2022-08-07 改訂
2009-05-29~2022-07-30 実施
2022年7月30日。伏見稲荷大社の神幸道から京阪伏見稲荷駅へ。JR奈良線の踏切と、琵琶湖疏水に架かる稲荷橋を渡ります。
2014年4月25日と2020年10月11日。右手に「お食事処いなり」。墨染さんに変化したいなりちゃんと丹波橋くんが入ったお店です。放送当時は「いなこん」の探訪者の間で有名店になりました。
2022年7月30日。伏見稲荷駅を通り過ぎ、京阪本線を渡ります。最後は稲荷新道を探訪しましょう。
伏見稲荷大社の参詣道。江戸時代の街道と運河、明治時代の鉄道と疏水が南北に通り、それらを東西に結ぶ街道と鉄道も設けられました。参詣道と鉄道の歴史は少しややこしいので、この地図で位置関係を把握しながらお読みください。
2020年10月11日と2022年7月30日。伏見稲荷駅の西の稲荷大社前交差点。師団街道が南北に走ります。師団の名称は、明治41年(1908年)に陸軍第16師団司令部が設置された名残です。16師団は後年の破滅的な戦争に投入され、レイテ島の戦いで多くの犠牲を出しました。戦争で亡くなった方々のことを決して忘れてはなりません。
2020年10月11日。何の変哲もない路地。ここが稲荷新道です。
江戸時代の稲荷社の参詣には本町通(伏見街道)、または高瀬川から東に延びる稲荷道が利用されました。明治12年(1879年)、本町通沿いに官設鉄道の稲荷駅が開業して稲荷神社の玄関口となり、明治28年(1895年)には竹田街道沿いに京都電気鉄道伏見線の稲荷道停留所が仮開業するなど、稲荷神社の参詣事情は大きく変化しました。旧来の街道は参詣に適さなくなったのです。(p.4も参照)
京電の仮開業より2年前、大阪の崇敬者である土井柾三氏が京電と稲荷神社を結ぶ新たな参詣道の整備を計画。土地の買収や工事にかかる費用の全てを土井氏が負担し、明治28年の京電開業に合わせて完成。江戸時代の稲荷道に対して「稲荷新道」と名付けられました。稲荷神社の発展に貢献した土井氏は境内に後醍醐天皇歌碑(p.14を参照)を奉納したり、防火用水整備(p.26を参照)まで行った偉人です。稲荷新道の整備は一大事業であり、その信仰の篤さに感銘を受けます。
稲荷新道の効果は大きく、京電は明治37年(1904年)、伏見線から分岐して稲荷新道の南に稲荷線を新設。現在の稲荷橋の場所に稲荷停留所が開業しました。明治43年(1910年)には稲荷停留所の西に京阪電気鉄道の稲荷新道駅が開業。稲荷神社の参拝に便利だったことから同年に稲荷駅へ改称され、稲荷新道~本町通~稲荷神社に4つの稲荷駅が集中する形に。明治の混乱が落ち着いた大正時代には観光旅行が流行。稲荷神社の参詣は鉄道が主流になりました。
大正7年(1918年)、京電は京都市に買収されて京都市電に。戦後しばらく国鉄稲荷駅、市電勧進橋(稲荷道から改称)及び稲荷停留所、京阪伏見稲荷駅という4駅体制が維持されます。しかし自動車の普及で乗客が減少し、昭和45年(1970年)に伏見線と稲荷線が廃止。昭和53年(1978年)には歴史ある市電の全路線が廃止されてしまいました。線路跡は車道に様変わりして現在に至ります。
さて、明治43年に京阪の稲荷新道駅が開業すると、東九条村の申出により稲荷祭の往路(神幸祭)は稲荷新道を通るようになりました。新参道として名を馳せた土井氏の稲荷新道は、路面電車の廃止とともに歴史的役割を終えましたが、現在でも、稲荷大神の五基の神輿は稲荷新道を通って油小路東寺道の御旅所に渡御します。(御旅所についてはp.24を参照)
2022年7月30日。竹田街道と伏見稲荷を結ぶ稲荷新道。広い車道です。
2022年7月30日。稲荷新道に面した伏見稲荷大社の駐車場。稲荷詣にはマイカーではなく公共交通機関をご利用ください。鉄道を使ったほうが旅感があります。
2020年10月11日。昭和2年(1927年)に架けられた稲荷橋。この小川は新高瀬川といいます。
2020年10月11日。稲荷橋の隣に架かる歩行者用の高瀬稲荷人道橋。昭和56年(1981年)竣工です。
江戸時代初期の慶長19年(1614年)、豪商の角倉了以と息子の角倉素庵により、鴨川と宇治川を南北に繋ぐ運河が整備。高瀬舟が用いられたことにちなんで高瀬川と呼ばれました。物資の輸送はもちろんのこと、都の中心部から稲荷社への参詣にも利用され、江戸時代末期、元治元年(1864 年)の『花洛名勝図会』には高瀬川から稲荷道を通って稲荷社に向かう人々の様子が描かれています。
明治2年(1869年)に東京遷都が決行されると京の都は衰退。窮状を危惧した第3代京都府知事の北垣国道氏は、滋賀県の琵琶湖から京都に水を引き入れる大規模な水路の整備を計画。新進気鋭の技術者、田邉朔郎氏を設計責任者に迎えて、途方も無い難工事を経て明治23年(1890年)に琵琶湖疏水の第1疏水が開通。京都が近代都市に生まれ変わる基礎になりました。(琵琶湖疏水の史跡は「蹴上探訪」を参照)
琵琶湖疏水が人々や物資の輸送に重宝された一方で、江戸時代から用いられた高瀬川は役割を失いました。後年には市街地を流れる普通の小川になり、高瀬舟が行き交った時代の面影は殆ど残りません。かつての参詣道だった稲荷道も陸軍第16師団の練兵場により分断され、その跡地は警察学校と龍谷大学に転用。もはや『花洛名勝図会』に描かれた情景を想像するのは不可能です。
2020年10月11日。竹田街道から稲荷新道の入口に、「稲荷さんけい道」「土井柾三建之」と刻まれた記念碑があります。稲荷新道が完成した明治28年(1895年)7月、
稲荷神社史に輝く偉人の土井柾三先生によって奉納されました。本記事が歴史保存の役に立つことを願います。
2020年10月11日。稲荷新道から竹田街道(R24/R115)に合流しました。
2020年9月19日。稲荷新道交差点の一角は朱塗りの玉垣に囲われて、伏見稲荷大社の社号標と記念碑が設置されています。
2020年9月19日。「伏見稲荷大社」の社号標と「稲荷新道之碑」。伏見稲荷の史跡です。
「稲荷新道之碑」は、土井柾三氏の稲荷新道が完成した明治28年(1895年)に建立。左下に稲荷神社宮司の近藤芳介氏、禰宜の羽倉芳豊氏、主典の桑田孝恒氏の名前が刻まれています。当初は琵琶湖疏水に架かる稲荷橋の西詰に設置されたのが、いつの間にか無断で撤去されて存在自体が忘却。建立から100年以上経った平成14年(2002年)、小谷隆一氏の寄進で補修され現在地に再建されました。平成16年(2004年)には宮司の坪原喜三郎氏により案内板が設置されています。
2022年7月30日。稲荷新道交差点は、京都電気鉄道の稲荷道停留所(後の京都市電:勧進橋駅)の跡地でもあります。稲荷社の歴史の一部ですから、撮りこぼしのないように探訪します。
2022年7月30日。竹田街道の西側に残された細長い区画。明らかに路面電車の跡です。昭和45年(1970年)に伏見線と稲荷線が廃止されてから55年。まだ路面電車の名残を留めていました。
2022年7月30日。竹田街道から眺める稲荷山。四ツ辻手前の朱塗りの鳥居と、四ツ辻の茶屋(p.18を参照)を視認できます。稲荷山の参道は鬱蒼とした森林に覆われており、遠方から鳥居を見つけるのは難しいです。
2022年7月30日。京電稲荷線跡を通って京阪伏見稲荷駅に戻ります。
昭和45年(1970年)に京都市電の伏見線と稲荷線が廃止されると、その線路跡は舗装されて車道に様変わりしました。このとき、竹田街道と師団街道を結ぶ稲荷線跡の車道は「稲荷新道」と名付けられています。上述したように、本来の稲荷新道は明治28年(1895年)に土井柾三氏が整備した参詣道のこと。稲荷線は明治37年(1904年)に稲荷新道の南に新設された経緯があります。歴史的背景を無視して名称を被らせると、後世に混乱を招きます。この道は絶対に稲荷新道ではありません。
2022年7月30日。新高瀬川に架かる下川原橋。昭和46年(1971年)完工です。
2022年7月30日。路面電車と高瀬川。歴史と風景はどんどん失われていきます。
2022年7月30日。師団街道に合流。突き当りの稲荷児童公園は、路面電車跡に整備されました。
2022年7月30日。細長い区画の稲荷児童公園。東側は突き当りになっていますが、昔は京阪本殿と交差して稲荷橋上の稲荷停留所に乗り入れました。(稲荷停留所跡はp.4を参照)
2014年4月25日。京阪本線の伏見稲荷駅に戻りました。これは淀屋橋・中之島方面の駅舎です。
2022年7月30日。三条・出町柳方面の駅舎。平成29年(2017年)に駅舎がリニューアルされ、伏見稲荷風の外見は残しつつ現代的になりました。(伏見稲荷駅についてはp.4を参照)
2014年4月25日。淀屋橋・中之島方面のホームには伏見いなりちゃんのパネル。伏見稲荷駅の伏見いなり…そのまんまやけど、かわいいですね。深夜の稲荷山から始まり、伏見稲荷の歴史と由緒を書き尽くして満足しております。後年の補完探訪を含めると余裕で100時間、100km以上歩いているでしょう。2014年から2022年まで、本当に長い道のりでした。
2014年4月25日。1159の普通中之島行きに乗車。充実の探訪を終えました。
次回、2014年7月20日の「伏見稲荷大社探訪 VI」から本宮祭をどうぞ。