょうね。

稲荷社の一大勢力だった愛染寺跡
次ページ、稲荷社にあった愛染寺跡を紹介します。

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