東方巡遊記

伏見稲荷大社探訪 V

2022-02-05 改訂
2009-05-29~2021-07-25 実施

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目次

01.「伏見稲荷大社探訪」の目次と概要

05.表参道で秦氏と稲荷社の歴史を紹介

表参道熊野社/藤尾社/霊魂社

日本に渡来した秦の民山背国に入った秦氏深草の商人 秦大津父聖徳太子の側近 秦河勝
世阿弥が記した秦氏伝承東方Projectと秦氏伊奈利社の起源和銅4年の伊奈利社創建生子と伊禰奈利生伊奈利から稲荷へ「いなこん」の伊奈里神社当国無頼の一の鳥居国史に登場した稲荷社空海と稲荷大明神の邂逅平安京における稲荷社「正一位稲荷大明神」の誕生神仏習合の時代に発展した稲荷社応仁の乱による稲荷社壊滅馬が走った表参道稲荷社の社家明治時代の神仏分離表参道末社の由緒江戸時代に奉納された常夜燈|

表参道で秦氏と稲荷社の歴史を紹介

表参道

伏見稲荷大社の一の鳥居
2014年4月25日。伏見稲荷大社。表参道の一の鳥居。1300年以上の歴史を持つ社の入口です。

稲荷山地形図
稲荷山(233.8m)の地形図。伏見稲荷大社の本殿は、東山三十六峰の南端に位置する稲荷山の西麓に鎮座します。稲荷社の歴史を探訪する前に、稲荷社を創建した秦氏について紹介しておきましょう。

国土地理院の「地理院地図(新版)」にポイントを追記しています。

日本に渡来した秦の民

秦氏とは古代に活躍した朝鮮系渡来人の氏族です。『古事記』によると応神天皇御代、新羅人をはじめ秦造の祖、漢造の祖が日本に渡来します。『日本書紀』では応神天皇14年に百済から弓月君が渡来。この際、百二十県の人々を率いて日本にやってきたと記されます。おそらく神功皇后の三韓征伐伝説にも関係しているのでしょう。

『新撰姓氏録』では秦氏の祖は秦始皇帝と明記。秦始皇帝の子孫の融通王(弓月王)が応神天皇14年に、百二十七県の人々を率いて日本に帰化したと記されます。仁徳天皇御代には各地に分散されて養蚕に従事。秦王が献上した絹織物が高品質で肌膚(はだ)のようだったことに因み、「波多公」の姓を賜りました。中々こじつけっぽいです。

『日本書紀』によると雄略天皇15年、秦の民は分散して各地の豪族に使役されていました。天皇は自らが寵愛する秦造酒(秦酒公)の元に秦の民を集め、秦造酒は感謝のあまり百八十種の勝(首長)を率いて絹を献上。朝廷にうず高く積み上げたことから「禹豆麻佐(うつまさ)」の姓を賜り、秦氏の別名や地名として知られる「太秦」になりました。

……というのは秦氏の地位が確立して出来上がった伝承。秦氏の帰属意識を理解する上では重要な伝承でありますが、平安時代初期に編纂された『新撰姓氏録』の秦始皇帝の子孫とか波多公の由来は、現在の秦氏研究では実話と考えられていません。伏見稲荷でも同様の見解のようです。

山背国に入った秦氏

秦造酒が率いた秦氏は大和国(奈良県)の葛城に拠点を置いた後、まだ未開の地であった山背国(京都府)の深草と葛野に移住。大陸由来の高い技術を持っていた秦氏は山背国の開拓を進め、農業・養蚕・酒造・土木・鍛冶といった各種産業に従事しました。まさに「殖産興業の民」という表現が相応しい氏族です。

歴代の天皇が大和国で天下を治めていた頃、平城山の北に広がる山背国は秦氏によって開発され、拠点と言うより秦氏の領国のような地域になっていました。秦氏が武力で土着民を征服したという逸話は見当たらず、他の氏族のように不毛な権力闘争に明け暮れた記録もありません。争いを好まず産業に注力する氏族なんて珍しいです。藤原氏も見習って欲しい。

山背国に移住した秦氏のうち、深草と葛野は産業的に別の集団だったらしい。深草には葛野のような大規模な古墳が建造されず、当地の秦氏は土木よりも農業や商業に注力したと思われます。小規模な古墳は近年の開発によって破壊され、大部分は現存しません。深草で秦氏の名残を感じられるのは神奈備として守られた稲荷山ぐらい。近代化で古代の貴重な史跡が破壊されていくのは本当に残念です。

秦氏のルーツには諸説あり、その実態は謎に包まれています。古代史研究者の間では新羅または百済から来た集団と考えられ、古墳時代末期の5~6世紀頃に渡来して山背国に定住したようです。秦氏の出身地や渡来経緯を深く考察する記事ではありませんので、ここでは朝鮮半島から来た渡来人、という認識で十分です。

深草の商人 秦大津父

『日本書紀』によると古墳時代の欽明天皇の即位以前、すなわち宣化天皇御代(536~539年頃)に深草の秦氏が登場。欽明天皇が幼少時に「秦大津父を寵愛すれば天下を治められる」という夢を見て、山背国紀郡深草里にて秦大津父を見出しました。大津父は伊勢から帰る途上、山中で争う狼(貴神)を助けたと答え、天皇に寵愛されて大蔵省に任命されたとあります。

大津父は深草と伊勢を馬で往来する商人と記されます。秦氏は乗馬の文化を持ち、一帯で商業活動を行うほど有力な氏族でした。欽明天皇御代に国・郡・里の区分や大蔵省は存在しませんが、秦氏が大和朝廷に重用されていたことを示すエピソードです。重要でない氏族なら、わざわざ国史に記載しないでしょう。当時の深草には秦氏の拠点があったと想像できます。

それから100年ぐらい後、飛鳥時代の皇極天皇2年(643年)。豪族の蘇我入鹿は推古天皇崩御後の権力掌握を目指し、厩戸皇子(聖徳太子)の子であった山背大兄王を襲撃します。山背大兄王の側近であった三輪文屋君は、深草屯倉から馬で東国に逃れた上で態勢を立て直すよう助言。しかし山背大兄王は戦いを望まず、結局、一族もろとも斑鳩寺で自害する道を選びます。

この辺りの権力闘争は難しいテーマだから割愛して、深草に置かれた屯倉とは大和朝廷が管理する施設のこと。記録や遺構が残っておらず実態はよく分からないのですが、深草には山背大兄王の助力となるような秦氏の勢力があったらしい。但し、一連の政争に秦氏が関与することはありませんでした。基本的に政治や戦争は好まないようです。

聖徳太子の側近 秦河勝

秦氏の中でも特に有名な人物といえば、飛鳥時代に厩戸皇子(聖徳太子)の側近として活躍した秦河勝でしょう。河勝は葛野の秦氏なので稲荷社の創建には直接関わっていないものの、秦氏という氏族の位置付けを理解する上で外すことはできません。逆に、河勝の人物像を知るには秦氏全体を知る必要があります。

『日本書紀』によると古墳時代の欽明天皇13年(552年頃)、外国の宗教である仏教の受容を巡って蘇我稲目と中臣鎌子・物部尾輿が対立。この対立は仏教そのものより豪族の権力闘争の意味合いが強かったようで、飛鳥時代の用明天皇2年(587年)には丁未の乱として知られる内戦が勃発。蘇我馬子と対立した物部守屋が敗れ、物部氏は没落していきました。

平安時代初期に成立した『上宮聖徳太子伝補闕記』によると、秦河勝は蘇我派の厩戸皇子の側近として戦いに参加。厩戸皇子が放った矢が物部守屋に命中し、河勝が斬首したとあります。『日本書紀』には迹見赤檮が守屋を射殺したと記載されていますので、河勝が活躍するエピソードは後世の創作とみられますが、厩戸皇子の側近だったのは史実だと思います。

推古天皇11年(603年)、厩戸皇子から仏像を賜り蜂岡寺を創建。蜂岡寺は秦氏の本拠地である太秦に建てられ、後に広隆寺と称します。皇極天皇3年(644年)には東国の不尽河(富士川)の周辺において、大生部多なる人物が常世神(蚕に似た虫)を祀る宗教を布教。有害な信仰だったことから河勝によって打倒されました。その後の河勝の動向は不明。うつぼ舟に乗って播磨国(兵庫県)に流れ着き、大荒大明神としてお祀りされたという伝説が残ります。

世阿弥が記した秦氏伝承

秦氏の時代が過ぎ去った室町時代。観阿弥の息子で観世流二世の猿楽師、大和猿楽の大成者として知られる世阿弥が『風姿花伝』を執筆。幽玄能の極意について語る中で秦河勝と猿楽のルーツを紹介しています。世阿弥は秦氏の末裔の意識を持っていたらしく「左衛門大夫秦元清」を称し、『日本書紀』や『新撰姓氏録』にない秦氏の伝説を書き記しています。これも重要なので簡潔に触れておきましょう。

『風姿花伝』によると欽明天皇御代(540~571年頃)、大和国の泊瀬川(初瀬川)で洪水があって川上から壺が流れ、三輪(大神神社)の辺りで拾うと中に幼子(河勝)が入っていました。幼子は天皇の夢の中で「自分は秦始皇帝の末裔である」と語り、朝廷に重用されて秦の姓を賜ったそうな。もちろん伝説上の話ですよ。

後に、上宮太子(聖徳太子)が天下に障害があったとき、神代やインドの吉例に倣い六十六番の物真似をするよう河勝に命じ、六十六番の面を授けて紫宸殿で奉納させたところ天下が治まりました。上宮太子は後世のために神楽を申楽と改め、秦氏に継承されたと伝わります。河勝は猿楽の創始者としても崇められたのです。

東方Projectと秦氏

ここまで紹介してきた秦氏のエピソードは、当サイトの主題である東方Projectの元ネタでもあります。「神霊廟」に登場する豊聡耳神子はどう見ても聖徳太子がモデル。物部布都は物部守屋の妹。蘇我屠自古はその娘に相当します。「心綺楼」の秦こころは秦河勝の面が妖怪化したという設定。これも世阿弥の『風姿花伝』に基づいています。(世阿弥と秦こころについてはp.10も参照

「天空璋」には摩多羅神がモデルの摩多羅隠岐奈が登場。摩多羅神は秦河勝と同一視されることもあるけど難解すぎて分かりません。隠岐奈の設定は明らかに秦氏を意識していますし、考察派には大人気。ついでにアゲハ蝶の妖精のエタニティラルバも常世神っぽいです。秦こころが登場して以来、東方の秦氏要素が随分と強くなりました。(伏見稲荷と東方の関係はp.7を参照

伏見稲荷大社の一の鳥居 伏見稲荷大社の社号標
2019年2月24日。一の鳥居は朱塗りで黒い台輪の付いた明神鳥居の一種、稲荷鳥居です。鳥居の脇には「伏見稲荷大社」の社号標。よく見ると旧字体の「稻」が用いられています。

伊奈利社の起源

風土記云 称伊奈利者 秦中家忌寸等遠祖 伊侶臣秦公 積稲梁 有冨裕 乃用餅爲的者 化白鳥 飛翔居山峯 生子 遂爲社名 至其苗裔 悔先過而 抜社之木 殖家祷祭也 今殖其木 蘇者得福 殖其木 枯者不福

秦中家忌寸達の遠祖に伊侶具秦公なる人物がおり、稲梁(穀物)を積んで富み栄えました。ある時、餅を的にして矢を射たところ、的は白鳥と化して山の峰へと飛び去ります。そこで子を生んだことから社の名になりました。後に子孫は先祖の過ちを悔いて、社の木を家に移して奉斎。植えた木が繁ると福を得られ、枯れると福を得られないと伝わります。(現代語訳)

以上が奈良時代に編纂されたという『山背国風土記』の逸文。秦氏によって伊奈利社が創建された経緯が記されています。餅が白鳥になって飛び去る話は『豊後国風土記』の逸文にもあり、古の穀霊信仰・農耕祭祀に関係あるらしい。脈絡をつけて理解するのは難しいですが、この伝承が伏見稲荷大社の起源の定説になっていて、稲荷社の由緒では必ず紹介されるエピソードです。

逸文では「社の名になった」と書くだけで「伊奈利」や「稲荷」の由来は説明されません。元々「イナリ」と呼ばれた山が漢字で「伊奈利」と表記され、そこに秦氏の社が創建されて「伊奈利社」が成立した。という無難な解釈でいいと思います。「稲荷」の表記も奈良時代の風土記逸文には登場せず、平安時代初期に初めて「稲荷神社」として言及されます。(後述します)

残念ながら『山背国風土記』の原本は失われており、室町時代の『延喜式神名帳頭註』の中に逸文として残ります。伊奈利社創建のきっかけを作った秦公は伊侶臣や伊侶具などの表記揺れがあり、系図に久治良(くじら)や鮒主(ふなぬし)の名が見えることから、鱗に通じる「伊侶巨(いろこ)」が本来の名であった可能性が示唆されています。

伊奈利山の祭祀そのものは秦氏以前から存在したと考えられますが、流石に縄文時代まで遡って解明できず、起源を辿るのは不可能です。伊奈利社の歴史を分かりやすく解釈すると、当地に移住した秦氏が伊奈利山にあった土着の信仰を取り入れ、おそらく奈良時代初期に正式な社として創建した。ということになります。

和銅4年の伊奈利社創建

『山背国風土記』の逸文に伊奈利社の創建年代は明記されていません。奈良時代に編纂されたとすれば、伊侶巨秦公が餅を射たのは遠い昔(少なくとも平城遷都より前)の出来事であり、子孫の秦中家忌寸の時代に伊奈利社が成立したと推測されます。後世には奈良時代初期の和銅4年(711年)に創建されたとする由緒が広まって定着しました。

伊奈利社の創建年代に言及した最古の史料は平安時代前期、天暦3年(949年)の『神祇官勘文』です。明確な年代は不明としながらも、「和銅年中に初めて伊奈利山三ヶ峰の平地に顕現された」という禰宜・祝の申状を紹介しており、平安前期の時点で、稲荷社の秦氏の中で和銅年間の創建伝承があったことが分かります。

神道家の吉田兼右が室町時代に執筆したとされる『二十二社註式』によると、人皇43代の元明天皇御代、和銅4年(711年)に初めて伊奈利山三ヶ峰の平地に顕現。秦氏の祖の中家達が木を抜いて奉斎し、秦氏が禰宜・祝として春秋の祭祀に携わってきたと紹介します。ここで初めて和銅4年説が登場。根拠は示されず不明です。

兼右の祖父である吉田兼倶が文亀3年(1503年)に発表した『延喜式神名帳頭註』では、和銅4年の2月11日戊午と具体的に記載。吉田氏以外にも旧暦の2月を主張する説がいくつか提唱されました。これは平安時代に始まった2月初午の稲荷詣(p.19を参照)を意識した後付設定。実際の和銅4年2月に戊午日が存在しないことは散々指摘されています。

飛鳥時代末期の大宝元年(701年)に葛野の秦氏が創建した松尾社に対抗する意識があったのか、吉田氏が独自に作り出した説なのか、室町時代には揺るぎないものになった和銅4年説。現在の伏見稲荷大社でも和銅4年を定説として、平成23年(2011年)には鎮座1300年のイベントが行われました。2014年の「いなこん」は、そんな特別な雰囲気の中で放映されたのです。

長い歴史の中で失われてしまった『山背国風土記』。上述のように、伏見稲荷の由緒となる伝説は室町時代の逸文です。しかし伊奈利社の創建を伝える一連の文脈は詳細に研究されており、この逸文は奈良時代に編纂された『風土記』に基づくと推定されます。なので、むやみに疑ったりせず秦氏の世界を楽しんでください。

生子と伊禰奈利生

『延喜式神名帳頭註』に引用された風土記逸文の伊奈利社の創建伝承。白鳥が飛び去った後の展開は二説あり、『延喜式神名帳頭註』の最古の写本では白鳥が山の峰で「生子(子を生んだ)」、後世の写本では「伊禰奈利生(稲が生じた)」と記されています。どちらの説を採用しても、秦氏の伊奈利社の象徴は白鳥だったと解釈できます。

江戸時代後期の国学者である伴信友は、天保6年(1835年)に稲荷社の由緒を正す目的で『験の杉』を発表。風土記逸文の「生子」の箇所は誤りと決めつけ、伊奈利または稲荷の表記に合わせる「伊禰奈利生」が正当としました。以来、「稲が成った→稲成→稲荷」が稲荷の社名の由来として定着していたのが、最近では「生子」が本来の由緒として見直されつつあります。伏見稲荷の宮司さんも「生子」説を採用していました。

とは言え、伊奈利社と稲は決して無関係ではありませんでした。伊侶巨秦公が稲梁を積んだという表現から、この地域で大陸由来の稲作が行われた光景が浮かんできます。社の木を家に移して奉斎し、植えた木が繁ると福を得られるという信仰は平安時代の「しるしの杉」に繋がり、稲荷神社でお馴染みの五穀豊穣・商売繁盛の祈願にも結びつきます。(「しるしの杉」についてはp.19を参照

秦氏によって創建された「伊奈利社」が平安時代までに「稲荷社」の表記に変わり、長らく農耕の神様として崇敬されてきたことも事実。伴信友の改変はともかく伊奈利社の稲の要素まで否定しなくていいでしょう。後述する空海の伝説でも稲がキーアイテムになります。

伊奈利から稲荷へ

伊奈利社が創建された和銅年間は色々な出来事がありました。本格的な国家建設を目指した藤原不比等の主導で大宝律令が制定され、和銅3年(710年)に平城宮への遷都が行われて始まった奈良時代。和銅5年(712年)には太安万侶が完成させた『古事記』を元明天皇に献上し、天武天皇が稗田阿礼に語らせた日本の歴史がようやくまとめられました。

和銅6年(713年)、天皇は各国の地勢をまとめるように命じ、大部分は現存しませんが『風土記』として献上されています。このとき「地名は良い二文字で表記せよ」との通達が出されており、記録としては残っていないものの、平安時代までにイナリの表記が「伊奈利」から「稲荷」に変わったとみられます。(秦氏の伊奈利と荷田氏の稲荷はp.9で紹介

ちなみに山城国は古代には山代国と表記。秦氏が活躍し始める飛鳥時代には「大和国の向こう」という意味の「山背国」の表記が用いられるようになりました。『山背国風土記』が編纂された奈良時代も山背国です。和銅年間に山城国なる表記は存在しないので間違えないようお願いします。『山城国風土記』なんて書くと信憑性が下がりますから。

桓武天皇が訳アリで平城京→長岡京→平安京に遷都を決行した際、山背国は山河に守られた自然の要塞であると評して山城国に改称。藤原種継暗殺事件は割愛するとして、大和国から山背国への遷都には利便性の向上や旧勢力からの脱却、当地を開拓した秦氏を取り込む目的があったと考えられます。付け加えると、桓武天皇の生母(高野新笠)は百済の渡来人の末裔でした。

平安遷都直後の紀伊郡の郡司もほぼ秦氏によって占められており、『日本書紀』の宣化天皇御代に登場した秦大津父以来、伊奈利山のある深草一帯は秦氏の領地でした。そのような基盤の上で伊奈利社は稲荷社として発展することになります。伏見稲荷の由緒を語ると、ひたすら秦氏の話題ですね。

「いなこん」の伊奈里神社

「いなこん」の作中では、社号標は「伏見稲荷大社」→「伏見伊奈里大社」に改変。原作の台詞においては一貫して「伊奈里神社」と称します。現実の稲荷社が秦氏によって創建された頃は、上述のように「伊奈利」の表記を用いました。「いなこん」の「伊奈里神社」は伊奈利と深草の里を合わせたようなイメージを持っており、適当な当て字ではなかったりします。

伏見稲荷大社の社号標と一の鳥居
「伏見稲荷大社」の社号標
伏見稲荷大社の一の鳥居
2020年9月19日。「伏見稲荷大社」が正式名称になったのは昭和21年(1946年)のこと。この社号標は昭和23年(1948年)に建てられたものです。伏見稲荷のあらゆる話題を記事に取り入れるため、細部に注目します。(「伏見稲荷大社」に改称した事情はp.5を参照

当国無頼の一の鳥居

安土桃山時代の天正17年(1589年)に秦継長が描いた『社頭図』、秦親臣が写した江戸時代前期、寛文9年(1669年)の『寛文之大絵図』を見ると、近世の稲荷社には表参道と神幸道の入口に一基ずつ鳥居が建立。『寛文之大絵図』では朱塗りの鳥居だったことも確認でき、当時の稲荷社の大鳥居は「当国無頼」と称される立派なものでした。

表参道の大鳥居は近世に3回建て替えられています。江戸時代中期の享保16年(1731年)には、破損した大鳥居を永代のため銅製にしようという企画が持ち上がりました。作業小屋を設けて鋳物師が細工する段階まで進みましたが、結局中止されて木製の大鳥居が再建。幻の企画になった銅製鳥居の建立は稲荷社の鍛冶信仰に基づいていました。(鍛冶信仰はp.7p.21で説明します)

江戸時代最後の再建は万延元年(1860年)。全記録は不明ながら昭和10年(1934年)にも再建がありました。現在の一の鳥居は昭和47年(1972年)、三重県楠町の崇敬者により奉納されました。伏見稲荷の風景は庶民の寄進で成り立っており、その証を紹介するのも本記事の目的の一つです。

伏見稲荷大社の社号標 伏見稲荷大社の社号標と狐
早朝の一の鳥居と表参道
2019年2月24日。稲荷大神の眷属である白狐が一の鳥居を守ります。黄金の稲穂を咥えて尻尾に如意宝珠を載せた狐は、秦氏が伊奈利社を創建した頃には存在しなかった要素。中世の神仏習合を経て完成されたイメージであり、明治時代の廃仏毀釈を経ても根強く残りました。

国史に登場した稲荷社

国史において初めて稲荷社が登場するのは平安時代初期のこと。唐に渡って密教の奥義を学んだ僧侶の空海は弘仁7年(816年)、嵯峨天皇から紀伊国(和歌山県)の奥地にある高野山を賜り、後に金剛峯寺として知られる真言密教の一大道場を整備しました。その功績から、延喜21年(921年)に醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られます。

高野山整備の実績から弘仁14年(823年)には平安京の東寺を賜り、国家鎮護の寺院・真言密教の道場として伽藍の整備に着手。もちろん造営には材木が必要であり、最寄りの稲荷山の木々が伐採されました。天長3年(826年)に淳和天皇が空海に伐採の許可を与えた記録が残っており、五重塔造営のために立派な御神木が切り出されたと考えられます。神域を荒らす行為は、当然ながら神様に対する冒涜でありました。

『類聚国史』によると天長4年(827年)、天皇の病気が治らず、占いにより稲荷山の木々を伐採した祟りであることが判明。稲荷神社に内舎人の大中臣雄良を遣わせ、従五位下の神階を贈って怒りを鎮めています。当時の人々は、稲荷山に鎮座される神様が大いに怒って祟りをなし、伐採の許可を与えた淳和天皇を病気にしてしまったのだ、と解釈したのです。

都が大和国の平城京に置かれていた奈良時代には、秦氏の氏神様という地位に留まっていたと思われる伊奈利社。しかし平安遷都の直後に起きた稲荷山伐採事件で存在感を増し、『続日本後紀』によると承和12年(845年)には名神に指定されます。冒涜すれば祟りをなす反面、丁重にお祀りすれば効験あらたかな強大な神様と認識されていたのでしょう。

尚、稲荷山の材木を切り出して造営された東寺の五重塔は、空海の入寂から50年経った仁和2年(886年)に落雷で焼失。現在、京都タワーと並んで京都のシンボルになっている五重塔は、江戸時代初期の寛永21年(1644年)に建立された5代目となります。

空海と稲荷大明神の邂逅

空海から見た稲荷社の起源も紹介しておきましょう。東寺に伝わる『稲荷大明神流記』によると弘仁7年(816年)、紀州(和歌山県)の田辺宿に赴いた空海は異相の老翁(神)に出会います。空海は国家鎮護のために東寺を整備することを伝えて、再会を約束しました。

それから7年経ち、東寺の整備が始まる弘仁14年(823年)。老翁が稲を荷なって椙(杉)の葉を提げ、二女二子を伴って東寺南門に現れました。空海は喜んで老翁を歓待し、一行が八条二階堂の柴守長者の家に滞在している間、東寺の杣山(材木を切り出す山、すなわち稲荷山)を利生の勝地と定めて神様としてお祀りしました。これが稲荷社の起源として伝えられます。

『二十二社本縁』では数多の眷属を連れて稲を荷なった老翁が東寺を通り、空海が行き先を尋ねると「比叡の阿闍梨(最澄)に招かれた」と答えました。「東寺で仏法を守ってほしい」と空海に要望された老翁は守護を引き受け、東寺の鎮守社として稲荷社が創建されたという伝説が記されます。ここでは、稲荷大明神は老翁の姿でイメージされていました。

一連のエピソードは中世以降に普及したもので、空海が稲荷社を勧請した伝説は神仏習合の中で用いられました。実際には東寺を整備する際に稲荷社の秦氏をうまく懐柔したと思われますが、国学者の伴信友は仏教側に利用されたに過ぎないと強く批判しています。そのような仏教敵視の態度が明治の廃仏毀釈に繋がったのは言うまでもありません。

伏見稲荷大社探訪 V|稲荷祭で神輿が渡御する御旅所
神道と仏教の対立は不毛だからこれ以上煽りません。むしろ空海が稲荷山の材木を用いたことで東寺・稲荷社は親密な関係になり、後世の稲荷祭では稲荷社の神輿が東寺に入りました。東寺・伏見稲荷の友好関係は、神仏分離を経た今日まで受け継がれています。(稲荷祭についてはp.8、稲荷祭の御旅所はp.24を参照

朝日に照らされる一の鳥居と表参道 朝日に照らされる一の鳥居と表参道
2018年5月20日。東の稲荷山から朝日が昇ります。もう「いなこん」の話題が打ち消されそう。

山城国地図
平安京として整備された京都市の地図。葛野郡の松尾大社と木嶋坐天照御魂神社、紀伊郡の伏見稲荷大社と、秦氏に関係した寺社を表示しています。賀茂氏と秦氏によって開拓された山背国に、桓武天皇は色々あって遷都を決意。今日まで1200年続く山城国の平安京が成立したのです。

国土地理院の「地理院地図(新版)」にポイントを追記しています。

平安京における稲荷社

仏教が朝廷から庶民まで広く普及した平安時代。都周辺の社も祈雨・止雨の神様として依然丁重にお祀りされており、賀茂上下・貴船・松尾・乙訓などの社が朝廷の奉幣の対象になりました。当初は奉幣の対象ではなかった稲荷社も上述の伐採事件の後に重視され、『日本文徳天皇実録』や『日本三代実録』に頻出。やがて平安京を代表する神様として崇敬されるようになります。

大山咋神と中津島姫命をお祀りする松尾大社は、飛鳥時代末期の大宝元年(701年)の創建と伝わります。社伝によると文武天皇の勅命を受けた秦忌寸都理によって創建。松尾山にあった磐座信仰を葛野に移住した秦氏が取り入れて発展、氏神様として奉斎するという、稲荷社によく似た成立経緯なのでした。葛野の秦忌寸都理は深草の伊侶巨秦公の兄とする伝説もあります。

賀茂別雷命をお祀りする賀茂別雷神社(上賀茂神社)、賀茂建角身命と玉依姫命をお祀りする賀茂御祖神社(下鴨神社)は、愛宕郡を本拠地とする賀茂氏によって古代に創建されたと伝わります。葛野郡の秦氏は愛宕郡の賀茂氏に接近して協力関係を構築しており、山背国を開拓した秦氏は平安京の有力な社に関わっていました。京都の歴史は秦氏抜きに語れないのです。(賀茂氏と秦氏の関係についてはp.21を参照

中世に成立した『拾芥抄』によると、平安京の大内裏は秦ノ川勝(秦河勝)の邸宅跡。その出典は天慶9年(946年)から康保4年(967年)まで在位した村上天皇の日記『天暦御記』とされます。大内裏の造営前に秦河勝の邸宅があったのかは不明としか言いようがありませんが、天皇がそのような伝説を日記に書くほど秦氏の影響力が強い地域だったと分かります。

平安時代中期の承平・天慶年間(931~947年)、東で平将門の乱、西で藤原純友の乱が相次いで発生しました。石清水八幡宮に鎮座される八幡大神に国土平定を祈願する一方、稲荷社にも奉幣が行われ、国家鎮護の神様として頼られました。九州の秦氏にルーツを持つ八幡信仰も紹介したいところですが、秦王国に触れると収拾がつかないから省略させてください。

延長5年(927年)に成立した『延喜式神名帳』には「稲荷神社三座」とあり、既に名神祭・月次祭・新嘗祭が行われる有力な官幣大社になっていました。村上天皇御代の応和3年(963年)以来は「巽の守護神」と称され、「東の厳神」たる賀茂社、「西の猛霊」たる松尾社と並び、平安京の東南を守護する重要な社に位置付けられました。

天慶5年(942年)または延久3年(1071年)に正一位の神階が贈られたらしく、従五位下の授与から100~200年で正一位に到達しています。延久4年(1072年)には後三条天皇が初めて稲荷社に行幸。庶民、貴族、天皇からも崇敬される社になりました。

「正一位稲荷大明神」の誕生

大西親業が江戸時代後期の寛政年間(1789~1801年)に編纂した『稲荷社事実考証記』によると、鎌倉時代初期の建久9年(1194年)に後鳥羽天皇が稲荷社に行幸され、稲荷社の勧請に際しては正一位の神階を書き加えてよいとの勅許がありました。「正一位稲荷大明神」の神号は後世、勧進聖(僧侶)の精力的な活動によって諸国の人々に普及。現在でも正一位は稲荷の代名詞になっています。

平安時代に大きく発展した稲荷社ですが、室町時代の応仁の乱で壊滅。貴重な書物を焼失し、正一位の神階を示す位記どころか授与年代すら不明になりました。江戸時代後期の明和4年(1767年)、神祇伯を務める白川家から稲荷社の社家に問い合わせがあるも、応仁の乱で焼失して記録が残っていないと返答しています。

その後も白川家と奉行所から問い合わせがあり、文化2年(1805年)には光格天皇によって正一位の神階授与を天慶5年(942年)とすることが認められました。根拠は平安時代末期に編纂された『本朝世紀』であり、平将門の乱・藤原純友の乱に際して神階が一階増されたというもの。これが現在の伏見稲荷大社でも定説になっています。

補足しておくと、正一位を授与された神様は他にも沢山存在します。稲荷大明神だけが正一位というわけではありません。でも諸国に勧請されて広まった正一位の称号は、うか様には重荷のようですね……

神仏習合の時代に発展した稲荷社

伊奈利山に顕現された神様は稲を荷なう農耕神のイメージを持ち、『延喜式神名帳』に記される以前から稲荷信仰が確立していました。経緯は不明ながら平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、三座に加えて五座の神様をお祀りするようになります。(祭神の来歴については本殿で詳しく紹介。 p.8を参照してください)

鎌倉時代には密教や狐の要素が加わり神仏習合の社として発展。室町時代の長禄3年(1459年)に描かれた『稲荷社指図』によると、山麓の社殿(現在の本殿に相当)に四大神(毘沙門)・中御前(千手)・大タラチメ(如意輪)・大明神(十一面)・田中(不動)が鎮座され、それぞれ本地仏が設定されていることが分かります。

室町時代に応仁の乱が勃発し、応仁2年(1468年)に稲荷社は壊滅。勧進聖(僧侶)の尽力によって明応8年(1499年)に五社相殿の本殿が再建。文亀3年(1503年)の『延喜式神名帳頭註』には神名が倉稲魂神と記されており、明応の正遷宮の頃、主祭神が『古事記』に登場する宇迦之御魂大神と確立したようです。

安土桃山時代の文禄3年(1594年)に正式な本願所が発足。江戸時代初期の寛永10年(1633年)には愛染寺を称しました。愛染寺の僧侶は諸国を巡って庶民に稲荷信仰を広め、全国規模で正一位稲荷大明神がお祀りされるようになりました。勧進聖の精力的な活動が稲荷の知名度を上げたと言っていいでしょう。

但し、勧進聖は神仏習合・本地垂迹の世界観に基づき、荼枳尼天・弁財天・歓喜天を混淆した稲荷信仰を広めました。稲荷社でも存在感を増したことから社家の反発を招き、明治時代になると神仏分離の流れで愛染寺は直ちに破却。稲荷社の発展に寄与した神仏習合の稲荷信仰は廃絶されてしまいました。

応仁の乱による稲荷社壊滅

室町時代の応仁元年(1467年)に応仁の乱が勃発。応仁2年(1468年)、東軍の総大将、細川勝元配下の骨皮道賢は稲荷山に拠点を置き、西軍に対する襲撃を展開。稲荷山は潜伏に適した地形だったのです。そこで西軍は総攻撃を行い、1日だけ戦場となった稲荷社は壊滅。山麓の社殿は焼失し、数々の社があった稲荷山も荒廃します。道賢は女装して逃走するも、捕まって討ち取られました。

稲荷山壊滅を招いた戦いには稲荷社の社家も関わっていました。後述するように稲荷社には秦氏系・荷田氏系の社家がおり、主導権を巡って対立していました。荷田氏の後裔を称する荷田延幹(羽倉氏)が秦氏の打倒を目論み、骨皮道賢と結託して稲荷山に潜伏させた裏事情があります。応仁の乱の後、明応の正遷宮は荷田氏が主導しており、社家の対立は近世まで続きます。

東福寺の僧侶、雲泉太極の『碧山日録』によると、稲荷山が壊滅する前、月のように光る大傘のような物が空を飛び、神様が群聚の穢れを避けるため去っていったと解釈しています。戦いだけでなく、社家の不毛な対立も穢れであったということでしょう。神域内での争いは忌み嫌われるものですから。

応仁の乱では正一位の位記を含む数多くの記録が焼失。稲荷社の歴史が失われました。幸いなことに文殊像・空海御影・五基の神輿は事前に戦火を避けるべく持ち出されており、神輿は東寺に預けられた後、仮殿に戻されました。ここでも稲荷社と東寺の関係が活かされていたのです。

早朝の表参道
一の鳥居をくぐって表参道へ。昼間は大混雑するため早朝からの探訪が基本です。

朝の表参道 朝日に照らされる表参道 朝日に照らされる表参道
2013年5月2日と2018年5月20日。観光客は年々増加しており早朝でも多いです。1枚目のフィルムはKodak SUPER GOLD 400でした。

馬が走った表参道

古くは馬場と呼ばれた表参道。100mぐらいの直線で馬を走らせる神事に使用されました。江戸時代初期から表参道の構成は変わっておらず、後述の藤尾社に走馬を奉納する神事が人気だったようです。最後の走馬が行われたのは明治9年(1876年)のこと。後年、近代化の一環で石畳になって馬は走れなくなりました。

表参道に残る秦氏系の大西家
2020年9月19日補完分の表参道。左手に旧社家の大西家があります。

稲荷社の社家

かつて表参道両側には稲荷社の祭祀や運営を担う社家の屋敷が立ち並びました。江戸時代後期の記録では左手に東大西家、北羽倉家、大西家、羽倉下野家、毛利分家、祓川家。右手に松本家、羽倉家、毛利家。西羽倉家、中津瀬家、鳥居南家がありました。稲荷社前の一帯は社家町になっていたのです。

これらの社家は稲荷社の由緒に登場する秦氏や荷田氏の末裔の意識を持ち、大西家や毛利家は秦氏系、羽倉家は荷田氏系の祠官として稲荷社を運営しました。室町時代の明応8年(1499年)の正遷宮の際、神主・禰宜・祝は秦氏系、御殿預・目代は荷田氏系の社家によって構成されていました。(明応の正遷宮はp.8、荷田氏についてはp.9で紹介

古代の秦氏と荷田氏の関係はよく分かっておらず、近世の社家が本当に古代史族の末裔なのかも不明です。中世に荷田氏の後裔を称して台頭した羽倉氏は明らかに部外者であり、秦氏系の社家と深刻な対立関係にありました。上述したように、稲荷山が応仁の乱の戦場になったのは羽倉氏が秦氏を打倒するための策が原因でした。

明治時代、社家と対立した愛染寺を破却に追い込んだのも束の間、神社改革によって社家も徐々に衰退。参道周辺が荒廃しないように稲荷神社が社家屋敷の土地を買収して整備されました。現在、辛うじて秦氏系の大西家の一部が存続。旧社家を示す表札が掲げられています。殆どの方が気付かず通り過ぎていると思いますが。

講員大祭の献燈が並ぶ表参道 講員大祭の献燈が並ぶ表参道
2020年10月11日。この日は講員大祭。表参道に献燈が並んでいました。

「官幣大社 稲荷神社」の社号標
「官幣大社 稲荷神社」の社号標 「官幣大社 稲荷神社」の社号標
2014年7月12日と2020年9月19日。表参道の途中、左手に「官幣大社 稲荷神社」の社号標が残ります。裏側を見ると明治8年(1875年)の奉納。明治維新の激動の中で変容せざるを得なかった新しい稲荷神社を示します。

明治時代の神仏分離

慶応3年(1867年)に徳川慶喜が大政奉還を行い、鳥羽・伏見の戦いや戊辰戦争の混乱を経て新政府が全国を統一。江戸幕府を廃して天皇を中心とする日本を復活させました。この動乱を明治維新といいます。近代化の一環で断行された改革は、日本中に多くの混乱をもたらしました。

明治元年(1868年)に神仏判然令が出されると、全国規模で廃仏毀釈の嵐が吹き荒れました。歴史ある神仏習合の信仰は否定され、神社と寺院は明確に区別され、修験道は禁止。仏教に不満を持っていた人々により寺院や仏像の破壊運動まで行われました。神仏混淆の祇園社(八坂神社に改称)は特に大きな打撃を受けたことで知られ、この時期に失われた信仰と文化は枚挙に暇がありません。二度と繰り返してはならない蛮行です。

伏見稲荷大社探訪 V|稲荷社の一大勢力だった愛染寺跡
稲荷社では本願所であった愛染寺(p.10を参照)をはじめとする諸堂や仏像・神像が、仏教勢力を快く思わない社家によって速やかに撤去。明治4年(1871年)には近代社格制度の導入で官幣大社の「稲荷神社」になり、仏教色を廃した新しい稲荷神社として、境内や参道が急速に近代化されました。現在の伏見稲荷の風景は、庶民の信仰などお構いなしに仏教要素を排除して出来上がったもの。その事実を知っておく必要があります。

明治の神仏分離は、社家からすれば愛染寺を破却するチャンスだったかもしれません。しかし明治4年の上知令(上地令とも)によって、神奈備である稲荷山の大部分が官有地として奪われてしまい、国家が神道・神社を管理する神社改革の影響で、社家も衰退を余儀なくされます。明治の改革は、応仁の乱の破壊に匹敵する重大事件でした。古代より祭祀の場であった稲荷山を没収された分、応仁の乱より甚大な被害を蒙ったと言えるでしょう。

戦後は国家による管理から解放され、官幣大社の称号も無くなりました。昭和21年(1946年)になって「伏見稲荷大社」に改称。本殿の正遷座祭を経て稲荷神社の新しい時代が始まります。全国の神社を統括する神社本庁には敢えて属しておらず、単立宗教法人として稲荷山の祭祀を継続する伏見稲荷大社。残念ながら明治の廃仏毀釈により、仏教要素は殆ど残っていません。

個人的に、『延喜式』を上辺だけ真似た近代社格制度なる格付けには何の意義も感じません。神社巡りの旅をやっていると、明治時代の神仏分離や神社改革の影響で古い信仰形態や伝統が廃絶させられたことに気付きます。だからといってその話題を隠蔽したり、正当化することはできず、ここでも稲荷社の負の歴史の一部として紹介しなければならないのです。

熊野社/藤尾社/霊魂社

表参道脇の末社と儀式殿 官幣大社稲荷神社の社号標
表参道脇の末社と稲荷神社の社号標 官幣大社稲荷神社の社号標
2019年2月24日と2018年5月20日。社号標の左手に末社が鎮座。詳しく見ていきましょう。

表参道末社の由緒

左は伊邪那美大神をお祀りする熊野社。平安時代末期に皇族や貴族の間で流行した熊野詣では、稲荷社に護法送りと奉幣するのが定例になっていました。稲荷大明神が熊野参詣者に護法童子を遣わして守護するとの信仰によるものですが、どのような経緯で稲荷社と熊野三山の信仰が習合したのかは分かっていません。平安時代には現在の本殿の南にあったのが移転を繰り返し、昭和34年(1959年)に表参道脇に遷座されました。

中央は舎人親王をお祀りする藤尾社。『日本書紀』を編纂した人物として知られます。安土桃山時代の天正17年(1589年)には再建されており、江戸時代前期の延宝8年(1680年)に天皇塚跡に創建されました。天皇塚が舎人親王の陵墓であったのかは不明。稲荷山西麓に本殿が遷された際、元々あった藤尾社を藤森神社に遷座。その名残として現在の藤尾社が創建された…と伝わります。古くは御田社と称したらしく、農耕祭祀に関係ありそうです。

右は稲荷社に関わり深い物故者をお祀りする霊魂社。明治17年(1884年)に創建されたという記録が残っているのに、平成の修理中、慶応2年(1866年)に釿初めとの銘札が発見。当時は御鎮守御造営多峯御社と称したようです。ちなみ霊魂社には後醍醐天皇に仕えた大江景繁(p.14を参照)が合祀されています。

末社の奥に見えるのは儀式殿。コンクリートの板材を組み合わせた現代的な建物であり、御朱印の授与所や結婚式場として使われます。建築関係者が興味津々で吸い寄せられるような構造ですね。

熊野社の由緒
藤尾社の由緒 霊魂社の由緒
2019年2月24日。由緒が分かるように札の写真は欠かさず撮影すること。全て記録します。

表参道脇の末社 表参道脇の儀式殿
2020年9月19日。境内や境外にひっそり佇む摂末社は、本社の歴史において重要な意味を持っていたりします。伏見稲荷の一番詳しい記事を作る目的で探訪しているため、本殿に至る参道の周辺も注意深く観察しながら歩きます。殆どの方は秦氏のルーツの時点でリタイアしてそう。

「日之出搆」「大西相模守」と刻まれた常夜燈 「日之出搆」「大西相模守」と刻まれた常夜燈
「大西相模守」と刻まれた常夜燈 「講元 近江屋?兵衛 鍵屋理右衛門」と刻まれた常夜燈
2020年9月19日と10月11日。表参道脇の石燈籠(常夜燈)。危険ですから登らないでください。

江戸時代に奉納された常夜燈

この常夜燈の柱には「日之出搆」「講元 近江屋□兵衛 鍵屋理右衛門」「祈祷所 大西相模守」と刻まれています。大西とは上述した秦氏系の社家。稲荷社を崇敬する日之出講の二人が、大西氏の取り次ぎで常夜燈を奉納したと読み取れます。奉納年月は「戊午三月」とあるのみで安政か寛政かは不明。江戸時代の常夜燈であることは間違いないでしょう。

伏見稲荷大社探訪 V|橋聖に因む十石橋と江戸期の常夜燈
伏見稲荷の参道や境内に立ち並ぶ常夜燈をよく見ると、明治や大正に混じって江戸時代の元号が刻まれていることに気付きます。奉納年月日はもちろん、奉納した講や庶民の名、奉納を取り次いだ社家や愛染寺をはっきり読み取れる常夜燈が数多く残っており、稲荷社の歴史を伝える貴重な文化財です。本記事では神幸道(p.6)、本殿周辺(p.8)、山麓参道(p.16)、十石橋付近(p.26)の興味深い常夜燈を詳しく紹介しています。とても重要なので一つ一つ確認してみてください。

早朝の二の鳥居と楼門
表参道の二の鳥居までやってきました。楼門の由緒を紹介する前に北側の参道へ。

祓川沿いの神幸道と江戸期の常夜燈
次ページ、神幸道を歩いて楼門に向かいます。

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