東方巡遊記

伏見稲荷大社探訪 V

2022-02-05 改訂
2009-05-29~2021-07-25 実施

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目次

01.「伏見稲荷大社探訪」の目次と概要

07.荘厳な楼門を彩る朱色と白狐の由来

表参道楼門/うか様のパネル

稲荷社の朱色の由来「いなこん」と伏見稲荷稲荷大明神の姿稲荷大明神と荼枳尼天の習合稲荷信仰に組み込まれた狐伏見稲荷を東方に関連付ける場合安倍晴明と葛の葉稲荷社に祈願し脅迫した豊臣秀吉元禄の大修理

荘厳な楼門を彩る朱色と白狐の由来

表参道

二の鳥居と楼門 二の鳥居と楼門
2018年5月20日。表参道、楼門前の二の鳥居は昭和35年(1960年)に建てられました。朱塗りで黒い台輪の付いた明神鳥居の一種、稲荷鳥居です。

稲荷社の朱色の由来

稲荷社の朱色は稲荷大神の神徳を象徴する神聖な色。生命・大地・豊穣を表し、魔除けや防腐剤の意味があるとも理解されておりますが、「何故朱色なのか」という根本的なところは謎に包まれています。本記事で紹介する説は、あくまで諸説あるうちの一つ。憶測の域を出ないものもあります。どうかご理解ください。

鮮やかな朱色は水銀鉱物の辰砂を精製して得られます。渡来氏族の秦氏は大陸由来の水銀精製技術を持っており、水銀を用いて鍍金(めっき)することもできました。日本に仏教が伝来して仏像の建立が盛んになった時代、秦氏の水銀精製技術が重宝されたのは間違いありません。その技術は奈良時代の一大事業だった東大寺の大仏造営にも活かされたでしょう。

『日本書紀』に登場する秦大津父は深草と伊勢を馬で往来する商人でした。古代より伊勢国の丹生(三重県多気郡多気町)は辰砂の産地として知られ、その精製は秦氏が行ったと考えられます。そこから導き出されるのが秦大津父=水銀の商人説。伊奈利社の朱色が、秦氏が扱った水銀に由来するという推測は説得力があります。(秦大津父についてはp.5を参照

伏見稲荷大社探訪 V|秦氏と賀茂氏の伝説が交わる御劔社
秦氏は鍛冶も得意とした氏族です。稲荷山では良質の赤土(埴土)が採れ、刀鍛冶が刀身に塗って焼入れに使う焼刃土に適しました。中世の謡曲「小鍛冶」(p.21を参照)は稲荷山を舞台とする刀鍛冶の伝説であり、その成立背景には秦氏の鍛冶信仰があったと想像できるのです。付け加えると、稲荷山の赤土には朱色の原料となる水銀が多く含まれています。

農耕の神様として崇敬される稲荷大神。その神徳を象徴する朱色の根源はよく分かっていません。秦氏が鍛冶や水銀精製を得意とした歴史的背景から、かつての伊奈利神は鍛冶・水銀の神様であったとする仮説も提唱されています。稲荷社の朱色の由来を秦氏に求めるなら、稲荷山の赤土・鍛冶の赤・水銀の朱は抑えておきたいです。

尚、現在では自主規制により水銀含有塗料は生産されておらず、伏見稲荷の鳥居は伝統的な光明丹(鉛丹)で朱色に塗られています。実際のところ、秦氏の伊奈利社に朱塗りの鳥居や社殿があったのかも分からないのですが。

早朝の楼門
2014年4月25日。 二の鳥居をくぐります。あれ?もう楼門前に……

手水舎から楼門 参集殿
まず手水舎で手を清めます。表参道の南には参集殿。手水舎前には24時間使えるトイレがあります。

二の鳥居と楼門 手水舎と楼門
手水舎の様子 7
2020年10月11日。手水舎の様子。手水鉢は昭和35年(1960年)、金沢市の崇敬者により奉納されました。同年に手水舎が竣工したと伏見稲荷の記録にあります。

参集殿
2019年8月5日。西羽倉家の屋敷跡に建つ参集殿。昭和38年(1963年)に開館した宿坊のような施設です。遠方から伏見稲荷に参拝する際、京都駅周辺のホテルではなく参集殿に泊まるのも風情があっていいと思います。

閉館した参集殿
「伏水砂子川 鍵本文右衛門」と刻まれた常夜燈
「伏水砂子川 鍵本文右衛門」と刻まれた常夜燈
2020年9月19日。参集殿は老朽化のため令和2年(2020年)5月に閉館。正面の駐車場は存続し、災害時の観光客緊急避難広場に指定されています。表参道脇の永常燈は江戸時代後期の明和8年(1771年)に奉納。「伏水砂子川 鍵本文右衛門」とあります。鍵本文右衛門は神幸道(p.6を参照)の常夜燈にも刻まれていた名前。奉納年が50年以上開いているけど同一人物でしょうか。

楼門/うか様のパネル

うか様こと宇迦之御魂神のパネル 楼門前に佇むうか様のパネル
0555、楼門前。うか様こと宇迦之御魂神のパネルが鎮座。まさか6時前から出勤されているとは……

「いなこん」と伏見稲荷

楼門のパネルは2014年1~3月に放送された、よしだもろへ氏原作のアニメ「いなり、こんこん、恋いろは。」(略称は「いなこん」)と伏見稲荷大社のタイアップ企画です。「いなこん」の舞台として描かれる伊奈里神社は伏見稲荷大社がモデル。うか様は伏見稲荷の主祭神である宇迦之御魂大神に相当するキャラクターです。

「いなこん」の原作はよしだもろへ氏の独自取材によって描かれていたのが、アニメ化に際しては大社側の全面協力で制作されました。放送前のプロモーションには宮司の中村陽氏も参加。稲荷大神をモチーフにしたキャラクターが登場する作品をバックアップし、このような形でアニメの宣伝にも協力してくれるなんて凄いことですよ!

うか様がかわいいだけでなく、綿密な取材に基づく高品質な作画が評判を呼んだ「いなこん」。作中で美しく再現された稲荷山の情景を求めて、2014年には全国のアニメファンが訪れました。ちなみに内容は真っ当なラブコメであり、本記事で扱うような秦氏や伊奈利社の歴史が主題の作品ではありません。(当たり前です)

当サイトでは2014年のアニメ放送終了後に「いなこん」の探訪記事を公開。2015年に原作が完結した後も伏見稲荷に通い続けました。様々な文献資料を読んで歴史を学び、伏見稲荷の由緒全般を盛り込んだ記事として改訂できたのはアニメ放送から5年も経った2019年のこと。2021年の補完と改訂をもって執筆完了となりました。

稲荷大明神の姿

「いなこん」ファンには、うか様の姿で定着している伏見稲荷の主祭神。伊奈利社の創建当初は『古事記』の宇迦之御魂大神ではなく、ただ「伊奈利山に鎮座される神様」だったと考えるほうが自然です。原初の神様は特定の姿形を持たない概念的な存在であり、信仰の発展に伴って擬人化されたイメージを持ちました。(祭神の来歴についてはp.8を参照

稲荷の神様が擬人化された時代や経緯は不明ながら、女神と老翁という二つの姿が定着しています。最古の画像としては、乙訓郡の宝積寺に鎌倉時代中期の弘安9年(1286年)に描かれた板絵神像が現存。神々が並ぶ中、稲荷大明神は唐装の女神の姿で表現されています。この時代には神仏習合の稲荷信仰が確立しつつありました。

同じく鎌倉時代、毎日交替で国土を守護するという三十番神の信仰が普及。平安時代に最澄が比叡山にお祀りしたことに始まり、中世には日蓮が法華経の守護神として取り入れた神仏習合の信仰です。稲荷大明神は22日の守護神と位置付けられ、やはり唐装の女神の姿で描かれます。(後述する老翁の姿の場合もあります)

更に同じ時代、稲荷大明神が密教の影響を受けて荼枳尼天と同一視。剣と宝珠を持ち、あるいは稲束を荷なって眷属の白狐に跨る女神の姿で描かれました。神仏習合の中では弁財天や歓喜天の要素も加わり、当時の人々が稲荷の神様をイメージして描いた画像が各地の寺社に残ります。(荼枳尼天と狐については後述)

もう一つの擬人化は老翁の姿。東寺に伝わる『稲荷大明神流記』など、空海が稲荷社を勧請した伝説には稲を荷なって椙(杉)の葉を掲げる老翁として登場します。老翁は二女二子を伴って東寺南門に現れたと記され、稲荷社の五柱の神様を表しているという見方もできます。(空海の伝説についてはp.5p.24を参照

「いなこん」に登場するうか様は宇迦之御魂神らしく和風の女神の姿。前掛けの模様は伏見稲荷の神紋である抱き稲と狐を組み合わせたもの。稲荷だからといって安易な狐耳のキャラじゃないのがいいです。中世の謡曲「小鍛冶」(p.21を参照)では稲荷明神の御神体が狐霊の姿で現れておりますので、狐耳のうか様も案外いけるかも……

楼門 楼門
2014年4月7日。「いなこん」の探訪記事を執筆する前に下見で訪れました。作中の楼門の扁額は「伏見稲荷大社」→「伊奈里大神」に改変。うか様は楼門前の石段に座り込んでゲームに夢中になってました。作中では観光客皆無なのが現実の伏見稲荷との大きな違いです。

楼門前に佇むうか様のパネル 楼門前に佇むうか様のパネル
同じく2014年4月7日。「いなこん」を知らない観光客にも大人気のパネル。明らかに舞台探訪が目的の方も見かけました。この時期に伏見稲荷を訪れた観光客の写真には、高確率でうか様のパネルが写り込んでいます。そんな写真が後世に伝わったら面白いですね。

楼門を守る神使の狐 楼門を守る神使の狐
楼門を守る神使の狐 楼門を守る神使の狐
2018年5月20日と2020年10月11日。楼門を守る神使の狐達。深草の秦氏から始まり、ようやく狐の話題です。密教や荼枳尼天の世界観は難しいので、なるべく簡潔に紹介します。

稲荷大明神と荼枳尼天の習合

元々、稲荷社に神使の狐は存在しませんでした。平安時代末期に神仏習合が始まると、東寺の密教の影響で稲荷信仰に荼枳尼天が加わり、大きな変容を遂げます。荼枳尼天とはインドから入ってきたダキニが日本化した神様。ヒンドゥー教では夜叉だったのが日本に移入される過程で穏やかになり、禍々しい雰囲気は残しつつ荼枳尼天なる女神に変化しました。

鎌倉時代には稲荷大明神が荼枳尼天と同一視。荼枳尼天がインド由来の野干(ジャッカル)と習合しつつも、日本には野干が生息しないことから身近な狐に置き換わり、後述するように田の神や命婦の要素と融合して稲荷信仰に組み込まれたと考えられます。密教と狐が習合する過程は複雑すぎて解明できていないものの、鎌倉時代に神仏習合の稲荷信仰が確立したと見られます。

明治時代に稲荷神社から仏教色が排除され、現在の伏見稲荷に公式には荼枳尼天の要素はありません。しかし密教との結び付きが強かったため荼枳尼天の信仰は根強く残り、神仏分離の余波で始まったお塚信仰には荼枳尼天の存在を感じます。信心深い参拝者が稲荷大神と荼枳尼天と同一視して崇敬するのは、信仰の一形態だから大社側も否定しないのでしょう。(お塚についてはp.17で詳しく紹介

インターネット上には稲荷とダキニの妄説が蔓延し、稲荷=ダキニ=夜叉と思い込み怖がる人が散見されます。中世に描かれた荼枳尼天曼 荼羅を見ると夜叉ではないと分かります。俗説を鵜呑みにして稲荷社の祭神を悪鬼と決め付けたり、言いふらすのはやめてください。稲荷大神は私達の暮らしを守ってくれる優しい神様です。冒涜しない限り、祟りなどありません。

稲荷信仰に組み込まれた狐

古代の日本で狐がどのように扱われたのかは不明。飛鳥時代後期、中国を参考に律令制を導入したことに伴い、白狐が瑞祥と見なされるようになって狐の存在感が高まりました。奈良時代になると怪異をもたらす妖獣のイメージが加わり、平安時代に成立した『日本霊異記』や『今昔物語集』には妖狐のエピソードがいくつか記載されています。

かつては神獣というより妖獣と見なされていた狐。決して怪異だけではなくミサキや田の神という要素もあり、平安時代には狐に対する信仰が始まっていたと考えられます。同時期に発展していく稲荷社と直接の関係はありませんでしたが、田の神でもあった狐は、既に稲荷信仰と親和性が高かったのです。食物を司る「御食津神」に「三狐神」を当てて稲荷と狐が習合した…というのは習合後に生まれた俗説。本質的には田の神として組み込まれたでしょう。

平安時代に藤原明衡が記した『新猿楽記』には稲荷山の阿小町なる人物が登場。稲荷大明神の祭祀を行った巫女と考えられます。中世には阿小町=稲荷の老狐と認識されており、神格化された巫女が何らかの事情で狐と同一視されたらしい。鎌倉時代に稲荷大明神と荼枳尼天が習合する中で、田の神、巫女、ジャッカルから置き換わった狐が融合し、稲荷の眷属たる白狐が誕生。その信仰が現代まで受け継がれました。

伏見稲荷大社探訪 V|奥宮と白狐社で命婦狐の原像を考察
稲荷の神様に仕える白狐を「命婦」(本来は女官の意味)と呼びます。現在の伏見稲荷には白狐社・奥宮・奥社奉拝所があり、それぞれ命婦狐をお祀りする命婦社としての性格を持っています。但し、社家の記録でも混同されており、実際の由緒は不明。その成立背景には上述の巫女の存在があると考えます。(白狐社と奥宮、阿小町と命婦狐の伝説はp.12、奥社奉拝所はp.14を参照

よく狐の神社だと勘違いされるので明記しておくと、稲荷大神とは狐の神格化ではなく五柱の神様の総称。主祭神の宇迦之御魂大神は穀物を司る女神であります。神仏習合が確立した頃から白狐に跨る姿で描かれており、今でも稲荷の神様の眷属(神使)が狐なのです。各地に勧請された稲荷社には白狐を祭神とする信仰もありますから、そこは大らかに受け止めてください。

ちなみに白狐の姿は我々には認識できません。狐と言っても野生の狐とは全く異なる高次元の存在です。霊的なものを感知する能力を持つ人なら見えるのかも。「いなこん」の燈日くんは見えるタイプの人でしたね。

狐が咥える玉は稲荷大神が秘める神徳 狐が咥える鍵は稲荷大神の宝蔵を開く秘鍵 狐が咥える鍵は稲荷大神の宝蔵を開く秘鍵
2020年10月11日。左の狐は鍵、右の狐は玉を咥えており、それぞれに意味があります。鍵は稲荷大神の宝蔵を開く秘鍵、玉は稲荷大神が秘める神徳。中世の神仏習合を経て完成された稲荷信仰のキーアイテムです。

高橋鋳工場で制作された青銅の狐像 高橋鋳工場で制作された青銅の狐像
高橋鋳工場で制作された青銅の狐像 青銅の狐像の台石
2020年9月19日。現代の伏見稲荷を象徴する青銅の狐像。裏側に「京都本町 高橋鋳工場謹鋳」とありました。高橋鋳工場は寺社の金物を得意とする鋳物業者。竹中産業と刻まれた基壇と同じく、昭和60年(1985年)の奉納と思われます。残念ながら高橋鋳工場は平成23年(2011年)に廃業となりました。

伏見稲荷を東方に関連付ける場合

たまには東方の話題も。伏見稲荷大社は「妖々夢」に登場する八雲藍の聖地とされ、どういうわけか「心綺楼」の秦こころとの関係は見落とされがち。藍様は玉藻前に代表される九尾の狐がモチーフの妖獣・式神ですから、実のところ、稲荷社の神様の眷属みたいな要素は持っていません。それよりも世阿弥の『風姿花伝』に基づく秦こころの設定から迫っていくほうが確実です。(東方と秦氏の関係はp.5を参照

とはいえ藍様とその式神である橙のスペルカードを見ると、安倍晴明、荼枳尼天、飯縄権現など小ネタレベルで稲荷と繋がります。中世には玉藻前(九尾の狐)が稲荷の眷属と同一視された例がありますので、神仏習合の発想なら伏見稲荷と八雲藍を結び付けられる気がします。でも昔の東方舞台探訪で伏見稲荷を訪れた人は、私を含めて狐萌え&幻想郷っぽいという理由だけだったのではないでしょうか?

もう一つ小ネタを紹介すると、平安時代に守覚法親王が記した『北院御室拾要集』に摩陀羅神と荼吉尼天が登場します。東寺には奇神があり、夜叉神または摩多羅神といい、持経者に吉凶を授ける神様だったとか。その姿は三面六臂で、中は聖天、左は荼枳尼、右は弁財。東寺の守護天であり、稲荷明神と大菩提心の使者と説明されています。

摩多羅神は秦河勝と同一視されることもある謎の神様。「天空璋」の摩多羅隠岐奈は摩多羅神がモデルです。こじつけっぽいけど秦氏・稲荷明神・荼枳尼天・摩多羅神の要素を盛り込んで、伏見稲荷を隠岐奈の元ネタと見なすことも可能ではあります。それって東方の舞台探訪じゃなくて民俗学的探訪かもしれませんね……

安倍晴明と葛の葉

安倍晴明の伝説についても簡潔に紹介します。平安時代中期の村上天皇御代(946~967年)、摂津国(大阪府)に安倍保名という人物が暮らしていました。保名は和泉国の信太の森で狐を助けたことがきっかけで葛の葉なる美女と結ばれ、童子丸という子をもうけました。ある時、妻の正体が助けた狐であると発覚。葛の葉は稲荷大明神の眷属の白狐だったのです。正体を知られた葛の葉は信太の森に帰ってしまいますが、白狐の血を引く童子丸は安倍晴明を名乗って陰陽師として活躍し(以下略)

というのは江戸時代の古浄瑠璃「しのだづま」から広まった伝説。創作とはいえ、安倍晴明の生母が稲荷の白狐だったという設定が受け入れられるほどポピュラーな存在になっていたのです。庶民の間では白狐=妖獣のイメージが強く、現代でもその認識は受け継がれています。もっとも、稲荷社の社家は妖しげな狐の神社と見なされることを好まなかったようですが

楼門 楼門の説明
稲荷山西麓に建つ楼門 稲荷山西麓に建つ楼門
2019年2月24日と2018年5月20日。安土桃山時代の天正17年(1589年)に再建された荘厳な楼門。朱色を強調するにはリバーサルのVelviaが最適です。

稲荷社に祈願し脅迫した豊臣秀吉

安土桃山時代の天正16年(1588年)、豊臣秀吉の生母の大政所が病気になり、秀吉は有力な社に治癒を祈願しました。稲荷社にも母の延命を求め、米1万石の奉納を約束した願文が現存します。秀吉の母への想いと信仰の篤さのおかげか大政所は一旦回復するも、天正20年(1592年)に病気は再発。同年、77歳でこの世を去りました。

米1万石が奉納されることになった稲荷社では社殿修造を検討。1万石と約束された米は半分に値切られてしまい、結局5千石の費用で修造を行いました。この時に再建された楼門は、天正17年(1589年)に秦継長が描いた『社頭図』で確認できます。室町時代の応仁の乱以来、稲荷社は戦乱や大火に見舞われず、安土桃山時代の楼門は大修理を経て430年後の現在まで残りました。

さて、文禄4年(1595年)には小早川秀秋の内室(秀吉が前田利家から引き取った養女)が病気になって物怪が憑きました。野狐の仕業と思われたことから、秀吉は「直ちに野狐を退去させなければ当社を破却し、全国で狐狩りを行い殺し尽くす」との朱印状(脅迫状)を稲荷社に送り付けました。稲荷の白狐は野狐と無関係なのですが、世間的には妖しい狐の元締めの神社と認識されていたのです。

その後どうなったのかは不明。稲荷社が無事に現存している状況を見るに、社家か本願所から祈祷師が派遣されて野狐の悪事は止んだと思われます。戦国武将って特定の寺社を崇敬して手厚く保護する一方で、気に入らないときは平気で焼き払ったりするから怖いです。

元禄の大修理

秦氏による伊奈利社創建から千年が経とうとしている頃、江戸時代前期の元禄7年(1694年)から8年かけて大修理が実施されました。この際、楼門が東から西に(つまり表参道の奥側に)少し移設されて石段が設けられました。記録には残らないものの楼門左右の廻廊も再建されたらしい。写真が存在しない時代の稲荷社の姿を、実態に訪れて確認してみたいです。

元禄の大修理は稲荷社への信仰が特に篤かった京都西町奉行の小出淡路守守里が企画。修造費用は幕府が負担し、守里の主導で楼門の移設や本殿の修理など大部分の建物に手が加えられました。何の断りもなく思いつきで境内を改造し、社家に嘆かれるほどの滅茶苦茶ぶりでしたが、この大修理が現在の伏見稲荷の境内配置の基礎になります。

明治14年(1881年)、楼門と外拝殿が檜皮葺に改修。鎮座1300年を翌年に控えた平成22年(2010年)には、修理工事により稲荷社を象徴する鮮やかな朱色が蘇りました。平成26年(2014年)、既に重要文化財に指定されていた室町時代再建の本殿等に加え、安土桃山時代の楼門、江戸時代の外拝殿が追加指定されています。

鎮座1250年記念碑 前川佐美雄氏の歌碑
楼門解体修理記念碑
2019年8月5日。楼門の右手には昭和36年(1961年)の鎮座1250年記念碑。前川佐美雄氏の歌碑や昭和49年(1974年)の楼門解体修理記念碑もあります。

あかあかと たたあかあかと 照りゐれば 伏見稲荷の 神と思ひぬ

誰も気付いてなさそうな要素に目を向けて紹介するのが探訪記事です。楼門や拝殿だけ撮って完了、というわけではありません。

楼門前の車祓所 荷田春満旧宅の神事屋
2019年8月5日。楼門の右手前に車祓所。その奥は羽倉家の荷田春満旧宅(p.9を参照)です。参道に突き出した建物は羽倉家において祈祷を行うための神事屋。これも貴重な文化財なのです。

表参道脇の儀式殿 表参道の二の鳥居
小出淡路守守里が奉納した手水鉢 小出淡路守守里が奉納した手水鉢の案内
2020年9月19日。表参道脇、儀式殿に通じる路地に残る手水鉢。元禄7年(1694年)の大修理を企画した京都西町奉行の小出淡路守守里によって奉納されました。上述のように社家に断りもなく思いつきで境内を改造し、現在の伏見稲荷の境内配置を確立させた淡路守。「当社造営の功労者」という表現は間違ってはいないです。

「小出淡路守守里」と刻まれた手水鉢 「元禄五壬申歳」と刻まれた手水鉢
2020年9月19日。手水鉢には「元禄五壬申歳」「小出淡路守 守里」と刻まれており、元禄5年(1692年)、大修理に先立って奉納されたと分かります。淡路守による大修理が実際の出来事だったと実感させてくれる貴重な手水鉢。案内板もあるし、通り過ぎるのはもったいないです。

儀式殿 表参道の路地
表参道脇に佇む磐座
2020年9月19日。表参道から儀式殿を経て神幸道に抜ける路地。手水鉢の奥に佇む磐座にも、何か由緒がありそうでした。稲荷社を精力的に探訪していると、色々なものが目に入って気になります。

二の鳥居の隣に立つ電燈
表参道の電燈 表参道の電燈
2020年9月19日。二の鳥居の隣に立つ電燈は昭和63年(1988年)に奉納。凝ったデザインです。

楼門脇の常夜燈 楼門脇の常夜燈
2020年10月11日。楼門脇の常夜燈は江戸時代後期の文政元年(1818年)戊寅の9月に奉納。「羽倉伯耆守」と刻まれています。羽倉は中世に台頭した荷田氏系の社家のこと。江戸時代の常夜燈と現代の電燈が並ぶ表参道。稲荷社の歴史を感じながら本殿に向かいます。

楼門前に佇むうか様のパネル
楼門をくぐって境内に入ります。うか様のパネルが似合いすぎて面白いですね。伏見稲荷大社がこれほど大々的にバックアップしているのは、「いなこん」が稲荷の神様に親しみを感じさせてくれる作品だからでしょう。布教効果もありそうです。

楼門から表参道 楼門をくぐって境内へ
2018年5月20日。楼門から境内へ。

稲荷大神をお祀りする室町期の本殿
次ページ、本殿と祭神について詳しく紹介します。

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