2022-08-07 改訂
2009-05-29~2022-07-30 実施
2022年7月30日。伏見稲荷大社の表参道前から田中神社へ。本町通を北に0.7km歩きます。
2022年7月30日。稲荷繁栄会の銘板と幟が並ぶ本町通(伏見街道)。車には十分気を付けてください。
2022年7月30日。十字路。左折すると琵琶湖疏水を跨いで京阪伏見稲荷駅(p.4を参照)へ。右は伏見稲荷の神幸道(p.6を参照)です。
2022年7月30日。右手に京都市立稲荷小学校。飛び出し坊やが稲荷らしい狐仕様です。
2022年7月30日。三叉路。左折するとJR奈良線を跨いで京阪鳥羽街道駅。直進すると左手に田中神社。更に北に進むと、山手に東福寺の境内が広がります。
2019年8月5日と2022年7月30日。田中大神をお祀りする田中神社。伏見稲荷大社の境外摂社です。
2022年7月30日。「稲荷神社境外摂社 田中神社」の社号標。明治22年(1889年)の奉納です。稲荷神社の工事記録によると明治21年に神社修復、明治22年に敷石整備が行われており、その際に建立された社号標と分かります。
田中神社の祭神である田中大神は、平安時代末期に稲荷社の祭神に加わった神様です。藤原宗忠の『中右記』によると、平安時代中期の天仁2年(1109年)に稲荷社に参詣した際、稲荷山の上中下社を巡拝してから帰坂を下って「田中明神」に奉幣。法性寺東大門から都へ帰りました。当時の田中明神は現在の東福寺・田中神社の付近に鎮座したと思われますが、その出自は地主神と推測される以外よく分かっておらず、創建年代も不詳です。
大西親盛が江戸時代中期の享保17年(1732年)に編纂した『稲荷谷響記』によると、古くは広大な境内だったのが、嘉禎2年(1236年)から始まる東福寺造営に際して大部分が失われたとあります。江戸時代には田中大神の由緒も失われ、秦氏系の社家は猿田彦命と同一視したり、賀茂氏の神様である鴨建角身命と見なす説もありました。実際には地主神や田の神様と考えるのが妥当でしょう。(祭神の来歴についてはp.8を参照)
鎌倉時代中期に成立した『古今著聞集』によると、和泉式部が稲荷社に参詣する際、田中明神の西で時雨に遭いました。そこで田を刈っていた童に襖(雨具)を借り、無事に稲荷詣を終えて襖を返しました。その翌日、和泉式部は童から歌を贈られます。
「時雨する 稲荷の山のもみじ葉は あおかりしより おもいそめてき」
田を刈る童の正体は田中明神でした。このエピソードの田中明神は、いかにも田の神様です。
2022年7月30日。境内の手水鉢、奉納年を確認しましょう。
2022年7月30日。この手水鉢は江戸時代前期の元禄13年(1700年)庚辰に、日下氏吉によって奉納されました。案内板に記された天保13年は誤りです。
2022年7月30日。常夜燈の刻銘は風化しており判読不能。案内板を信用するなら、江戸時代初期の正保2年(1645年)に奉納されました。
2022年7月30日。境内は手入れが行き届いています。現在の社殿は正保2年(1645年)に造営。昭和7年(1932年)に大修理。平成21年(2009年)に大整備があり、社殿を西(奥側)に移設して拝所を新設。左に社務所が設けられました。
2019年8月5日と2022年7月30日。拝所にて参拝。稲荷山と正対する向きで鎮座されています。
2019年8月5日。先ほどの三叉路に戻り、JR奈良線と京阪本線を渡ります。
2019年8月5日。京阪本線の鳥羽街道駅。稲荷社の探訪が少しずつ終わってきた感じです。