東方巡遊記

伏見稲荷大社探訪 V

2022-08-07 改訂
2009-05-29~2022-07-30 実施

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目次

01.「伏見稲荷大社探訪」の目次と概要

05.表参道で秦氏と稲荷社の歴史を紹介

表参道熊野社/藤尾社/霊魂社

日本に渡来した秦の民山背国に入った秦氏深草の商人 秦大津父聖徳太子の側近 秦河勝
世阿弥が記した秦氏伝承東方Projectと秦氏「いなこん」の伊奈里神社伊奈利社の起源和銅4年の伊奈利社創建生子と伊禰奈利生伊奈利から稲荷へ桓武天皇の山背国遷都秦氏の基盤上に成り立つ平安京国史に登場した稲荷社空海と稲荷大明神の邂逅平安京における稲荷社「正一位稲荷大明神」の誕生神仏習合の時代に発展した稲荷社応仁の乱による稲荷社壊滅当国無頼の一の鳥居馬が走った表参道秦氏系・荷田氏系の社家禁門の変における稲荷社明治時代の神仏分離表参道の末社の由緒江戸時代に奉納された常夜燈

表参道で秦氏と稲荷社の歴史を紹介

表参道

伏見稲荷大社の一の鳥居
2014年4月25日。伏見稲荷大社。表参道の一の鳥居。1300年以上の歴史を持つ社の入口です。

山城国地図
平安京から発展した京都市街の地図。葛野郡の葛野大堰・松尾大社・広隆寺・平安宮跡、紀伊郡の伏見稲荷大社と、秦氏に関係した史跡や寺社を表示しています。

稲荷山地形図
稲荷山(233.8m)の地形図。伏見稲荷大社の本殿は、東山三十六峰の南端に位置する稲荷山の西麓に鎮座します。稲荷社の歴史を探訪する前に、山背国を開拓した秦氏について紹介しておきましょう。

国土地理院の「地理院地図(新版)」にポイントを追記しています。

日本に渡来した秦の民

秦氏とは古代の日本で活躍した朝鮮系渡来人の氏族です。『古事記』によると応神天皇御代、新羅人が日本に渡来して百済池を造営。秦造の祖、漢造の祖、醸酒技術を持つ仁番(須須許理)らも渡来したと記されています。『日本書紀』では応神天皇14年に百済から弓月君が渡来。この際、百二十県の人々を率いて日本にやってきたと奏上しています。これらの朝鮮系渡来人の記述は、応神天皇の母である神功皇后の三韓征伐伝説に関係していると見られ、完全な史実ではないでしょう。

同じく『日本書紀』によると雄略天皇15年、秦の民は分散して各地の豪族に使役されていました。天皇は自らが寵愛する秦造酒(秦酒公)の元に秦の民を集め、秦造酒は感謝のあまり百八十種の勝(首長)を率いて絹を献上。朝廷にうず高く積み上げたことから「禹豆麻佐(うつまさ)」の姓を賜り、秦氏の別名や山背国の地名として知られる「太秦」になりました。これは地名説話の一種です。

平安時代初期、嵯峨天皇の勅命で編纂された『新撰姓氏録』では、秦氏(太秦公)の祖が秦の始皇帝であると明記。秦の始皇帝の末裔の融通王が応神天皇14年に百二十七県の人々を率いて日本に帰化したと記され、『日本書紀』に登場した弓月君が融通王と同一視されています。融通王は仁徳天皇御代には分散されて養蚕に従事していたのが、秦王が献上した絹織物が高品質で肌膚(はだ)のようだったことに因み、「波多公」の姓を賜ったとあります。これも中々こじつけっぽいです。

朝鮮半島から日本に帰化した人々が「秦」を称し、大陸由来の技術で活躍したのは事実です。しかし『古事記』と『日本書紀』が史実をそのまま記述しているとは思えず、『新撰姓氏録』に記された秦の始皇帝の伝承などは、平安遷都で秦氏の地位が確立してから出来上がったものと考えられます。秦氏の性質や帰属意識を理解する上で重要な伝承でありますが、現在の秦氏研究では史実と見なされていません。伏見稲荷でも同様の見解のようです。

山背国に入った秦氏

『新撰姓氏録』によると、応神天皇御代に帰化した秦氏は大和国(奈良県)の葛城山麓に拠点を置きました。この記述が史実であるかは疑わしいものの、5世紀後半には未開の地であった山背国(京都府)の深草と嵯峨野に移住したと見られます。大陸由来の高度な技術を持っていた秦氏は山背国の開拓を進め、農業・養蚕・酒造・土木・鍛冶といった各種産業に従事しました。まさに「殖産興業の民」という表現が相応しい氏族であり、その精力的な活動は後世の平安遷都の礎になります。

歴代の天皇が河内国や大和国で天下を治めていた頃、平城山の北に広がる山背国は秦氏によって開発され、拠点と言うより秦氏の領国のような地域になっていました。秦氏以外にも豪族や土着民は存在しましたが、秦氏が武力を用いて征服したという逸話は見当たらず、他の氏族のように不毛な権力闘争に明け暮れた記録もありません。むしろ伊奈利社や松尾社を創建するなど、日本の文化に馴染んでいます。争いを好まず産業に注力する氏族は珍しい。藤原氏も見習って欲しいです。

山背国に移住した秦氏のうち、深草と嵯峨野は産業的に別の集団だったらしい。嵯峨野の秦氏は桂川に葛野大堰(ダム)を整備し、複数の前方後円墳を造営するなど土木工事を得意としました。一方、深草には古墳が少なく、当地の秦氏は土木よりも農業や商業に注力したと思われます。僅かに築かれた古墳は近年の開発によって破壊され、大部分は現存しません。残念ながら、現代の深草で秦氏の名残を感じられるのは神奈備として守られた稲荷山ぐらいです。

秦氏のルーツには諸説あり、出身地や渡来時期などの実態は謎に包まれています。古代史研究者の間では新羅系の集団と考えられ、古墳時代末期の5~6世紀頃に渡来して山背国に定住した、という見解が提示されています。秦氏の素性について考察すると収拾がつかなくなりますから、稲荷社の歴史を知る上で必要な情報のみ紹介しました。秦氏は朝鮮半島から来た渡来人、という認識で十分です。

深草の商人 秦大津父

『日本書紀』によると古墳時代の欽明天皇の即位以前、すなわち宣化天皇御代(536~539年頃)に深草の秦氏が初登場します。欽明天皇は幼少時に「秦大津父を寵愛すれば必ず天下を治められる」という夢を見て、山背国紀郡深草里に使者を送って秦大津父を見出しました。何か思いあたりはないかと問われた大津父は、伊勢に商いに行って帰る途上、山中で噛み合う二匹の狼(貴神)を助けてやったと答えました。その後、大津父は大きな富を得て、天皇に寵愛されて大蔵省に任命されました。

秦大津父は深草と伊勢を馬で往来する商人でした。『日本書紀』の記述は、秦氏が乗馬の文化を持っていたこと、深草を拠点に商業活動を行っていたこと、大和朝廷に重用される有力な氏族だったことを示します。欽明天皇御代に国・郡・里の区分や大蔵省は存在せず、『日本書紀』編纂時の知識で脚色されているものの、深草の秦氏の性質は理解できます。尚、伊勢国は水銀鉱物の辰砂の産地だったことから、大津父が水銀の商人だったとする説もあります。(p.7を参照

それから100年ぐらい後、飛鳥時代の皇極天皇2年(643年)。豪族の蘇我入鹿は推古天皇崩御後の権力掌握を目指し、厩戸皇子(聖徳太子)の子であった山背大兄王を襲撃します。山背大兄王の側近の三輪文屋君は、深草屯倉から馬で東国に逃れた上で態勢を立て直すよう助言。しかし山背大兄王は戦いを望まず、結局、一族もろとも斑鳩寺で自害する道を選びました。

この辺りの権力闘争は難しいテーマだから割愛するとして、深草に置かれた屯倉とは大和朝廷が管理する施設のこと。記録や遺構が残っておらず実態は不明ですが、深草には山背大兄王の助力となるような秦氏の拠点や勢力があったと想像できます。但し、一連の政争に秦氏が関与することはありませんでした。基本的に政治や戦争は好まないようです。

聖徳太子の側近 秦河勝

秦氏の中でも特に有名な人物といえば、飛鳥時代に厩戸皇子(聖徳太子)の側近として活躍した秦河勝でしょう。河勝の出自は嵯峨野に拠点を置いた秦氏と推測されており、深草の伊奈利社創建には直接関わっていないものの、秦氏という氏族の位置付けを理解する上で外すことはできません。逆に、河勝の人物像を知るには秦氏全体を知る必要があります。

『日本書紀』によると古墳時代の欽明天皇13年(552年頃)、外国の宗教である仏教の受容を巡って蘇我稲目と中臣鎌子・物部尾輿が対立。この対立は仏教そのものより豪族の権力闘争の意味合いが強かったようで、飛鳥時代の用明天皇2年(587年)には丁未の乱として知られる内戦が勃発。蘇我馬子と対立した物部守屋が敗れ、物部氏は没落していきました。

平安時代初期に成立した『上宮聖徳太子伝補闕記』によると、秦河勝は蘇我派の厩戸皇子の側近として戦いに参加。厩戸皇子が放った矢が物部守屋に命中し、河勝が斬首したとあります。『日本書紀』には迹見赤檮が守屋を射殺したと記載されていますので、河勝が活躍するエピソードは後世の創作とみられますが、厩戸皇子の有能な側近だったのは史実だと思います。

推古天皇11年(603年)、河勝は厩戸皇子から仏像を賜り蜂岡寺を創建。秦氏の本拠地である太秦に建てられ、後に広隆寺と称します。皇極天皇3年(644年)には東国の不尽河(富士川)の周辺において、大生部多なる人物が常世神(蚕に似た虫)を祀る宗教を庶民に布教。有害な信仰と見なした河勝によって打倒されました。当時の人々は以下の歌を作って河勝を讃えています。

太秦は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲ますも

これが『日本書紀』における河勝の最後の記録です。翌年の皇極天皇3年(645年)、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を打倒する乙巳の変が起こりますが、河勝の動向や晩年は不明です。後世の伝説では、世を儚んだ河勝が「うつぼ舟」に乗って播磨国(兵庫県)に流れ着いたことになっており、当地では大荒大明神としてお祀りされています。

世阿弥が記した秦氏伝承

秦氏の時代が過ぎ去った室町時代。観阿弥の息子で観世流二世の猿楽師、大和猿楽の大成者として知られる世阿弥が『風姿花伝』を執筆。幽玄能の極意について語る中で秦河勝と猿楽のルーツを紹介しています。世阿弥は自身を秦氏の末裔と意識していたらしく「左衛門大夫秦元清」を称し、『日本書紀』や『新撰姓氏録』にない秦氏の伝説を書き記しています。これも重要なので簡潔に触れておきましょう。

『風姿花伝』によると欽明天皇御代(540~571年頃)、大和国の泊瀬川(初瀬川)で洪水があって川上から壺が流れ、三輪(大神神社)の辺りで拾うと中に幼子(河勝)が入っていました。幼子は天皇の夢の中で「自分は秦始皇帝の末裔である」と語り、朝廷に重用されて秦の姓を賜りました。秦の始皇帝の末裔という設定は、上述した『新撰姓氏録』から受け継がれたものです。

後に、上宮太子(聖徳太子)が天下に障害があったとき、神代やインドの吉例に倣い六十六番の物真似をするよう河勝に命じ、六十六番の面を授けて紫宸殿で奉納させたところ天下が治まりました。上宮太子は後世のために神楽を申楽と改め、その芸能は秦氏に継承されたと伝わります。もちろん後世の創作なのですが、河勝は猿楽の創始者としても崇められるようになったのです。

東方Projectと秦氏

ここまで紹介してきた秦氏のエピソードは、当サイトの主題である東方Projectの元ネタでもあります。2011年の「東方神霊廟」に登場する豊聡耳神子はどう見ても聖徳太子(厩戸豊聡耳皇子)がモデル。物部布都は丁未の乱で敗れた物部守屋の妹。蘇我屠自古はその娘に相当します。2013年の「東方心綺楼」に登場する秦こころは秦河勝の面が妖怪化したキャラクター。全部で六十六面あるという設定は世阿弥の『風姿花伝』に基づきます。(世阿弥と秦こころについてはp.10も参照

2017年の「東方天空璋」には摩多羅神がモデルの摩多羅隠岐奈が登場します。摩多羅神は秦河勝と同一視されることもある謎の秘神。隠岐奈の設定は明らかに秦氏を意識しており、難解な考察を好む東方ファンには大人気です。ついでにアゲハ蝶の妖精のエタニティラルバも、河勝に滅ぼされた常世神の要素を感じさせます。秦こころが登場して以来、東方の秦氏要素が随分と強くなりました。(伏見稲荷と東方の関係はp.7を参照

ちなみに、東方に秦河勝が初登場するのは2010年の「妖精大戦争」です。EXステージにおけるチルノのセリフに「楽勝、楽勝、秦河勝」とあり、特に意味のない言葉遊びで秦河勝が用いられています。この時期から秦氏要素を盛り込む構想があったと思われますが、当時の私は秦氏について詳しく知らず、チルノのセリフは読み飛ばしていました。それから12年後に、こんな記事を書いています。

伏見稲荷大社の一の鳥居 伏見稲荷大社の社号標
2019年2月24日。一の鳥居は朱塗りで黒い台輪の付いた明神鳥居の一種、稲荷鳥居です。鳥居の脇には「伏見稲荷大社」の社号標。よく見ると旧字体の「稻」が用いられています。

「いなこん」の伊奈里神社

「いなこん」の作中では、社号標は「伏見稲荷大社」→「伏見伊奈里大社」に改変。原作の台詞においては一貫して「伊奈里神社」と称します。現実の稲荷社が秦氏によって創建された頃は、以下で述べるように「伊奈利」の表記を用いました。「いなこん」の「伊奈里神社」は伊奈利と深草の里を合わせたようなイメージを持っており、適当な当て字ではなかったりします。

伊奈利社の起源

風土記云 称伊奈利者 秦中家忌寸等遠祖 伊侶臣秦公 積稲梁 有冨裕 乃用餅爲的者 化白鳥 飛翔居山峯 生子 遂爲社名 至其苗裔 悔先過而 抜社之木 殖家祷祭也 今殖其木 蘇者得福 殖其木 枯者不福

秦中家忌寸達の遠祖に伊侶具秦公なる人物がおり、稲梁(穀物)を積んで富み栄えました。ある時、餅を的にして矢を射たところ、的は白鳥と化して山の峰へと飛び去ります。そこで子を生んだことから社の名になりました。後に子孫は先祖の過ちを悔いて、社の木を家に移して奉斎。植えた木が繁ると福を得られ、枯れると福を得られないと伝わります。(現代語訳)

以上が奈良時代に編纂されたという『山背国風土記』の逸文。秦氏によって伊奈利社が創建された経緯が記されています。餅が白鳥になって飛び去る話は『豊後国風土記』の逸文にもあり、古の穀霊信仰・農耕祭祀に関係します。脈絡をつけて理解するのは難しいですが、この伝承が伏見稲荷大社の起源の定説になっていて、稲荷社の由緒では必ず紹介されるエピソードです。

逸文では「社の名になった」と書くだけで「伊奈利」や「稲荷」の由来は説明されません。元々「イナリ」と呼ばれた山が漢字で「伊奈利」と表記され、そこに秦氏の社が創建されて「伊奈利社」が成立した。という無難な解釈でいいと思います。「稲荷」の表記も奈良時代の風土記逸文には登場せず、平安時代初期に初めて「稲荷神社」として言及されます。(後述します)

残念ながら『山背国風土記』の原本は失われており、室町時代の『延喜式神名帳頭註』の中に逸文として残ります。また、伊奈利社創建のきっかけを作った秦公は伊侶臣や伊侶具などの表記揺れがあります。社家の系図に久治良(くじら)や鮒主(ふなぬし)の名が見えることから、鱗に通じる「伊侶巨(いろこ)」が本来の名であった可能性が示唆されているものの、系図自体の信憑性は不明です。

伊奈利山の祭祀そのものは秦氏以前から存在したと考えられますが、流石に弥生時代や縄文時代まで遡って解明できず、起源を辿るのは不可能です。伊奈利社の歴史を分かりやすく解釈すると、深草に移住した秦氏が伊奈利山にあった土着の信仰を取り入れ、おそらく奈良時代初期に正式な社として創建した。ということになります。

和銅4年の伊奈利社創建

『山背国風土記』の逸文に伊奈利社の創建年代は明記されていません。奈良時代に編纂されたとすれば、伊侶巨秦公が餅を射たのは遠い昔(少なくとも平城遷都より前)の出来事であり、子孫の秦中家忌寸の時代に伊奈利社が成立したと解釈できます。後世には、奈良時代初期の和銅4年(711年)に創建されたとする由緒が広まって定着しました。

伊奈利社の創建年代に言及した最古の史料は平安時代前期、天暦3年(949年)の『神祇官勘文』です。明確な年代は不明としながらも、「和銅年中に初めて伊奈利山三ヶ峰の平地に顕現された」という禰宜・祝の申状を紹介しており、平安前期の時点で、稲荷社の秦氏の中で和銅年間の創建伝承があったこと、稲荷山の三ヶ峰が重視されていたことが分かります。

神道家の吉田兼右が室町時代に執筆したとされる『二十二社註式』によると、人皇43代の元明天皇御代、和銅4年(711年)に初めて伊奈利山三ヶ峰の平地に神様が顕現。秦氏の祖の中家達が木を抜いて奉斎し、秦氏が禰宜・祝として春秋の祭祀に携わってきたと紹介します。従来の由緒に加えて、ここで初めて和銅4年説が登場。根拠は示されず不明です。

兼右の祖父である吉田兼倶が文亀3年(1503年)に発表した『延喜式神名帳頭註』では、和銅4年の2月11日戊午と具体的に記載。吉田氏以外にも旧暦の2月を主張する説がいくつか提唱されました。これは平安時代に始まった2月初午の稲荷詣(p.19を参照)を意識した後付設定。実際の和銅4年2月に戊午日が存在しないことは散々指摘されています。

葛野の秦氏が創建した松尾社には、飛鳥時代末期の大宝元年(701年)の創建伝承がありました。その由緒に対抗する意識があったのか、あるいは吉田氏が独自に作り出した説なのか、室町時代には揺るぎないものになった和銅4年説。現在の伏見稲荷大社でも和銅4年を定説としており、平成23年(2011年)には鎮座1300年のイベントが行われました。2014年の「いなこん」は、そんな特別な雰囲気の中で放映されたのです。

長い歴史の中で失われてしまった『山背国風土記』。上述のように、伏見稲荷の由緒となる伝説は室町時代の逸文です。しかし伊奈利社の創建を伝える一連の文脈は詳細に研究されており、この逸文は奈良時代に編纂された『風土記』に基づく可能性が高いと推測されています。なので、むやみに稲荷社の由緒を疑ったりせず秦氏の世界を楽しんでください。

生子と伊禰奈利生

『延喜式神名帳頭註』に引用された風土記逸文の伊奈利社の創建伝承。白鳥が飛び去った後の展開は二説あり、『延喜式神名帳頭註』の最古の写本では白鳥が山の峰で「生子(子を生んだ)」、後世の写本では「伊禰奈利生(稲が生じた)」と記されています。どちらの説を採用しても、秦氏の伊奈利社の象徴は白鳥だったと解釈できます。この時点では、有名な狐の要素は全くありません。(狐の信仰についてはp.7を参照

江戸時代後期の国学者である伴信友は、天保6年(1835年)に稲荷社の由緒を正す目的で『験の杉』を発表。風土記逸文の「生子」の箇所は誤りと決めつけ、伊奈利または稲荷の表記に合わせる「伊禰奈利生」が正当としました。以来、「稲が成った→稲成→稲荷」が稲荷の社名の由来として定着していたのが、最近では「生子」が本来の由緒として見直されつつあります。伏見稲荷の宮司さんも「生子」説を採用していました。

とは言え、伊奈利社と稲は決して無関係ではありませんでした。伊侶巨秦公が稲梁を積んだという表現から、この地域で大陸由来の稲作が行われた光景が浮かんできます。社の木を家に移して奉斎し、植えた木が繁ると福を得られるという信仰は平安時代の「しるしの杉」に繋がり、稲荷神社でお馴染みの五穀豊穣・商売繁盛の祈願にも結びつきます。(「しるしの杉」についてはp.19を参照

秦氏によって創建された「伊奈利社」が平安時代までに「稲荷社」の表記に変わり、長らく農耕の神様として崇敬されてきたことも事実。伴信友の改変はともかく、伊奈利社の稲の要素まで否定しなくていいでしょう。後述する空海の伝説でも稲がキーアイテムになります。

伊奈利から稲荷へ

伊奈利社が創建された和銅年間は色々な出来事がありました。本格的な国家建設を目指した藤原不比等の主導で大宝律令が制定され、和銅3年(710年)に平城宮への遷都が行われて始まった奈良時代。和銅5年(712年)には太安万侶が完成させた『古事記』を元明天皇に献上し、天武天皇が稗田阿礼に語らせた日本の歴史がようやくまとめられました。

和銅6年(713年)、元明天皇は各国の地勢をまとめるように命じ、大部分は現存しませんが『風土記』として献上されています。このとき「地名は良い二文字で表記せよ」との通達が出されており、記録としては残っていないものの、平安時代までにイナリの表記が「伊奈利」から「稲荷」に変わったとみられます。(秦氏の伊奈利と荷田氏の稲荷はp.9で紹介

表記が変わったのはイナリだけではありません。ヤマシロは古代には山代国と表記されており、秦氏が活躍する飛鳥時代には「大和国の後背」「平城山の向こう」という意味の「山背国」の表記が用いられるようになりました。『山背国風土記』が編纂された奈良時代も山背国であり、天皇が天下を治める平城宮の向こうで、秦氏は着実に産業基盤を整えていたのです。

桓武天皇の山背国遷都

平城遷都から74年後の延暦3年(784年)、桓武天皇は大和国の平城京から山背国乙訓郡の長岡京への遷都を行いました。天智天皇系の白壁王(光仁天皇)を父に、百済系氏族の和新笠(高野新笠)を母に持つ山部親王(桓武天皇)が遷都を決断した理由として挙げられるのは4点。山背国が水陸の交通の便に優れていること。旧勢力(寺院・豪族)からの脱却。天武系の影響が強い地域から出たかったこと。そして山背国を開拓した秦氏の技術力と経済力を頼りにしたことです。

天智系・百済系という不利な出自にもかかわらず帝王の座を手にした桓武天皇は、遷都による革命を目指しました。天皇が選んだ長岡は秦氏の勢力圏にあり、造長岡宮使に任命した藤原種継は母が秦朝元の娘、種継とともに長岡を視察した藤原小黒麻呂は秦下嶋麻呂の娘を妻にするなど、秦氏の血が強く意識されています。百済系の母から生まれた桓武天皇は、同じく朝鮮系の秦氏に親近感を持っており、山背国の秦氏もまた、天皇の遷都事業に積極的に協力したと思われます。

秦氏の基盤上に成り立つ平安京

遷都翌年の延暦4年(785年)、長岡宮造営を監督していた藤原種継が暗殺される事件が発生。大伴継人ら首謀者に加え、天皇の実弟で皇太子だった早良親王も犯人の一味と断罪され、淡路島配流の途上で憤死するという悲劇を引き起こします。種継亡き後も造営は続けられますが、天皇の后妃や母親が亡くなり、息子の安殿親王(後の平城天皇)が病気になり、新都で水害が発生するなど不穏な事象が多発。早良親王の祟りが意識され、天皇は長岡京放棄の決断を下します。

長岡遷都から10年後の延暦13年(794年)、桓武天皇は葛野郡・愛宕郡に造営した新都に遷りました。葛野は山背国における秦氏の拠点。当地への遷都を勧めた和気清麻呂は秦氏と関係の深い有能な公卿であり、この遷都も秦氏の協力の下に実施されたと考えられます。天皇は「この国は山河に守られた自然の城である」と評して山城国に改称。新都を「平安京」と命名し、ここに平安時代が始動します。明治時代の東京遷都まで千年以上も続いた京の都は、秦氏の開拓の上に築かれたのです。

中世に成立した『拾芥抄』によると、平安京の大内裏は秦ノ川勝(秦河勝)の邸宅跡。その出典は天慶9年(946年)から康保4年(967年)まで在位した村上天皇の日記『天暦御記』とされます。大内裏の造営前に秦河勝の邸宅があったのかは不明としか言いようがありませんが、天皇がそのような伝説を日記に書くほど秦氏の影響力が強い地域だったと分かります。京都の歴史は秦氏抜きに語れないのです。

伏見稲荷大社の社号標 伏見稲荷大社の社号標と狐
早朝の一の鳥居と表参道
2019年2月24日。稲荷大神の眷属である白狐が一の鳥居を守ります。黄金の稲穂を咥えて尻尾に如意宝珠を載せた狐は、秦氏が伊奈利社を創建した頃には存在しなかった要素。中世の神仏習合を経て完成されたイメージであり、明治時代の廃仏毀釈を経ても根強く残りました。

国史に登場した稲荷社

国史において初めて稲荷社が登場するのは平安時代初期のこと。そのきっかけは空海の活動です。唐に渡って密教の奥義を学んだ僧侶の空海は弘仁7年(816年)、嵯峨天皇から紀伊国(和歌山県)の奥地にある高野山を賜り、後に金剛峯寺として知られる真言密教の一大道場を整備しました。その功績から、延喜21年(921年)に醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られます。

高野山整備の実績から弘仁14年(823年)には平安京の東寺を賜り、国家鎮護の寺院・真言密教の道場として伽藍の整備に着手します。もちろん造営には材木が必要であり、最寄りの稲荷山の木々が伐採されました。天長3年(826年)に淳和天皇が空海に伐採の許可を与えた記録が残っており、五重塔造営のために立派な御神木が切り出されたと考えられます。神域を荒らす行為は、当然ながら神様に対する冒涜でありました。

『類聚国史』によると天長4年(827年)、天皇の病気が治らず、占いにより稲荷山の木々を伐採した祟りであることが判明。稲荷神社に内舎人の大中臣雄良を遣わせ、従五位下の神階を贈って怒りを鎮めています。当時の人々は、稲荷山に鎮座される神様が大いに怒って祟りをなし、伐採の許可を与えた淳和天皇を病気にしてしまったのだ、と解釈したのです。

都が大和国の平城京に置かれていた奈良時代には、秦氏の氏神様という地位に留まっていたと思われる伊奈利社。平安遷都の直後に起きた稲荷山伐採事件で存在感を増し、『続日本後紀』によると承和12年(845年)には名神に指定されます。冒涜すれば祟りをなす反面、丁重にお祀りすれば効験あらたかである。それが古代における神様の一般認識でした。

尚、稲荷山の材木を切り出して造営された東寺の五重塔は、空海の入寂から50年経った仁和2年(886年)に落雷で焼失。現在、京都タワーと並んで京都のシンボルになっている五重塔は、江戸時代初期の寛永21年(1644年)に建立された5代目となります。

空海と稲荷大明神の邂逅

空海から見た稲荷社の起源も紹介しておきましょう。東寺に伝わる『稲荷大明神流記』によると弘仁7年(816年)、紀州(和歌山県)の田辺宿に赴いた空海は異相の老翁(神)に出会います。空海は国家鎮護のために東寺を整備することを伝えて、再会を約束しました。

それから7年経ち、東寺の整備が始まる弘仁14年(823年)。老翁が稲を荷なって椙(杉)の葉を提げ、二女二子を伴って東寺南門に現れました。空海は喜んで老翁を歓待し、一行が八条二階堂の柴守長者の家に滞在している間、東寺の杣山(材木を切り出す山、すなわち稲荷山)を利生の勝地と定めて神様としてお祀りしました。これが稲荷社の起源として伝えられます。

『二十二社本縁』では数多の眷属を連れて稲を荷なった老翁が東寺を通り、空海が行き先を尋ねると「比叡の阿闍梨(最澄)に招かれた」と答えました。「東寺で仏法を守ってほしい」と空海に要望された老翁は守護を引き受け、東寺の鎮守社として稲荷社が創建されたという伝説が記されます。ここでは、稲荷大明神は老翁の姿でイメージされていました。

一連のエピソードは中世以降に普及したもので、空海が稲荷社を勧請した伝説は神仏習合の中で用いられました。実際には東寺を整備する際に稲荷社の秦氏をうまく懐柔したと思われますが、国学者の伴信友は仏教側に利用されたに過ぎないと強く批判しています。そのような仏教敵視の態度が明治の廃仏毀釈に繋がったのは言うまでもありません。

伏見稲荷大社探訪 V|稲荷祭で神輿が巡る御旅所と東寺
神道と仏教の対立は不毛だからこれ以上煽りません。むしろ空海が稲荷山の材木を用いたことで東寺・稲荷社は親密な関係になり、後世の稲荷祭では稲荷社の神輿が東寺に入るようになった事実を取り上げるべきでしょう。東寺・伏見稲荷の友好関係は、神仏分離を経た今日まで受け継がれています。(稲荷祭についてはp.8、稲荷祭の御旅所はp.24を参照

朝日に照らされる一の鳥居と表参道 朝日に照らされる一の鳥居と表参道
2018年5月20日。東の稲荷山から朝日が昇ります。もう「いなこん」の話題が打ち消されそう。

平安京における稲荷社

仏教が朝廷から庶民まで広く普及した平安時代。都周辺の社も祈雨・止雨の神様として依然丁重にお祀りされており、平安遷都の後は賀茂上下・貴船・松尾・乙訓などの社が朝廷の奉幣の対象になりました。当初は奉幣の対象ではなかった稲荷社も上述の伐採事件の後に重視され、『日本文徳天皇実録』や『日本三代実録』に頻出。やがて平安京を代表する神様として崇敬されるようになります。

大山咋神と中津島姫命をお祀りする松尾大社は、飛鳥時代末期の大宝元年(701年)の創建と伝わります。社伝によると文武天皇の勅命を受けた秦忌寸都理によって創建。松尾山にあった磐座信仰を葛野に移住した秦氏が取り入れて発展、氏神様として奉斎するという、稲荷社によく似た成立経緯なのでした。葛野の秦忌寸都理は深草の伊侶巨秦公の兄とする伝説もあります。

賀茂別雷命をお祀りする賀茂別雷神社(上賀茂神社)、賀茂建角身命と玉依姫命をお祀りする賀茂御祖神社(下鴨神社)は、愛宕郡を本拠地とする賀茂氏によって古代に創建されたと伝わります。葛野郡の秦氏は愛宕郡の賀茂氏に接近して協力関係を構築しており、山背国を開拓した秦氏は平安京の有力な社に関わっていました。(賀茂氏と秦氏の関係についてはp.21を参照

平安時代中期の承平・天慶年間(931~947年)、東で平将門の乱、西で藤原純友の乱が相次いで発生しました。石清水八幡宮に鎮座される八幡大神に国土平定を祈願する一方、稲荷社にも奉幣が行われ、国家鎮護の神様として頼られました。九州の秦氏にルーツを持つ八幡信仰も紹介したいところですが、秦王国に触れると収拾がつかなくなるから省略させてください。

延長5年(927年)に成立した『延喜式神名帳』には「稲荷神社三座」とあり、既に名神祭・月次祭・新嘗祭が行われる有力な官幣大社になっていました。村上天皇御代の応和3年(963年)以来は「巽の守護神」と称され、「東の厳神」たる賀茂社、「西の猛霊」たる松尾社と並び、平安京の東南を守護する重要な社に位置付けられました。延久4年(1072年)には後三条天皇が初めて稲荷社に行幸。秦氏の氏神様だった稲荷社は、庶民・貴族・天皇からも崇敬される社になりました。

「正一位稲荷大明神」の誕生

稲荷社に正一位の神階が贈られた年代は、平将門の乱・藤原純友の乱が発生していた天慶5年(942年)、または延久3年(1071年)と伝わります。大西親業が江戸時代後期の寛政年間(1789~1801年)に編纂した『稲荷社事実考証記』によると、鎌倉時代初期の建久9年(1194年)に後鳥羽天皇が稲荷社に行幸され、稲荷社の勧請に際しては正一位の神階を書き加えてよいとの勅許がありました。

平安時代から鎌倉時代にかけて大きく発展した稲荷社ですが、室町時代に勃発した応仁の乱で壊滅。貴重な書物を焼失し、正一位の神階を示す位記どころか授与年代すら不明になりました。後世、勧進聖(僧侶)の精力的な活動によって普及する「正一位稲荷大明神」の神号は、一体いつ授与されたのか稲荷社の社家でも分からなかったのです。その起源が不明でも、神威には影響しないですからね。

江戸時代後期の明和4年(1767年)、神祇伯を務める白川家から稲荷社の社家に対し、正一位の神階授与年代についての問い合わせがありました。このときは応仁の乱で焼失して記録が残っていないと返答していますが、白川家と奉行所から再び問い合わせがあり、社家としては答えを出さざるを得ませんでした。結局、平安時代末期に編纂された『本朝世紀』の記述を根拠に天慶5年(942年)とし、文化2年(1805年)には光格天皇によって授与年代が認められました。

補足しておくと、正一位を授与された神様は他にも存在しており、稲荷大明神だけが正一位というわけではありません。しかし一般的には正一位=稲荷大明神のイメージが強く、現在でも稲荷の神様の代名詞になっています。「いなこん」でも、うか様の別名のように使われる正一位の称号。位だけを見られているようで、うか様には重荷のようですね……

神仏習合の時代に発展した稲荷社

伊奈利山に顕現された神様は稲を荷なう農耕神のイメージを持ち、『延喜式神名帳』に記される以前から稲荷信仰が確立していました。経緯は不明ながら、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、三座に加えて五座の神様をお祀りするようになります。この過程に秦氏が関わっていたのかも不明です。(祭神の来歴については本殿で詳しく紹介。 p.8を参照してください)

鎌倉時代には密教や狐の要素が加わり神仏習合の社として発展。室町時代の長禄3年(1459年)に描かれた『稲荷社指図』によると、山麓の社殿(現在の本殿に相当)に四大神(毘沙門)・中御前(千手)・大タラチメ(如意輪)・大明神(十一面)・田中(不動)が鎮座され、それぞれ本地仏が設定されていることが分かります。中世の時点で、古代の秦氏の存在感は失われていたと思います。

室町時代に応仁の乱(後述します)が勃発し、応仁2年(1468年)に稲荷社は壊滅。勧進聖(僧侶)の尽力によって、明応8年(1499年)に五社相殿の本殿が再建されました。文亀3年(1503年)の『延喜式神名帳頭註』には神名が倉稲魂神と記されており、明応の正遷宮の頃、主祭神が『古事記』に登場する宇迦之御魂大神と確立したようです。伊奈利社創建から正遷宮まで、もう788年も経っていました。

安土桃山時代の文禄3年(1594年)に正式な本願所が発足。江戸時代初期の寛永10年(1633年)には愛染寺を称しました。愛染寺の僧侶は諸国を巡って庶民に稲荷信仰を広め、全国規模で正一位稲荷大明神がお祀りされるようになりました。秦氏の氏神様の伊奈利社から、諸国で信仰される稲荷社へ。勧進聖の精力的な活動が稲荷の知名度を上げたと言っていいでしょう。

但し、勧進聖は神仏習合・本地垂迹の世界観に基づき、荼枳尼天・弁財天・歓喜天を混淆した稲荷信仰を広めました。稲荷社でも存在感を増したことから社家の反発を招き、明治時代になると神仏分離の流れで愛染寺は直ちに破却。稲荷社の発展に寄与した神仏習合の稲荷信仰は廃絶されてしまいました。現代の伏見稲荷は、創建以来、大きく変容しながら発展してきたのです。

応仁の乱による稲荷社壊滅

室町時代の応仁元年(1467年)に応仁の乱が勃発。応仁2年(1468年)、東軍の総大将、細川勝元配下の骨皮道賢は潜伏に適した地形の稲荷山に拠点を置き、西軍に対する襲撃を展開しました。そこで西軍は総攻撃を行い、1日だけ戦場となった稲荷社は壊滅。山麓の社殿は焼失し、数々の社があった稲荷山も荒廃します。道賢は女装して逃走するも、捕まって討ち取られました。

稲荷山壊滅を招いた戦いには稲荷社の社家も関わっていました。後述するように稲荷社には秦氏系・荷田氏系の社家がおり、主導権を巡って対立していました。荷田氏の後裔を称する荷田延幹(羽倉氏)が秦氏系の打倒を目論み、骨皮道賢と結託して稲荷山に潜伏させた裏事情があります。応仁の乱の後、明応の正遷宮は荷田氏が主導しており、社家の対立は近世まで続きます。

東福寺の僧侶、雲泉太極の『碧山日録』によると、稲荷山が壊滅する前、月のように光る大傘のような物が空を飛び、神様が群聚の穢れを避けるため去っていったと解釈しています。神域内での争いは忌み嫌われるもの。武力を用いた戦いだけでなく、社家の不毛な対立も穢れであったということでしょう。社家が武装して殺し合う事態に発展しなかったのがせめてもの救いです。

応仁の乱では正一位の位記を含む数多くの記録が焼失。秦氏が創建した稲荷社の歴史の多くが失われました。幸いなことに文殊像・空海御影・五基の神輿は事前に戦火を避けるべく持ち出されており、神輿は東寺に預けられた後、仮殿に戻されました。空海の稲荷山伐採から始まった稲荷社と東寺の関係は、応仁の乱からの避難にも活かされていたのです。

伏見稲荷大社の社号標と一の鳥居
「伏見稲荷大社」の社号標 「伏見稲荷大社」の社号標
2018年10月14日と2020年9月19日。「伏見稲荷大社」が正式名称になったのは昭和21年(1946年)のこと。表参道の社号標は昭和23年(1948年)に建立されました。伏見稲荷のあらゆる話題を記事に取り入れるため、細部に注目します。(「伏見稲荷大社」に改称した事情はp.5を参照

伏見稲荷大社の祭事表 伏見稲荷大社の祭事表
2014年7月12日と2022年7月30日。表参道入口に掲げられた伏見稲荷大社の祭事表。1月1日の歳旦祭から12月31日の除夜祭まで色々な行事があり、稲荷社としては初午大祭と稲荷祭が特に重要です。

伏見稲荷大社の社号標と一の鳥居 伏見稲荷大社の一の鳥居 
2020年9月19日。表参道の一の鳥居。昭和47年(1972年)、三重県楠町の崇敬者により奉納されました。伏見稲荷の風景は庶民の寄進で成り立っており、その証を紹介するのも本記事の目的の一つです。

塗り替え工事中の一の鳥居 塗り替え工事中の一の鳥居
塗り替え工事中の一の鳥居 塗り替え工事中の一の鳥居
2022年6月4日と5月28日。塗り替え工事中の一の鳥居。まもなく稲荷を象徴する朱色が蘇ります。

当国無頼の一の鳥居

安土桃山時代の天正17年(1589年)に秦継長が描いた『社頭図』、秦親臣が写した江戸時代前期、寛文9年(1669年)の『寛文之大絵図』を見ると、近世の稲荷社には表参道と神幸道の入口に一基ずつ鳥居が建立されています。『寛文之大絵図』では朱塗りの鳥居だったことも確認でき、当時の稲荷社の大鳥居は「当国無頼」と称される立派なものでした。

表参道の大鳥居は近世に3回建て替えられています。江戸時代中期の享保16年(1731年)には、破損した大鳥居を永代のため銅製にしようという企画が持ち上がりました。作業小屋を設けて鋳物師が細工する段階まで進みましたが、結局中止されて木製の大鳥居が再建。幻の企画になった銅製鳥居の建立は稲荷社の鍛冶信仰に基づいていました。(鍛冶信仰はp.7p.21で説明します)

江戸時代最後の再建は万延元年(1860年)。全記録は不明ながら昭和10年(1934年)にも再建がありました。現在の鳥居は、上述したように昭和47年(1972年)の建立です。

早朝の表参道
2014年4月25日。一の鳥居をくぐって表参道へ。昼間は大混雑するため早朝からの探訪が基本です。

朝の表参道 朝日に照らされる表参道 朝日に照らされる表参道
2013年5月2日と2018年5月20日。観光客は年々増加しており早朝でも多いです。1枚目のフィルムはKodak SUPER GOLD 400でした。

馬が走った表参道

古くは馬場と呼ばれた表参道。100mぐらいの直線で馬を走らせる神事に使用されました。江戸時代初期から表参道の構成は変わっておらず、後述の藤尾社に走馬を奉納する神事が人気だったようです。最後の走馬が行われたのは明治9年(1876年)のこと。後年、近代化の一環で石畳になって馬は走れなくなりました。現代の伏見稲荷には、本物の馬に替わって神馬像が安置されています。(p.11を参照

表参道に残る秦氏系の大西家
2020年9月19日補完分の表参道。左手に旧社家の大西家があります。

秦氏系・荷田氏系の社家

明治以前、表参道両側には稲荷社の祭祀や運営を担う社家の屋敷が立ち並びました。江戸時代後期の記録では左手に東大西家、北羽倉家、大西家、羽倉下野家、毛利分家、祓川家。右手に松本家、羽倉家、毛利家。西羽倉家、中津瀬家、鳥居南家がありました。稲荷社前の一帯は社家町になっていたのです。

これらの社家は稲荷社の由緒に登場する秦氏や荷田氏の末裔の意識を持ち、大西家や毛利家は秦氏系、羽倉家は荷田氏系の祠官として稲荷社を運営しました。室町時代の明応8年(1499年)の正遷宮の際、神主・禰宜・祝は秦氏系、御殿預・目代は荷田氏系の社家によって構成されていました。(明応の正遷宮はp.8、荷田氏についてはp.9で紹介

古代における秦氏と荷田氏の関係はよく分かっていません。近世の社家が本当に古代史族の末裔なのかも不明で、あくまで自称に過ぎないと思われます。中世に荷田氏の後裔を称して台頭した羽倉氏は明らかに部外者であり、秦氏系を称する社家と深刻な対立関係にありました。上述したように、稲荷山が応仁の乱の戦場になったのは羽倉氏が秦氏系を打倒するための策が原因でした。

明治時代、社家と対立した愛染寺を破却に追い込んだのも束の間、神社改革によって社家も徐々に衰退。参道周辺が荒廃しないように稲荷神社が社家屋敷の土地を買収して整備されました。現在、辛うじて秦氏系の大西家の一部が存続し、旧社家を示す表札が掲げられています。殆どの方が気付かず通り過ぎていると思いますが、江戸時代を通して稲荷社を守ってきた社家の末裔です。

禁門の変における稲荷社

江戸時代末期の文久3年(1863年)、尊攘派公家の三条実美や長州藩が京都の政界から追放される政変が発生。翌年の元治元年(1864年)、長州藩などの尊攘派志士が新撰組の襲撃を受けて殺傷される池田屋事件が起きると、長州藩の強硬派が京都で挙兵します。京都御所の周辺で激戦を繰り広げたことから禁門の変と呼ばれるこの戦いは、京の町に大火をもたらした後、長州藩の敗北で終わりました。

戦いから数日後、長州藩の残党が稲荷社に逃げ込んだとの噂が流れました。付近に布陣していた小倉藩は表参道に大砲を配置。稲荷社の本殿に砲口を向け、境内に小銃隊を入れる事態になります。その後の幕引きは不明ですが、稲荷社での戦いは起こらず、応仁2年の壊滅の再来は回避されました。この危機に際し、稲荷社と愛染寺がどう動いたのかは分かりません。しかし社家の一部は長州藩の味方でした。

当時、社家の東大西家は長州藩の勤皇志士である木戸孝允(桂小五郎)を匿っていました。大政奉還後の慶応3年(1867年)には、かつて京都を追放された三条実美が社家の西羽倉家で旅装を整えて入洛するなど、稲荷社の社家は尊攘派を支持する立場であったといえます。一方、愛染寺は徳川家茂・慶喜の休息所になっており、江戸幕府との強い結びつきがありました。社家と愛染寺は政治的にも対極に位置したのです。

伏見稲荷大社の応接間に、太政大臣三条実美筆の「惟神之道」(かんながらのみち、神道のこと)が掲げられている写真を見たことがあります。稲荷社と勤皇派の関係は、明治維新後も続きました。

講員大祭の献燈が並ぶ表参道 講員大祭の献燈が並ぶ表参道
2020年10月11日。この日は講員大祭。表参道に献燈が並んでいました。

「官幣大社 稲荷神社」の社号標 官幣大社稲荷神社の社号標
2014年7月12日と2018年5月20日。表参道の左手に「官幣大社 稲荷神社」の社号標が残ります。

「官幣大社 稲荷神社」の社号標 「官幣大社 稲荷神社」の社号標
「官幣大社 稲荷神社」の社号標 「官幣大社 稲荷神社」の社号標
2020年9月19日と2022年7月30日。明治8年(1875年)に奉納された社号標。明治維新の激動の中で変容せざるを得なかった新しい稲荷神社を示します。ここに刻まれている発起人は、明治の東京遷都や神仏分離をどう感じたのでしょうか?

明治時代の神仏分離

慶応3年(1867年)、徳川慶喜が大政奉還を行い、鳥羽・伏見の戦いや戊辰戦争の混乱を経て新政府が全国を統一。江戸幕府を廃して天皇を中心とする日本を復活させました。この動乱を明治維新といいます。近代化の一環で断行された改革は、日本中に多くの混乱をもたらしました。東京遷都によって首都の地位を失い、廃藩置県で山城国・丹波国・丹後国を統合した京都府が誕生するなど、京都にも大きな変化が訪れます。

明治元年(1868年)に神仏判然令が出されると、全国規模で廃仏毀釈の嵐が吹き荒れました。歴史ある神仏習合の信仰は否定され、神社と寺院は明確に区別され、修験道は禁止。仏教に不満を持っていた人々により寺院や仏像の破壊運動まで行われました。神仏混淆の祇園社(八坂神社に改称)は特に大きな打撃を受けたことで知られ、この時期に失われた信仰と文化は枚挙に暇がありません。二度と繰り返してはならない蛮行です。

伏見稲荷大社探訪 V|稲荷社の一大勢力だった愛染寺跡
稲荷社では本願所であった愛染寺(p.10を参照)をはじめとする諸堂や仏像・神像が、仏教勢力を快く思わない社家によって速やかに撤去。明治4年(1871年)には近代社格制度の導入で官幣大社の「稲荷神社」になり、仏教色を廃した新しい稲荷神社として、境内や参道が急速に近代化されました。現在の伏見稲荷の風景は、庶民の信仰などお構いなしに仏教要素を排除して出来上がったもの。その事実を知っておく必要があります。

明治の神仏分離は、社家からすれば愛染寺を破却するチャンスだったかもしれません。しかし明治4年の上知令(上地令とも)によって、神奈備である稲荷山の大部分が官有地として奪われてしまい、国家が神道・神社を管理する神社改革の影響で、社家も衰退を余儀なくされます。明治の改革は、応仁の乱の破壊に匹敵する重大事件でした。古代より祭祀の場であった稲荷山を没収された分、応仁の乱より甚大な被害を蒙ったと言えるでしょう。

戦後は国家による管理から解放され、官幣大社の称号も無くなりました。昭和21年(1946年)になって「伏見稲荷大社」に改称。本殿の正遷座祭を経て稲荷神社の新しい時代が始まります。全国の神社を統括する神社本庁には敢えて属しておらず、単立宗教法人として稲荷山の祭祀を継続する伏見稲荷大社。残念ながら明治の廃仏毀釈により、仏教要素は殆ど残っていません。

個人的に、『延喜式』を上辺だけ真似た近代社格制度なる格付けには何の意義も感じません。神社巡りの旅をやっていると、明治時代の神仏分離や神社改革の影響で古い信仰形態や伝統が廃絶させられたことに気付きます。だからといってその話題を隠蔽したり、正当化することはできず、ここでも稲荷社の負の歴史の一部として紹介しなければならないのです。

熊野社/藤尾社/霊魂社

表参道脇の末社と稲荷神社の社号標 表参道脇の末社と儀式殿
表参道脇の末社と儀式殿 表参道脇の末社と儀式殿
2018年5月20日、2019年2月24日、2022年7月30日。社号標の左手に末社が鎮座します。

熊野社の由緒
藤尾社の由緒 霊魂社の由緒
2019年2月24日。由緒が分かるように札の写真は欠かさず撮影すること。全て記録します。

表参道の末社の由緒

左は伊邪那美大神をお祀りする熊野社。平安時代末期に皇族や貴族の間で流行した熊野詣(熊野三山の巡礼)では、稲荷社に護法送りと奉幣を行うのが定例になっていました。平治元年(1159年)の平治の乱を記した『平治物語』によると、平清盛が熊野詣に出かけていた隙を狙って源義朝や藤原信頼が挙兵。清盛は急いで都に戻って稲荷社に参詣し、杉の葉を鎧に挿して六波羅に向かいました。杉の葉を挿すのは「しるしの杉」の信仰です。(p.19を参照

熊野詣の前後に稲荷詣をするという風習は、稲荷大明神が熊野参詣者に護法童子を遣わして守護するとの信仰によるもの。稲荷社と熊野三山の信仰が習合した経緯は不明ですが、上述した空海の伝説に登場する老翁(稲荷大明神)は「紀州の田辺宿」「杉の葉を掲げる」「童子を連れている」要素を持っており、何らかの関係がありそうです。平安時代には現在の本殿の南にあった熊野社は移転を繰り返し、昭和34年(1959年)に表参道脇に遷座されました。

中央は舎人親王をお祀りする藤尾社。『日本書紀』を編纂した人物として知られます。安土桃山時代の天正17年(1589年)には再建されており、江戸時代前期の延宝8年(1680年)に天皇塚跡に創建されました。天皇塚が舎人親王の陵墓であったのかは不明。稲荷山西麓に本殿が遷された際、元々あった藤尾社を藤森神社に遷座。その名残として現在の藤尾社が創建されたとも伝わります。古くは御田社と称したらしく、農耕祭祀に関係すると思われます。

右は稲荷社に関わり深い物故者をお祀りする霊魂社。明治17年(1884年)に創建された記録が残っているのに、平成の修理中、慶応2年(1866年)に釿初めとの銘札が発見。当時は御鎮守御造営多峯御社と称したようです。ちなみ霊魂社には後醍醐天皇に仕えた大江景繁(p.14を参照)が合祀されています。末社の奥に見える変わった構造の建物は儀式殿。後で紹介します。(p.7を参照

「日之出搆」「大西相模守」と刻まれた常夜燈 「日之出搆」「大西相模守」と刻まれた常夜燈
「大西相模守」と刻まれた常夜燈 「講元 近江屋?兵衛 鍵屋理右衛門」と刻まれた常夜燈
2020年9月19日と10月11日。表参道脇の石燈籠(常夜燈)。危険ですから登らないでください。

江戸時代に奉納された常夜燈

この常夜燈の柱には「日之出搆」「講元 近江屋□兵衛 鍵屋理右衛門」「祈祷所 大西相模守」と刻まれています。大西とは上述した秦氏系の社家。稲荷社を崇敬する日之出講の二人が、大西氏の取り次ぎで常夜燈を奉納したと読み取れます。奉納年月は「戊午三月」とあるのみで安政か寛政かは不明。江戸時代の常夜燈であることは間違いないでしょう。

伏見稲荷大社探訪 V|稲荷社の歴史を残す江戸期の常夜燈
伏見稲荷の参道や境内に立ち並ぶ常夜燈をよく見ると、明治や大正に混じって江戸時代の元号が刻まれていることに気付きます。奉納年月日はもちろん、奉納した講や庶民の名、奉納を取り次いだ社家や愛染寺をはっきり読み取れる常夜燈が数多く残っており、稲荷社の歴史を伝える貴重な文化財です。本記事では神幸道(p.6)、本殿周辺(p.8)、山麓参道(p.16)、十石橋付近(p.27)の興味深い常夜燈を詳しく紹介しています。とても重要なので一つ一つ確認してみてください。

松井スミ氏が奉納した電燈
松井スミ氏が奉納した電燈 松井スミ氏が奉納した電燈
2022年7月30日。平成8年(1996年)に奉納された電燈。福岡市の崇敬者、松井スミ氏の名が刻まれています。松井氏は平成9年(1997年)にも参道改修奉納(p.13を参照)を行うなど、伏見稲荷参拝の利便性向上に多大な貢献をされています。昔も今も、稲荷社は庶民の寄進で成り立っているのです。

表参道脇の末社 表参道脇の儀式殿
2020年9月19日。境内や境外にひっそり佇む摂末社や常夜燈は、本社の歴史において重要な意味を持っていたりします。伏見稲荷の一番詳しい記事を作る 目的で探訪しているため、本殿に至る参道の周辺も注意深く観察しながら歩きます。殆どの方は秦氏のルーツの時点でリタイアしてそう。

早朝の二の鳥居と楼門
2014年4月25日。表参道の二の鳥居までやってきました。楼門の由緒を紹介する前に北側の参道へ。

祓川沿いの神幸道と江戸期の常夜燈
次ページ、神幸道を歩いて楼門に向かいます。

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