東方巡遊記

伏見稲荷大社探訪 V

2022-08-07 改訂
2009-05-29~2022-07-30 実施

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目次

01.「伏見稲荷大社探訪」の目次と概要

09.荷田氏の稲荷信仰と東丸神社の由緒

東丸神社/荷田春満旧宅ぬりこべ地蔵在の山御茶屋

古道復興を目指した荷田春満荷田春満が遺した著書国学の四大人東丸神社の創建荷田氏の祖神 竜頭太荷田氏の稲荷信仰稲荷社に仕えた荷田殷の子孫明治時代に引っ越してきたお地蔵様稲荷山麓に残る社家の墓地羽倉家に受け継がれた御茶屋

荷田氏の稲荷信仰と東丸神社の由緒

東丸神社/荷田春満旧宅

外拝殿
2014年4月25日。伏見稲荷大社の境内。外拝殿の南に荷田春満をお祀りする東丸神社が鎮座します。

荷田春満を祀る東丸神社 荷田春満を祀る東丸神社
2020年9月19日と2022年5月28日。東丸神社の入口。東丸は「あずままろ」と読みます。

「東丸神社」の社号標
2020年9月19日。東丸神社の社号標。昭和35年(1960年)に建立されました。

荷田春満旧宅
「史蹟 荷田春満舊宅」の記念碑 荷田春満旧宅の説明
2018年5月20日、2019年2月24日、2020年9月19日。東丸神社の右隣は東羽倉家の荷田春満旧宅。大正11年(1922年)に国の史跡に指定され、表門、書院、神事屋が現存します。一角にある神事屋は楼門前から見えました。(p.7を参照

古道復興を目指した荷田春満

荷田春満は江戸時代中期に活躍した国学者の一人です。江戸前期の寛文9年(1669年)1月3日、稲荷社の御殿預であった羽倉信詮と、細川忠興の家臣であった深尾長兵衛源盛長の娘の貝子の間に生まれました。信詮と貝子の子は12人おり、春満は次男になります。幼名は鶴丸、初名は信盛。母が「アズママロ」と呼ぶため東丸の二字を常用していたのが、後に「春満」(または東麿)と改めたと伝わります。書簡などには「羽倉斎(いつき)」の通称を用いました。

羽倉氏は中世に荷田氏の後裔を称して稲荷社の社家になった家系。春満の生家である御殿預の東羽倉家は「竈家」を称しました。荷田氏や竈家の詳細は後述するとして、そのような恵まれた環境に生まれ育った春満は、幼い頃から優れた和歌の才能を示しました。9歳のときに詠んだという「いなり山 けふは小鳥のねをたえて おとするものは谷がはのみづ」は、神域たる稲荷山の静寂さをよく表しています。(社家についてはp.5も参照

元禄10年(1697年)、春満は歌道の師として妙法院宮尭延親王に仕えることになります。しかしながら更なる修業が必要であると感じ、2年後の元禄12年(1699年)、宮家への奉仕を辞して江戸に遊学するのでした。元禄年間といえば、中世から脱却した緻密な学問が発展しつつあった時代です。江戸城内の紅葉山文庫には貴重な書物が揃い、儒学や歴史学の高名な学者が多数活動していました。江戸は京都よりも学問に適した環境だったのです。

江戸に下向した春満は、誰かに師事するわけでもなく独力で国史や古典の研究に励みました。14年後の正徳3年(1713年)、既に多くの弟子を持ち、講義を行う域に達していた春満は京都に一時帰郷。その後も何度か江戸と京都を行き来します。享保7年(1722年)には幕府の知るところとなり、遂には第8代将軍の徳川吉宗の信任を得るに至ります。このとき、春満は古典に関する様々な質問に回答したり、幕府の蔵書の真偽鑑定を行いました。その知識は独学で習得したものです。

春満が力を入れたのは、古道(儒学など外来の思想に対する日本古来の精神性)の復興でした。幕府や各藩が朱子学を重視する風潮を憂いた春満は、享保13年(1728年)、京都東山に国学校を創設するべく幕府に請願します。この際に執筆され、養子の在満を通じて幕府に提出されたという『創倭学校啓』は、儒学を厳しく批判して国学の重要性を説くものでした。『創倭学校啓』は春満の弟子達による偽作とする説、それに反論する説もありますが、春満の思想を反映していることは確実なようです。

享保15年(1730年)、春満は中風に罹り半身不随となります。将軍吉宗から秘薬を贈られて症状は回復に向かい、享保19年(1734年)に弟子の賀茂真淵が京都を訪れた際は、春満が花見の宴を催しています。しかし元文元年(1736年)に中風が再発。国学校創設による古道復興の願いが叶わないまま、同年7月2日、68歳で生涯を終えました。私諡は「厳興(いづおき)」。遺骨は稲荷山南西麓に位置する社家の墓地、在の山に埋葬されました。(春満の墓所は後で訪れます)

荷田春満が遺した著書

春満の代表的な著書は『万葉集僻案抄』です。歌集の『春葉集』もあり、『日本書紀』や『万葉集』の世界に傾倒していたと分かります。長年の研究により膨大な知識を有していたと思われますが、臨終に際しては未完の原稿を焼却処分させています。平田篤胤が『玉襷』の中で述べているように、未完の書物が世に伝われば後学を誤らせることになる、との想いで焼却させたとみられます。現存する著書は國學院大學の企画で『新編 荷田春満全集』として刊行されており、興味さえあれば閲覧可能です。

東羽倉家に生まれた春満は、稲荷社に関する書物も残しています。本記事で度々紹介している『稲荷社由緒注進状』は、春満が江戸に向かう前の元禄7年(1694年)に編纂されたもの。後述するように稲荷社の社家は秦氏系と荷田氏系が対立しており、春満は荷田氏系に属しました。『稲荷社由緒注進状』に記された由緒や系図は、明らかに秦氏への対抗意識で創作されています。羽倉家の意識を知る上では興味深い内容ですが、古代の稲荷社や荷田氏の実態とはかけ離れていることに注意が必要です。

国学の四大人

古道復興を目指しながらも、志半ばで病に倒れた荷田春満。その精神は春満の弟子達に継承されました。春満の甥で養子の荷田在満は有職故実に精通し、徳川吉宗の次男である田中宗武に賀茂真淵を紹介しています。浜松の諏訪神社の大祝であった杉浦国頭は、江戸で春満に弟子入りして『日本書紀』の講義を行った人物。春満の姪を妻とし、同じく浜松出身の賀茂真淵の師匠だったこともあります。この繋がりが、春満と真淵を巡り合わせました。

春満の最も有名な弟子が賀茂真淵です。真淵は浜松の賀茂神社の社家出身。春満が亡くなる3年前の享保18年(1733年)、京都を訪れて春満の弟子に名を連ねました。真淵が春満に師事したのはごく短い期間に過ぎませんが、古道復興の信念は受け継がれました。真淵は『日本書紀』よりも『古事記』に古道を見出し、その考えは数多くの弟子に影響を与えました。松阪の商家出身の本居宣長も弟子の一人。国学という学問は真淵と宣長の時代に大成されたのです。

国学を発展させた宣長の没後、その思想に影響を受けた平田篤胤により復古神道が成立します。ここから先の難解な話題は割愛するとして、荷田春満は平田派から国学の先駆者と位置付けられ、後世には荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤を国学の四大人と称するようになります。実は春満より少し前に古典研究を行い、『万葉代匠記』を著した僧侶の契沖こそが国学の始祖なのですが、僧侶であったためか国学の偉人には加えられませんでした。

東丸神社の創建

明治16年(1883年)、国学の先駆者とされる春満に正四位が追贈されました。稲荷神社では、宮司の近藤芳介氏と主典の桑田孝恒氏らが春満の神霊を奉斎する社を企画。明治23年(1890年)に稲荷神社の摂社として東丸神社が創建されました。明治の神社改革で秦氏系と荷田氏系の社家が衰退する中、春満ゆかりの東羽倉家の敷地半分を境内として整備。稲荷神社の記録には宮司と主典の名前しか見えませんが、禰宜の羽倉芳豊氏も関わっていたでしょう。

明治44年(1911年)、稲荷神社宮司の大貫眞浦氏が『荷田東麿翁』を執筆。国学の祖と仰がれるようになった春満の業績を紹介しています。大正2年(1913年)には、稲荷神社の羽倉信義氏を社司として東丸神社が独立。伏見稲荷の中にありながら別の神社になりました。今でも羽倉家の末裔が社司を務めているそうです。

荷田氏の祖神 竜頭太

ここで荷田氏のルーツを紹介しておきましょう。東寺に伝わる『稲荷大明神流記』によると、奈良時代初期の和銅年間(708~715年)から100年もの間、稲荷山の麓に庵を結んで農耕を行う竜頭太という山神がおりました。平安時代初期の弘仁年間(810~824年)、稲荷山で修行していた空海の前に現れ、仏法を守護すると宣言。空海は竜頭太を敬い、その面を作り竈戸殿にお祀りしたそうな。

竜頭太とは、その名の通り竜のような頭の異相の山神。稲を荷なうことから姓は荷田氏といい、後の荷田氏の祖神に位置付けられます。同じく『稲荷大明神流記』に登場する、空海が紀州で出会った稲荷大明神の姿と似ていますね。竜頭太の面は竈戸殿にお祀りされたことから、山神、竜神であるとともに竈神の要素も持っていたと思われます。竈の火を守る竈神は田の神様でもあり、荷田氏の信仰を考察する上で重要な存在です。

謎の山神、竜頭太の伝説は秦氏の伊奈利社の創建伝承とは全く異なります。空海のエピソード(p.5を参照)自体は中世以降に普及したものですが、こういった話は突然降って湧いてくるものではありません。竜頭太は荷田氏の古い稲荷信仰に通じる伝説と考えていいでしょう。近世に荷田氏系と対立した秦氏系が竜頭太の存在を認めたくなかったあたりにも、異質な信仰であることが窺えます。

荷田氏の稲荷信仰

奈良時代の『山背国風土記』の逸文(p.5を参照)に記された秦氏の「伊奈利社」は、平安時代の『類聚国史』では「稲荷社」に表記が変わりました。これは単純に地名を良い二文字で表記するよう改めたのではないという見方があります。深草に移住した秦氏が「伊奈利山」の山上で神様を奉斎する一方、竜頭太の末裔とされる荷田氏は「稲荷山」の西麓で祭祀を行ったとして、同じイナリ山でも異なるイナリ信仰があったと考えられるのです。

かつての荷田氏は稲荷山麓で竜頭太(竈神)を信仰しており、収穫した稲を荷なって神様に捧げる祭祀があった。それが空海の伝説に登場する稲を荷なった老翁(稲荷大明神)の姿に反映されたのであろう。とする説が提唱されており、荷田氏の稲荷信仰の成り立ちとしては非常に説得力があります。もちろん仮説であり、荷田氏が秦氏以前の土着の勢力であったとまで断言するのは強引すぎます。

後世に稲荷社の運営を担った社家のうち、御殿預の東羽倉家が竈家と称したのも竈神信仰の名残と思われます。毛利公治が江戸時代前期の元禄7年(1694年)に編纂した『水台記』によると、古くは神供を調する竈役であった荷田氏が、後世に勢力を増して御殿預に成り上がったと苦言を呈しています。毛利公治は秦氏系の社家。やはり荷田氏の台頭を快く思っていませんでした。

秦氏の伊奈利信仰(山上)と荷田氏の稲荷信仰(山麓)が並立した説。土着の荷田氏が渡来氏族の秦氏の支配下に入り、その信仰が伊奈利社から稲荷社に発展した説。秦氏から独立した一派が荷田氏を称して稲荷信仰を展開した説。色々な説を挙げてみても、イナリの表記が「伊奈利」から「稲荷」に変わった理由は不明です。平安時代の時点では秦氏が優勢ですから、『類聚国史』の稲荷社が荷田氏の社を指しているとは到底思えません。

謎に包まれた荷田氏の出自。実態不明とはいえ荷田氏の伝承は空海に関係があり、東寺の密教に接近することで稲荷社での影響力を増していったと考えられます。中世に荷田氏の後裔を称して台頭した羽倉氏は明らかに部外者であり、稲荷山が応仁の乱の戦場になったのは羽倉氏が秦氏を打倒するための策が原因でした。羽倉氏は室町幕府管領の細川氏を後ろ盾に増長していたのです。(応仁の乱についてはp.5を参照

応仁の乱の後、明応の稲荷山西麓への正遷宮は荷田氏が主導。三ヶ峰で祭祀を行った秦氏との確執は根深いものがありました。荷田氏が秦氏以前の土着の勢力であったとするなら、山麓の稲荷社に回帰したと見ることもできるでしょう。但し、正遷宮の主導権を握った荷田氏の役職は御殿預・目代に留まり、秦氏の神主・禰宜・祝の地位までは得られませんでした。(明応の正遷宮はp.8を参照

実際のところ、秦氏系・荷田氏系の社家は古代の伊侶巨秦公や竜頭太の末裔ではないでしょう。近世に社家が書き記した由緒や系図はどう見ても古代にルーツを求めて創作されており、社家同士で対立しながら家柄の正当性を主張していた空気を感じます。このような対立は多くの寺社で発生しましたが、後世の人から見ると不毛です。稲荷社が武力を伴う内紛の舞台にならなかったのは幸いでした。

東丸神社の境内 東丸神社の由緒
2018年5月20日。合格祈願の絵馬が沢山掛けられた境内の様子。荷田春満は学問の神様たる荷田東丸命として崇敬されており、地元の学生だけでなく修学旅行生にもオススメしたい社です。「東丸神社由緒略記」には荷田春満の功績が詳しく記載。神格化の過程で生じた脚色も含まれます。

東丸神社の社殿 東丸神社の社殿
2019年2月24日と2022年5月28日。荷田東丸命をお祀りする立派な社殿。「いなこん」原作では、うか様が燈日くんの合格祈願のため東丸神社に参拝するシーンがありました。春満からすれば、代々祀ってきた稲荷大明神に神頼みされるという面白すぎる展開です。そもそも、うか様って春満が生まれた時代を知ってるよね。

荷田社の由緒 荷田社と春葉殿
2019年2月24日。左には荷田氏の遠祖である荷田殷、嗣、早、龍の四霊を合祀する末社の荷田社。右には春葉殿が鎮座します。荷田社の由緒は荷田春満の『稲荷社由緒注進状』に基づくもの。春葉殿は春満の『春葉集』にちなんだ社名でしょう。

稲荷社に仕えた荷田殷の子孫

荷田氏系社家の伝承によると、奈良時代初期の和銅4年(711年)に稲荷大神が稲荷山三ヶ峰に顕現された際、最初に奉仕したのが雄略天皇の子である磐城皇子の後裔の荷田殷でした。荷田氏の家系図には殷→嗣→早→龍の名があり、殷以来、代々稲荷社に仕えてきたと伝わります。高徳な龍は空海と親交があり、荷田大夫または龍頭太と称されたとも記されます。上述したように、この由緒や系図は秦氏系と対立する羽倉家によって創作されました。羽倉家の帰属意識を理解する上では面白い内容です。

荷田東丸大人墓道 荷田東丸大人墓道
2019年2月24日と2022年6月4日。東丸神社左手の路地。稲荷社社家の墓地である在の山に通じます。路地の左の建物は御茶屋。後で紹介します。

荷田東丸大人墓道 「荷田東丸大人墓道」の道標
2019年2月24日と2020年9月19日。荷田春満の墓所も在の山にあります。「荷田東丸大人墓道」の道標は明治32年(1899年)に設置されました。「大人」は先生という意味です。

荷田東丸大人墓道 荷田東丸大人墓道
2020年10月11日。東丸神社と御茶屋の間を抜けて境内に入る、伏見稲荷の裏口のような道です。

「左 東丸大人墓道」の案内碑
「左 東丸大人墓道」の道標 「左 東丸大人墓道」の道標
2020年10月11日と2022年6月4日。路地の突き当りの「左 東丸大人墓道」の道標。左に進みます。

伏見稲荷の裏道 伏見稲荷の裏道
2022年6月4日。更に路地を進むと、東西に走る道に出ます。西は伏見稲荷の表参道に面した本町通(p.4を参照)。東は在の山。近世には、この裏道を通って参詣する人もいたようです。

ぬりこべ地蔵

稲荷山の在の山 石峰寺の標識
2022年6月4日。路地の先に墓地が現れました。この墓地が在の山。更に南に進むと深草墓園と石峰寺に至ります。

在の山の一角に安置されている「ぬりこべ地蔵」 在の山の一角に安置されている「ぬりこべ地蔵」
2022年6月4日。在の山の一角に安置される「ぬりこべ地蔵」。「いなこん」のOPで丹波橋くんが歩いている場所です。1話のいなりちゃんの近道は産場稲荷(p.25を参照)前からここまで伏見稲荷の境内を通り抜け、ずっと南にある中学校に向かったと思われます。

明治時代に引っ越してきたお地蔵様

「ぬりこべ地蔵」と呼ばれるお地蔵様は、元々稲荷社の西方に安置されていました。明治41年(1908年)に陸軍第16師団司令部(現在は警察学校)が設置されると立ち退きを余儀なくされ、木村藤太郎氏をはじめとする有志によって稲荷神社の南に引っ越しました。このときお地蔵様を背負った藤太郎氏の家族が、今でも「ぬりこべ地蔵」を守り続けています。

「ぬりこべ」には歯の痛みを封じ込めるという意味、または土壁で塗り込まれたお堂に由来する説があります。明治の引っ越し前から「ぬりこべ厨子」と呼ばれる民間信仰があり、当地に移ってからも、子供の頃に歯が痛くなったら頬に線香の灰を塗り込むと痛みが止むと信じられてきました。近代化の中で粗末に扱われたお地蔵様ですが、庶民には大切にされています。

深草稲荷保勝会によって建立された「ぬりこべ地蔵」の石碑 深草稲荷保勝会によって建立された「ぬりこべ地蔵」の石碑
2022年6月4日。昭和55年(1980年)、深草稲荷保勝会によって建立された「ぬりこべ地蔵」の石碑。深草稲荷保勝会は「いなこん」の制作にも協力されています。

ぬりこべ地蔵尊のご利益と由緒が記された貼り紙
2022年6月4日。ぬりこべ地蔵尊のご利益と由緒が記された貼り紙。科学技術が高度に発達した現代でも、明治以前の素朴な信仰は日本各地に残っています。

地元の人達に崇敬される「ぬりこべ地蔵」
地元の人達に崇敬される「ぬりこべ地蔵」50 地元の人達に崇敬される「ぬりこべ地蔵」
2022年6月4日。地元の人達に崇敬されるお地蔵様。新しいお花と千羽鶴が供えられ、手入れが行き届いていました。この風景を後世に伝えたいです。

在の山

稲荷山南麓に位置する社家の墓地
2022年6月4日。ぬりこべ地蔵の向かい側の在の山。稲荷山南麓に位置する社家の墓地です。カメラを持って墓地に入り込むのは気が引けるのですが、明治時代まで稲荷社を守り続けてきた社家・上人の事績を未来に伝えるため、先人達に敬意を表して紹介させていただきます。

稲荷山麓に残る社家の墓地

在の山は、中世には稲荷社の社家である大西氏に受け継がれた土地です。大西氏は秦氏系の社家ですが、後に荷田氏系の羽倉氏の墓地としても用いられました。社家に限らず稲荷社本願所の愛染寺の上人や、愛染寺から還俗した愛川家、稲荷社に仕えた神人も在の山に埋葬されています。稲荷社と同じく秦氏によって創建された松尾社の社家(松尾氏)の墓碑もあり、江戸時代末期に西羽倉家の非蔵人仲間の便宜で埋葬されたと伝わります。(社家についてはp.5、愛染寺はp.10を参照

明治元年(1868年)に神仏判然令が出されると、仏教勢力を快く思わない社家によって愛染寺は破却されました。それまで社家の葬儀を司った西光寺、神人や農家の葬儀を司った浄安寺も廃絶させられ、稲荷社南西にあった摂取院に在の山の管理が委ねられることになります。その摂取院も官設鉄道の線路・踏切設置のため移転を強いられ、現在はJR奈良線の伏見街道踏切のすぐ東に位置。そこから路地を東に進むと、東丸神社や在の山に通じます。

稲荷神社の西方に陸軍司令部が設置された際、「ぬりこべ地蔵」が引っ越してきた事情は上述しました。同じ場所にあった墓地も立ち退きを余儀なくされ、稲荷社の墓地であった在の山が庶民向けに開放。今でも摂取院によって管理されています。昭和33年(1958年)には、狭くなった在の山のすぐ南に京都市営の納骨所である深草墓園が整備。明治以降、稲荷社の内外で大きな変化が起きています。

神馬の墓碑
2022年7月30日。ぬりこべ地蔵の隣に立つ神馬の墓碑。伏見稲荷の歴史の一つです。

「神馬穂国第一世」「神馬穂国第二世」の墓碑 神馬の墓碑
神馬の墓碑 神馬の墓碑
2022年7月30日。墓碑に「神馬穂国第一世」「神馬穂国第二世」と刻まれています。碑文が薄くて読みにくいですが、昭和28年(1953年)に伏見稲荷大社の宮司であった鈴木松太郎氏によって建立されたと分かります。「穂国」と名付けられた神馬の存在は、伏見稲荷の記録には見当たりませんでした。

「前愛染寺上人天阿 不生位」と刻まれた墓碑 「前愛染寺上人天阿 不生位」と刻まれた墓碑
2022年6月4日と7月30日。在の山に入ると、「前愛染寺上人天阿 不生位」と刻まれた墓碑が目に入りました。天阿上人は稲荷社本願所の3代目住職。江戸時代初期の寛永10年(1633年)、本願所を愛染寺に改称したと伝わります。

天阿上人の墓碑 天阿上人の墓碑
2022年7月30日。この墓碑によると、天阿上人は延宝2年(1674年)の2月15日に入寂されました。文献で見つからない情報は、碑文から明らかにします。

愛川家の墓石
2022年7月30日。愛川家の墓石。愛染寺から還俗した僧侶は愛川家を称しました。明治の神仏分離の際、強制的に還俗させられた者が多かったはずです。

「秦氏 大西家墓地」の表札 「秦」「大西」と刻まれた墓石
2022年6月4日。「秦氏 大西家墓地」の表札。「秦」「大西」と刻まれた墓石が並び、近世の稲荷社の書物に登場する大西家の存在を身近に感じられます。現在の伏見稲荷大社が秦氏の存在を重視していないわけではありませんが、はっきり秦氏の名を確認できる史跡は珍しくなりました。この場所に、秦氏の後裔として稲荷社を守ってきた人々が眠っています。

秦氏系の鳥居南家の墓地
2022年6月4日。秦氏系の鳥居南家の墓地。奥に「故陸軍歩兵上等兵 勲八等 功七級 鳥居南四郎之墓」がありました。鳥居南四郎氏がどのような人物だったのか知る術はありませんが、戦争で亡くなった兵士の名は記録に残さなければなりません。

荷田氏系の西羽倉家の墓地
2022年6月4日。荷田氏系の西羽倉家の墓地。「羽倉荷田信度之墓」があります。西羽倉家は現在の駐車場(p.7を参照)の辺りに屋敷を構えましたが、明治22年(1889年)に荷田信度氏が茶席書院を譲渡した記録が残っており、この時期に衰退したと思われます。

前権預の羽倉家の墓地
2022年6月4日。前権預の羽倉家の墓地。在の山には稲荷社の歴史が集積されています。社家や愛染寺が無くなった現在、昔の形を留めているのは墓石だけかもしれません。

荷田春満の墓所 荷田春満の墓所
2022年6月4日。羽倉家の墓地の一番奥に、荷田春満の墓碑が佇んでいました。

「荷田羽倉大人之墓」と刻まれた墓碑 「荷田羽倉大人之墓」と刻まれた墓碑
2022年6月4日。「荷田羽倉大人之墓」と刻まれた墓碑。裏面に「元文元年丙辰七月二日没時年六十八 明治三年庚午三月従五位守大学大博士平朝臣鐵胤謹書 明治四年辛未二月 平田先生及門人中建之 幹事 角田忠行 池村邦則」とあり、東丸神社の創建以前から平田派に尊敬される人物であったと分かります。

「羽倉斎荷田東麿之墓 元文元年歳次 丙辰七月二日」 「寛保二年歳次壬戌七月二日建之 従四位下行摂津守荷田信名宿禰 羽倉左仲荷田信満」
2022年6月4日。隣の墓碑には「羽倉斎荷田東麿之墓 元文元年歳次 丙辰七月二日」「寛保二年歳次壬戌七月二日建之 従四位下行摂津守荷田信名宿禰 羽倉左仲荷田信満」と刻まれています。春満が亡くなったのは元文元年(1736年)のこと。この寛保2年(1742年)の墓碑が現存する最古のものです。

在の山の路地
2022年6月4日。春満の墓所から南の路地に出ました。西に下ると在の山の入口。東に上ると奥社奉拝所やお滝巡りの裏道に至ります。(p.14を参照

在の山のお地蔵様
2022年6月4日。在の山の南側に古そうなお地蔵様が並んでいました。ぬりこべ地蔵と同じく、明治時代に引っ越してきたのでしょうか。

稲荷戦歿者顕彰会によって建立された慰霊碑 稲荷戦歿者顕彰会によって建立された慰霊碑
2022年6月4日。昭和46年(1971年)、稲荷戦歿者顕彰会によって建立された慰霊碑。伏見稲荷大社宮司の守屋光春氏の謹書で「慰霊 永遠の平和を願い 戦歿者の安らかな眠りを祈ります」と刻まれています。明治から昭和にかけて引き起こされた不毛な戦争により、深草出身の106名の兵士が犠牲になりました。その事実を決して忘れてはなりません。

御茶屋

社家の松本家の屋敷跡 社家の松本家の屋敷跡
2018年10月14日。東丸神社に戻りました。路地の左側は社家の松本家の屋敷跡です。

松本家に移築された羽倉家の御茶屋
松本家に移築された羽倉家の御茶屋 御茶屋の案内板
2020年9月19日。松本家に移築された羽倉家の御茶屋が現存。その複雑な来歴を見ていきましょう。

羽倉家に受け継がれた御茶屋

江戸時代初期の慶長11年(1606年)、宮中の雑用を担当する非蔵人の役職が再興。稲荷社からは目代家の羽倉延次(荷田氏系)と神主家の大西親明(秦氏系)が出仕しました。羽倉延次は後陽成天皇の非蔵人と後水尾上皇の上北面を務め、寛永18年(1641年)に古御殿の茶席書院を下賜。西羽倉家の屋敷(p.7で紹介した参集殿に相当)に移築されて明治時代まで使用されます。

社家が衰退しつつあった明治17年(1884年)、稲荷神社の権禰宜であった竹(羽倉)良豊氏が松本為鎮氏の屋敷(現在の御茶屋がある場所)を買い取って移り住みました。明治22年(1889年)には羽倉延次の後裔である信度氏から茶席書院を譲り受けて自らの屋敷に移築し、修理を行いました。茶席書院は禁裏→西羽倉家→松本家と所在地を変えてきたのです。

良豊氏亡き後は屋敷ごと転売。大正6年(1917年)に「松の下屋」が新築されて料亭となる予定だったのが中止に。幸いにも茶席書院には大きな手が加えられず、大正15年(1926年)、稲荷神社が全敷地を買い取って社有地に統合されました。更に昭和12年(1937年)、大正8年(1919年)に社務所に建てられた「瑞芳軒」が移築され、文化財として保存されています。

近藤芳介氏により設置された記念碑
2020年9月19日。御茶屋前には達筆すぎて読めない記念碑。明治15年(1882年)、稲荷神社の宮司であった近藤芳介氏により建立されました。

なんじゃもんじゃの木 なんじゃもんじゃの木の案内板
2020年9月19日。御茶屋前の「なんじゃもんじゃの木」。案内板が設置されているということは、伏見稲荷にとって重要な木なのでしょう。私は植物のことは全然知らないです。

神供水の井戸 神供水の井戸
2020年9月19日。ここにも「神供水」の井戸がありました。早速、裏側を確認します。

「願主 中川」「取次 毛利」と刻まれた井戸 「願主 中川」「取次 毛利」と刻まれた井戸
2020年9月19日。この井戸は江戸時代後期、安永6年(1777年)丁酉歳の7月に奉納。「願主 中川」「取次 毛利□□」と刻まれています。ポンプのようなものが取り付けられており、防火用水として現役らしい。243年後も稲荷社の役に立っているなんて、願主の中川さんは嬉しいでしょうね。

稲荷社の一大勢力だった愛染寺跡
次ページ、稲荷社にあった愛染寺跡を紹介します。

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