東方巡遊記

伏見稲荷大社探訪 V

2022-08-07 改訂
2009-05-29~2022-07-30 実施

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目次

01.「伏見稲荷大社探訪」の目次と概要

24.稲荷祭で神輿が巡る御旅所と東寺

京都駅御旅所/上命婦社/下命婦社/御旅殿/太神宮/奉安殿/神楽殿/神輿台車庫東寺駅東寺御旅所御旅所跡御旅所跡

京都の玄関口の4代目京都駅平安時代に始まった稲荷祭空海と稲荷大明神の邂逅稲荷社の御旅所の変遷稲荷山の上中下社と御旅所の祭神柴守長者の家に設けられた御旅所稲荷社の氏子区域と神輿の受持御旅所の社殿造営空海が整備した東寺と稲荷祭

稲荷祭で神輿が巡る御旅所と東寺

京都駅

JR京都駅の駅舎 京都タワー JR京都駅の駅舎 JR京都駅の駅舎
2019年8月4日。京都駅。ここは山城国紀伊郡/京都府京都市下京区です。このページでは、伏見稲荷大社の稲荷祭で神輿が巡幸する御旅所と東寺を探訪します。

京都の玄関口の4代目京都駅

京都の鉄道史は長くなるから割愛させていただくとして…初代京都駅は明治10年(1877年)に開業。4代目となる京都駅は平成9年(1997年)に完成しました。JR東海道本線・山陰本線・奈良線・東海道新幹線のほか、近鉄奈良線と地下鉄烏丸線も乗り入れます。ガラス張りの大きく現代的なデザインで、京都の玄関口に相応しい威容と親しみやすさを兼備します。

遠方から京都を訪れて伏見稲荷大社に参拝する場合、京都駅まで新幹線を利用し、JR奈良線に乗り換えて稲荷駅で下車するのが最も一般的です。京阪本線は京都駅に乗り入れておりませんので、京阪伏見稲荷駅で下車するには東福寺駅までJR奈良線を利用。そこから京阪本線に乗り換える必要があります。(伏見稲荷へのアクセスはp.4を参照

京都駅の北口にそびえるのは京都タワー。昭和39年(1964年)に開業した展望塔です。運営母体は京阪グループ。土台になる京都タワービルを含めて131mあり、京都市内で最も高いランドマークです。東寺の五重塔(55m)より高く、歴史的景観を損ねるとして京都駅とともに批判されることもありましたが、今では京都のシンボルとして認識されています。

京都駅南口 京都駅南口
2019年8月4日。八条通に面した京都駅南口。こちら側は京都市南区です。

伏見稲荷大社御旅所地図
京都駅から現在の伏見稲荷大社の御旅所に至る地図。八条通から油小路通に入ると、東寺に通じる東寺道に合流。その一角に御旅所が設けられています。

国土地理院の「地理院地図(新版)」にポイントを追記しています。

八条通から油小路通
2022年5月28日。八条通から油小路通(R1)に入ります。

油小路通の伏見稲荷大社御旅所
2019年8月4日。右手に見える社叢と玉垣が伏見稲荷大社の御旅所です。

イオンモールKYOTO イオンモールKYOTO
2022年5月28日。御旅所の向かい側には、平成22年(2010年)にオープンしたイオンモールKYOTO。明治43年(1910年)頃の地図を見ると、京都駅の南側には田畑が広がっていました。

明治40年に新設された玉垣
2022年5月28日。明治40年(1907年)に新設された玉垣。「東塩小路 若山政太郎 若山庄造」など奉納者の名前が刻まれています。奉納から112年後の令和元年(2019年)、玉垣が改修されました。

玉垣内に見える奉安殿 伏見稲荷大社の看板
2022年5月28日。玉垣内に見える奉安殿。伏見稲荷大社の朱塗りの楼門を写した看板もあります。

油小路東寺道交差点 伏見稲荷大社御旅所の看板
2022年5月28日。油小路通と東寺道が交差する「油小路東寺道交差点」。ここには御旅所の看板があります。交差点を南に下ると九条通に交差。その西に東寺の伽藍が広がります。

御旅所

伏見稲荷大社御旅所の入口 伏見稲荷大社御旅所の入口
伏見稲荷大社御旅所の入口 伏見稲荷大社御旅所の由緒
2019年8月4日、2022年7月30日、5月28日。御旅所入口に立つ朱塗りの鳥居。伏見稲荷大社の北西3km、油小路東寺道の一角に位置します。御旅所とは、4月20日~5月3日に斎行される稲荷祭において神輿を安置する場所。分かりやすく言うと稲荷の神様専用のホテルです。

平安時代に始まった稲荷祭

稲荷祭のポスター
稲荷祭とは、伏見稲荷に鎮座される稲荷大神が周辺地域を巡幸される行事。五基の神輿が神幸道を通って油小路東寺道の御旅所に渡御する神幸祭、そして表参道を通って本殿に戻る還幸祭からなり、伏見稲荷で最も重要な祭礼です。上記の地図からお分かりのように還幸祭では東寺の前を通り、僧侶の御供を受けることになっています。明治時代の神仏分離以前は、東寺の境内に神輿が入りました。(p.8でも紹介

稲荷社の神輿が京の都を巡幸する稲荷祭。その明確な起源は不明です。大西親盛が江戸時代中期の享保17年(1732年)に編纂した『稲荷谷響記』では、平安時代初期の貞観年間(859~877年)に始まったとありますから、稲荷社が名神大社の地位を確立した時期から行われたのでしょう。神輿が東寺に入るのは空海が稲荷社を勧請した伝説にも関わります。(p.5を参照

平安中期には庶民が楽しむ盛大な祭りに発展しており、貴族の日記にも熱狂的な賑わいだったと記されます。当時の神輿渡御の様子は『年中行事絵巻』に残っていて、稲荷の神徳が庶民に広まっていたことを示します。鎌倉~室町時代にかけて稲荷祭はどんどん派手になり、豪華な山鉾が並ぶ様子は祇園社の御霊会のようだったとか。応仁の乱が勃発し、応仁2年(1468年)に稲荷社は壊滅的な被害を受けますが、五基の神輿は事前に持ち出されて東寺に預けられ、焼失を免れました。ここでも稲荷社と東寺の関係が活かされたのです。

応仁の乱の後、勧進聖(僧侶)の尽力により稲荷社は着々と復興。明応8年(1499年)に五社相殿の本殿が再建されました。しかし貴重な書物は焼失、壊滅した京の都の復興は遅れ、費用がかさむ盛大な稲荷祭は長い間実施できませんでした。『稲荷祭礼図屏風』や『稲荷神社祭礼絵巻』などを見ると、江戸前期から稲荷祭が復活しつつあったようです。本格的な復活は本殿再建から275年後、江戸時代後期の安永3年(1774年)でした。天明7年(1787年)に刊行された『拾遺都名所図会』では、東寺境内に安置される五基の神輿が描かれています。

稲荷祭は明治の神仏分離を経ても存続します。神輿が東寺の境内に入る伝統は失われましたが、戦前までは江戸時代に復活した様式で実施されました。しかし戦争の余波で稲荷祭は再び途絶えてしまい、紆余曲折を経た昭和41年(1966年)、ようやく新しい様式で復活。周辺の道路事情が大きく変わってしまったこともあり、現代では装飾を施したトラックの荷台に神輿を載せて巡幸します。

空海と稲荷大明神の邂逅

稲荷社と東寺の関係は空海の時代に生まれました。東寺に伝わる『稲荷大明神流記』によると弘仁7年(816年)、紀州(和歌山県)の田辺宿に赴いた空海は異相の老翁(神)に出会います。空海は国家鎮護のために東寺を整備することを伝えて、再会を約束しました。

それから7年経ち、東寺の整備が始まる弘仁14年(823年)。老翁が稲を荷なって椙(杉)の葉を提げ、二女二子を伴って東寺南門に現れました。空海は喜んで老翁を歓待し、一行が八条二階堂の柴守長者の家に滞在している間、東寺の杣山(材木を切り出す山、すなわち稲荷山)を利生の勝地と定めて神様としてお祀りしました。これが稲荷社の起源として伝えられます。

『二十二社本縁』では数多の眷属を連れて稲を荷なった老翁が東寺を通り、空海が行き先を尋ねると「比叡の阿闍梨(最澄)に招かれた」と答えました。「東寺で仏法を守ってほしい」と空海に要望された老翁は守護を引き受け、東寺の鎮守社として稲荷社が創建されたという伝説が記されます。ここでは、稲荷大明神は老翁の姿でイメージされていました。

やはり東寺に伝わる『弘法大師行状絵詞』によると、空海が筑紫(九州)にいた頃、稲を荷なった老翁に出会います。老翁は都の八条に住む柴守長者であると名乗り、再会を約束しました。弘仁14年には二階堂の柴守長者が東寺に現れ、老翁を歓待した空海は「都の山で仏法を守ってほしい」と要望。社を創建して稲荷山に鎮座してもらい、二階堂が御旅所になったと伝わります。

一連のエピソードは中世以降に普及したもので、空海が稲荷社を勧請した伝説は神仏習合の中で用いられました。実際の出来事としては、空海が東寺の伽藍整備のために淳和天皇の許可を得た上で最寄りの稲荷山の木々を伐採。後に天皇が病気になり、占いによって稲荷山を荒らした祟りであることが判明します。空海としても無理な伐採を行うつもりはなく、稲荷社の秦氏をうまく懐柔したと思われます。

空海による伐採事件は、神社と仏教の対立を引き起こしたわけではありません。むしろ稲荷山の材木を用いたことで東寺・稲荷社は親密な関係になり、後世の稲荷祭では稲荷社の神輿が東寺に入りました。稲荷祭の還幸祭で神輿が東寺の前を通るのは、空海と老翁(稲荷大明神)の邂逅の再現に他なりません。この伝統は神仏分離を経た今日まで受け継がれています。(空海の伝説はp.5でも紹介

稲荷社の御旅所の変遷

大西親盛が江戸時代中期の享保17年(1732年)に編纂した『稲荷谷響記』によると、古くは八条坊門猪熊に御旅所があり、上中下社の御旅所の他、二階社という祠が存在したようです。二階社とは、柴守長者が住んでいた二階堂に関係する社でしょう。中山忠親の『山槐記』によると平安時代末期の仁安3年(1168年)、八条堀川の近辺に稲荷社の御旅所があったことが分かります。

九条家に伝わる『延喜式』の写本を見ると、南市門・梅小路(八条坊門猪熊)に「稲荷旅所」と「命婦社」。油小路・塩小路(七条油小路)にも「稲荷旅所」が記されています。平安時代の時点で、経緯不明ながら御旅所は二箇所存在していたのです。ここからややこしくなってきますよ。

『百錬抄』によると鎌倉時代初期の嘉禄2年(1226年)、八条坊門猪熊の上中社の御旅所が焼失する事件がありました。『稲荷谷響記』では上中下社の御旅所があると記されていますが、上中社が焼けて下社だけ無事だったというのは不自然であり、下社の御旅所は七条油小路にあったと推測されます。

八条坊門猪熊の御旅所は後に再建されたようで、室町時代に写された『拾芥抄』には八条の「稲荷社」のみ記載。同時期に描かれ上杉家に伝わっている『洛中洛外図屏風』では、白木の鳥居が建てられた八条の御旅所が描かれています。どうやら七条の御旅所は合併されたらしい。

安土桃山時代の天正年間(1573~1592年)、豊臣秀吉の京都改造の一環で油小路東寺道に移転。以降の稲荷祭では、ここが稲荷大明神の宿泊所になります。突然の移転は応仁の乱による荒廃も関係していると思われますが、移転後の旧御旅所には跡地の札を立てて祭礼が行われ、江戸時代末期まで存続したようです。各時代の御旅所の所在地を以下の表にまとめました。


所在地
備考
平安時代?
八条坊門猪熊:
上中下社の御旅所・二階社

江戸中期の記述
平安末期 南市門・梅小路:
稲荷旅所・命婦社
油小路・塩小路:
稲荷旅所
二箇所に存在
平安末期
八条堀川の近辺:御旅所
一箇所のみ記載
鎌倉初期
八条坊門猪熊:上中社の御旅所
七条油小路:下社の御旅所?
下社は七条と推測
室町時代 八条:御旅所
七条は現れず

↓八条坊門猪熊から移転↓
安土桃山時代
油小路東寺道:御旅所
旧御旅所:跡地の札 八条から移転
江戸時代
油小路東寺道:御旅所
旧御旅所も存続
現代
油小路東寺道:御旅所
旧御旅所は消滅

稲荷山の上中下社と御旅所の祭神

東寺の古文書には、稲荷社の上御旅所に大多羅志女・十禅師、下御旅所に本社・中ノ御前・中ノ王子と記されます。これでは何を指すのか全く分かりませんので、室町時代の応仁の乱直前、長禄3年(1459年)に描かれた『稲荷社指図』を振り返りましょう。(p.8でも紹介

『稲荷社指図』によると、山麓の下社(現在の本殿に相当)に四大神(毘沙門)・中御前(千手)・大タラチメ(如意輪)・大明神(十一面)・田中(不動)が鎮座。山中の中社に千手・中御前・毘沙門、上社に十禅師(地蔵)・大明神(十一面)が鎮座され、それぞれ本地仏が設定されていました。東寺の古文書にある「大多羅志女」とは、下社の主祭神であった「大タラチメ」のこと。以下に上中下社と御旅所の祭神をまとめました。

下社の大多羅志女と上社の十禅師が上御旅所、中社・下社の中ノ御前が下御旅所…稲荷山三ヶ峰と上中下社(p.22を参照)がそうであったように、御旅所と上中下社の関係性が一致しておらず混乱を招きます。下社主祭神の大多羅志女を基準に考えると、上御旅所=七条油小路の下社御旅所、下御旅所=八条坊門猪熊の上中社御旅所と仮定できますが、もはや意味不明の領域です。

山中の中社 山中の上社
千手 中御前 毘沙門 十禅師(地蔵) 大明神(十一面)
山麓の下社
四大神(毘沙門) 中御前(千手) 大タラチメ(如意輪) 大明神(十一面) 田中(不動)
上御旅所 下御旅所
大多羅志女 十禅師 本社 中ノ御前 中ノ王子
下社祭神
上社祭神

中社・下社祭神

七条油小路の下社御旅所?
八条坊門猪熊の上中社御旅所?

柴守長者の家に設けられた御旅所

東寺の古文書によると上御旅所は柴守長者跡。江戸前期に黒川道祐が記した『雍州府志』では七条油小路の御旅所が芝守(柴守)長者の家とあります。つまり上御旅所=柴守長者跡=七条油小路の御旅所であり、上述した上御旅所=下社御旅所の仮定が成り立ちます。しかし八条坊門猪熊が柴守長者宅だったとか、現在の御旅所が柴守長者宅だとする説もあり、全然分かりません。

稲荷社の御旅所の管理は大行事職が担当しており、「柴守長者の子息の薩摩守良峰則任」という記録も残っています。鎌倉初期の嘉禄2年に発生した上中社の御旅所の焼失事件は、大行事職を解任された則正なる人物が失意の中で参籠し、御神体を抱えたまま御旅所ごと焼死する惨事でありました。

そういう陰惨な事件は置いといて、御旅所とは空海の伝説に登場する柴守長者の家のこと。柴守長者=稲荷大明神と考えれば、稲荷祭で神輿が御旅所に入るのは、鎮座地の稲荷山から実家に帰ってきた感覚なのかもしれません。そういえば、空海の伝説には秦氏が絡む余地がありませんね。

御旅所入口の石燈籠 御旅所入口の石燈籠
2022年5月28日。御旅所入口の石燈籠(常夜燈)を確認。左の「奉燈」は明治2年(1869年)己巳年の11月に奉納されました。

御旅所入口の石燈籠 御旅所入口の石燈籠
2022年5月28日。右の「奉燈」は明治3年(1870年)庚午年の3月に奉納されています。

御旅所の鳥居
御旅所の鳥居 御旅所の鳥居
2022年5月28日。御旅所の鳥居は昭和50年(1975年)4月吉日の建立。「奉建 五ヶ郷 東寺 西九条 中堂寺 塩小路 東九条 不動堂」は、稲荷祭に携わる氏子区域を示します。

稲荷社の氏子区域と神輿の受持

江戸時代の稲荷社の氏子区域は、洛中の北限は松原通南側、南限は九条町、西限は島原・中堂寺町、鴨東の北限は宮川筋五丁目南側、東限は大仏境内遊行前町、東南限は本町七丁目南端。平安時代に五条通を境として、祇園社(八坂神社)と氏子区域を分けた名残とされます。上掲の地図を見ると、現在の巡幸ルートも概ね江戸時代の氏子区域に沿っていることが分かります。

稲荷大神が乗る五基の神輿の管理は氏子が担当しており、下之社神輿は中堂寺・塩小路、中之社神輿は西九条、上之社神輿は東九条、田中社神輿は不動堂、四之大神神輿は東寺・八条の受け持ち。これが上述した五ヶ郷に相当します。現在では、その伝統を維持しつつも様々な神輿保存会が加わって稲荷祭を支えています。以下に神輿の受け持ちと順序をまとめました。

神輿
田中社 上之社 中之社 下之社 四之大神社
順序
1
2
3
4
5
祭神
田中大神 大宮能売大神 佐田彦大神 宇迦之御魂大神 四大神
氏子
不動堂 東九条 西九条 中堂寺・塩小路 東寺・八条

鳥居脇の玉垣
2022年5月28日。鳥居脇の玉垣に「羽倉」の名を見つけました。羽倉家は荷田氏系の社家。玉垣が奉納された明治40年(1907年)には衰退しています。羽倉千賀子氏は羽倉家の関係者でしょうか。それとも同姓なだけでしょうか。もはや知る術はありません。(荷田氏についてはp.9を参照

御旅所境内の石造物
2022年5月28日。境内に入って左側に、御旅所の歴史を感じられそうなものが沢山ありました。

御旅所境内の石造物 御旅所境内の石造物
御旅所境内の石造物 御旅所境内の石造物
2022年5月28日。用途不明の石造物。奉納年月は明治22年(1889年)6月。奉納者は「七条堀川 田丸伝太郎」です。

「佐女牛井水町講中寄進之」と刻まれた石柱
「佐女牛井水町講中寄進之」と刻まれた石柱 「佐女牛井水町講中寄進之」と刻まれた石柱
2022年5月28日。倒れてしまった社号標らしき石柱。「佐女牛井水町講中寄進之」と刻まれています。京都の通りや町名をある程度知っておかないと判読が難しいです。

「稲荷大明神 御旅所 奉捧手水鉢 寄進之衆中 敬白」と刻まれた手水鉢
「稲荷大明神 御旅所 奉捧手水鉢 寄進之衆中 敬白」と刻まれた手水鉢
「稲荷大明神 御旅所 奉捧手水鉢 寄進之衆中 敬白」と刻まれた手水鉢
2019年8月4日と2022年5月28日。「稲荷大明神 御旅所 奉捧手水鉢 寄進之衆中 敬白」と刻まれた手水鉢。奉納年月日は江戸時代前期、貞享元年(1684年)甲子歳の3月吉日です。

一丸大明神と刻まれた石碑 一丸大明神と刻まれた石碑
2019年8月4日と2022年5月28日。神名を刻んだ石碑がお祀りされています。これは間違いなく明治時代に生まれたお塚(p.17を参照)の一種。稲荷山だけでなく、御旅所にも奉納されたのですね。

「東九条 島本金次郎」と刻まれた石柱
「東九条 島本金次郎」と刻まれた石柱 「東九条 島本金次郎」と刻まれた石柱
2022年5月28日。一番右の石柱。奉納者は「東九条 島本金次郎」。奉納年は不明です。

御旅所の蝋燭立て 御旅所の蝋燭立て
御旅所の蝋燭立て 御旅所の蝋燭立て
2022年5月28日。右から二番目の蝋燭立て。「奉献稲荷御旅所」。奉納者は「大坂大刀屋重右衛門」。奉納年月日は江戸時代後期、明和5年(1768年)戊子の5月吉日です。

一丸大明神と刻まれた石碑 一丸大明神と刻まれた石碑
2022年5月28日。「一丸大明神」と刻まれた石碑。裏面には発起人と作人の名。奉納年は不明ですが、お塚信仰が生まれた明治以降の石碑と断言できます。

御旅所の手水鉢 御旅所の手水鉢
2022年5月28日。一番左の手水鉢。刻銘が風化しており判読できませんでした。

御旅所の境内 御旅所の境内
御旅所の境内 御旅所の社叢
2019年8月4日と2022年5月28日。 御旅所の様子。伏見稲荷の境内と同じく、とても綺麗に整備されています。正面には五基の神輿を安置する五社相殿の奉安殿。稲荷祭シーズン以外は地元民の散歩ぐらいにしか使われず、京都中心部と思えないほど静かです。

御旅所に鎮座する末社 御旅所に鎮座する末社
2019年8月4日と2022年5月28日。境内の右手に末社が鎮座します。

御旅所の社殿造営

安土桃山時代の天正年間(1573~1592年)に移転・新設された御旅所は四社殿でした。普段は柴守長者をお祀りした上之御殿(上社・田中社)、上之命婦社、下之命婦社、下之御殿(下社・中社・四大神)が並び、稲荷祭では上下御殿に相殿に宿泊されることになっていました。その後の造営記録は不明ながら、現在の奉安殿が新築される直前は三社別棟の構成だったようです。

稲荷祭の復活から7年後の昭和48年(1973年)、五社相殿の奉安殿が造営。その際、末社の上命婦社・下命婦社・太神宮・北御旅殿は、老朽化のため解体されて南御旅殿に合祀されました。北御旅殿と南御旅殿の実態もよく分からないのですが、平成27年(2015年)に4年前の鎮座1300年を記念し、末社の修復と再建を実施。ようやく現在の御旅所の姿になりました。

上命婦社/下命婦社

神使の白狐を祀る上命婦社 神使の白狐を祀る下命婦社
2019年8月4日。再建されたばかりの上命婦社と下命婦社。上下社ともに稲荷大神にお仕えする白狐を祀ります。(白狐についてはp.7、命婦社はp.12を参照

御旅殿

稲荷大神を祀る御旅殿 稲荷大神を祀る御旅殿
2019年8月4日と2022年7月30日。稲荷大神をお祀りする御旅殿。昔の南御旅殿に相当すると思われます。小さいながらも修復されて立派な社殿になりました。本殿と同じ流造です。

太神宮

天照皇太神と豊受皇太神を祀る太神宮 天照皇太神と豊受皇太神を祀る太神宮
2019年8月4日と2022年7月30日。天照皇太神と豊受皇太神をお祀りする太神宮。平成25年(2013年)に第62回式年遷宮を終えた伊勢神宮から、神聖な材木を拝領して再建されました。

奉安殿

御旅所の奉安殿 御旅所の奉安殿
2019年8月4日。稲荷大神が宿泊される奉安殿。コンクリートの無骨な建物ではありますが、五間社流造の本殿を再現したデザインです。稲荷祭では奉安殿前にかっこいいトラックが並びます。

御旅所の奉安殿 御旅所の奉安殿
御旅所の奉安殿 御旅所の奉安殿
2022年7月30日と5月28日。トラックから神輿を搬入するため、必然的にトラックヤードに近い構造になります。

御旅所の社務所 御旅所の社務所
2022年5月28日。奉安殿の側面には社務所の入口。普段は無人です。

奉安殿裏手の記念碑
2022年5月28日。奉安殿裏手の記念碑。昭和48年(1973年)の奉安殿造営と末社の合祀を記念して、伏見稲荷大社宮司の守屋光春氏により設置されました。

神楽殿

御旅所の神楽殿 御旅所の神楽殿
2019年8月4日と2022年5月28日。平成24年(2016年)再建の神楽殿。湯立神楽が奉納されます。

神輿台車庫

御旅所の境内
御旅所の神輿台車庫
御旅所の神輿台車庫
2019年8月4日と2022年5月28日。神輿台車庫。誰かのキックボードが停まっています。

御旅所北側の鳥居
2022年5月28日。御旅所北側の鳥居。ここにも石造物があります。

「斎浄水」と刻まれた手水鉢
「斎浄水」と刻まれた手水鉢 「斎浄水」と刻まれた手水鉢
2022年5月28日。「斎浄水」と刻まれた手水鉢。奉納年月日は江戸時代後期、天明6年(1786年)丙午の3月吉日です。使いやすいように注ぎ口が新設されました。

「御神燈」「二葉講」と刻まれた常夜燈 文化9年に奉納された常夜燈
2022年5月28日。「御神燈」「二葉講」。江戸時代後期、文化9年(1812年)壬申春3月の奉納です。

文化9年に奉納された常夜燈 常夜燈に刻まれた商人の名
2022年5月28日。左の常夜燈も文化9年の奉納。基壇に講元の「八百屋」「大坂屋」「丹波屋」といった商人の名が刻まれており、近世の稲荷信仰の在り方を感じさせてくれます。

赤堀庄七氏の玉垣
赤堀庄七氏の玉垣 赤堀庄七氏の玉垣
2022年5月28日。玉垣に「五條高倉西入 赤堀庄七」の名を見つけました。赤堀庄七氏は明治44年(1911年)6月に御旅所に隣接する田地を寄付した崇敬者。稲荷神社の記録に「旅所隣接田地四畝二三歩 下京赤堀商七寄付」とあるほか、当時建立された記念碑が稲荷山に残ります。(p.16を参照

御旅所の北側入口 御旅所の北側入口
2022年5月28日。境内北側の入口。住宅街に面しています。

御旅所の北側入口
伏見稲荷大社の三角コーン
「宮本組」の玉垣
2019年8月4日と2022年5月28日。伏見稲荷大社の三角コーンと「宮本組」の玉垣が並びます。

幟立てらしき石柱
2022年5月28日。補強された「□田直次郎」の石柱。幟立てだったのでしょうか。

「宮本 廿五町」と刻まれた玉垣 「宮本 廿五町」と刻まれた玉垣
2022年5月28日。「宮本 廿五町」。明治37年(1904年)5月の奉納です。

「發起 五ヶ郷」と刻まれた玉垣 「發起 五ヶ郷」と刻まれた玉垣
2022年5月28日。「發起 五ヶ郷」。明治38年(1905年)5月の奉納です。五ヶ郷は上述した氏子区域のこと。南側の鳥居も五ヶ郷による建立でした。文献を参照するのは当然として、そこに載っていない出来事を見つけるために玉垣や常夜燈を調べるのです。

油小路東寺道
2022年7月30日。油小路東寺道を南へ。東寺に向かいます。

九条油小路交差点 九条油小路交差点
2022年7月30日。油小路通と九条通が交差する「九条油小路交差点」。歩道橋から東寺の五重塔が見えます。周辺の建物が低かった時代には、もっと目立ったでしょう。

近鉄東寺駅

近鉄京都線の東寺駅 近鉄京都線の東寺駅
2022年7月30日。九条通に面した近鉄京都線の東寺駅。その名の通り、東寺の最寄駅です。

東寺

九条大宮交差点 九条大宮交差点
2022年7月30日。大宮通と交差する「九条大宮交差点」。この北西一帯が東寺の境内です。

東寺の南大門 「弘法大師立教開宗根本道場 真言宗総本山 東寺」の石碑
2022年7月30日。東寺の正門である南大門。「弘法大師立教開宗根本道場 真言宗総本山 東寺」の石碑があります。東寺の歴史と境内の史跡を探訪すると1ページに収まりません。本記事では稲荷祭の要素に絞って、簡潔に東寺の境内を紹介します。

空海が整備した東寺と稲荷祭

延暦13年(794年)、桓武天皇は山背国(京都府)の葛野郡・愛宕郡に造営した新都に遷りました。平安京の始まりです。大和国(奈良県)の平城京では興福寺や東大寺などの仏教勢力が強くなりすぎたことから、当初の平安京には一切の寺院が建立されず、都の入口となる羅城門の両側に国家鎮護のための西寺・東寺が置かれました。東寺の造営は遷都直後の延暦15年(796年)、藤原伊勢人が造東寺長官に任命されて始まりました。

弘仁7年(816年)、唐で密教の奥義を学んで帰国した僧侶の空海は、嵯峨天皇から紀伊国(和歌山県)の奥地にある高野山を賜り、後に金剛峯寺として知られる真言密教の一大道場を整備しました。その実績から弘仁14年(823年)には未完成の東寺を賜り、国家鎮護の寺院・真言密教の道場として伽藍の整備に着手します。このとき、最寄りの稲荷山の木々が五重塔造営の材木として伐採されてしまったことが、東寺と稲荷社が友好関係を結ぶきっかけとなります。(p.5を参照

稲荷祭の由緒は上述した通りです。稲荷大明神の五基の神輿が周辺地域を巡幸する行事であり、平安時代中期には庶民が楽しむ盛大な祭りに発展しました。室町時代に応仁の乱が勃発し、応仁2年(1468年)に稲荷社は壊滅的な被害を受けますが、五基の神輿は事前に持ち出されて東寺に預けられ、焼失を免れました。稲荷祭の本格的な復活は江戸時代後期のこと。天明7年(1787年)に刊行された『拾遺都名所図会』では、東寺境内に安置される五基の神輿が描かれています。

稲荷祭は明治の神仏分離を経ても存続します。神輿が東寺の境内に入る伝統は失われましたが、戦前までは江戸時代に復活した様式で実施されました。戦争の余波で再び途絶するも、昭和41年(1966年)に新しい様式で復活。現代では装飾を施したトラックの荷台に神輿を載せて巡幸する様式になり、還幸祭では東寺の慶賀門の前で僧侶の御供を受けることになっています。伐採によって生まれた東寺・伏見稲荷の友好関係は、神仏分離を経た今日まで受け継がれているのです。

東寺の南大門 東寺の南大門
2022年7月30日。南大門をくぐって東寺境内へ。明治元年(1868年)に南大門が焼失したため、明治28年(1895年)に東山の三十三間堂の西門が移築されました。元の西門は安土桃山時代の慶長6年(1601年)に建立されたものです。

東寺の境内
2022年7月30日。境内の様子。正面に金堂、その奥に講堂があります。江戸時代前期、延宝4年(1676年)に黒川道祐が編纂した『日次紀事』によると、稲荷祭の神輿は南門(南大門)から境内に入りました。『拾遺都名所図会』に描かれた五基の神輿は、この場所にあったと思われます。

八島社殿と五重塔 八島社殿の由緒
2022年7月30日。境内の右手には八島社殿。東寺の造営以前から鎮座されており、祭神は地主神とも大己貴神とも伝わります。空海の稲荷社創建伝説に登場する八条二階堂の柴守長者=稲荷大明神と考えれば、この社には稲荷大明神もお祀りされていると言えます。

八島社殿と五重塔 八島社殿と五重塔
2022年7月30日。八島社殿と五重塔。稲荷山の材木を用いて造営された五重塔は、空海の入寂から50年経った仁和2年(886年)に落雷で焼失しました。現在の五重塔は江戸時代初期の寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で再建された5代目。高さは約55m、古都京都のシンボルです。

東寺の金堂 東寺の金堂
2022年7月30日。国宝の金堂。慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の寄進で再建されました。内部に本尊の薬師如来、日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像を安置しています。

東寺の中心となる講堂 東寺の中心となる講堂
2022年7月30日。東寺の中心となる講堂。室町時代の延徳3年(1491年)に再建されました。堂内には平安時代の講堂創建時の諸仏が独特の配列で安置。空海の密教理論に基づき、大日如来を中心とする五智如来・五大明王・五大菩薩の立体曼荼羅が展開されています。

東寺の拝観受付所 東寺の境内
2022年7月30日。講堂・金堂・五重塔の拝観受付所。東寺の境内は別の機会に紹介します。

東寺の慶賀門 東寺の慶賀門
2022年7月30日。北東に位置する慶賀門。現代の還幸祭では、稲荷大神の神輿を載せたトラックが大宮通を北進し、慶賀門前で東寺僧侶の御供を受けることになっています。

慶賀門前の大宮東寺道交差点
東寺の五重塔 京都タワー
2022年7月30日。慶賀門前の大宮東寺道交差点。五重塔と京都タワー、二つの塔が見えます。

御旅所

伏見稲荷大社の御旅所
2022年7月30日。東寺道を東に進むと、伏見稲荷大社の御旅所です。油小路東寺道より前の御旅所はどうなっているのでしょうか。引き続き探訪します。

伏見稲荷大社御旅所地図
現在の伏見稲荷大社の御旅所と、安土桃山時代以前の稲荷社の御旅所を示した地図。碁盤目状に造営された平安京は、千年の歴史の中で大きく変容しており、平安京と京都市街の構造(通りの名称)は厳密には一致しません。御旅所跡は平安時代後期の通りに基づいて探す必要があります。

国土地理院の「地理院地図(新版)」にポイントを追記しています。

油小路通(R1)で京都駅 油小路通(R1)で京都駅
2022年7月30日。油小路通(R1)で京都駅へ。油小路は平安時代と一致します。

油小路通と八条通が交差する「八条油小路交差点」
2022年7月30日。油小路通と八条通が交差する「八条油小路交差点」を左折。八条大路は巨大な京都駅に押されて南に膨れています。

JR東海道新幹線沿いの八条通
2022年7月30日。JR東海道新幹線沿いに八条通を西へ。猪隈小路の入口を探します。

猪隈小路に相当する猪熊通 猪隈小路に相当する猪熊通
2022年7月30日。猪隈小路に相当する猪熊通。生活道です。

御旅所跡

猪隈小路と梅小路の交差点付近 猪熊の電柱
2022年7月30日。猪隈小路と梅小路の交差点付近。鉄道敷設によって碁盤目状の区画が完全に消滅してしまいました。平安時代から室町時代にかけて存在した「八条坊門猪熊」または「南市門・梅小路」の稲荷社御旅所は、この十字路の北西の区画に相当すると推測されます。

「八条坊門猪熊」または「南市門・梅小路」の稲荷社御旅所 「八条坊門猪熊」または「南市門・梅小路」の稲荷社御旅所
2022年7月30日。JR京都線・山陰本線・嵯峨野線が通る御旅所跡。安土桃山時代には油小路東寺道に移転しますが、旧御旅所には跡地の札を立てて祭礼が行われ、江戸時代末期まで存続したようです。明治の鉄道整備で御旅所の区画は跡形もなく失われるも、「古御旅町」の地名は残りました。

東海道本線に設けられた猪熊架道橋 東海道本線に設けられた猪熊架道橋
東海道本線に設けられた煉瓦造りの猪熊架道橋 東海道本線に設けられた煉瓦造りの猪熊架道橋
2022年7月30日。大正3年(1914年)、東海道本線に設けられた煉瓦造りの猪熊架道橋。一種の鉄道史跡です。

東海道本線に設けられた猪熊架道橋 「八条坊門猪熊」または「南市門・梅小路」の稲荷社御旅所
2022年7月30日。架道橋の北側。不可能とは分かっていますが、この場所で発掘調査を行えば御旅所の遺構が見つかるはずです。柴守長者に由来する二階社の遺物も埋まっているでしょう。

猪隈小路を北に進んで坊門小路と交差 塩小路の電柱
2022年7月30日。猪隈小路を北に進んで坊門小路と交差。現在は塩小路と称しますが、平安時代には坊門小路でした。この誤差を知っておかないと、見当外れの場所を探す羽目になります。

安寧小学校 安寧小学校
2022年7月30日。次に向かう御旅所は七条油小路です。坊門小路を東に進んで堀川小路を北へ。一角には平成8年(1996年)に閉校となった安寧小学校があります。

御旅所跡

「油小路・塩小路」または「七条油小路」の稲荷社御旅所
2022年7月30日。堀川小路と塩小路の交差点。平安時代から鎌倉時代にかけて存在した「油小路・塩小路」または「七条油小路」の稲荷社御旅所は、この十字路の北東の区画に相当します。

堀川通(R1) 堀川通(R1)
2022年7月30日。西側の大通り、堀川通(R1)に出ました。現在の堀川通は、平安時代の堀川小路と油小路の間の区画を南北に走ります。つまり、この道路の下も御旅所跡なのです。

堀川通と七条通が交差する「七条堀川交差点」 堀川通と七条通が交差する「七条堀川交差点」
2022年7月30日。堀川通と七条通が交差する「七条堀川交差点」。七条通は七条大路と一致。興正寺と西本願寺の境内は平安時代には東市でした。稲荷祭の時期は賑わったでしょうね。

「油小路・塩小路」または「七条油小路」の稲荷社御旅所 「油小路・塩小路」または「七条油小路」の稲荷社御旅所
2022年7月30日。交差点のファミリーマート前で、失われた御旅所に思いを馳せます。物的証拠は何一つ残りませんが、探訪して記事を書くことに意味があります。次ページで境内に戻ります。

裏参道を下り産場稲荷と大八嶋社へ
次ページ、裏参道を下って大八嶋社に向かいます。

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