東方巡遊記

伏見稲荷大社探訪 V

2022-02-05 改訂
2009-05-29~2021-07-25 実施

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目次

01.「伏見稲荷大社探訪」の目次と概要

06.祓川沿いの神幸道と江戸期の常夜燈

神幸道祓川橋

愛染寺と刻まれた常夜燈神幸道を流れる祓川

祓川沿いの神幸道と江戸期の常夜燈

神幸道

早朝の神幸道 早朝の神幸道
2019年2月24日。京阪伏見稲荷駅からR119で直通する神幸道。表参道(p.5を参照)の北側に位置します。昭和感溢れる商店街になっており、早朝は閑散としています。

「伏見稲荷大社」「神幸道」の社号標 「伏見稲荷大社」「神幸道」の社号標
2020年9月19日。観光客で賑わう時間帯です。安土桃山時代の天正17年(1589年)に秦継長が描いた『社頭図』では、同じ場所に鳥居が建てられているのを確認できます。「伏見稲荷大社」「神幸道」の社号標は、表参道と同じく昭和23年(1948年)に建立。やはり旧字体の「稻」が用いられます。

神幸道の一の鳥居と常夜燈
「松本筑後守 東錺屋町」と刻まれた常夜燈
「松本筑後守 東錺屋町」と刻まれた常夜燈
同じく2020年9月19日。一の鳥居奥の石燈籠(常夜燈)には「松本筑後守 東錺屋町」と刻まれています。松本とは秦氏系の社家のこと。京都の東錺屋町の稲荷崇敬者が、松本氏の取り次ぎで常夜燈を奉納したと読み取れます。(社家についてはp.5を参照

早朝の神幸道
2019年2月24日。露店の準備が進む神幸道。露店は混雑の原因になるとかで2019年3月末で廃止されることに。観光客増加を手放しで喜んでいたら、徐々に弊害が現れています。最近、オーバーツーリズムなる言葉をよく聞くようになりました。

「官幣大社 稲荷神社」の社号標 神幸道の二の鳥居
1 早朝の神幸道
2019年2月24日と2018年10月14日。二の鳥居の左手に「官幣大社 稲荷神社」「神幸道」の社号標が残ります。開店準備中の参道の様子をフィルムで撮るのが好き。昼間の大混雑では撮影できません。

神幸道の二の鳥居 神幸道の二の鳥居
2020年9月19日。神幸道の二の鳥居は明治28年(1895年)に奉納されました。

神幸道に並ぶ常夜燈
「稲荷社御寶前」と刻まれた常夜燈 「稲荷社御寶前」と刻まれた常夜燈
2020年9月19日と10月11日。神幸道脇に古い常夜燈が並びます。柱には「稲荷社御寶前」。その下の文字は削られて判読不能。もしかしたら「愛染寺」と刻まれていたかもしれません。

「奉寄進永代常夜燈石燈籠二基」と刻まれた常夜燈 「奉寄進永代常夜燈石燈籠二基」と刻まれた常夜燈
「宿坊 愛染寺」と刻まれた常夜燈 「宿坊 愛染寺」と刻まれた常夜燈
2020年10月11日。「奉寄進永代常夜燈石燈籠二基」。奉納年月日は江戸時代中期の正徳4年(1714年)甲午歳の9月吉日。奉納者は「□□岩右衛門 □□善吉」。左下には…「宿坊 愛染寺」!!

愛染寺と刻まれた常夜燈

伏見稲荷大社探訪 V|稲荷社の一大勢力だった愛染寺跡
室町時代の応仁の乱の後、稲荷社復興のために奔走した勧進聖の活動に始まる愛染寺。江戸時代には稲荷社の社家を凌ぐほどに発展し、庶民に神仏習合の稲荷信仰を広めました。愛染寺の諸堂は明治の神仏分離に際し、仏教勢力に反発していた社家の主導で跡形もなく抹消されてしまいますが、「愛染寺」と刻まれた常夜燈は境内各所に残ります。(愛染寺についてはp.10、神仏分離はp.5を参照

祓川橋

「官幣大社 稲荷神社」の社号標 神幸道に架かる祓川橋
神幸道に架かる祓川橋 神幸道に架かる祓川橋
2020年9月19日。神幸道に架かる祓川橋。すっかり参道と同化して橋の存在が希薄です。

神幸道を流れる祓川

秦親臣が写した江戸時代前期、寛文9年(1669年)の『寛文之大絵図』を見ると、稲荷山の新池(p.17を参照)を発する祓川が神幸道沿いに流れ、石橋が架けられています。古くは板橋だったのが慶安元年(1648年)に石橋に架け替えられ、度々修復されたことが稲荷社の記録に残ります。

祓川は稲荷社西方の田畑の灌漑用水に使われており、人々の生活に欠かせないものでした。明治23年(1890年)に琵琶湖疏水が開通しても祓川の役割は健在で、当初は疏水と立体交差する構造だったらしい。その後、疏水や参道の整備が進むにつれて暗渠化したと思われます。

神幸道に架かる祓川橋 神幸道に架かる祓川橋
2020年10月11日。現存する祓川橋の欄干は、琵琶湖疏水が開通する直前の明治19年(1886年)に設けられました。この欄干から参道沿いに流れる祓川を眺められた時代があったのです。

琵琶湖疏水に注ぐ祓川 琵琶湖疏水に注ぐ祓川
2020年10月11日。神幸道を引き返して琵琶湖疏水に架かる稲荷橋(p.4を参照)へ。橋の下に煉瓦造りの地下水道が確認できます。灌漑用水を役割を失った祓川は、ひっそり琵琶湖疏水に注ぎます。

「官幣大社 稲荷神社」「神幸道」の社号標 「官幣大社 稲荷神社」「神幸道」の社号標
2020年9月19日。祓川橋の袂に佇む「官幣大社 稲荷神社」「神幸道」の社号標。明治12年(1879年)の奉納です。

羽倉摂津守と刻まれた常夜燈 神幸道の標柱
開店準備中の神幸道 神幸道の常夜燈と石碑
2019年8月5日。参道脇に古い常夜燈や石碑が点在。露店の営業が始まると詳細を確認できません。

「神幸道祓川」と刻まれた石碑 神幸道脇の石碑
「稲荷と刻まれた石碑
というわけで2020年9月19日。神幸道脇の石碑たち。ここに祓川が流れていたことを示す「神幸道祓川」の碑。地面に半分埋もれた「稲荷」の碑。薄くて読めなくなった何らかの記念碑…全て稲荷社の歴史の一部です。

神幸道脇の常夜燈
「祈祷所 祓川佐渡守」「伏水砂子川 願主 鍵本文右衛門」と刻まれた常夜燈 「祈祷所 祓川佐渡守」「伏水砂子川 願主 鍵本文右衛門」と刻まれた常夜燈
2020年9月19日。祓川橋を渡って楼門へ。手前の常夜燈は江戸時代後期の文政12年(1830年)寅歳の2月に奉納。「祈祷所 祓川佐渡守」「伏水砂子川 願主 鍵本文右衛門」とあります。祓川は秦氏系の社家。鍵本文右衛門が稲荷社に常夜燈を奉納する際、社家の祓川氏が取り次いだという意味です。

「祈祷所 羽倉摂津守」「真鍮箔打屋」と刻まれた常夜燈 「祈祷所 羽倉摂津守」「真鍮箔打屋」と刻まれた常夜燈
2020年9月19日。こちらの常夜燈は弘化3年(1846年)午歳の2月吉祥に奉納。「祈祷所 羽倉摂津守」「真鍮箔打屋」と刻まれています。羽倉は中世に台頭した荷田氏系の社家。真鍮箔打屋は真鍮箔を打つ職人のこと。江戸時代の 「守」は単なる肩書のようなものであり、昔の国司のように行政を担ったわけではありません。

「祈祷所 松本筑後守」「歌仙講」と刻まれた常夜燈 「祈祷所 松本筑後守」「歌仙講」と刻まれた常夜燈
神幸道脇に佇む猫
2020年9月19日。立入禁止箇所の「祈祷所 松本筑後守」「歌仙講」の常夜燈。あっ、猫ちゃんだ。

楼門に通じる神幸道 楼門に通じる神幸道
2019年2月24日と8月5日。かつては楼門前で神幸道と表参道が合流しました。元禄の大修理(p.7を参照)に際して楼門が東から西に移設されたため、現在の神幸道は楼門の左手にオフセットされています。小出淡路守守里の独断によって生まれた風景だと知って歩くと面白いですよ。

「羽倉伯耆守」と刻まれた常夜燈 「羽倉伯耆守」と刻まれた常夜燈
「羽倉伯耆守」と刻まれた常夜燈
2019年8月5日と2020年9月19日。この鳥居は昭和41年(1966年)に建立。常夜燈には「羽倉伯耆守」。 「道具講」の人々によって奉納されました。常夜燈一つ一つに、稲荷の神様に商売繁盛を祈願した庶民の想いがこめられています。

神幸道から楼門前 12
2019年2月24日と2020年10月11日。神幸道を抜けて楼門へ。境内に直通する石段とバリアフリー仕様のスロープが整備されています。

荘厳な楼門を彩る朱色と白狐の由来
次ページ、表参道の楼門に続きます。

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