2022-02-05 改訂
2009-05-29~2021-07-25 実施
京都の玄関口の4代目京都駅|平安時代に始まった稲荷祭|空海と稲荷大明神の邂逅|稲荷社の御旅所の変遷|稲荷山の上中下社と御旅所の祭神|柴守長者の家に設けられた御旅所|御旅所の社殿
2019年8月5日。京都駅。ここは山城国紀伊郡/京都府京都市下京区です。本ページでは伏見稲荷大社の境内の一つ、京都駅の南に位置する御旅所を探訪。「いなこん」の舞台探訪としてはアニメ2話の蹴上、原作6話の八坂神社、アニメ8話の出雲大社を補足的に紹介します。
2018年2月23日。夜の京都駅とライトアップされた京都タワー。これは別の機会に紹介します。
おそらく古墳時代末期に日本に渡来して山背国に定住した秦氏。彼らの精力的な開拓がなければ山背国の発展は遅れ、桓武天皇による長岡京・平安京への遷都も実施されなかったことでしょう。明治時代の東京遷都まで千年以上も日本の中心として栄え、現在でも古い寺社や町並みが残り、観光客で溢れる京の都。京都駅が存在するのも秦氏の活躍のおかげです。(秦氏についてはp.5を参照)
京都駅と京都の鉄道の歴史は長くなるから割愛させていただくとして、4代目となる京都駅は平成9年(1997年)に完成。JR東海道本線・山陰本線・奈良線・東海道新幹線が乗り入れます。大きく現代的なデザインで、京都の玄関口として利用される京都駅。遠方から伏見稲荷を訪れる場合は、ここで奈良線に乗り換えてJR稲荷駅へ。「いなこん」の舞台探訪で利用した方も多いと思います。
北口にそびえるのは京都タワー。昭和39年(1964年)に開業した展望塔です。運営しているのは京阪電車の母体、京阪グループ。土台になる京都タワービルを含めて131mあり、京都市内で最も高いランドマークです。東寺の五重塔(55m)より高く、歴史的景観を損ねるとして京都駅とともに批判されることもありましたが、今では京都のシンボルとして認識されています。ちなみに私は一度も登ったことがありません。
2019年8月5日。
京都駅南口。こちら側は京都市南区。近鉄京都線と地下鉄烏丸線も乗り入れます。京阪は通っていませんので、京阪伏見稲荷駅で下車したい場合、東福寺駅で乗り換える必要があります。
京都駅から伏見稲荷大社の御旅所に至る地形図。南口の八条通から油小路通に入ると、東寺に至る東寺通に合流。その一角に御旅所が設けられています。
油小路通(R1)に入ります。右手に見える玉垣と社叢が伏見稲荷大社の御旅所。4月20日~5月3日の稲荷祭において神輿を安置する場所…分かりやすく言うと神様の宿泊所です。南に下ると近鉄東寺駅、その西に広大な東寺境内があります。以下、全て2019年8月5日の写真でお送りします。
稲荷祭とは稲荷大神が周辺地域を巡幸される行事。五基の神輿が油小路東寺道の御旅所に渡御する神幸祭、そして本殿に戻る還幸祭からなり、伏見稲荷で最も重要な祭礼です。上記の地図からお分かりのように還幸祭では東寺の前を通り、僧侶の御供を受けることになっています。明治時代の神仏分離以前は東寺の境内に神輿が入りました。(p.8でも紹介)
都の中心部を稲荷社の神輿が巡幸する稲荷祭。その明確な起源は不明です。大西親盛が江戸時代中期の享保17年(1732年)に編纂した『稲荷谷響記』では、平安時代初期の貞観年間(859~877年)に始まったとありますから、稲荷社が名神大社の地位を確立した時期から行われたのでしょう。神輿が東寺に入るのは空海が稲荷社を勧請した伝説にも関わります。
平安中期には庶民が楽しむ盛大な祭りに発展しており、貴族の日記にも熱狂的な賑わいだったと記されます。当時の神輿渡御の様子は『年中行事絵巻』に残っていて、稲荷の神徳が庶民に広まっていたことを示します。鎌倉~室町時代にかけて稲荷祭はどんどん派手になり、豪華な山鉾が並ぶ様子は祇園社の御霊会のようだったとか。応仁の乱が勃発し、応仁2年(1468年)に稲荷社は壊滅的な被害を受けますが、五基の神輿は事前に持ち出されて東寺に預けられ、焼失を免れました。ここでも稲荷社と東寺の関係が活かされたのです。
応仁の乱の後、勧進聖(僧侶)の尽力により稲荷社は着々と復興。明応8年(1499年)に五社相殿の本殿が再建されました。しかし貴重な書物は焼失、壊滅した京の都の復興は遅れ、費用がかさむ盛大な稲荷祭は長い間実施できませんでした。『稲荷祭礼図屏風』や『稲荷神社祭礼絵巻』などを見ると、江戸前期から稲荷祭が復活しつつあったようです。本格的なな復活は本殿再建から275年後、江戸時代後期の安永3年(1774年)でした。天明7年(1787年)に刊行された『拾遺都名所図会』では、東寺境内に安置される五基の神輿が描かれています。
稲荷祭は明治の神仏分離を経ても存続。神輿が東寺の境内に入る伝統は失われましたが、戦前までは江戸時代に復活した様式で実施されました。しかし戦争の余波で稲荷祭は再び途絶えてしまい、昭和41年(1966年)、ようやく新しい様式で復活。周辺の道路事情が大きく変わってしまったこともあり、現代では装飾を施したトラックの荷台に神輿を載せて巡幸します。
稲荷社と東寺の関係は空海の時代に生まれました。東寺に伝わる『稲荷大明神流記』によると弘仁7年(816年)、紀州(和歌山県)の田辺宿に赴いた空海は異相の老翁(神)に出会います。空海は国家鎮護のために東寺を整備することを伝えて、再会を約束しました。
それから7年経ち、東寺の整備が始まる弘仁14年(823年)。老翁が稲を荷なって椙(杉)の葉を提げ、二女二子を伴って東寺南門に現れました。空海は喜んで老翁を歓待し、一行が八条二階堂の柴守長者の家に滞在している間、東寺の杣山(材木を切り出す山、すなわち稲荷山)を利生の勝地と定めて神様としてお祀りしました。これが稲荷社の起源として伝えられます。
『二十二社本縁』では数多の眷属を連れて稲を荷なった老翁が東寺を通り、空海が行き先を尋ねると「比叡の阿闍梨(最澄)に招かれた」と答えました。「東寺で仏法を守ってほしい」と空海に要望された老翁は守護を引き受け、東寺の鎮守社として稲荷社が創建されたという伝説が記されます。ここでは、稲荷大明神は老翁の姿でイメージされていました。
やはり東寺に伝わる『弘法大師行状絵詞』によると、空海が筑紫(九州)にいた頃、稲を荷なった老翁に出会います。老翁は都の八条に住む柴守長者であると名乗り、再会を約束しました。弘仁14年には二階堂の柴守長者が東寺に現れ、老翁を歓待した空海は「都の山で仏法を守ってほしい」と要望。社を創建して稲荷山に鎮座してもらい、二階堂が御旅所になったと伝わります。
一連のエピソードは中世以降に普及したもので、空海が稲荷社を勧請した伝説は神仏習合の中で用いられました。実際には、空海が東寺の伽藍整備のために淳和天皇の許可を得た上で最寄りの稲荷山の木々を伐採。後に天皇が病気になり、占いによって稲荷山を荒らした祟りであることが判明しています。空海としても無理な伐採を行うつもりはなく、稲荷社の秦氏をうまく懐柔したと思われます。
伐採事件によって神道と仏教が対立したわけではなく、むしろ空海が稲荷山の材木を用いたことで東寺・稲荷社は親密な関係になり、後世の稲荷祭では稲荷社の神輿が東寺に入りました。室町時代の応仁の乱で稲荷社が壊滅した際も、神輿が東寺に預けられています。稲荷祭の還幸祭で神輿が東寺の前を通るのは、空海と老翁(稲荷大明神)の邂逅の再現に他なりません。この伝統は神仏分離を経た今日まで受け継がれています。(空海の伝説はp.5でも紹介)
御旅所入口に立つ朱塗りの鳥居。稲荷社の北西3km、油小路東寺道の一角に位置します。
大西親盛が江戸時代中期の享保17年(1732年)に編纂した『稲荷谷響記』によると、古くは八条坊門猪熊に御旅所があり、上中下社の御旅所の他、二階社という祠が存在していたらしい。二階社とは、柴守長者が住んでいた二階堂に関係する社でしょう。中山忠親の『山槐記』によると平安時代末期の仁安3年(1168年)、八条堀川の近辺に稲荷社の御旅所があったことが分かります。
九条家に伝わる『延喜式』の写本を見ると、南市門・梅小路(八条坊門猪熊)に「稲荷旅所」と「命婦社」。油小路・塩小路(七条油小路)にも「稲荷旅所」が記されています。平安時代の時点で、経緯不明ながら御旅所は二箇所存在していたのです。ここからややこしくなってきますよ。
『百錬抄』によると鎌倉時代初期の嘉禄2年(1226年)、八条坊門猪熊の上中社の御旅所が焼失する事件がありました。『稲荷谷響記』では上中下社の御旅所があると記されていますが、上中社が焼けて下社だけ無事だったというのは不自然であり、下社の御旅所は七条油小路にあったと推測されます。
八条坊門猪熊の御旅所は後に再建されたようで、室町時代に写された『拾芥抄』には八条の「稲荷社」のみ記載。同時期に描かれ上杉家に伝わっている『洛中洛外図屏風』では、白木の鳥居が建てられた八条の御旅所が描かれています。どうやら七条の御旅所は合併されたらしい。
安土桃山時代の天正年間(1573~1592年)、豊臣秀吉の京都改造の一環で油小路東寺道に移転。以降の稲荷祭では、ここが稲荷大神の宿泊所になります。突然の移転は応仁の乱による荒廃も関係していると思われますが、移転後の旧御旅所には跡地の札を立てて祭礼が行われ、江戸時代末期まで存続したようです。各時代の御旅所の所在地を以下の表にまとめました。
所在地 |
備考 |
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古い時代 |
八条坊門猪熊: 上中下社の御旅所・二階社 |
江戸中期の記録 |
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平安末期 | 南市門・梅小路: 稲荷旅所・命婦社 |
油小路・塩小路: 稲荷旅所 |
二箇所に存在 |
平安末期 |
八条堀川の近辺:御旅所 | |
一箇所のみ記載 |
鎌倉初期 |
八条坊門猪熊:上中社の御旅所 |
七条油小路:下社の御旅所? |
下社は七条と推測 |
室町時代 | 八条:御旅所 | 七条は現れず | |
↓八条坊門猪熊から移転↓ | |||
安土桃山時代 |
油小路東寺道:御旅所 |
旧御旅所:跡地の札 | 八条から移転 |
江戸時代 |
油小路東寺道:御旅所 | 旧御旅所も存続 |
|
現代 |
油小路東寺道:御旅所 | 旧御旅所は消滅 |
東寺の古文書には、稲荷社の上御旅所に大多羅志女・十禅師、下御旅所に本社・中ノ御前・中ノ王子と記されます。これでは何を指すのか全く分かりませんので、室町時代の応仁の乱直前、長禄3年(1459年)に描かれた『稲荷社指図』を振り返りましょう。(p.8でも紹介)
『稲荷社指図』によると、山麓の下社(現在の本殿に相当)に四大神(毘沙門)・中御前(千手)・大タラチメ(如意輪)・大明神(十一面)・田中(不動)が鎮座。山中の中社に千手・中御前・毘沙門、上社に十禅師(地蔵)・大明神(十一面)が鎮座され、それぞれ本地仏が設定されていました。東寺の古文書にある「大多羅志女」とは、下社の主祭神であった「大タラチメ」のこと。以下に上中下社と御旅所の祭神をまとめました。
下社の大多羅志女と上社の十禅師が上御旅所、中社・下社の中ノ御前が下御旅所…稲荷山三ヶ峰と上中下社(p.22を参照)がそうであったように、御旅所と上中下社の関係性が一致しておらず混乱を招きます。下社主祭神の大多羅志女を基準に考えると、上御旅所=七条油小路の下社御旅所、下御旅所=八条坊門猪熊の上中社御旅所と仮定できますが、もはや意味不明の領域です。
山中の中社 | 山中の上社 |
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千手 | 中御前 | 毘沙門 | 十禅師(地蔵) | 大明神(十一面) |
山麓の下社 |
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四大神(毘沙門) | 中御前(千手) | 大タラチメ(如意輪) | 大明神(十一面) | 田中(不動) |
上御旅所 | 下御旅所 | |||
大多羅志女 | 十禅師 | 本社 | 中ノ御前 | 中ノ王子 |
下社祭神 |
上社祭神 |
中社・下社祭神 |
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七条油小路の下社御旅所? |
八条坊門猪熊の上中社御旅所? |
東寺の古文書によると上御旅所は柴守長者跡。江戸前期に黒川道祐が記した『雍州府志』では七条油小路の御旅所が芝守(柴守)長者の家とあります。つまり上御旅所=柴守長者跡=七条油小路の御旅所であり、上述した上御旅所=下社御旅所の仮定が成り立ちます。しかし八条坊門猪熊が柴守長者宅だったとか、現在の御旅所が柴守長者宅だとする説もあり、全然分かりません。
稲荷社の御旅所の管理は大行事職が担当しており、「柴守長者の子息の薩摩守良峰則任」という記録も残っています。鎌倉初期の嘉禄2年に発生した上中社の御旅所の焼失事件は、大行事職を解任された則正なる人物が失意の中で参籠し、御神体を抱えたまま御旅所ごと焼死する惨事でありました。
そういう陰惨な事件は置いといて、御旅所とは空海の伝説に登場する柴守長者の家。柴守長者=稲荷大明神と考えれば、稲荷祭で神輿が御旅所に入るのは、鎮座地の稲荷山から実家に帰ってきた感覚なのかもしれません。そういえば、空海の伝説には秦氏が絡む余地がありませんね。
鳥居をくぐって境内へ。左手に「稲荷大明神 御旅所 奉捧手水鉢 寄進之衆中 敬白」と刻まれた手水鉢。奉納年月日は江戸時代前期、貞享元年(1684年)甲子歳の3月吉日です。その奥には「一丸大明神」と刻まれた石碑。お塚の一種でしょう。(お塚についてはp.17を参照)
広い境内の様子。とても綺麗に整備されています。正面には五基の神輿を安置する五社相殿の奉安殿。稲荷祭シーズン以外は使われず、京都中心部と思えないほど静かです。車の音すら耳に入りません。
安土桃山時代の天正年間に移転・新設された御旅所は四社殿。普段は柴守長者をお祀りした上之御殿(上社・田中社)、上之命婦社、下之命婦社、下之御殿(下社・中社・四大神)が並び、稲荷祭では上下御殿に相殿に宿泊されることになっていました。
昭和48年(1973年)には五社相殿の奉安殿が造営。その際、末社の上命婦社・下命婦社・太神宮・北御旅殿は、老朽化のため解体されて南御旅殿に合祀されたようです。平成27年(2015年)に4年前の鎮座1300年を記念し、末社の修復と再建が完了しました。
左から、再建されたばかりの上命婦社と下命婦社。上下社ともに稲荷大神にお仕えする白狐を祀ります。(白狐についてはp.7、命婦社はp.12を参照)
稲荷大神をお祀りする御旅殿。昔の南御旅殿に相当すると思われます。小さいながらも修復されて立派な社殿でした。本殿と同じ流造です。
天照皇太神と豊受皇太神をお祀りする太神宮。平成25年(2013年)に第62回式年遷宮を終えた伊勢神宮から、神聖な材木を拝領して再建された社殿。かなりこだわってます。
稲荷大神が宿泊される奉安殿。コンクリートの無骨な建物ではありますが、五間社流造の本殿を意識したデザインです。稲荷祭では、奉安殿前にかっこいいトラックが並びます。
誰もいない境内。伏見稲荷大社宮司の守屋光春氏により設置された記念碑があります。だんだん稲荷社の探訪が終わってきた感じ。ここまで2019年8月5日の探訪でした。
2014年7月12日。地下鉄東西線の蹴上駅にて下車。ここは京都市東山区です。
伏見稲荷とは全く関係ない「いなこん」の探訪。いなりちゃんと墨染さんが2話で降りた駅です。京阪伏見稲荷駅から向かう場合は三条駅で乗り換え、地下鉄の三条京阪駅(ややこしい!)から蹴上駅へ。作中に登場した看板は「蹴上駅」のままでした。タイアップ企画もありましたね。
2020年10月2日。地下鉄の看板が新しくなっていました。京都の風景は少しずつ変わっています。
蹴上駅周辺の地図。本ページでは琵琶湖疏水の蹴上インクラインを通る「ねじりまんぽ」のみ扱います。疎水関連の史跡は2020年10月の「蹴上探訪」を御覧ください。
2020年10月2日と2014年7月12日。三条通(R143)を北に進むと「ねじりまんぽ」の入口。明治21年(1888年)に完成した「ねじりまんぽ」は、蹴上インクラインの下を通る煉瓦造りの隧道です。手前に京都一周トレイル東山コース、E-30-2が設置。残念ながら「いなこん」の作中では隠れています。本当に残念です。
2020年10月2日と2014年7月12日。台車に乗った舟が行き交うインクラインの重さに耐えられるように、煉瓦が螺旋状に積まれています。隧道自体もインクラインとは斜めに掘られた高度な設計です。
2014年7月12日と2020年10月2日。
「ねじりまんぽ」の東口は左京区です。ここには東山コースのE-31が設置。右折すると蹴上疏水公園、日向大神宮を経て比叡山に至ります。東山は見どころが沢山あって楽しいですね。
2020年10月2日。路地を歩いて南禅寺境内へ。中門から東に進むと三門、法堂、そして琵琶湖疏水の水路閣に至ります。いなりちゃんと墨染さんは隧道を抜けて南禅寺方面に向かいました。
2018年7月16日。四条大橋で鴨川を渡って京都市東山区の八坂神社へ。素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神を主祭神としてお祀りします。古くから牛頭天王をお祀りする神仏混淆の祇園社(感神院とも)として崇敬されましたが、明治時代の神仏分離で素戔嗚尊を祀る八坂神社に改称されました。
八坂神社の記事は未執筆のため、由緒や祭神の説明は保留。現在の主祭神である素戔嗚尊は、伏見稲荷に鎮座される宇迦之御魂大神の父であります。「いなこん」では原作6話、いなりちゃんと丹波橋くんのデートの舞台。作中では「弥坂神社」だったけど、そのまんま八坂神社ですね。アニメでこのエピソードを削ったのは勿体無いです。それより執筆を進めましょう。
2019年11月2日。大国主大神をお祀りする出雲大社。「いなこん」では8話の舞台になった国津神の聖地。ここは出雲国出雲郡杵築郷/島根県出雲市大社町です。作中では「大国大社」と、分かりやすく変更されていました。
奈良時代に編纂された『出雲国風土記』には杵築大社と記載。出雲に伝わる神話は『古事記』や『日本書紀』とは大きく異なっており、素盞嗚尊が暴れたり、子孫の大国主命が天津神に服従する展開はありません。八束水臣津野命の国引き、平和な神須佐能袁命、所造天下大神たる大穴持命など、大和朝廷に帰順する以前の独自の世界観が圧倒的なスケールで展開されています。
出雲という概念だけで学問が成り立つほどの奥深さ。伏見稲荷と同じくアニメの舞台で済ませられるものではなく、何度も出雲各地を訪れて古代の人々の心を学ばなければなりません。現在、精力的に出雲探訪を実施中。まだまだ時間はかかると思いますが、情報が揃ったら公開します。出雲大社は「朝霧の巫女」や「かみちゅ!」の舞台探訪でも重要ですから……