東方巡遊記

伏見稲荷大社探訪 V

2022-02-05 改訂
2009-05-29~2021-07-25 実施

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目次

01.「伏見稲荷大社探訪」の目次と概要

08.稲荷大神をお祀りする室町期の本殿

外拝殿内拝殿神楽殿神輿庫権殿

稲荷社境内の様相聖地とは平安時代に始まった稲荷祭本殿前にあった中門五柱の祭神神様の来歴本殿祭神の確立「いなこん」と神話の相違藤原時平・菅原道真と稲荷社明応8年の正遷宮稲荷明神に能を奉納した世阿弥稲荷山に参籠した金春禅竹

稲荷大神をお祀りする室町期の本殿

外拝殿

外拝殿 外拝殿の屋根
外拝殿
外拝殿
2018年5月20日、2019年2月24日、2014年4月25日。 楼門をくぐって境内に入ると、正面に外拝殿。右手には荷田春満をお祀りする東丸神社が鎮座します。(荷田氏と東丸神社についてはp.9を参照

外拝殿の説明 外拝殿から内拝殿
2019年2月24日。外拝殿。安土桃山時代の天正17年(1589年)、秦継長が描いた『社頭図』に拝殿として確認できます。江戸時代後期の天保11年(1840年)に稲荷祭のため新築。平成22年(2010年)、楼門と共に修理工事が行われました。外拝殿の奥に見えるのは内拝殿です。

外拝殿に陳列される講員大祭献品 占星術で用いられる黄道十二宮をあしらった鉄製燈籠
外拝殿に陳列される講員大祭献品 外拝殿に陳列される講員大祭献品
2020年10月11日。外拝殿に講員大祭献品が陳列されていました。軒下には占星術で用いられる黄道十二宮をあしらった鉄製燈籠が設置。明治39年(1906年)に稲垣藤兵衛氏によって奉納された平野英青氏の作品です。

楼門の屋根 朝日に照らされる楼門 朝日に照らされる楼門
2019年8月5日と2018年5月20日。朝日に照らされる鮮やかな朱色の楼門。(由緒はp.7を参照

よく見ると天皇のシンボルである菊の御紋が多用。明治時代に官幣大社として菊紋を使用した名残でしょうか。「いなこん」では楼門や拝殿が高品質な作画で丁寧に再現されており、綿密な取材に基づいているのが分かります。そういえば、うか様が暮らす稲荷山の神殿の内装は楼門の廻廊を参考にしていました。(山中の神殿そのものは実在しません)

楼門の吊灯篭 楼門の吊灯篭
2020年9月19日。楼門の吊灯篭。明治35年(1902年)に奉納されました。抱き稲の中に三つの宝珠を配したデザイン。どちらも伏見稲荷のシンボルです。

「穂栄社」の吊灯篭 「穂栄社」の吊灯篭 「穂栄社」の吊灯篭
2019年2月24日と2020年9月19日。こちらの吊灯篭は大正2年(1913年)に奉納。「穂栄社」とあります。中心の「宇」は宇迦之御魂大神を表しているのでしょう。

稲荷社境内の様相

天正17年の『社頭図』から楼門・拝殿・本殿の基本構成は変わっておらず、楼門と本殿は修理を繰り返して今日に至ります。江戸時代前期、元禄7年(1694年)の大修理(p.7を参照)に際して境内社が配置換えになって定着。江戸末期の元治元年(1864年)の『花洛名勝図会』を見ると境内配置が現在と同じだと分かるでしょう。近世と近代の稲荷社の大きな違いは愛染寺をはじめとする諸堂の有無です。(愛染寺についてはp.10を参照

明治28年(1895年)の『京都伏見官幣大社稲荷神社之全図』の頃には愛染寺は破却されて存在しません。大正14年(1925年)に吉田初三郎氏が描いた『伏見稲荷全境内名所図絵』では、明治以降に出来上がった稲荷神社の風景が精密に再現されています。この時代から境内を撮影した白黒写真が増え始め、近代の稲荷神社の様相を知る上で貴重な資料になります。昭和のカラー写真も役に立ちますね。

もっと古い時代の写真も残っていれば…あるわけないか。フィルムカメラを持って平安時代にタイムトラベルして、都の風景をリバーサルフィルムで撮ってみたいです。それは不可能としても、こうして現代の伏見稲荷を撮り歩いて探訪記事を公開すれば、後世に何かの役に立つ場面があるはず。誰かが残さないと歴史や風景は忘れ去られます。だから使命感を持って残すのです。

伏見稲荷大社境内案内図 外拝殿から内拝殿
2014年4月25日。 外拝殿から内拝殿へ。休憩所前に境内案内図が設置されています。稲荷山はとても広く、この案内図は西麓の熊鷹社まで描写するのが限界です。休憩所付近にも24時間使えるトイレがあるよ。

伏見稲荷大社境内案内図 常夜燈と境内の標識
2018年5月20日と2019年8月5日。増え続ける観光客に対応するため標識が充実しています。境内案内図と標識を見て歩けば稲荷山で迷う可能性は低いと思います。最近の人はスマートフォンでナビゲーションするんかな。

「祈祷所 大西三位」と刻まれた常夜燈
「祈祷所 大西三位」と刻まれた常夜燈 「祈祷所 大西三位」と刻まれた常夜燈
2020年9月19日と10月11日。境内案内図の隣に立つ石燈籠(常夜燈)は、江戸時代末期の慶応3年(1867年)丁卯年の3月に奉納。「祈祷所大西三位」(秦氏系の社家)のほか世話方や発起人の名も刻まれています。社殿だけでなく、こういった文化財を後世に残していきたいものです。(社家についてはp.5を参照

聖地とは

どれだけ伏見稲荷の観光地化が進んでも、ここは神様の領域です。稲荷山は稲荷大神が鎮座される本来の意味での「聖地」。アニメの舞台に使われたという意味の「聖地」を超越する神域です。決して観光客向けのエキゾチックなテーマパークなどではありません。遠い昔に神様が降臨され、現在に至るまで祭祀が続けられています。1300年以上守られてきた山背国深草の聖地なのです。

パワースポットかインスタ映えか知りませんが、やりたい放題な観光客を見ると本当に悲しくなります。稲荷詣が流行した時代と比べると、現代は神様にお参りするという意識が希薄になっていると感じます。信仰を持たない人に神道思想を強制する意図は全くありません。しかし稲荷山という神域に入る以上、信仰や歴史について少しでも理解し、古の信仰を尊重していただけたら嬉しく思うのです。

かくいう私も、最初は「幻想的な神社」ぐらいの浅はかな認識で夜の稲荷山を訪れました。その情景に魅了されて何度も訪れるうちに信仰に目覚め、「いなこん」というアニメをきっかけに、稲荷社の由緒を紹介する記事の作成に至った次第です。誰もが熱心に神様を崇敬しているわけではないし、始まりはどんな形でもいいと思います。伏見稲荷を訪れようと思い立つのは、きっと神様のお導きですから。

「いなり、こんこん、恋いろは。」のポスター 稲荷祭のポスター
休憩所には「いなこん」と稲荷祭のポスターが掲示。4月20日に神幸祭、5月3日には還幸祭が斎行されます。伏見稲荷は全国の稲荷神社の総本社で、稲荷信仰の中心となる聖地。五穀豊穣や商売繁盛の神様として庶民から絶大な信仰を集めています。そういう聖地に「いなこん」のポスターが並ぶのって凄いですよ。

平安時代に始まった稲荷祭

稲荷祭とは稲荷大神が周辺地域を巡幸される行事。五基の神輿が油小路東寺道の御旅所に渡御する神幸祭、そして本殿に戻る還幸祭からなり、伏見稲荷で最も重要な祭礼です。上記の地図からお分かりのように還幸祭では東寺の前を通り、僧侶の御供を受けることになっています。明治時代の神仏分離以前は東寺の境内に神輿が入りました。

都の中心部を稲荷社の神輿が巡幸する稲荷祭。その明確な起源は不明です。大西親盛が江戸時代中期の享保17年(1732年)に編纂した『稲荷谷響記』では、平安時代初期の貞観年間(859~877年)に始まったとありますから、稲荷社が名神大社の地位を確立した時期から行われたのでしょう。神輿が東寺に入るのは空海が稲荷社を勧請した伝説にも関わります。(p.5を参照

平安中期には庶民が楽しむ盛大な祭りに発展しており、貴族の日記にも熱狂的な賑わいだったと記されます。当時の神輿渡御の様子は『年中行事絵巻』に残っていて、稲荷の神徳が庶民に広まっていたことを示します。鎌倉~室町時代にかけて稲荷祭はどんどん派手になり、豪華な山鉾が並ぶ様子は祇園社の御霊会のようだったとか。応仁の乱が勃発し、応仁2年(1468年)に稲荷社は壊滅的な被害を受けますが、五基の神輿は事前に持ち出されて東寺に預けられ、焼失を免れました。ここでも稲荷社と東寺の関係が活かされたのです。

応仁の乱の後、勧進聖(僧侶)の尽力により稲荷社は着々と復興。明応8年(1499年)に五社相殿の本殿が再建されました。しかし貴重な書物は焼失、壊滅した京の都の復興は遅れ、費用がかさむ盛大な稲荷祭は長い間実施できませんでした。『稲荷祭礼図屏風』や『稲荷神社祭礼絵巻』などを見ると、江戸前期から稲荷祭が復活しつつあったようです。本格的なな復活は本殿再建から275年後、江戸時代後期の安永3年(1774年)でした。天明7年(1787年)に刊行された『拾遺都名所図会』では、東寺境内に安置される五基の神輿が描かれています。

伏見稲荷大社探訪 V|稲荷祭で神輿が渡御する御旅所
稲荷祭は明治の神仏分離を経ても存続。神輿が東寺の境内に入る伝統は失われましたが、戦前までは江戸時代に復活した様式で実施されました。しかし戦争の余波で稲荷祭は再び途絶えてしまい、昭和41年(1966年)、ようやく新しい様式で復活。周辺の道路事情が大きく変わってしまったこともあり、現代では装飾を施したトラックの荷台に神輿を載せて巡幸します。(油小路東寺通の御旅所はp.24で紹介

内拝殿

昼間の内拝殿 昼間の内拝殿
2014年4月7日。外拝殿から石段を登って内拝殿へ。

外拝殿から内拝殿 伏見稲荷大社の由緒
2018年5月20日。内拝殿前に稲荷社の由緒をまとめた案内板が新設されました。この記事を書くために信頼できる文献資料を読み込んで勉強し、案内板の内容を一つずつ解説できるぐらい詳しくなりました。何度も見直して、書き直して、明らかな事実誤認がないか確認しておりますが、誤りを発見したら知らせていただけると助かります。

本殿前にあった中門

安土桃山時代の天正17年(1589年)に秦継長が描いた『社頭図』、江戸時代前期の元禄4年(1691年)の『稲荷社領古図』などを見ると、本殿周辺は玉垣で囲われており、拝殿(現在の外拝殿)から本殿に至る石段には中門が設けられていました。以降の図に中門は描かれず、元禄の大修理に際して廃止されたらしい。それでも中門が存在した記憶は受け継がれ、伏見稲荷大社の中の人は内拝殿前の石段を「中門石段」と呼ぶそうです。

本殿を守る神使の狐 本殿を守る神使の狐
2018年5月20日。内拝殿を守る神使の狐達。左の狐は稲荷を象徴する黄金の稲穂を咥え、右の狐は何も咥えず狛犬の吽形のようです。尻尾に載せた黄金の如意宝珠もかっこいい。明治時代に仏教要素は排除されてしまいましたが、密教の影響を受けて完成した白狐のイメージは残ります。稲荷祭が終わると田植のシーズン。田植祭、大祓式、本宮祭の札が掲げられています。

黄金の稲穂を咥えた神使の狐
2014年7月12日。この写真にピンときた方は「いなこん」ファン。OPでお馴染みのカットを撮影している人を見かけました。まあ、私もそうなのですが。

青銅の狐像 青銅の狐像を作った職人
2020年9月19日。青銅の狐像は明治32年(1899年)に奉納されました。鋳造は平野吉兵衛氏、石工は吉村喜三郎氏。秦氏や荷田氏だけでなく、現代の伏見稲荷を象徴する狐像を作った職人や発起人の名も紹介するべきでしょう。

「稲荷講」「羽倉摂津守」と刻まれた常夜燈 「稲荷講」「羽倉摂津守」と刻まれた常夜燈
2020年9月19日。内拝殿前の常夜燈も確認しておきます。右の常夜燈は江戸時代後期の寛政11年(1799年)未歳の4月に奉納。「稲荷講」「羽倉摂津守」と刻まれています。明応の本殿、元禄の礼拝所(内拝殿)、寛政の常夜燈、明治の狐像が織りなす風景。素晴らしいです。

「稲荷講」「森三河権守」と刻まれた常夜燈 「稲荷講」「森三河権守」と刻まれた常夜燈
2020年9月19日。左の常夜燈も寛政11年(1799年)未歳の4月に稲荷講によって奉納。「稲荷講」「森三河権守」と刻まれています。森は秦氏系、羽倉は荷田氏系の社家。江戸時代末期、元治元年(1864年)の『花洛名勝図会』には本社(本殿)前に立派な常夜燈が二基描かれており、この常夜燈に相当すると思われます。

早朝の内拝殿 早朝の内拝殿
0605、内拝殿にて参拝。この奥が本殿です。神社の参拝は鈴を鳴らして二礼二拍手一礼。上手くカランカランと鳴らすのは意外と難しい。それよりも神様を崇敬する気持ちが大切です。

五柱の祭神

最北座 北座 中央座 南座 最南座
下社摂社 中社 下社 上社 上社摂社
田中大神 佐田彦大神 宇迦之御魂大神 大宮能売大神 四大神

現在の伏見稲荷大社では、本殿中央の下社に主祭神の宇迦之御魂大神が鎮座。左の中社には佐田彦大神、右の上社には大宮能売大神が鎮座され、左右摂社の田中大神、四大神とともに一宇相殿にお祀りされています。お稲荷様とか正一位稲荷大明神として崇敬される稲荷大神とは、五柱の神様の総称なのです。「いなこん」でも、うか様が言及してますね。

『日本文徳天皇実録』によると平安時代初期の天安元年(857年)、稲荷神三前に正四位下の神階を授けたとあり、これが稲荷社の神様を三座とする最初の記録です。延長5年(927年)に成立した『延喜式神名帳』にも稲荷神社三座と記され、平安時代の早い段階から三柱の神様をお祀りしていました。やがて稲荷山の上社・中社・下社に参詣するお山巡りが確立します。(山中の上中下社はp.19を参照

平安時代末期に後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』には「稲荷をば 三つの社と聞きしかど 今は五つの社なりけり」とあり、この時期に三座から五座になりました。一方で「稲荷には 禰宜も祝も神主も無きやらん 社壊れて神さびにけり」ともあり、一時的に寂れていた稲荷三社に末社を加えて中興した。と推測することもできます。

神様の来歴

主祭神の宇迦之御魂大神は『古事記』に登場する神様。高天原を追放された須佐之男命と神大市比売の娘であります。宇迦は食物や穀物という意味ですから、穀霊の象徴たる女神様です。同じく農耕神である大年神の妹でもあり、現在では農耕に留まらず、私達の暮らしを守る神様として全国規模で崇敬されています。「いなこん」に登場するうか様は宇迦之御魂大神に相当するキャラクターです。

『日本書紀』では『古事記』の宇迦之御魂大神と異なった説が提示されており、伊奘諾尊と伊奘冉尊が空腹時に倉稲魂命を生んだと記されます。表記は違っても宇迦之御魂大神と同じ穀霊の神様という認識で問題ないらしい。他にも食物を司る豊受大神や保食神が稲荷大神と同一視されたり、中世には荼枳尼天や弁財天と習合したり…親和性が高いですね。

佐田彦大神は『古事記』と『日本書紀』における猿田彦命。天照大御神の孫である瓊々杵尊を先導した道開きの神様として知られます。田の字が入っているように農耕神の性格もあり、稲荷社の祭神になったのも納得できます。天孫降臨の際に天鈿女命と結ばれ、子孫は猿女君、稗田氏を称しました。『古事記』の編纂に携わった稗田阿礼は猿女君の末裔です。

大宮能売大神は『古語拾遺』に登場する太玉命の娘で宮殿の女神。神様に仕える巫女が神格化されて祭神になったとする説があり、稲荷社の命婦狐(p.12で説明)の成立に密接に関係すると推測されます。天鈿女命と同一視されることもあれば、別の神様とする場合も。「いなこん」ではミヤちゃんと呼ばれていて、うか様と同じく人気があります。斎部広成に見せてあげたい。

田中大神は平安時代末期に加わった神様。その出自は地主神と推測される以外よく分かっておらず、猿田彦命と同一視されたり、賀茂氏の神様である鴨建角身命とする説もありました。平安時代中期の記録によると稲荷社の北に田中明神があり、古くから山麓で崇敬されていたと確認できます。現在でも境外摂社の田中神社(p.28を参照)として鎮座。その名の通り、田の神様と思われます。

四大神も平安末期に加わった神様。葛野の秦氏が創建したと伝わる松尾社には境内末社の四大神社があり、四季を司る春若年神、夏高津日神、秋比売神、冬年神をお祀りしています。稲荷社の四大神との関係は不明で、やはり地主神と考えるのが妥当でしょう。来歴不詳の田中大神と四大神が稲荷大神として丁重にお祀りされているのは、神秘的で興味深いです。

「いなこん」のアニメに登場する稲荷大神はうか様とミヤちゃんの二柱だけ。原作では佐田彦大神、田中大神、四大神が集まる場面があります。実はアニメにもモブ要員で写ってますけどね。

本殿祭神の確立

秦氏が伊奈利山でお祀りした神様については不明。創建当初はただ「伊奈利山に鎮座される神様」を奉斎していたと考えるのが自然です。三座の稲荷社が確立するのは平安時代に入ってからのことで、その『延喜式神名帳』にも祭神は記されません。後世になって神話に登場する神々に当て嵌め、現在の祭神は室町時代に執筆されたという『二十二社註式』に基づきます。(伊奈利社の創建伝承はp.5を参照

室町時代の応仁の乱直前、長禄3年(1459年)に描かれた『稲荷社指図』によると、山麓の下社(現在の本殿に相当)に四大神(毘沙門)・中御前(千手)・大タラチメ(如意輪)・大明神(十一面)・田中(不動)が鎮座。山中の中社に千手・中御前・毘沙門、上社に十禅師(地蔵)・大明神(十一面)が鎮座され、それぞれ本地仏が設定されていました。大タラチメはおそらく「大垂乳女」。如意輪観音は女性のイメージですから、稲荷社の主祭神が女神だったのは間違いありません。(上中下社の祭神はp.22を参照

これらの社殿は応仁の乱で焼失するも、明応8年(1499年)に五社相殿の本殿が再建。『二十二社註式』によると下社に大宮女命、中社に倉稲魂命、上社に猿田彦命をお祀りすると記されます。文亀3年(1503年)の『延喜式神名帳頭註』によると主祭神は素戔嗚と大市姫の娘の倉稲魂神であり、素戔嗚、大市姫を合わせた三座の神様をお祀りするとのこと。四大神と田中大神が省略された理由は分かりません。末社的な位置付けだったのでしょうか。

分かっている事実として、倉稲魂命(宇迦之御魂大神)は室町時代に初めて言及。平安時代末期に加わった四大神と田中大神の座も揺るがない一方、他の二座の神様は明治時代になっても諸説あって確定しませんでした。応仁の乱の前後と現代の祭神(丸括弧内は本地仏)を整理すると以下の通り。田中大神と四大神の位置が入れ替わっていますね。

応仁の乱前の中社 応仁の乱前の上社
千手 中御前 毘沙門 十禅師(地蔵) 大明神(十一面)
応仁の乱前の下社
四大神(毘沙門) 中御前(千手) 大タラチメ(如意輪) 大明神(十一面) 田中(不動)
応仁の乱後の本殿

上社 中社 下社

猿田彦命 倉稲魂命 大宮女命
現代の本殿
下社摂社 中社
下社
上社
中社摂社
田中大神 佐田彦大神 宇迦之御魂大神 大宮能売大神 四大神

「いなこん」と神話の相違

「いなこん」では高天原=神々の世界という設定で、うか様の実家が存在しました。神話における高天原は、高皇産霊尊と天照大御神を中心とする天津神だけの世界です。かつて天照大御神の弟の素盞嗚尊は高天原でクレイジーすぎる乱暴狼藉を働き、地上に追放されてしまいますが、現地で八岐大蛇を退治して稲田姫命と結婚。後に、子孫の大己貴命は大国主命を名乗って葦原中国を開拓しました。「いなこん」の素盞嗚尊はそういうイメージのキャラデザですよね。

天津神は大国主命が開拓した葦原中国の統治を画策。神々を送り込んで大国主命と息子達に国譲りを要求します。大国主命には立派な宮殿(出雲大社)を与えて納得してもらい、天津神は表向きは穏便に葦原中国の支配権を手に入れたのでした。そして天照大御神の孫の瓊々杵尊一行が葦原中国に天降り(天孫降臨)、曾孫の神日本磐余彦尊が初代天皇(神武天皇)として大和朝廷を立ち上げ、日本という国が始まったことになっています。

天照大御神が高天原を治める天津神の代表格になった一方、訳アリで高天原を追放された素盞嗚尊は天津神とは見なされておらず、大国主命のご先祖様、国津神の祖として崇敬されています。宇迦之御魂大神(うか様)は素盞嗚尊と神大市比売の娘ですから、国津神という位置付け。神話の世界観に忠実なら、うか様は高天原に入ることもできないと思います。私が神話の舞台巡りに注力しているから気になっただけで、そういう厳密な設定は求めてないです。誤解なきよう。

早朝の内拝殿 早朝の内拝殿
2018年5月20日。内拝殿の奥には祭神が鎮座される本殿。地形的には稲荷山(233.8m)の西麓に位置しており、一の鳥居-楼門-外拝殿-内拝殿-本殿-奥宮が一直線に配置。かつて祭神が降臨された稲荷山の一ノ峰を遥拝する構成です。朝日を背負って美しいですね。

藤原時平・菅原道真と稲荷社

平安時代前期、天暦3年(949年)の『神祇官勘文』によると、醍醐天皇御代の延喜8年(908年)、朝廷の最高責任者であった左大臣の藤原時平により三箇社が修造されました。それ以前の様子は不明ですが、山上に上中下社の原型はあったのでしょう。この修造が稲荷社の社殿に関する最古の記録であり、本格的な社殿造営が行われたと考えられます。三箇社は独立しており、現在の西麓本殿のような一宇相殿ではなかったはず。

稲荷社の修造より7年前の昌泰4年(901年)、右大臣であった学者出身の菅原道真が突如として大宰府に左遷されました。この出来事は、時平ら貴族連中が醍醐天皇と結託して、宇多法皇の信頼が厚い道真を追放した陰謀と推測されます。道真は粗末な東屋で都に帰る日を待ちわびて不便な暮らしを強いられ、延喜3年(903年)に死去。後に追放に関与した人物が次々に命を落とし、憤死した道真の仕業と恐れられます。

時平の稲荷社修造について、道真を恐れて稲荷の神様に頼ったという見方があります。しかし延喜8年の時点でそのような風潮はなく、動機とするのはこじつけに過ぎません。平安時代初期の天長4年(827年)、稲荷山伐採の祟りで淳和天皇が病気になり、従五位下の神階を贈って怒りを鎮めた一件から80年後の三箇社修造。藤原氏によって社殿が造営されるほど地位を高めたのは、やはり伐採事件の影響が大きいと思います。(伐採についてはp.5を参照

天長4年の稲荷社と淳和天皇の記事は、元々『日本後紀』に書かれたもの。残念ながら大部分は応仁の乱の影響で散逸し、天長年間の記事も失われます。ありがたいことに菅原道真が従来の国史を独自に再編集した『類聚国史』に引用されており、天長4年の稲荷社の記事が原文のまま復元可能。道真の几帳面さが功を奏し、稲荷社の地位を高めた平安初期のエピソードを知ることができるのです。

さて、時平が稲荷社の三箇社を修造した延喜8年(908年)の10月。時平一派とされる藤原菅根が雷に打たれて死去する事件が起きました。翌年、権勢の絶頂期にあった時平自身も39歳という若さで病死してしまいます。疫病や旱害が続き、延喜23年(923年)には醍醐天皇の子で皇太子の保明親王が薨去。事態を重く見た天皇は道真の名誉回復や改元を行いますが、異変は収まりませんでした。

道真の憤死から27年経った延長8年(930年)、内裏の清涼殿に落雷が直撃。藤原清貫ら多数の死傷者を出す大惨事となり、現場を目撃した醍醐天皇も、体調を崩して3ヶ月後に崩御するという国家規模の非常事態に陥りました。一連の事件により、道真は恐るべき怨霊・雷神として崇敬されます。後に大宰府や北野に社殿が造営され、稲荷信仰とともに人気のある天神信仰が生まれるのでした。

明応8年の正遷宮

大西親業が江戸時代後期の寛政年間(1789~1801年)に編纂した『稲荷社事実考証記』によると、室町時代の永享10年(1438年)、後花園天皇の勅命を受けた足利義教が山上の上中下社を山麓に遷座したようです。この記録には裏付けがなく、本殿の起源とする確証はありません。稲荷社の歴史は応仁の乱(p.5を参照)で散逸し、不確定なことが多くて困ってしまいます。

応仁2年(1468年)、稲荷社は戦場となって壊滅。多くの記録が失われたのは残念でなりませんが、勧進聖(僧侶)の尽力により、焼失した稲荷社の復興は着々と進みました。31年後の明応8年(1499年)には五社相殿の本殿が再建され、正遷宮が斎行。明応の正遷宮の詳細を書き記した荷田氏の『明応遷宮記録』が、稲荷社造営の最古の書物として残ります。やがて江戸時代に入り、稲荷社は平和な世の中で飛躍的に発展するのです。

明応の正遷宮を主導したのは社家の荷田氏ですが、莫大な費用を調達したのは円阿弥を本願とする勧進聖でした。永正16~17年(1519~1520年)頃に本願所が設置されたらしく、安土桃山時代の文禄3年(1594年)になって正式な本願所が発足。江戸時代には愛染寺に改称し、稲荷社の一大勢力になりました。灰燼に帰した京都の稲荷社が蘇り、伏見稲荷大社が存在するのは僧侶の活躍のおかげです。(勧進聖と愛染寺についてはp.10を参照

ここで付け加えておきたいのが祭祀の場の変遷です。神様が伊奈利山三ヶ峰の平地に顕現されたという伝説が残るように、古くは山上で秦氏の祭祀が行われたと考えられます。しかし稲荷山西麓への正遷宮は中世に荷田氏の後裔を称して台頭した羽倉氏(部外者)が主導しており、荷田氏を快く思わない秦氏系の社家は一切の記録を残していません。色々込み入った事情があるらしい。

応仁の乱以来、稲荷社は戦乱や大火に見舞われませんでした。明応8年に再建された本殿は焼失することなく、伏見稲荷最古の建築物として重要文化財に指定されています。江戸時代前期の元禄7年(1694年)から行われた大修理に際して、本殿前に唐破風を備えた礼拝所が増設。昭和36年(1961年)には拝所を分離して内拝殿に改めました。本殿・内拝殿ともに至近距離では撮影禁止となっておりますのでご注意ください。

神楽殿

神楽殿 神楽殿
山口誓子氏の稲穂舞の句碑
2019年8月5日。本殿の南には神楽殿。明治15年(1882年)に能楽殿として新設された能舞台が、昭和34年(1959年)に神楽殿として改修・移設されました。山口誓子氏による稲穂舞の句碑もあります。

早苗挿す 舞の仕草の 左手右手

稲荷明神に能を奉納した世阿弥

能舞台といえば世阿弥を思い浮かべます。観阿弥の息子で観世流二世の猿楽師、大和猿楽の大成者として知られる世阿弥。『風姿花伝』において猿楽師に伝わる秦河勝と猿楽のルーツ(p.5を参照)を紹介しており、自らも「左衛門大夫秦元清」を称しました。極限まで幽玄の能を追究した世阿弥は都で評判の猿楽師になり、その噂は稲荷社の稲荷明神にも知られていました。

『世子六十以後申楽談儀』によると室町時代の応永19年(1412年)、稲荷社近辺、法性寺大路の橘倉の亭主が重体に陥る出来事がありました。そのとき女房に稲荷明神が憑き、観世(世阿弥)に演能させれば平癒すると神託を下します。「十番のうち三番ずつ伊勢・春日・八幡に奉納し、一番は我が見よう」と稲荷明神。神託に従い、世阿弥は稲荷社にて能を奉納しました。うか様は世阿弥ファンだったのね。

第3代将軍の足利義満に寵愛されて活躍した世阿弥ですが、義持から義教の時代になると甥の音阿弥が贔屓され、世阿弥は活動の場を奪われるなど陰険な迫害を受けることになります。永享6年(1434年)には義教から何らかの罪を着せられて佐渡国に配流。永享8年(1436年)に現地で『金島書』を書き終えるも、以降の消息は不明。義教が暗殺された後、赦免され帰国したとする伝説もあります。

それから167年後、江戸時代初期の慶長8年(1603年)。大久保長安なる人物が徳川家康から佐渡奉行に任命され、発見されたばかりの佐渡金山の開発を主導しました。長安は大和猿楽の金春流の家に生まれ、後述する金春禅竹の曾孫にあたります。猿楽師から家康の家臣に成り上がった異常さばかり目立ちますが、例によって秦氏に関係する人物でした。

長安が金山を視察する際には猿楽衆を伴って来島。これがきっかけになり、遠い佐渡国に演能の文化が定着しました。禅竹の曾孫ですから、間違いなく佐渡に流された世阿弥のことを意識していたでしょう。長安の手腕により、現在でも佐渡は能楽と金山の島として有名です。尚、金山の開発に伴って団三郎狸なる妖怪狸の伝説が生まれ、「東方神霊廟」の二ッ岩マミゾウの元ネタになっています。

「心綺楼」に登場する秦こころは様々な面を使い分け、稲荷名物の狐面も用います。『風姿花伝』に記された秦河勝の申楽、『申楽談儀』の世阿弥の演能…秦氏と稲荷社の歴史的背景を学ぶと、秦河勝の面が妖怪化したという秦こころの設定に、世阿弥が密接に絡んでいると分かります。

稲荷山に参籠した金春禅竹

猿楽の話題なら金春禅竹も紹介するべきでしょう。禅竹は世阿弥の娘の婿であり、やはり室町時代の高名な猿楽師です。金春流を中興し、義父と同じく秦氏の末裔の意識を持っていた禅竹。佐渡に配流された世阿弥とは師弟を超える親密な関係だったようで、世阿弥から禅竹に宛てた書状が残ります。

世阿弥の精神を受け継ぎ、幽玄の世界に傾倒した禅竹。晩年の応仁元年(1467年、つまり稲荷社壊滅の前年)には妻(世阿弥の娘)と共に稲荷社の文殊堂(p.11を参照)に参籠。中世の稲荷山の様子を記録した『稲荷山参籠記』を残しています。稲荷山に籠もったのは禅竹が極めて信心深い人物であったとともに、御先祖様の秦氏との繋がりを感じたかったからではないでしょうか。

「いなこん」の小ネタとして書いておくと、アニメの脚本には金春家の末裔である金春智子氏が参加されています。偶然かもしれないけど秦氏が創建した稲荷社が舞台の作品に、稲荷山に参籠した猿楽師の末裔が関わっているのは面白いです。どこまでも秦氏の影響が及んでる……

鎌倉時代の作とされる常夜燈
2020年10月11日。神楽殿脇に佇む常夜燈。根拠不明ながら鎌倉時代の作とする情報があります。

神供水の井戸と神饌所 神供水の井戸と本殿
2019年8月5日。神供水の井戸と神饌所。右に写っているのが本殿です。五間社流造で檜皮葺の流れるような長い屋根が特徴。至近距離では撮影禁止だから遠巻きに撮りました。

神供水の井戸
神供水の井戸 神供水の井戸
2020年9月19日。「神供水」の井戸は江戸時代末期、嘉永4年(1851年)辛亥歳正月の奉納です。

神輿庫

神輿庫
2019年8月5日。本殿の裏手に佇む神輿庫。稲荷祭で稲荷大神が乗る五基の神輿が安置されています。現在の神輿庫は昭和27年(1952年)に新築されました。

本殿後背の拝所
2019年2月24日。本殿の背後にある拝所。位置関係的に稲荷山の遥拝所だと思います。沢山の絵馬が掛けられていました。

本殿裏に新設されたエレベーター
本殿裏に新設されたエレベーター 本殿裏に新設されたエレベーター
2020年9月19日。令和2年3月、拝所の右手にエレベーターが新設されました。楼門・休憩所脇のスロープ、本殿後背のエレベーターで境内のバリアフリー化が進み、車椅子の方でも千本鳥居にアクセスできるように。宮司さんいわく、全ての参拝者を受け入れられる社でなくてはならないと考え、エレベーターの新設に至ったとのことです。

権殿

権殿と本殿
権殿の由緒 権殿
2019年8月5日と2019年2月24日。本殿の左手に鎮座する五間社流造の権殿。明応の正遷宮の頃には建てられていたようで、本社造営の際の遷殿となる仮殿、若宮とも称されました。現在の社殿は江戸時代初期の寛永12年(1635年)に再建。昭和34年(1959年)には本殿より少し北東に移設されています。

荷田氏の稲荷信仰と東丸神社の由緒
次ページ、荷田春満をお祀りする東丸神社に参拝します。

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