2022-08-07 改訂
2009-05-29~2022-07-30 実施
納札所/啼鳥菴/神苑斎場~十石橋~神田|向日町駅~稲荷公園/神田跡~東向日駅
「いなこん」に登場した十石橋|十石聖に由来する十石橋|土井柾三氏の防火用水整備|神田で斎行される祭礼|向日市に残る神田跡
2018年5月20日。おさんば道(p.25を参照)を通って玉山稲荷社(p.11を参照)の前に戻りました。昼間は修学旅行生や外国人観光客が押し寄せて大混雑します。
2018年5月20日。玉山稲荷社前を左折すると、十石橋を経て四ツ辻方面に向かう参道が伸びています。ちょっと訪れない間に見違えるほど綺麗になりました。
2019年7月21日。白狐が守る参道を猫が横断していきました。最近はここまで出没します。
2020年9月19日。新潟県長岡市長岡駅前の水澤電機株式会社により奉納された青銅の狐像。左の狐は稲荷を象徴する稲穂を咥え、右の狐は何も咥えず狛犬の吽形のようです。尻尾に載せた如意宝珠といい、内拝殿前の狐像(p.8を参照)によく似ています。この狐は髭が特徴ですね。
2020年9月19日と2022年7月30日。狐像が主流の伏見稲荷では珍しい狛犬。明治15年(1882年)に表参道の鳥居前(p.5を参照)に奉納されたのが、後年、現在地に移設されたとのこと。稲荷大明神の眷属として確固たる地位を確保した白狐に役割を奪われてしまった形になります。逆に考えると、明治初頭の時点では狐像のイメージが普及していなかったということです。
2018年5月20日と2020年9月19日。参道の左手。御神札や御守りを納める納札所です。
2018年5月20日と2020年9月19日。平成29年(2017年)12月に新設された「啼鳥菴」なる休憩所。後背の八島ヶ池を眺めながら一服できるようです。周辺の参道が新しく舗装されており、観光客を呼び込むために力を入れて整備していると分かります。
2014年4月25日。啼鳥菴の設置前は未舗装だった参道。左側に並んでいた常夜燈は、整備に伴って奥の参道に移設されたと思われます。
2020年9月19日。啼鳥菴の向かい側には、大正時代に整備された神苑斎場に通じる階段。奉射祭や火焚祭など神事の場として使用されます。普段は入れないからここまで。
2019年8月5日と2020年9月19日。 啼鳥菴先の参道を守る神使の狐達。左の狐が咥える鍵は稲荷大神の宝蔵を開く秘鍵、右の狐が咥える玉は稲荷大神が秘める神徳の象徴です。造形が楼門前の青銅の狐像(p.7を参照)にそっくり。奉納年は不明ですが、製作時に参考にしたのでしょう。
2022年5月28日。白狐の懐でくつろぐ猫ちゃん。やりたい放題です。
2014年4月25日。参道を進むと朱塗りの十石橋が現れます。平成25年(2013年)12月に改修工事を終えてリニューアルされたばかり。以下、稲荷社復興に関係する十石橋の由緒を紹介しましょう。
「いなこん」1話、いなりちゃんがコンちゃんを助けようとして滑落した十石橋。アニメ制作のロケが行われたのは改修工事前であり、作中では擬宝珠の無いデザインで描かれます。いなりちゃんは近道と称して産場稲荷(p.25を参照)前から境内に入りましたが、それなら南に直進して東丸神社(p.9を参照)脇から境内を出て学校に向かったはず。……という野暮なツッコミは程々にして、伏見稲荷の色々なロケーションを特定して楽しめるのが「いなこん」の魅力です。
十石橋は十石聖に由来します。諸国を巡って寺社・仏像・橋などの造営資金を集めた僧侶を勧進聖といい、橋の勧進を行うことから「橋聖」、修験道の十穀断の苦行を実践することから「十穀(十石)聖」とも呼ばれました。稲荷社では鎌倉時代に神仏習合の信仰が確立し、室町時代の応仁の乱の以前より十穀聖の活動がありました。長禄2年(1458年)には伊勢神宮の内宮大橋の勧進まで行っています。
応仁2年(1468年)に稲荷社が戦場となって壊滅するも、6年後の文明6年(1474年)には稲荷社の勧進聖の福阿弥が東寺を訪れた記録が『東寺執行日記』に残り、早くも稲荷社の復興に向けて勧進聖の活動が始まっていたようです。明応8年(1499年)、稲荷山西麓に五社相殿の本殿が再建。明応の正遷宮を主導したのは社家の荷田氏ですが、莫大な費用を調達したのは円阿弥を本願とする勧進聖でした。(稲荷社の復興はp.8を参照)
安土桃山時代の文禄3年(1594年)、稲荷社に正式な本願所が発足。江戸時代初期の寛永10年(1633年)には愛染寺を称しました。愛染寺の僧侶は諸国を巡って庶民に神仏習合の稲荷信仰を広め、稲荷社の一大勢力に発展します。しかし稲荷社の祠官を務める社家は新興の愛染寺を快く思わず、明治元年(1868年)に神仏判然令が出されると直ちに愛染寺を破却してしまいました。(愛染寺の発展と破却はp.10を参照)
現在地に十石橋が架けられた時期は不明。稲荷社の勧進聖に由来するのは明らかですが、江戸時代の文献には見当たらず、それほど古い歴史は持っていないと思います。せっかくリニューアルしても朱塗りの橋という要素だけが注目されるのは寂しい限り。形では残らなくても、その名称には神仏習合時代の稲荷社や、稲荷社の復興のために奔走した勧進聖の歴史が刻まれているのです。
2018年5月20日。啼鳥菴の整備に伴い、十石橋周辺も舗装されました。伏見稲荷の境内に架かる朱塗りの橋は十石橋だけ。外国人には珍しいようで人気の撮影スポットになっています。大社側も朱塗りの鳥居とマッチする風景を目指したはず。できれば十石橋の由来を記した案内板を設置してほしいです。
2019年8月4日。何度も見たことのある猫ちゃん。去勢済みの印に右耳の先端をカットされているのが特徴です。カメラを向けると「またお前か」って反応されました。(稲荷山の猫の実態はp.16を参照)
2020年9月19日と10月11日。大勢の観光客が手を置いたり腰掛けたおかげで、擬宝珠と欄干の塗装が剥げました。十石橋が架かる沢は稲荷山の新池(p.17を参照)から流れ、神田に隣接する八島ヶ池(p.25を参照)に注ぎます。「いなこん」のレポと称して沢に下りた輩を見たことがありますが、神域を穢す外道の所業です。絶対に下りないでください。
2022年7月30日。昼寝中の黒猫発見。去勢済みでした。邪魔しないように撮らせてもらいます。
2022年7月30日。十石橋を渡って神田へ。右手に石碑が並んでいます。
2019年8月4日と2022年7月30日。達筆すぎて表面の大部分が判読できない石碑。文献を参照しながら由緒を見ていきましょう。
明治31年(1898年)、稲荷神社宮司の近藤芳介氏の撰、則武氏の副書で記された碑文。表面の判読を諦めて裏面を見ると、同年に防火用水を整備した土井柾三氏によって建立された記念碑と分かります。土井氏は大阪の熱心な崇敬者。明治25年(1892年)に境内に後醍醐天皇歌碑(p.14を参照)を奉納したり、明治28年(1895年)に稲荷神社参拝のための稲荷新道(p.30を参照)を整備された偉人です。
稲荷神社の工事記録によると、稲荷山中の谺ヶ池(p.17を参照)から境内に防火用水を引き、社務所の庭にこの水を利用した噴水が設けられました。京都の寺社で防火用水が整備され始めるのは明治20年代後半のこと。稲荷神社の噴水の竣工式には京都府知事など多くの参観があったと記されています。土井柾三氏が整備された歌碑や稲荷新道の歴史を後世に伝えたいです。
2022年7月30日。明治32年(1899年)に建立された「永代初穂米献備」の記念碑です。
2022年7月30日。明治31年(1898年)に建立された「三重県第四号瑞穂講社 永代大神供献備 光峰組」の記念碑。伊賀国(三重県)の稲荷講の講長や事務係の名が刻まれています。
2022年7月30日。神田の向かい側には焼却炉があります。ここは作業道の雰囲気です。
2022年7月30日。東に進むと稲荷山の参道へ。石材・石碑置き場(p.16を参照)に通じます。
2019年8月4日。緑の稲穂が美しい神田。昭和23年(1948年)、八島ヶ池の東に設けられました。
稲荷大明神をお祀りする稲荷社において、稲を植える神事はとても重要な意味を持ちます。白川資益の『資益王記』では文明16年(1484年)、小槻于恒の『于恒宿禰記』では永正14年(1517年)に御田植神事の記事があり、その起源は不明ながら室町時代には田植祭が斎行されていたと分かります。江戸時代前期、延宝4年(1676年)に黒川道祐が編纂した『日次紀事』にも稲荷社の御田神事が記されますが、その後の記録には現れないことから近世に衰退したとみられます。
稲荷神社で田植祭が復興されたのは昭和5年(1930年)のこと。昭和天皇の即位を記念して始められました。当時の神田は稲荷神社から程遠い乙訓郡向日町寺戸(現在の向日市寺戸町二枚田)にあり、五反歩ほどの田地が寺戸区から寄付されました。悠紀・主基の古式に則って斎行された田植祭は戦中も続けられますが、戦後の混乱で一時途絶えてしまいます。
昭和23年(1948年)、100坪ほどの神田が現在地に設けられ、田植祭が小祭として再開。翌年からは大阪三島初穂講の奉仕で再興されました。現在では4月12日に水口播種祭、6月10日に田植祭が行われ、10月25日の抜穂祭で刈り取られた稲が、11月23日の新嘗祭で神様にお供えされます。神楽女の御田舞と早乙女の田植えは、伏見稲荷の祭礼の見どころの一つです。
2022年7月30日。1350、JR京都線の向日町駅にて下車。稲荷神社の神田跡を探訪します。
2022年7月30日。向日町駅の駅舎。ここは山城国乙訓郡/京都府向日市です。
JR向日町駅または阪急東向日駅から神田跡に至る地図。近いです。
2022年7月30日。「浄土門根元地粟生光明寺道」の大道標と、西国街道の案内板。向日町の史跡にまで手を出すと収拾がつかなくなりますから、見なかったことにします。
2022年7月30日。セブンイレブンの先で左折。住宅街を南に進みます。
2022年7月30日。住宅街の一角に設けられた稲荷公園。ここが神田跡です。
2022年7月30日。稲荷公園の由緒を記した案内板が二つも掲示。歴史保存の意気込みを感じます。
昭和5年(1930年)、乙訓郡向日町寺戸から五反歩(5千㎡)または2千㎡ほどの田地が稲荷神社に寄付されて神田が設けられました。上述したように悠紀・主基の古式に則って田植祭が斎行されましたが、戦後の昭和23年(1948年)、新神田の設置に伴って短い役目を終えました。向日市の案内板によると、昭和28年(1953年)頃までは神様にお供えする米を作っていたようです。
その後、神田周辺は住宅開発が進みました。昭和44年(1969年)、伏見稲荷大社の社有地を向日町が無償で借用する形で、旧神田の一部が町民の憩いの場となる「稲荷公園」として整備されました。一帯に田んぼの面影は全く残りませんが、二枚田の地名と稲荷を冠する公園が近代の田植祭の歴史を伝えています。尚、向日町は昭和47年(1972年)に向日市になっています。
2022年7月30日。一見すると稲荷神社とは無関係な稲荷公園。地元民は気にしてなさそうですが、私にとっては大切な史跡です。ここで田植祭が行われた時代があったのです。
2022年7月30日。約20m四方で面積は約400㎡の稲荷公園。神田の面積は伏見稲荷の資料によると五反歩(5千㎡)、向日市の案内によると2千㎡です。どちらが正しいのか不明ながら、5千㎡なら公園12.5個分、2千㎡なら公園5個分になります。
2022年7月30日。稲荷公園の片隅に安置されたお地蔵様。公園整備後にやってきたのでしょうか。
2022年7月30日。二枚田の南縁を通って阪急東向日駅へ。この北側一帯が田んぼでした。
2022年7月30日。向日市を南北に走る阪急京都線。電柱に「内二枚田」と記されています。
2022年7月30日。昭和の二枚田の風景を想像しながら、現代の街並みを歩きます。
2022年7月30日。R207に合流。踏切を渡ると東向日駅です。
2022年7月30日。1410、阪急京都線の東向日駅に到着。JRで帰ってもいいのですが、色々な路線を使ったほうが探訪記事として充実します。
2022年7月30日。準急大阪梅田行きに乗車。次ページで境内に戻ります。