2022-08-07 改訂
2009-05-29~2022-07-30 実施
伊奈利社の由緒|稲荷山三ヶ峰と上中下社|中世以降の三ヶ峰の位置付け|各神蹟の祭神|
一ノ峰の稲荷山一号墳|二ノ峰の稲荷山二号墳|人呼塚・命婦塚と記された荷田社神蹟|二面の鏡が出土した稲荷山三号墳
2018年5月20日。時計回りのお山巡り。稲荷山の一ノ峰まで最後の登りです。
2019年4月20日。一ノ峰を守る神使の狐達。左の狐が咥える巻物は稲荷の秘宝、右の狐が咥える玉は稲荷大神が秘める神徳の象徴です。(狐についてはp.7を参照)
2020年10月11日。同じ場所で撮っても毎回雰囲気が異なります。あと一息で一ノ峰ですよ。
2014年4月25日。0930、一ノ峰に到着しました。標高233.8m、稲荷山最高峰の山頂です。遠い昔、この山の頂に神様が顕現されて伊奈利社が生まれました。稲荷信仰の根源となる聖地です。
2014年7月12日と4月25日。稲荷山の一ノ峰は七神蹟の中でも特別視される上社神蹟です。1300年以上守られてきた神域を巡拝させていただいている、という気持ちを決して忘れてはなりません。
2014年4月25日と2018年5月20日。上社神蹟の向かいには茶屋「末広家」。これでもかと山頂が強調され、「当店への再確認お断り」とまで書かれています。物見遊山で押し寄せる観光客に同じことばかり聞かれたり、存在しない三角点を探すハイカーに嫌気が差したのかも。その気持ちは分かります。
『山背国風土記』の逸文によると、秦中家忌寸達の遠祖に伊侶具秦公なる人物がおり、稲梁(穀物)を積んで富み栄えました。ある時、餅を的にして矢を射たところ、的は白鳥と化して山の峰へと飛び去り、そこで子を生んだことから社の名になりました。伊奈利山に創建された社は、深草に移住した朝鮮系の有力な渡来氏族、秦氏の氏神様として奉斎されました。
『二十二社註式』によると奈良時代初期、人皇43代の元明天皇御代、和銅4年(711年)に初めて伊奈利山三ヶ峰の平地に顕現。以来、秦氏の祖の中家達が木を抜いて奉斎し、秦氏が禰宜・祝として春秋の祭祀に携わりました。一連の秦氏の伝承が伏見稲荷大社の起源の定説となっており、平成23年(2011年)には鎮座1300年を迎えました。元々は渡来人の社だったのです。
伊奈利社の創建伝承はp.5以降のページで詳しく紹介しました。ページごとに独立して読めるように書いているとはいえ、創建前史から続けて読んでいただかないと1300年にわたる稲荷社の発展経緯は理解できないと思います。相当な時間をかけて執筆し、記事の構成も見やすく工夫しておりますので、時間と興味があれば全28ページを読んでもらえたら嬉しいです。
2018年5月20日。反時計回りで登ってきた場面。いなりちゃんは白狐に乗って、一ノ峰から高天原に向かいました。アニメ「いなこん」の探訪レポが、稲荷社の歴史を概観する記事に発展するとは思いませんでした。
2019年2月24日。一ノ峰の上社神蹟。扁額に「末廣大神」、神号標に「鶴亀大神」、拝所の紋幕には「末広大神」とあります。なぜ末廣大神・鶴亀大神なのか伏見稲荷でも把握しておらず、お塚信仰の流行に伴って崇敬者が名付けたと思われます。上社神蹟は山麓のように大きな社殿は建てられず、拝所を親塚として周囲に無数のお塚が並びます。
2022年7月30日。明治29年(1896年)8月に奉納された手水鉢。「奉納 大坂」「発起人 神籬教 橋本定治郎」「西成郡 川崎村 西岡由治郎」とあります。
2022年7月30日。「上之社 末廣大神」の扁額が掲げられた石鳥居。奉納者は「京都市不明門通七條上ル 北村佐太郎」「斎藤夘之助」、製作は「田中石材店 彫工」。奉納年は不明です。
2022年7月30日。大正4年(1915年)4月吉日に奉納された記念碑。「鶴亀門人中」と刻まれており、既に「鶴亀」と称して上社神蹟を崇敬する団体があったと分かります。
2022年7月30日。大正5年(1916年)に建立された「鶴亀大神」の神号標。奉納者は「高垣幸次郎」です。鶴亀や末廣の神名は、縁起が良さそうという素朴な理由で付けられたのではないでしょうか。
『山背国風土記』の逸文にある伊奈利社の創建以来、秦氏は伊奈利山の山上で神様をお祀りしたと伝わります。実態不明ながら創建当初から山上に上中下社の原型(拝所のような祭祀の場)が存在したと想像され、平安時代の三箇社修造の時点で上社・中社・下社の三社が確立したと見られます。現在の西麓本殿のような一宇相殿の形式ではなかったでしょう。(西麓の本殿はp.8を参照)
平安時代に始まった初午詣では稲荷山の上中下社を巡拝しました。当時の貴族の日記によると下社は山麓、中社・上社は山中にあったと解釈でき、稲荷山の三ヶ峰と三社は一致していませんでした。下社は早い段階で遥拝所として山麓に遷された、あるいは西麓の荷田氏(p.9を参照)の稲荷社と想定することもできます。お山巡りのルートも現代とは異なっており、平安時代の参道や社殿の位置を特定するのは難しいです。(初午詣についてはp.19を参照)
風土記逸文では「白鳥が山の峰に飛び去って子を生んだ」、『神祇官勘文』では「和銅年中に初めて伊奈利山三ヶ峰の平地に顕現された」と記される伊奈利社の創建伝承。必ずしも三ヶ峰のピークを指すわけではなく、山中の平地に設けた祭祀の場が上中下社に発展したと考えられます。かなり混同されやすいですが、歴史的に見れば三ヶ峰に上中下社が存在していたわけではありません。
室町時代に応仁の乱が勃発。応仁2年(1468年)には稲荷社が戦場となって壊滅し、山麓の社殿は焼失。数々の社堂があった稲荷山も荒廃します。明応8年(1499年)、稲荷山西麓に五社相殿の本殿が再建され、社家の荷田氏の『明応遷宮記録』によると山中の上社・中社も再建されたと分かります。この記録に山麓の下社は現れません。平安時代から山麓に鎮座した下社が、明応8年の本殿に発展したと考えるのが妥当です。(応仁の乱はp.5、明応の正遷宮はp.8を参照)
『明応遷宮記録』では稲荷山三ヶ峰が「三ノ塚」と呼ばれ、上塚に正天、中塚に弁財天、下塚に荒神が鎮座。三ヶ峰は稲荷大明神をお祀りする場所ではなく、末社のような位置付けだったと理解できます。この記録を見ると、平安時代以来の上中下社は明らかに三ヶ峰とは別所に鎮座していました。しかし三ヶ峰を上中下塚と称したのが後世に混乱を招き、三ヶ峰=上中下塚=上中下社と信じられるようになります。
山中の上社・中社は明応以降の記録に現れず、衰退していったと思われます。伊奈利山の三ヶ峰を重視した秦氏と、稲荷山西麓への遷座を主導した荷田氏の対立。応仁の乱の影響で山上の祭祀は衰退し、平安時代に多くの人々が巡拝した上社と中社は幻の存在になりました。明応の正遷宮に関して、荷田氏を快く思わない秦氏系の社家は一切の記録を残していません。
室町時代の享禄・天文年間(1528~1555年)に秦長種が描いた『稲荷山旧跡図』、秦親臣が写した江戸時代前期、寛文9年(1669年)の『寛文之大絵図』によると、やはり三ヶ峰が上ノ塚・中ノ塚・下ノ塚と呼ばれています。応仁の乱の後、上中下=三ヶ峰の意味に変わってしまったのでしょう。応仁の乱で貴重な書物が焼失した影響はあまりにも大きく、上中下社の位置付けすら不明確になりました。
時は流れて明治時代。神仏分離の余波で「お塚」の信仰が生まれ、上知令により稲荷山の大部分が官有地として没収されました。稲荷神社では社有地として認められた三ヶ峰を含む七神蹟にオフィシャルな拝所を整備し、七神蹟を巡拝する新しい「お山巡り」を宣伝。このとき、三ヶ峰に上中下社神蹟を便宜的に当て嵌めたものと思われます。 上述したように、三ヶ峰に上中下社が存在していたわけではないのですが……(稲荷山の変容とお塚についてはp.17を参照)
秦氏が伊奈利山でお祀りした神様については不明。創建当初はただ「伊奈利山に鎮座される神様」を奉斎していたと考えるのが自然です。三座の稲荷社が確立するのは平安時代に入ってからのことで、その『延喜式神名帳』にも祭神は記されません。後世になって神話に登場する神々に当て嵌め、現在の祭神は室町時代に執筆されたという『二十二社註式』に基づきます。
室町時代の応仁の乱直前、長禄3年(1459年)に描かれた『稲荷社指図』によると、山麓の下社(現在の本殿に相当)に四大神(毘沙門)・中御前(千手)・大タラチメ(如意輪)・大明神(十一面)・田中(不動)、山中の中社に千手・中御前・毘沙門、上社に十禅師(地蔵)・大明神(十一面)が鎮座。応仁の乱後の『二十二社註式』によると、本殿の下社に大宮女命、中社に倉稲魂命、上社に猿田彦命をお祀りすると記されます。
現在の伏見稲荷大社では、本殿中央の下社に主祭神の宇迦之御魂大神が鎮座。左の中社には佐田彦大神、右の上社には大宮能売大神が鎮座され、左右摂社の田中大神、四大神とともに一宇相殿にお祀りされています。長禄3年の上中下社、応仁の乱後の本殿、現代の本殿祭神を整理した上で、各神蹟の名称に基づいて三ヶ峰に便宜的に当て嵌めると以下の通り。一ノ峰の祭神は大宮能売大神になり、実はミヤちゃんが主祭神なのでは?という仮説が生まれますね。(五柱の祭神はp.8で詳しく紹介)
山中の中社 |
山中の上社 |
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千手 | 中御前 | 毘沙門 | 十禅師(地蔵) | 大明神(十一面) |
山麓の下社 |
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四大神(毘沙門) | 中御前(千手) | 大タラチメ(如意輪) | 大明神(十一面) | 田中(不動) |
応仁の乱後の本殿 |
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上社 | 中社 |
下社 |
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猿田彦命 | 倉稲魂命 | 大宮女命 | ||
現代の本殿 |
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下社摂社 | 中社 | 下社 | 上社 | 中社摂社 |
田中大神 | 佐田彦大神 | 宇迦之御魂大神 | 大宮能売大神 | 四大神 |
現代の神蹟 |
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田中社神蹟 | 中社神蹟 | 下社神蹟 | 上社神蹟 | なし |
稲荷山の峰 |
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荒神峰 | 二ノ峰 | 三ノ峰 | 一ノ峰 | なし |
分かっている事実として、倉稲魂命(宇迦之御魂大神)は室町時代に初めて言及。平安時代末期に加わった四大神と田中大神の座も揺るがない一方、他の二座の神様は明治時代になっても諸説あって確定しませんでした。そもそも山中・山麓の上中下社、本殿の上中下社、稲荷山の三ヶ峰の関係性は一致しておらず、本殿の祭神を三ヶ峰に当て嵌めるのは無理があります。稲荷社が忌部氏の社だったという珍説は全くもって意味を成しません。但し、荷田氏が大宮女命を命婦神と称したことには注目されます。
ちなみに各神蹟に掲げられている「末廣大神」などの神名の由緒も不明。素朴な民間信仰の神名ということで難しく考えずに参拝しましょう。信仰は人それぞれ。ここでは正式な神名とか気にしない雰囲気です。神様のイメージは崇敬者の数だけ存在しておりますから、どれが正しいとか言い出したら不毛な宗教戦争になります。うか様やミヤちゃんの名を唱えてもいいのですよ。
2014年7月12日と2019年2月24日。拝所の後背には神名が刻まれた石碑。古代の神社に本殿は存在せず、ただ祭祀の場であったとか。そこから考えると、明治時代に生まれた稲荷山の新しい拝所は、新しいようで古代の信仰に近い姿と言えるかもしれません。御膳谷奉拝所のお塚でも同じことを感じました。(p.19を参照)
稲荷山の三ヶ峰には何らかの遺跡が存在。深草を統治した有力な豪族の墳墓、あるいは祭祀跡と考えられます。古墳説を採用すれば一ノ峰は円墳、二ノ峰は前方後円墳、三ノ峰は円墳。古墳時代(4世紀後半)の築造と推測され、二ノ峰と三ノ峰では鏡が出土しています。秦氏が山背国に入る以前の文明を示す貴重な遺跡であり、考古学の分野では「稲荷山古墳群」として知られます。
しかし古墳とするには形状が微妙であり、埴輪や石室が見つかっていないという致命的な問題点があります。伊奈利山が信仰の山として発展してきた歴史的環境を踏まえ、三ヶ峰を祭祀跡とする説が提唱され、そちらも注目されています。古代、山上で鏡を用いて祭祀を行っていた土着信仰の上に、深草に移住した秦氏の伊奈利社が成立した。という推測です。
実際のところ、現代の一ノ峰を訪れて墳丘をイメージするのは難しいです。拝所が整備されてお塚が並び、遺跡の案内板などはありません。観光客向けの標識や看板ばかり増やすのではなく、史跡の詳しい紹介があってもいいと思います。丹後型円筒埴輪が出土した山麓の命婦谷遺跡(p.13を参照)にも、案内板は設置されていませんでした。貴重な遺跡なのに。
2019年2月24日。伊奈利社の起源となった伊奈利山の山頂。間違いなく1300年以上の歴史を持った神奈備であります。そこにお塚の信仰が生まれたのは自然な成り行きでした。
2019年2月24日。上社神蹟に並ぶ石碑と鳥居。古代から現代まで、稲荷山は様々な信仰が交わる聖地です。お山を巡拝して、その雰囲気を感じてみてください。きっと得るものがあります。
2014年4月25日。一ノ峰から四ツ辻方面へ。二ノ峰→間ノ峰→三ノ峰と下ります。
2014年4月25日。標高219.4mの二ノ峰。七神蹟の一つ、中社神蹟です。
2018年5月20日。扁額は「中之社」、幟と紋幕は「青木大神」。向かいに茶屋「辻亭」があります。
稲荷山古墳説を採用すると、二ノ峰は前方後円墳。稲荷山二号墳と称するものの形状は判別不能です。明治時代に方格規矩四神文鏡・方格規矩獣文鏡の二面の鏡が出土したらしく、このうち四神文鏡は曲玉とともに稲荷山三ノ峰の藤原古墳(場所不明)から出土と記録あり。獣文鏡は詳細不明です。明治時代の記録すら曖昧でよく分からないのに、古墳時代の豪族や祭祀を解明するなんて不可能でしょう。
2014年4月25日。二ノ峰と三ノ峰の間の平地に間ノ峰があります。
2018年5月20日。七神蹟の一つ、荷田社神蹟。扁額は「荷田社」、紋幕は「伊勢大神」です。
2022年7月30日。荷田社の石鳥居は奴祢鳥居という特殊な形状。大正6年(1917年)の建立です。
室町時代の『稲荷山旧跡図』を見ると、中ノ塚(二ノ峰)と下ノ塚(三ノ峰)の間に人呼塚または命婦塚あり。江戸時代前期の『寛文之大絵図』にも同じく人呼塚が描かれています。大西親盛(秦氏系の社家)が江戸時代中期の享保17年(1732年)に編纂した『稲荷谷響記』によると、野狐のせいで行方不明になった者の名を呼んで祈れば見つかるという信仰がありました。
荷田社神蹟と称するように荷田氏に関係する人呼塚。『稲荷谷響記』では人呼塚が命婦社と荷田社(p.11を参照)の元の鎮座地だったと記され、荷田氏と命婦狐の深い繋がりを示しています。命婦社と荷田社が山麓に遷座した後も、ここが荷田氏の旧蹟という伝承は残りました。荷田氏系の社家の記録には現れませんが、古くは荷田氏の祭祀場だったと推測されます。
『明応遷宮記録』には「北ノ山ノ上ニハ龍頭太トテ南ムキニ社在之」と記載。人呼塚を指すのか確証はありませんが、山上に竜頭太の社がありました。竜頭太は稲荷山の麓に庵を結んで農耕を行った山神。稲を荷なうことから姓は荷田氏といい、後の荷田氏の祖神に位置付けられました。竜頭太の社は後世の記録には現れず、いつの間にか廃絶した模様です。(竜頭太についてはp.9を参照)
紋幕に「伊勢大神」とあるように、現在の荷田社では伊勢大神(天照大御神)をお祀りしています。かつての人呼塚に伊勢神宮の末社があった可能性は否定できないものの、やはり明治以降の民間信仰の中で崇敬者が名付けた神名と見るのが妥当でしょう。奴祢鳥居もお塚と同様の新しい要素であって、これを深読みして古代の稲荷信仰に結び付けても全く意味がありません。
2015年4月25日。参道の真ん中に佇む猫。明らかにカメラマンを意識していました。
2014年4月25日。標高192.2mの三ノ峰。七神蹟の一つ、下社神蹟です。
2018年5月20日。扁額は「下之社」、幟と紋幕には「白菊大神」。拝所の向かいには茶屋「岡本」。
2018年5月20日。参道に無数のお塚が並びます。ここまで来れば見慣れてきた感じがあります。
稲荷山古墳説を採用すると三ノ峰は円墳。明治26年(1893年)に二神二獣鏡・捩文鏡(倣製変形四獣鏡)の二面の鏡が出土しており、山上の祭祀に用いたとする説が提唱されています。もちろん古墳時代にタイムトラベルしない限り、鏡の用途は特定できません。豪族の副葬品なのか、祭祀に使ったのか、あるいは遺棄したのか。現在分かっているのは、稲荷山に古墳時代の鏡があったことだけ。その意味は各自で考えていけばいいと思います。
2019年8月4日。四ツ辻手前、鳥居の隙間から京都タワーが見えます。木々に覆われた稲荷山中で京都タワーを見られるのは、多分ここだけです。