2022-02-05 改訂
2009-05-29~2021-07-25 実施
2014年4月25日。1020、稲荷山の四ツ辻(p.18を参照)に戻りました。
三ツ辻方面へ下ります。ハイカーの団体に小学生の遠足。賑わってきましたね。
榎木大神を経て茶屋「三玉亭」。まもなく三ツ辻です。(この辺りもp.18で紹介済み)
熊鷹社方面には下らず三ツ辻を直進。伏見稲荷の境外北側を通る裏参道です。
2019年4月20日。裏参道には多種多様な拝所やお塚があります。明治時代に個々の崇敬者が設立した社ですから、由緒や祭神について伏見稲荷大社は関知していません。(その経緯はp.17を参照)
2019年4月20日。稲荷山で生まれた稲荷信仰の一種なのに、伏見稲荷とは違う。稲荷山には民間信仰が織りなす独特の世界観が存在します。
2019年4月20日。初めて裏参道を歩いたときは圧倒されました。
この辺り、いなりちゃんの通学路です。「いなこん」のポスターが掲示されていました。
裏参道を抜けた三叉路の一角に産場稲荷が鎮座します。直進すると神幸道に合流。左折すると伏見稲荷の境内に通じます。チカンに注意してください。
2019年2月24日。産場稲荷の鳥居。扁額には「産場大神」とあります。稲荷大明神の眷属の狐夫婦が穴を掘って暮らし、子を生んで育てた伝説から産場稲荷として崇敬されるようになりました。「いなこん」的にはシシ・ロロ・コンちゃん達が産まれ育ったところと想像できますね。
2019年2月24日。こじんまりした拝所。稲荷山のお塚と同じく、明治時代に個々の崇敬者から生まれた社と思われます。狐はお産が軽いことにちなんだ信仰であり、子宝・安産の神様として崇敬される産場大神。全国の病院関係者が奉納した鳥居が目立ちます。
2019年2月24日。産場稲荷から伏見稲荷境内に至る路地。稲荷山を下山する際は三ツ辻から産場稲荷に下り、いなりちゃんの近道を再現するのがオススメです。
近道を通って伏見稲荷の境内へ。大八嶋社を経て玉山稲荷社の前に戻ります。看板が置かれているところは台石の跡。以前は「いなこん」の作中のように鳥居がありました。
2019年8月5日。令和元年5月、気になっていた箇所に鳥居が復活。早速、伏見稲荷の風景に馴染んでいました。いなりちゃんの近道のシーンが再現できるで!
2020年9月19日。風雨に曝されて色褪せた令和の鳥居。そのうち光明丹で塗り直されると思います。
境内の玉山稲荷社(p.11を参照)前に復帰。産場稲荷に通じる道の名前は「おさんば道」です。
2019年2月24日。おさんば道の途中に摂社の大八嶋社が鎮座。社殿は存在せず磐境(神域)を囲って禁足地とし、地主神である大八嶋大神をお祀りしています。
秦氏の伝承によると、稲荷山の荒神峰(p.23を参照)の地主神を現在地でお祀りするようなったのが大八嶋社の由緒とのこと。大西親業が江戸時代後期の寛政年間(1789~1801年)に編纂した『稲荷社事実考証記』では、四大神を御八島、影向社と称し、荒神塚の地主神と記されています。ということは荒神塚の地主神は四大神であり、大八嶋社の祭神=四大神と考えられます。現在の荒神峰を田中社神蹟と呼ぶのは、三ヶ峰と同じく便宜的に当て嵌めた結果ではないでしょうか。
一方、『稲荷社事実考証記』では荒神塚を荷田氏の旧蹟とも紹介しており、確かに荷田氏の伝承では竜頭太に関係あるらしい。竜頭太は稲荷山の麓に庵を結んで農耕を行った山神。稲を荷なうことから姓は荷田氏といい、後の荷田氏の祖神に位置付けられました。空海が竜頭太の面をお祀りした竈戸殿が今の大八嶋社なのではないか。とする説もあります。(竜頭太についてはp.9を参照)
稲荷山麓に暮らした竜頭太。平安時代末期から稲荷社の祭神に加わり、来歴不明ながら地主神と推測される四大神と田中大神。どの神様も地主神の性格があって大八嶋大神と同一視できます。難しい話題が一向に終わりません。もう少しお付き合いください。
2018年10月14日と2020年9月19日。明治27年(1894年)に奉納された「大八嶋大神」の神号碑。その後背には八島ヶ池があります。稲荷山の新池(p.17を参照)から流れる沢は八島ヶ池に注ぎ、暗渠化された祓川(p.6を参照)を経て琵琶湖疏水に注ぎます。