2022-08-07 改訂
2009-05-29~2022-07-30 実施
稲荷社境内の様相|聖地とは|稲荷信仰の入口|平安時代に始まった稲荷祭|本殿前にあった中門|五柱の祭神|神様の来歴|本殿祭神の確立|「いなこん」と神話の相違|稲荷社を崇敬した藤原氏|菅原道真と稲荷社|明応8年の正遷宮|本殿内陣から発見された経筒|稲荷明神に能を奉納した世阿弥|稲荷山に参籠した金春禅竹
2018年5月20日と2022年6月4日。楼門をくぐって伏見稲荷の境内に入りました。
2019年8月4日。朝日に照らされる鮮やかな朱色の楼門。(由緒はp.7を参照)
よく見ると天皇のシンボルである菊の御紋が多用。明治時代に官幣大社として菊紋を使用した名残でしょうか。「いなこん」では楼門や拝殿が高品質な作画で丁寧に再現されており、綿密な取材に基づいているのが分かります。そういえば、うか様が暮らす稲荷山の神殿の内装は楼門の廻廊を参考にしていました。(山中の神殿そのものは実在しません)
2020年9月19日。楼門の吊灯篭。明治35年(1902年)に奉納されました。抱き稲の中に三つの宝珠を配したデザイン。どちらも伏見稲荷のシンボルです。
2019年2月24日と2020年9月19日。この吊灯篭は大正2年(1913年)に奉納。「穂栄社」とあります。中心の「宇」は宇迦之御魂大神を表しているのでしょう。
2018年5月20日と2019年2月24日。
楼門をくぐって境内に入ると、正面に外拝殿が構えます。安土桃山時代の天正17年(1589年)、秦継長が描いた『社頭図』に拝殿として確認できる建物。江戸時代後期の天保11年(1840年)に稲荷祭のため新築され、平成22年(2010年)、楼門と共に修理工事が行われました。
2014年4月25日。外拝殿の右手には荷田春満をお祀りする東丸神社が鎮座します。(荷田氏と東丸神社についてはp.9を参照)
2019年2月24日と2018年10月14日。外拝殿の奥に見えるのは内拝殿です。
2020年10月11日。外拝殿に講員大祭献品が陳列されていました。軒下には占星術で用いられる黄道十二宮をあしらった鉄製燈籠が設置。明治39年(1906年)に稲垣藤兵衛氏によって奉納された平野英青氏の作品です。
2014年4月25日。
外拝殿の左手。休憩所前に境内案内図が設置されています。稲荷山はとても広く、この案内図は西麓の熊鷹社まで描写するのが限界です。
2018年5月20日と2019年8月4日。増え続ける観光客に対応するため標識が充実しています。境内案内図と標識を見て歩けば稲荷山で迷う可能性は低いと思います。最近の人はスマートフォンでナビゲーションするんかな。
天正17年の『社頭図』から楼門・拝殿・本殿の基本構成は変わっておらず、楼門と本殿は修理を繰り返して今日に至ります。江戸時代前期、元禄7年(1694年)の大修理(p.7を参照)に際して境内社が配置換えになって定着。江戸末期の元治元年(1864年)の『花洛名勝図会』を見ると境内配置が現在と同じだと分かるでしょう。近世と近代の稲荷社の大きな違いは、愛染寺をはじめとする諸堂の有無です。(愛染寺についてはp.10を参照)
明治28年(1895年)の『京都伏見官幣大社稲荷神社之全図』の頃には愛染寺は破却されて存在しません。大正14年(1925年)に吉田初三郎氏が描いた『伏見稲荷全境内名所図絵』では、明治以降に出来上がった稲荷神社の風景が精密に再現されています。この時代から境内を撮影した白黒写真が増え始め、近代の稲荷神社の様相を知る上で貴重な資料になります。昭和のカラー写真も役に立ちますね。
もっと古い時代の写真も残っていれば…あるわけないか。フィルムカメラを持って平安時代にタイムトラベルして、都の風景をリバーサルフィルムで撮ってみたいです。それは不可能としても、こうして現代の伏見稲荷を撮り歩いて探訪記事を公開すれば、後世に何かの役に立つ場面があるはず。誰かが残さないと、歴史や風景は簡単に忘れ去られます。だから使命感を持って残すのです。
どれだけ伏見稲荷の観光地化が進んでも、ここは神様の領域です。稲荷山は稲荷大神が鎮座される本来の意味での「聖地」。アニメの舞台に使われたという意味の「聖地」を超越する神域です。決して観光客向けのエキゾチックなテーマパークなどではありません。遠い昔に神様が降臨され、現在に至るまで祭祀が続けられています。1300年以上守られてきた山背国深草の聖地なのです。
パワースポットかインスタ映えか知りませんが、やりたい放題な観光客を見ると本当に悲しくなります。稲荷詣が流行した時代と比べると、現代は神様にお参りするという意識が希薄になっていると感じます。信仰を持たない人に神道思想を強制する意図は全くありません。しかし稲荷山という神域に入る以上、信仰や歴史について少しでも理解し、古の信仰を尊重していただけたら嬉しく思うのです。
かくいう私も、最初は「幻想的な神社」ぐらいの浅はかな認識で夜の稲荷山を訪れました。その情景に魅了されて何度も訪れるうちに信仰に目覚め、「いなこん」というアニメをきっかけに、稲荷社の由緒を紹介する記事の作成に至った次第です。誰もが熱心に神様を崇敬しているわけではないし、始まりはどんな形でもいいと思います。伏見稲荷を訪れようと思い立つのは、きっと神様のお導きですから。
遠い昔、秦氏により創建され、中世に密教と共に発展し、近世には全国規模で普及した稲荷の社。本記事で長々と語っているように、稲荷信仰の原型は古くから存在しており、今時の観光地のイメージだけで片付けられるものではありません。朱塗りの鳥居や狐像といった要素を入口として、江戸時代から奈良時代まで振り返り、伊奈利山を根源とする古代の信仰を感じていただけたら嬉しいです。
注意しなければならない点として…中世以降に広まった稲荷信仰は、秦氏の氏神様だった伊奈利社から大きく変容しました。神仏習合が生まれたように、信仰は時代の流れとともに変わっていくもの。自分が考える原初の信仰とやらを絶対視するあまり、原理主義者と化して「この稲荷信仰は間違っている!」などと主張してはなりません。秦氏の伊奈利神、伏見稲荷の稲荷大神、民間信仰の独自の祭神、全てが稲荷の神様です。うか様を崇めるのも信仰の一形態だと思います。
本記事は「いなこん」の舞台探訪を標榜しつつ、伏見稲荷や稲荷信仰に興味がある方の参考に、あるいは興味を持つきっかけを提供する目的で作成しました。民俗学の要素を盛り込んで語るには勉強不足であり、内容は稲荷社の正史と文献史学の視点に偏りすぎていると自覚しております。それでも稲荷社の1300年分の歴史をカバーし、稲荷信仰の世界の導入部としては十分に機能しているはず。伏見稲荷を訪れたことがある方も、最後まで読めばきっと新しい発見があるでしょう。
2022年7月30日。休憩所です。元治元年(1864年)の『花洛名勝図会』、明治28年(1895年)の『京都伏見官幣大社稲荷神社之全図』によると、現在の休憩所の位置には絵馬堂がありました。
2020年9月19日と10月11日。休憩所前に立つ石燈
籠(常夜燈)は慶応3年(1867年)丁卯年の3月に奉納。「祈祷所大西三位」のほか世話方や発起人の名も刻まれています。主要な建物だけでなく、文献に
残りにくい要素を紹介します。(社家についてはp.5を参照)
2014年4月25日。休憩所に「いなこん」と稲荷祭のポスターが掲示。4月20日に神幸祭、5月3日には還幸祭が斎行されます。伏見稲荷は全国の稲荷神社の総本社で、稲荷信仰の中心となる聖地。五穀豊穣や商売繁盛の神様として庶民から絶大な信仰を集めています。そういう聖地に「いなこん」のポスターが並ぶのって凄いですよ。
稲荷祭とは、伏見稲荷に鎮座される稲荷大神が周辺地域を巡幸される行事。五基の神輿が神幸道を通って油小路東寺道の御旅所に渡御する神幸祭、そして表参道を通って本殿に戻る還幸祭からなり、伏見稲荷で最も重要な祭礼です。上記の地図からお分かりのように還幸祭では東寺の前を通り、僧侶の御供を受けることになっています。明治時代の神仏分離以前は、東寺の境内に神輿が入りました。
稲荷社の神輿が京の都を巡幸する稲荷祭。その明確な起源は不明です。大西親盛が江戸時代中期の享保17年(1732年)に編纂した『稲荷谷響記』では、平安時代初期の貞観年間(859~877年)に始まったとありますから、稲荷社が名神大社の地位を確立した時期から行われたのでしょう。神輿が東寺に入るのは空海が稲荷社を勧請した伝説にも関わります。(p.5を参照)
平安中期には庶民が楽しむ盛大な祭りに発展しており、貴族の日記にも熱狂的な賑わいだったと記されます。当時の神輿渡御の様子は『年中行事絵巻』に残っていて、稲荷の神徳が庶民に広まっていたことを示します。鎌倉~室町時代にかけて稲荷祭はどんどん派手になり、豪華な山鉾が並ぶ様子は祇園社の御霊会のようだったとか。応仁の乱が勃発し、応仁2年(1468年)に稲荷社は壊滅的な被害を受けますが、五基の神輿は事前に持ち出されて東寺に預けられ、焼失を免れました。ここでも稲荷社と東寺の関係が活かされたのです。
応仁の乱の後、勧進聖(僧侶)の尽力により稲荷社は着々と復興。明応8年(1499年)に五社相殿の本殿が再建されました。しかし貴重な書物は焼失、壊滅した京の都の復興は遅れ、費用がかさむ盛大な稲荷祭は長い間実施できませんでした。『稲荷祭礼図屏風』や『稲荷神社祭礼絵巻』などを見ると、江戸前期から稲荷祭が復活しつつあったようです。本格的な復活は本殿再建から275年後、江戸時代後期の安永3年(1774年)でした。天明7年(1787年)に刊行された『拾遺都名所図会』では、東寺境内に安置される五基の神輿が描かれています。
稲荷祭は明治の神仏分離を経ても存続します。神輿が東寺の境内に入る伝統は失われましたが、戦前までは江戸時代に復活した様式で実施されました。しかし戦争の余波で稲荷祭は再び途絶えてしまい、紆余曲折を経た昭和41年(1966年)、ようやく新しい様式で復活。周辺の道路事情が大きく変わってしまったこともあり、現代では装飾を施したトラックの荷台に神輿を載せて巡幸します。(油小路東寺通の御旅所はp.24で紹介)
2018年5月20日、2022年6月4日、5月28日。内拝殿前に稲荷社の由緒をまとめた案内板が新設されました。この記事を書くために信頼できる文献資料を読み込んで勉強し、案内板の内容を一つずつ解説できるぐらい詳しくなりました。何度も見直して、書き直して、明らかな事実誤認がないか確認しておりますが、誤りを発見したら知らせていただけると助かります。
安土桃山時代の天正17年(1589年)に秦継長が描いた『社頭図』、江戸時代前期の元禄4年(1691年)の『稲荷社領古図』などを見ると、本殿周辺は玉垣で囲われており、拝殿(現在の外拝殿)から本殿に至る石段には中門が設けられていました。以降の図に中門は描かれず、元禄の大修理に際して廃止されたらしい。それでも中門が存在した記憶は受け継がれ、伏見稲荷大社の中の人は内拝殿前の石段を「中門石段」と呼ぶそうです。
2014年7月12日。この写真にピンときた方は「いなこん」ファン。2014年当時、OPでお馴染みのカットを撮影している人をよく見かけました。まあ、私もそうなのですが。
2018年5月20日。内拝殿を守る神使の狐達。左の狐は稲荷を象徴する黄金の稲穂を咥え、右の狐は何も咥えず狛犬の吽形のようです。尻尾に載せた黄金の如意宝珠もかっこいい。明治時代に仏教要素は排除されてしまいましたが、密教の影響を受けて完成した白狐のイメージは残ります。稲荷祭が終わると田植のシーズン。田植祭、大祓式、本宮祭の札が掲げられています。
2020年9月19日。青銅の狐像は明治32年(1899年)に奉納されました。鋳造は平野吉兵衛氏、石工は吉村喜三郎氏。社家の秦氏や荷田氏だけでなく、現代の伏見稲荷を象徴する狐像を作った職人や発起人の名も紹介するべきでしょう。
2020年9月19日。内拝殿前の常夜燈も確認しておきます。右の常夜燈は江戸時代後期の寛政11年(1799年)未歳の4月に奉納。「稲荷講」「羽倉摂津守」と刻まれています。明応の本殿、元禄の礼拝所(内拝殿)、寛政の常夜燈、明治の狐像が織りなす風景。素晴らしいです。
2020年9月19日。左の常夜燈も寛政11年(1799年)未歳の4月に稲荷講によって奉納。「稲荷講」「森三河権守」と刻まれています。森は秦氏系、羽倉は荷田氏系の社家。江戸時代末期、元治元年(1864年)の『花洛名勝図会』には本社(本殿)前に立派な常夜燈が二基描かれており、この常夜燈に相当すると思われます。
2014年4月25日。0605、内拝殿にて参拝。この奥が本殿です。神社の参拝は鈴を鳴らして二礼二拍手一礼。上手くカランカランと鳴らすのは意外と難しい。それよりも神様を崇敬する気持ちが大切です。
最北座 | 北座 | 中央座 | 南座 | 最南座 |
下社摂社 | 中社 | 下社 | 上社 | 上社摂社 |
田中大神 | 佐田彦大神 | 宇迦之御魂大神 | 大宮能売大神 | 四大神 |
現在の伏見稲荷大社では、本殿中央の下社に主祭神の宇迦之御魂大神が鎮座。左の中社には佐田彦大神、右の上社には大宮能売大神が鎮座され、左右摂社の田中大神、四大神とともに一宇相殿にお祀りされています。お稲荷様とか正一位稲荷大明神として崇敬される稲荷大神とは、五柱の神様の総称なのです。「いなこん」でも、うか様が言及してますね。
『日本文徳天皇実録』によると平安時代初期の天安元年(857年)、稲荷神三前に正四位下の神階を授けたとあり、これが稲荷社の神様を三座とする最初の記録です。延長5年(927年)に成立した『延喜式神名帳』にも稲荷神社三座と記され、平安時代の早い段階から三柱の神様をお祀りしていました。やがて稲荷山の上社・中社・下社に参詣するお山巡りが確立します。(山中の上中下社はp.19を参照)
平安時代末期に後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』には「稲荷をば 三つの社と聞きしかど 今は五つの社なりけり」とあり、この時期に三座から五座になりました。一方で「稲荷には 禰宜も祝も神主も無きやらん 社壊れて神さびにけり」ともあり、一時的に寂れていた稲荷三社に末社を加えて中興した。と推測することもできます。
主祭神の宇迦之御魂大神は『古事記』に登場する神様。高天原を追放された須佐之男命と神大市比売の娘であります。宇迦は食物や穀物という意味ですから、穀霊の象徴たる女神様です。同じく農耕神である大年神の妹でもあり、現在では農耕に留まらず、私達の暮らしを守る神様として全国規模で崇敬されています。「いなこん」に登場するうか様は宇迦之御魂大神に相当するキャラクターです。
『日本書紀』では『古事記』の宇迦之御魂大神と異なった説が提示されており、伊奘諾尊と伊奘冉尊が空腹時に倉稲魂命を生んだと記されます。表記は違っても宇迦之御魂大神と同じ穀霊の神様という認識で問題ないらしい。他にも食物を司る豊受大神や保食神が稲荷大神と同一視されたり、中世には荼枳尼天や弁財天と習合したり…親和性が高いですね。
佐田彦大神は『古事記』と『日本書紀』における猿田彦命。天照大御神の孫である瓊々杵尊を先導した道開きの神様として知られます。田の字が入っているように農耕神の性格もあり、稲荷社の祭神になったのも納得できます。天孫降臨の際に天鈿女命と結ばれ、子孫は猿女君、稗田氏を称しました。『古事記』の編纂に携わった稗田阿礼は猿女君の末裔です。
大宮能売大神は『古語拾遺』に登場する太玉命の娘で宮殿の女神。神様に仕える巫女が神格化されて祭神になったとする説があり、稲荷社の命婦狐(p.12で説明)の成立に密接に関係すると推測されます。天鈿女命と同一視されることもあれば、別の神様とする場合も。「いなこん」ではミヤちゃんと呼ばれていて、うか様と同じく人気があります。斎部広成に見せてあげたい。
田中大神は平安時代末期に加わった神様。その出自は地主神と推測される以外よく分かっておらず、猿田彦命と同一視されたり、賀茂氏の神様である鴨建角身命とする説もありました。平安時代中期の記録によると稲荷社の北に田中明神があり、古くから山麓で崇敬されていたと確認できます。現在でも境外摂社の田中神社(p.29を参照)として鎮座。その名の通り、田の神様と思われます。
四大神も平安末期に加わった神様。葛野の秦氏が創建したと伝わる松尾社には境内末社の四大神社があり、四季を司る春若年神、夏高津日神、秋比売神、冬年神をお祀りしています。稲荷社の四大神との関係は不明で、やはり地主神と考えるのが妥当でしょう。来歴不詳の田中大神と四大神が稲荷大神として丁重にお祀りされているのは、神秘的で興味深いです。
「いなこん」のアニメに登場する稲荷大神はうか様とミヤちゃんの二柱だけ。原作では佐田彦大神、田中大神、四大神が集まる場面があります。実はアニメにもモブ要員で写ってますけどね。
秦氏が伊奈利山でお祀りした神様については不明。創建当初はただ「伊奈利山に鎮座される神様」を奉斎していたと考えるのが自然です。三座の稲荷社が確立するのは平安時代に入ってからのことで、その『延喜式神名帳』にも祭神は記されません。後世になって神話に登場する神々に当て嵌め、現在の祭神は室町時代に執筆されたという『二十二社註式』に基づきます。(伊奈利社の創建伝承はp.5を参照)
室町時代の応仁の乱直前、長禄3年(1459年)に描かれた『稲荷社指図』によると、山麓の下社(現在の本殿に相当)に四大神(毘沙門)・中御前(千手)・大タラチメ(如意輪)・大明神(十一面)・田中(不動)が鎮座。山中の中社に千手・中御前・毘沙門、上社に十禅師(地蔵)・大明神(十一面)が鎮座され、それぞれ本地仏が設定されていました。大タラチメはおそらく「大垂乳女」。如意輪観音は女性のイメージですから、稲荷社の主祭神が女神だったのは間違いありません。(上中下社の祭神はp.22を参照)
これらの社殿は応仁の乱で焼失するも、明応8年(1499年)に五社相殿の本殿が再建。『二十二社註式』によると下社に大宮女命、中社に倉稲魂命、上社に猿田彦命をお祀りすると記されます。文亀3年(1503年)の『延喜式神名帳頭註』によると主祭神は素戔嗚と大市姫の娘の倉稲魂神であり、素戔嗚、大市姫を合わせた三座の神様をお祀りするとのこと。四大神と田中大神が省略された理由は分かりません。末社的な位置付けだったのでしょうか。
分かっている事実として、倉稲魂命(宇迦之御魂大神)は室町時代に初めて言及。平安時代末期に加わった四大神と田中大神の座も揺るがない一方、他の二座の神様は明治時代になっても諸説あって確定しませんでした。応仁の乱の前後と現代の祭神(丸括弧内は本地仏)を整理すると以下の通り。田中大神と四大神の位置が入れ替わっていますね。
応仁の乱前の中社 | 応仁の乱前の上社 |
|||
千手 | 中御前 | 毘沙門 | 十禅師(地蔵) | 大明神(十一面) |
応仁の乱前の下社 |
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四大神(毘沙門) | 中御前(千手) | 大タラチメ(如意輪) | 大明神(十一面) | 田中(不動) |
応仁の乱後の本殿 |
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上社 | 中社 | 下社 | ||
猿田彦命 | 倉稲魂命 | 大宮女命 | ||
現代の本殿 |
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下社摂社 | 中社 |
下社 |
上社 |
中社摂社 |
田中大神 | 佐田彦大神 | 宇迦之御魂大神 | 大宮能売大神 | 四大神 |
「いなこん」では高天原=神々の世界という設定で、うか様の実家が存在しました。神話における高天原は、高皇産霊尊と天照大御神を中心とする天津神だけの世界です。かつて天照大御神の弟の素盞嗚尊は高天原でクレイジーすぎる乱暴狼藉を働き、地上に追放されてしまいますが、現地で八岐大蛇を退治して稲田姫命と結婚。後に、子孫の大己貴命は大国主命を名乗って葦原中国を開拓しました。「いなこん」の素盞嗚尊はそういうイメージのキャラデザですよね。
天津神は大国主命が開拓した葦原中国の統治を画策。神々を送り込んで大国主命と息子達に国譲りを要求します。大国主命には立派な宮殿(出雲大社)を与えて納得してもらい、天津神は表向きは穏便に葦原中国の支配権を手に入れたのでした。そして天照大御神の孫の瓊々杵尊一行が葦原中国に天降り(天孫降臨)、曾孫の神日本磐余彦尊が初代天皇(神武天皇)として大和朝廷を立ち上げ、日本という国が始まったことになっています。
天照大御神が高天原を治める天津神の代表格になった一方、訳アリで高天原を追放された素盞嗚尊は天津神とは見なされておらず、大国主命のご先祖様、国津神の祖として崇敬されています。宇迦之御魂大神(うか様)は素盞嗚尊と神大市比売の娘ですから、国津神という位置付け。神話の世界観に忠実なら、うか様は高天原に入ることもできないと思います。私が神話の舞台巡りに注力しているから気になっただけで、そういう厳密な設定は求めてないです。誤解なきよう。
2018年5月20日。内拝殿の奥には祭神が鎮座される本殿。地形的には稲荷山(233.8m)の西麓に位置しており、一の鳥居-楼門-外拝殿-内拝殿-本殿-奥宮が一直線に配置。かつて祭神が降臨された稲荷山の一ノ峰を遥拝する構成です。朝日を背負って美しいですね。
2018年10月14日と2022年5月28日。参拝客で賑わう時間帯。伏見稲荷は庶民の社です。
平安時代前期、天暦3年(949年)の『神祇官勘文』によると、醍醐天皇御代の延喜8年(908年)、朝廷の最高責任者であった左大臣の藤原時平により稲荷社の三箇社が修造されました。それ以前の様子は不明ですが、山上に上中下社の原型はあったのでしょう。この修造が稲荷社の社殿に関する最古の記録であり、本格的な社殿造営が行われたと考えられます。三箇社は独立しており、現在の西麓本殿のような一宇相殿ではなかったはず。それはさておき、時平が秦氏の社を修造した理由を考えてみましょう。
稲荷社の修造より遡って嘉祥年間(848~851年)、時平の父である藤原基経が深草に極楽寺(後の宝塔寺)を創建しました。仁寿1年(851年)には基経の叔父の良房が、やはり深草に貞観寺(後の墨染寺)を創建します。現在の宝塔寺は伏見稲荷のすぐ南、墨染寺はそれより南の京阪墨染駅付近に位置。平安前期の時点で、深草は摂関家ゆかりの地になっていたのです。延長2年(924年)には、時平の弟の忠平も稲荷社の北に法性寺を創建しています。(墨染寺については「墨染寺探訪」を参照)
基経と良房が深草に寺院を創建した背景を踏まえると、時平が深草の鎮守社たる稲荷社に敬意を払うのは自然な成り行きに思えます。時平の弟の忠平が記した『貞信公記』によると、延喜19年(919年)、忠平は自分の病気が稲荷社近くに極楽寺の堂宇を建立したことによる祟りと考え、稲荷社に祈願の使者を派遣しています。時平も同様の考えを持ち、稲荷社の三箇社修造に至ったのではないでしょうか。菅原道真の怨霊(後述します)を恐れて稲荷社に頼ったという見方もありますが、これは俗説の類です。
平安時代後期に成立した『大鏡』にも、藤原氏と稲荷社の興味深い逸話があります。藤原忠平の息子の実頼は、小野宮邸の南側から稲荷山の杉が見えるため、髻を露わにしないよう注意を払っていたといいます。当時の価値観として、人前で髻を見せるのは非常に失礼なこと。実頼は稲荷山の神様の前で常に冠を被るよう心がけていたのです。『大鏡』がどれほど史実を反映しているのか定かではありませんが、忠平の息子なら納得できるエピソードです。
稲荷社が国史に初登場するのは、『類聚国史』の天長4年(827年)の記事でした。稲荷山伐採の祟りで淳和天皇が病気になり、従五位下の神階を贈って怒りを鎮めた事件以来、稲荷社は平安京における地位を高めます。しかし摂関家によって社殿が造営されるほど有力な社になったのは、伐採事件ではなく深草の寺院建立が大きな要因だったでしょう。深草に拠点を置いた藤原氏の有力者は、必然的に深草に鎮座される稲荷大明神を崇敬するようになったのです。
藤原時平が稲荷社を修造する7年前の昌泰4年(901年)。右大臣であった学者出身の菅原道真が突如として大宰府に左遷されました。この出来事は、時平ら貴族連中が醍醐天皇と結託して、宇多法皇の信頼が厚い道真を追放した陰謀と推測されます。道真は粗末な東屋で都に帰る日を待ちわびて不便な暮らしを強いられ、延喜3年(903年)に死去。後に追放に関与した人物が次々に命を落とし、憤死した道真の仕業と恐れられます。
上述した天長4年の稲荷社と淳和天皇の記事は、元々『日本後紀』に書かれたもの。残念ながら大部分は応仁の乱の影響で散逸し、天長年間の記事も失われます。ありがたいことに菅原道真が従来の国史を独自に再編集した『類聚国史』に引用されており、天長4年の稲荷社の記事が原文のまま復元可能。道真の几帳面さが功を奏し、稲荷社の地位を高めた平安初期のエピソードを知ることができるのです。(伐採事件についてはp.5を参照)
さて、時平が稲荷社の三箇社を修造した延喜8年(908年)の10月。時平一派とされる藤原菅根が雷に打たれて死去する事件が起きました。翌年、権勢の絶頂期にあった時平自身も39歳という若さで病死してしまいます。疫病や旱害が続き、延喜23年(923年)には醍醐天皇の子で皇太子の保明親王が薨去。事態を重く見た天皇は道真の名誉回復や改元を行いますが、異変は収まりませんでした。つまり、道真の怨霊が意識されるのは時平の死後だったのです。
道真の憤死から27年経った延長8年(930年)、内裏の清涼殿に落雷が直撃。藤原清貫ら多数の死傷者を出す大惨事となり、現場を目撃した醍醐天皇も、体調を崩して3ヶ月後に崩御するという国家規模の非常事態に陥りました。一連の事件により、道真は恐るべき怨霊・雷神として崇敬されます。後に大宰府や北野に社殿が造営され、稲荷信仰とともに人気のある天神信仰が生まれるのでした。この話は別の機会に紹介したいと思います。
大西親業が江戸時代後期の寛政年間(1789~1801年)に編纂した『稲荷社事実考証記』によると、室町時代の永享10年(1438年)、後花園天皇の勅命を受けた足利義教が山上の上中下社を山麓に遷座したようです。この記録には裏付けがなく、本殿の起源とする確証はありません。稲荷社の歴史は応仁の乱(p.5を参照)で散逸し、不確定なことが多くて困ってしまいます。
応仁2年(1468年)、稲荷社は戦場となって壊滅。多くの記録が失われたのは残念でなりませんが、勧進聖(僧侶)の尽力により、焼失した稲荷社の復興は着々と進みました。31年後の明応8年(1499年)には五社相殿の本殿が再建され、正遷宮が斎行。明応の正遷宮の詳細を書き記した荷田氏の『明応遷宮記録』が、稲荷社造営の最古の書物として残ります。やがて江戸時代に入り、稲荷社は平和な世の中で飛躍的に発展するのです。
明応の正遷宮を主導したのは社家の荷田氏ですが、莫大な費用を調達したのは円阿弥を本願とする勧進聖でした。永正16~17年(1519~1520年)頃に本願所が設置されたらしく、安土桃山時代の文禄3年(1594年)になって正式な本願所が発足。江戸時代には愛染寺に改称し、稲荷社の一大勢力になりました。灰燼に帰した京都の稲荷社が蘇り、伏見稲荷大社が存在するのは僧侶の活躍のおかげです。(勧進聖と愛染寺についてはp.10を参照)
ここで付け加えておきたいのが祭祀の場の変遷です。神様が伊奈利山三ヶ峰の平地に顕現されたという伝説が残るように、古くは山上で秦氏の祭祀が行われたと考えられます。しかし稲荷山西麓への正遷宮は中世に荷田氏の後裔を称して台頭した羽倉氏(部外者)が主導しており、荷田氏を快く思わない秦氏系の社家は一切の記録を残していません。色々込み入った事情があるらしい。
応仁の乱以来、稲荷社は戦乱や大火に見舞われませんでした。明応8年に再建された本殿は焼失することなく、伏見稲荷最古の建築物として重要文化財に指定されています。江戸時代前期の元禄7年(1694年)から行われた大修理に際して、本殿前に唐破風を備えた礼拝所が増設。昭和36年(1961年)には拝所を分離して内拝殿に改めました。本殿・内拝殿ともに至近距離では撮影禁止となっておりますのでご注意ください。
大正元年(1912年)、宇迦之御魂大神をお祀りする本殿下社の内陣長押から経筒が発見されました。経筒とは、仏教の経典を埋納する経塚造営に用いる容器です。経塚は平安時代に末法思想の影響で始まったとされる信仰形態で、未来の弥勒の世のために経典を保存する、あるいは故人の追善供養の目的がありました。明治44年(1911年)には稲荷山中からも経筒が見つかっています。(p.20を参照)
本殿内陣から発見された経筒には「永正十七年八月 願主宝聚院祖峻」と刻まれ、内部に法華経8巻が収納されていました。明応の正遷宮から21年後、室町時代の永正17年(1520年)に制作されたことは確実ですが、宝聚院の祖峻という人物や本殿に収蔵された経緯は不明。もしかしたら稲荷山に埋納する予定だったのかもしれません。いずれにせよ、明治の廃仏毀釈の際に暴かれなかったのは幸いでした。
2022年7月30日と5月28日。本殿左手の授与所。参拝者が初穂料を納めて御札や御守りをいただくところです。江戸時代には大黒社と神楽殿がありましたが、神楽殿は後述する能楽殿として移設。大黒社は廃絶しました。
2019年8月4日と2022年5月28日。本殿の右手には神楽殿。明治15年(1882年)に能楽殿として新設された能舞台が、昭和34年(1959年)に神楽殿として改修・移設されました。一般的な神社では「巫女」と称する白衣・緋袴姿の女性は、伏見稲荷では「神楽女」といいます。
2019年8月4日。山口誓子氏による稲穂舞の句碑があります。
「早苗挿す 舞の仕草の 左手右手」
能舞台といえば世阿弥を思い浮かべます。観阿弥の息子で観世流二世の猿楽師、大和猿楽の大成者として知られる世阿弥。『風姿花伝』において猿楽師に伝わる秦河勝と猿楽のルーツ(p.5を参照)を紹介しており、自らも「左衛門大夫秦元清」を称しました。極限まで幽玄の能を追究した世阿弥は都で評判の猿楽師になり、その噂は稲荷社の稲荷明神にも知られていました。
世阿弥の息子の元能が記した『世子六十以後申楽談儀』によると、室町時代の応永19年(1412年)、稲荷社近辺、法性寺大路の橘倉の亭主が重体に陥る出来事がありました。そのとき女房に稲荷明神が憑き、観世(世阿弥)に演能させれば平癒すると神託を下します。「十番のうち三番ずつ伊勢・春日・八幡に奉納し、一番は我が見よう」と稲荷明神。神託に従い、世阿弥は稲荷社にて能を奉納しました。うか様は世阿弥ファンだったのね。
第3代将軍の足利義満に寵愛されて活躍した世阿弥ですが、義持から義教の時代になると甥の音阿弥が贔屓され、世阿弥は活動の場を奪われるなど陰険な迫害を受けることになります。永享6年(1434年)には義教から何らかの罪を着せられて佐渡国に配流。永享8年(1436年)に現地で『金島書』を書き終えるも、以降の消息は不明です。義教が暗殺された後、赦免され帰国したとする伝説もあります。
それから167年後、江戸時代初期の慶長8年(1603年)。大久保長安なる人物が徳川家康から佐渡奉行に任命され、発見されたばかりの佐渡金山の開発を主導しました。長安は大和猿楽の金春流の家に生まれ、世阿弥と関係の深い金春禅竹(後述します)の曾孫にあたります。猿楽師の家系から家康の家臣に成り上がった異常さばかり目立ちますが、例によって秦氏に関係する人物でした。
長安が金山を視察する際には猿楽衆を伴って来島。これがきっかけになり、遠い佐渡国に演能の文化が定着しました。禅竹の曾孫ですから、間違いなく佐渡に流された世阿弥のことを意識していたでしょう。長安の手腕により、現在でも佐渡は能楽と金山の島として有名です。尚、金山の開発に伴って団三郎狸なる妖怪狸の伝説が生まれ、「東方神霊廟」の二ッ岩マミゾウの元ネタになっています。
「東方心綺楼」に登場する秦こころは様々な面を使い分け、稲荷名物の狐面も用います。『風姿花伝』に記された秦河勝の申楽、『申楽談儀』の世阿弥の演能…秦氏と稲荷社の歴史的背景を学ぶと、秦河勝の面が妖怪化したという秦こころの設定に、世阿弥が密接に絡んでいると分かります。東方と伏見稲荷を繋げるなら、秦河勝・世阿弥・金春禅竹・大久保長安は知っておきたいです。
室町時代の猿楽の話題なら金春禅竹も紹介するべきでしょう。禅竹は金春流を中興した高名な猿楽師。世阿弥の娘の婿でもあります。世阿弥の精神を受け継いで幽玄の世界に傾倒した禅竹は、やはり秦氏の末裔の意識を持っていました。佐渡に配流された世阿弥とは師弟を超える親密な関係だったようで、世阿弥から禅竹に宛てた書状が残ります。
禅竹は晩年の応仁元年(1467年、つまり稲荷社壊滅の前年)に妻(世阿弥の娘)と共に稲荷社の文殊堂(p.11を参照)に参籠しました。禅竹が稲荷山に籠もったのは、極めて信心深い人物であっただけでなく、猿楽の祖である秦氏との繋がりを感じたかったからではないでしょうか。このとき書き記された『稲荷山参籠記』は、中世の稲荷山の様相を伝える貴重な史料になります。
「いなこん」の小ネタとして書いておくと、アニメの脚本には金春家の末裔である金春智子氏が参加されています。偶然の巡り合わせではあるのですが、秦氏が創建した稲荷社が舞台の作品に、稲荷山に参籠した猿楽師の末裔が関わっているのは面白いです。どこまでも秦氏の影響が及んでる……
2022年5月28日。神楽殿脇に佇む常夜燈。根拠不明ながら鎌倉時代の作とする情報があります。刻銘は風化しており、何の手がかりも得られませんでした。
2019年8月4日。神供水の井戸と神饌所。右に写っているのが本殿です。本殿は五間社流造で檜皮葺の流れるような長い屋根が特徴。至近距離では撮影禁止だから遠巻きに撮りました。
2020年9月19日。「神供水」の井戸は江戸時代末期、嘉永4年(1851年)辛亥歳正月の奉納です。
2019年8月4日。本殿の裏手に佇む神輿庫。稲荷祭で稲荷大神が乗る五基の神輿が安置されています。現在の神輿庫は昭和27年(1952年)に新築されました。(油小路東寺通の御旅所はp.24で紹介)
2019年2月24日。本殿の背後にある拝所。位置関係的に稲荷山の遥拝所だと思います。沢山の絵馬が掛けられていました。
2020年9月19日。令和2年3月、拝所の右手にエレベーターが新設されました。楼門・休憩所脇のスロープ、本殿後背のエレベーターで境内のバリアフリー化が進み、車椅子の方でも千本鳥居までアクセスできるように。宮司さんいわく、全ての参拝者を受け入れられる社でなくてはならないと考え、エレベーターの新設に至ったとのこと。流石庶民の社です。
2019年8月4日。本殿の左手に五間社流造の権殿が鎮座します。
2019年2月24日と2018年10月14日。権殿は明応の正遷宮の頃には建てられていたようで、本社造営の際の遷殿となる仮殿、若宮とも称されました。現在の社殿は江戸時代初期の寛永12年(1635年)に再建。昭和34年(1959年)には本殿より少し北東に移設されています。
2022年5月28日。権殿脇に新設された絵馬掛け。絵馬の代わりに、願いが通る「願掛け鳥居」を奉納します。伏見稲荷らしいですね。