東方巡遊記

伏見稲荷大社探訪 V

2022-02-05 改訂
2009-05-29~2021-07-25 実施

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目次

01.「伏見稲荷大社探訪」の目次と概要

28.歴史ある田中神社と明治の稲荷新道

田中神社鳥羽街道駅伏見稲荷駅師団街道稲荷新道伏見稲荷駅

和泉式部の稲荷詣と田中明神高瀬川と琵琶湖疏水明治時代の鉄道と参詣道「稲荷新道之碑 」の由緒

歴史ある田中神社と明治の稲荷新道

田中神社

田中神社へ 田中神社へ
2019年8月5日。本町通を歩いて田中神社へ。伏見稲荷大社の一の鳥居から北に0.7km、京阪鳥羽街道駅の東に鎮座します。車には十分気を付けてください。

田中神社 田中神社の社号標田中大神を祀る田中神社 田中神社の境内へ
田中大神をお祀りする田中神社。伏見稲荷大社の境外摂社になります。

和泉式部の稲荷詣と田中明神

田中大神は平安時代末期に稲荷社の祭神に加わった神様です。藤原宗忠の『中右記』によると、平安時代中期の天仁2年(1109年)に稲荷社に参詣した際、稲荷山の上中下社を巡拝してから帰坂を下って「田中明神」に奉幣。法性寺東大門から都へ帰りました。当時の田中明神は現在の東福寺・田中神社の付近に鎮座したと思われますが、その出自は地主神と推測される以外よく分かっておらず、創建年代も不詳です。

大西親盛が江戸時代中期の享保17年(1732年)に編纂した『稲荷谷響記』によると、古くは広大な境内だったのが、東福寺が建立された際に大部分が失われたとあります。江戸時代には田中大神の由緒も失われ、秦氏系の社家は猿田彦命と同一視したり、賀茂氏の神様である鴨建角身命と見なす説もありました。実際には地主神や田の神様と考えるのが妥当でしょう。(祭神の来歴についてはp.8を参照

鎌倉時代中期に成立した『古今著聞集』によると、和泉式部が稲荷社に参詣する際、田中明神の西で時雨に遭いました。そこで田を刈っていた童に襖(雨具)を借り、無事に稲荷詣を終えて襖を返しました。その翌日、和泉式部は童から歌を贈られます。

時雨する 稲荷の山のもみじ葉は あおかりしより おもいそめてき

田を刈る童の正体は田中明神でした。このエピソードの田中明神は、いかにも田の神様です。

田中神社の手水鉢 田中神社の由緒
境内へ。手水鉢は江戸時代前期の元禄13年(1700年)に奉納されました。

田中神社の拝所 田中神社の社務所
拝所にて参拝。稲荷山と正対する向きです。現在の社殿は江戸時代初期の正保2年(1645年)に造営。昭和7年(1932年)に大修理、平成21年(2009年)に大整備があり、社殿を西に移設して拝所を新設。左に社務所も設けられました。境内は手入れが行き届いています。

京阪鳥羽街道駅

JR奈良線 京阪本線の鳥羽街道駅
JR奈良線を越えると京阪本線の鳥羽街道駅。ここまで2019年8月5日の探訪でした。

京阪伏見稲荷駅

お食事処いなり
2014年4月25日。伏見稲荷の表参道から京阪伏見稲荷駅に戻ります。稲荷橋(R119)で琵琶湖疏水を渡ると、右手に「お食事処いなり」。墨染さんに変化したいなりちゃんと丹波橋くんが入ったお店。「いなこん」の探訪者の間では有名店になりました。

伏見稲荷駅前の通り 伏見稲荷駅前の踏切
2020年10月11日。伏見稲荷駅を通り過ぎ、京阪本線を渡ります。最後は稲荷新道を探訪しましょう。

稲荷山地形図
伏見稲荷大社の参詣道。江戸時代の街道と運河、明治時代の鉄道と疏水が南北に通り、それらを東西に結ぶ街道と鉄道も設けられました。参詣道と鉄道の歴史は少しややこしいので、この地図で位置関係を把握しながらお読みください。

国土地理院の「地理院地図(新版)」にポイント及びルートを追記しています。

師団街道

京阪本線の西を南北に通る師団街道 稲荷新道の標識
2020年10月11日。京阪本線の西を南北に通る師団街道。明治41年(1908年)に陸軍第16師団司令部が設置された名残です。16師団は後年の破滅的な戦争に投入され、レイテ島の戦いで18028名もの犠牲者を出して壊滅しました。戦争で亡くなった方々のことを決して忘れてはなりません。

稲荷新道

稲荷新道
2020年10月11日。師団街道から西の稲荷新道に入ります。

昭和2年に架けられた稲荷橋 新高瀬川に架かる稲荷橋
新高瀬川に架かる稲荷橋
2020年10月11日。昭和2年(1927年)に架けられた稲荷橋。この小川は新高瀬川といいます。

稲荷橋の隣に架かる歩行者用の高瀬稲荷人道橋 新高瀬川
高瀬稲荷人道橋 昭和56年竣工の高瀬稲荷人道橋
2020年10月11日。稲荷橋の隣に架かる歩行者用の高瀬稲荷人道橋。昭和56年(1981年)竣工です。

高瀬川と琵琶湖疏水

江戸時代初期の慶長19年(1614年)、豪商の角倉了以と息子の角倉素庵により、鴨川と宇治川を南北に繋ぐ運河が整備。高瀬舟が用いられたことにちなんで高瀬川と呼ばれました。物資の輸送はもちろんのこと、都の中心部から稲荷社への参詣にも利用され、江戸時代末期、元治元年(1864 年)の『花洛名勝図会』には高瀬川から稲荷道を通って稲荷社に向かう人々の様子が描かれています。

蹴上探訪|インクラインを中心に琵琶湖疏水の史跡を探訪
明治2年(1869年)に東京遷都が決行されると京の都は衰退。窮状を危惧した第3代京都府知事の北垣国道氏は、滋賀県の琵琶湖から京都に水を引き入れる大規模な水路の整備を計画。新進気鋭の技術者、田邉朔郎氏を設計責任者に迎えて、途方も無い難工事を経て明治23年(1890年)に琵琶湖疏水の第1疏水が開通。京都が近代都市に生まれ変わる基礎になりました。(琵琶湖疏水の史跡は2020年10月の「蹴上探訪」を参照)

琵琶湖疏水が人々や物資の輸送に重宝された一方で、江戸時代から用いられた高瀬川は役割を失いました。後年には市街地を流れる普通の小川になり、高瀬舟が行き交った時代の面影は殆ど残りません。かつての参詣道だった稲荷道も陸軍第16師団の練兵場により分断され、その跡地は警察学校と龍谷大学に転用。もはや『花洛名勝図会』に描かれた情景を想像するのは不可能です。

稲荷新道 竹田街道
竹田街道 竹田街道
2020年10月11日と9月19日。稲荷新道から竹田街道(R24/R115)に合流しました。稲荷新道交差点の一角は朱塗りの玉垣に囲われて、伏見稲荷大社の社号標と記念碑が設置。この交差点は京都電気鉄道の稲荷道停留所(後の京都市電:勧進橋駅)の跡地でもあります。

明治時代の鉄道と参詣道

江戸時代の稲荷社の参詣には本町通(伏見街道)、または高瀬川から東に延びる稲荷道が利用されました。明治12年(1879年)、本町通沿いに官設鉄道の稲荷駅が開業して稲荷神社の玄関口となり、明治28年(1895年)には竹田街道沿いに京都電気鉄道伏見線の稲荷道停留所が仮開業するなど、稲荷神社の参詣事情は大きく変化しました。旧来の街道は参詣に適さなくなったのです。(p.4も参照

京電の仮開業より2年前、大阪の崇敬者である土井柾三氏が京電と稲荷神社を結ぶ新たな参詣道の整備を計画。土地の買収や工事にかかる費用の全てを土井氏が負担し、明治28年の京電開業に合わせて完成。江戸時代の稲荷道に対して「稲荷新道」と名付けられました。稲荷神社の発展に貢献した土井氏は境内に後醍醐天皇歌碑(p.14を参照)も奉納されており、その信仰の篤さに感銘を受けます。

伏見稲荷大社探訪 V|伏見稲荷駅から疎水を渡り稲荷駅へ
稲荷新道の効果は大きく、京電は明治37年(1904年)、伏見線から分岐して稲荷新道の南に稲荷線を新設。現在の稲荷橋の場所に稲荷停留所が開業しました。明治43年(1910年)には稲荷停留所の西に京阪電気鉄道の稲荷新道駅が開業。稲荷神社の参拝に便利だったことから同年に稲荷駅へ改称され、稲荷新道~本町通~稲荷神社に4つの稲荷駅が集中する形に。明治の混乱が落ち着いた大正時代には観光旅行が流行。稲荷神社の参詣は鉄道が主流になりました。

大正7年(1918年)、京電は京都市に買収されて京都市電に。戦後しばらく国鉄稲荷駅、市電勧進橋(稲荷道から改称)及び稲荷停留所、京阪伏見稲荷駅という4駅体制が維持されます。しかし自動車の普及で乗客が減少し、昭和45年(1970年)に伏見線と稲荷線が廃止。昭和53年(1978年)には歴史ある市電の全路線が廃止されてしまいました。明治の新参道として名を馳せた土井氏の稲荷新道も歴史的役割を終え、ごく普通の路地に様変わりして現在に至ります。

「稲荷新道之碑」 「伏見稲荷大社」の社号標
「伏見稲荷大社」の社号標と「稲荷新道之碑」 「稲荷新道之碑」の案内板
2020年9月19日。「伏見稲荷大社」の社号標と「稲荷新道之碑」。伏見稲荷の史跡です。

「稲荷新道之碑 」の由緒

「稲荷新道之碑」は、土井柾三氏の稲荷新道が完成した明治28年(1895年)に建立。左下に稲荷神社宮司の近藤芳介氏、禰宜の羽倉芳豊氏、主典の桑田孝恒氏の名前が刻まれています。当初は琵琶湖疏水に架かる稲荷橋の西詰に設置されたのが、いつの間にか無断で撤去されて存在自体が忘却。建立から100年以上経った平成14年(2002年)、小谷隆一氏の寄進で現在地に再建されました。平成16年(2004年)には宮司の坪原喜三郎氏により案内板が設置されています。

「稲荷さんけい道」の記念碑 「土井柾三建之」と刻まれた記念碑
明治28年に奉納された記念碑 「土井柾三建之」と刻まれた記念碑
2020年10月11日。稲荷新道の入口にも記念碑があります。「稲荷さんけい道」「土井柾三建之」。稲荷新道が完成した明治28年(1895年)7月、稲荷神社史に輝く偉人の土井柾三先生によって奉納されました。これで伏見稲荷に関連するほぼ全ての史跡を紹介できました。長い道のりでしたね。

京阪伏見稲荷駅

京阪本線の伏見稲荷駅 京阪本線の伏見稲荷駅
2014年4月25日。1145、京阪本線の伏見稲荷駅。淀屋橋・中之島方面の駅舎です。0033の終電から行程を開始して11時間ほど。本日の歩行距離は約15kmでした。後年の補完探訪を含めると余裕で100時間、100km以上歩いているでしょう。1000kmぐらい歩いて探訪した地域もありますので、これぐらいは普通です。

伏見稲荷駅のホーム
伏見いなりちゃんのパネル 伏見いなりちゃんのパネル
淀屋橋・中之島方面のホームには伏見いなりちゃんのパネル。伏見稲荷駅の伏見いなり…そのまんまやけど、かわいいですね。深夜の稲荷山から始まり、伏見稲荷の歴史と由緒を書き尽くして満足しております。皆様も奈良時代の秦氏ワールドへお越しください。

普通中之島行きで撤収
1159の普通中之島行きに乗車。充実の探訪を終えました。

伏見稲荷大社探訪 VI|本宮祭で大いに賑わう伏見稲荷へ
次回、2014年7月20日の「伏見稲荷大社探訪 VI」から本宮祭をどうぞ。

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