東方巡遊記

伏見稲荷大社探訪 V

2022-02-05 改訂
2009-05-29~2021-07-25 実施

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目次

01.「伏見稲荷大社探訪」の目次と概要

21.秦氏と賀茂氏の伝説が交わる御劔社

御劔社/雷石/釼石春繁社西野山

賀茂氏の伝説秦氏と賀茂氏の友好関係荷田氏から見た賀茂氏雷石にまつわる伝説三条小鍛冶宗近と名刀「小狐丸」稲荷山の赤土と土器・鍛冶・水銀の朱色稲荷山で刀を鍛えた刀工 宮本包則清少納言の稲荷詣稲荷山の修験道

秦氏と賀茂氏の伝説が交わる御劔社

御劔社

御劔社へ 御劔社の参道 長者社神蹟の御劔社
2014年4月25日と2019年4月20日。薬力社から 石段を登りきると御劔社。七神蹟の一つ、長者社神蹟です。

長者社神蹟の御劔社 長者社神蹟の御劔社
2018年5月20日。鳥居前の常夜燈は江戸時代後期の寛政6年(1794年)、奥の狛犬は江戸末期の文久3年(1863年)に奉納。明治以降に一変した稲荷山中では最も古い石造物とのこと。

御劔社の参道 御劔社の参道
御劔社の参道 御劔社の参道
2018年5月20日、2013年5月2日、2019年4月20日。反時計回りで御劔社にやってきた場面。時計回りと反時計回り、使用するレンズやフィルムによって風景や印象が大きく変わります。御劔社の向かいには茶屋「三剱家」。4枚目の写真、社殿後背の釼石が写ってます。

御劔大神を祀る御劔社 御劔社の由緒
2019年4月20日と8月5日。御劔社こと長者社神蹟。山麓の長者社(p.11を参照)に賀茂氏の要素があったように、御劔社では御劔大神の名で加茂玉依姫命(賀茂玉依姫命)をお祀りしています。どうして愛宕郡の賀茂氏の神様が祭神なのか考えてみましょう。

賀茂氏の伝説

『釈日本紀』の『山背国風土記』逸文には、賀茂玉依姫命の父である賀茂建角身命の伝説が記されます。それによると、賀茂建角身命は日向の曽の峯(九州南部の高千穂峰)に天降り、神倭石余比古(後の神武天皇)の東征を先導された神様です。賀茂建角身命は大倭の葛木山の峯(奈良県の大和葛城山)に宿り、山代国の葛野河と賀茂河の合流点に至り、久我国の北山の麓に鎮座。その時から賀茂の地名が生まれたと伝わります。

後に丹波国の神野の神伊可古夜日女を妻に迎えて玉依日子と玉依日売が誕生。ここに記された玉依日売が、御劔社祭神の賀茂玉依姫命です。ある日、玉依日売は石川の瀬見の小川に流れる丹塗矢を発見。矢を寝床に挿したことで身ごもって男子を産みます。成人した男子は酒の席で屋根を突き破って父のいる天に昇り、外祖父(賀茂建角身命)の名に因んで可茂別雷命と名付けられました。『古事記』の勢夜陀多良比売と大物主神(大神神社の祭神)の伝説に似ていますね。

賀茂別雷命は賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神に。賀茂建角身命、玉依姫命は賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として、山背国の愛宕郡を本拠地とする賀茂氏によって古代より奉斎されました。丹塗矢の正体であった火雷命は乙訓郡の社に鎮座されていると記載。三社とも伊奈利社の創建以前から国史に登場する山背国の古社であります。

秦氏と賀茂氏の友好関係

平安時代に成立した『本朝月令』の『秦氏本系帳』によると、秦氏の女子が葛野河に流れる一矢を発見。矢を戸上に挿したことで身ごもり男子を産みます。男子が酒の席で戸上の矢を父として指し示すと、矢は雷公となって天に昇りました。矢の正体は葛野郡の秦氏の氏神様、松尾大明神(大山咋神)だったのです。この出来事により鴨上社は別雷神、鴨下社は御祖神と称し、鴨氏人は秦氏の婿として鴨祭に奉仕したとあります。

『秦氏本系帳』に記された矢の伝説は、どう見ても奈良時代の『山背国風土記』の上書きです。飛鳥時代末期の大宝元年(701年)、葛野に秦氏の松尾社が創建。山背国に入った秦氏が先住の有力氏族である賀茂氏に接近して協力関係を構築する中で、秦氏と賀茂氏を結びつける伝説が創作されたと考えられます。両者は強い繋がりを持っていたわけですから、秦氏の社で賀茂氏の神様をお祀りするのも納得できます。

秦氏と賀茂氏の関係は千年後まで受け継がれました。大西親業が江戸時代後期の寛政年間(1789~1801年)に編纂した『稲荷社事実考証記』には、平安時代末期に稲荷社に加わった田中社を鴨建角身命または八咫烏神と称すると記されています。田中社の本質は地主神と考えられますので、この説も賀茂氏との友好関係を背景に作られたものでしょう。(田中大神についてはp.8を参照

長者社神蹟では後述する磐座そのものを奉斎していたのが、秦氏と賀茂氏の関係から賀茂玉依姫命を祭神に迎え、それが定着して現在に到ると考えるのが無難ではないでしょうか。ここが古代の賀茂氏の祭祀場だったとする説も存在しますが、文献から稲荷山における賀茂氏の活動は確認できません。もちろん賀茂氏の遺跡が確認されたわけでもなく、想像上の仮説です。

荷田氏から見た賀茂氏

謡曲「稲荷(竜頭太)」の伝説によると、別雷神が弘法大師(空海)揮毫の稲荷の扁額を奪おうとするも不動明王(田中大神)に阻止され、稲荷明神によって呪縛。別雷神は二度と稲荷山に来ないと誓約して許されました。秦氏と友好関係にある賀茂氏の神様と敵対したり、竜頭太や空海が登場することから荷田氏系の創作と考えられます。(荷田氏についてはp.9を参照

室町時代、明応8年(1499年)の『明応遷宮記録』では、山麓の長者社について「西ニハ賀茂野ニ長者社在之」と記され、秦氏の祖神を祀るとされる長者社が「賀茂野」なる場所に鎮座していたと分かります。荷田春満が江戸時代前期の元禄7年(1694年)に編纂した『稲荷社由緒注進状』によると、山麓の長者社の祭神は賀茂別雷神と明記されており、荷田氏は長者社=賀茂社と見なしていたようです。

ここで注意しなければならないのが秦氏と荷田氏の認識の相違です。秦氏は荷田氏の祖神たる竜頭太の存在を認めず、荷田氏と関わり深い命婦社の位置付けを把握できていませんでした。それと同様に、荷田氏は深草の長者たる秦氏を認めたくないがために、長者社の祭神を賀茂別雷神と見なした可能性があります。対立する社家の記述は安易に信用できないのが難しいところです。

雷石/釼石

御劔社の釼石あるいは雷石 御劔社の釼石あるいは雷石 御劔社のお塚 拝所に灯された蝋燭
2019年4月20日。社殿後背には注連縄が掛けられた磐座が鎮座。雷石・釼石と呼ばれる御劔社の御神体です。他の神蹟と同じく、周囲に沢山のお塚が並びます。

御劔社の釼石あるいは雷石 御劔社の釼石あるいは雷石
御劔社の釼石あるいは雷石 御劔社の釼石あるいは雷石
2020年9月19日。古くから鎮座する磐座。この巨岩には雷石と釼石、二つの名称があります。

雷石にまつわる伝説

室町時代の享禄・天文年間(1528~1555年)、秦長種が描いた『稲荷山旧跡図』には劔石・雷石が記載。秦親臣が写した江戸時代前期、寛文9年(1669年)の『寛文之大絵図』には、同じく上ノ塚(一ノ峰)の北に、図中で最も目立つ形で釼石が描かれています。したがって、中世には劔石・雷石なる磐座の信仰が確立していました。

雷石の伝説は秦氏系の社家によって伝わります。毛利公治が江戸時代前期の元禄7年(1694年)に編纂した『水台記』、大西親盛が江戸時代中期の享保17年(1732年)に編纂した『稲荷谷響記』によると、その昔ここに落雷があり、神様が雷を捕まえて石に縛り付けました。それで雷石と呼ばれるようになり、今でも縄の跡が残っているそうな。稲荷社とは関係ありませんが、『日本霊異記』にも雷を捕らえた話がありましたね。

三条小鍛冶宗近と名刀「小狐丸」

雷の次は剣について。やはり秦氏系の社家によって伝わります。大西親盛の『稲荷谷響記』と大西親業の『稲荷社事実考証記』から、平安時代中期の実在の刀工、三条小鍛冶宗近の伝説を見ていきましょう。次いで秦氏の鍛冶にも関連付けてみます。

ある時、三条小鍛冶宗近は神託により稲荷山の土を用いて刀を作ることになりました。現れた狐の教えのままに作ると優れた刀が完成。その縁から冶金(鍛冶屋のこと)が当社に祈願し、11月8日には吹革(鞴)祭が斎行されると記されています。稲荷の神様には農耕神だけでなく鍛冶神の性格もありました。現在では神苑斎場(p.13p.26を参照)で斎行される火焚祭に変わっています。

安土桃山時代の天正12年(1594年)以前に成立したという謡曲「小鍛冶」では、より詳しく語られます。一条天皇の勅命で刀を作ることになった宗近が稲荷明神に祈願すると、童子が現れて中国や日本の霊剣について語り、稲荷山に消えていきました。宗近がいよいよ刀を作る場面になり、稲荷明神の御神体が狐霊の姿で登場。稲荷明神に祈願した折に出会った童子も、やはり稲荷明神の化身でした。

宗近は稲荷明神の相槌で刀を鍛え、遂に名刀「小狐丸」が完成。表に「小鍛冶宗近」、裏には稲荷明神が弟子となった証に「小狐」と刻まれ、一条天皇に奉献。稲荷明神は宗近に正体を明かし、稲荷山に帰っていくのでした。これまでのページに何度も書いているように、伝説は突然降って湧いてくるものではありません。稲荷山に古くから伝わる鍛冶信仰がベースになったと考えられます。

御劔社
御劔社の焼刃の水
 御劔社の焼刃の水
2019年8月5日と2020年9月19日。社殿の左手に、焼刃の水と名付けられた井戸があります。

「焼刃ノ水場 修理者」の記念碑に刻まれている如意宝珠と"TAMA" 水場の覆屋は「葉田鋳造鉄工所」の奉納
御劔社の焼刃の水 焼刃の水の由緒
2019年8月5日と2020年9月19日。焼刃の水。三条小鍛冶宗近が用いたと伝わる霊水です。水場の覆屋は「葉田鋳造鉄工所」の奉納。「焼刃ノ水場 修理者」の記念碑に刻まれている如意宝珠と"TAMA"は、宗近とともに小狐丸を鍛えた稲荷明神の神徳を表します。

稲荷山の赤土と土器・鍛冶・水銀の朱色

三条小鍛冶宗近は小狐丸を鍛える際、稲荷山の霊水とともに赤土(埴土)を用いました。稲荷山では良質の赤土が採れ、刀鍛冶が刀身に塗って焼入れに使う焼刃土に適していたのです。京の都では出雲の砂鉄と玉鋼、稲荷山の赤土、鳴滝の砥石、丹波の松炭、良質の水が入手しやすく、室町時代中期から明治時代にかけて鍛冶の町として栄えた歴史があります。稲荷山の赤土は作刀に欠かせませんでした。

話は変わって平安時代より遥か昔。『日本書紀』によると雄略天皇17年(473年頃)、天皇の朝夕の食事に用いる土器を作らせることになり、土師連に命じて山背国の内村や俯見村(現在の伏見区に相当)などから私有民を提供させました。この民を贄土師部と名付けたと記されています。山背国に秦氏が入る以前、伏見・深草には渡来氏族の土師氏の勢力がありました。

土器生産を得意とした土師氏は稲荷山の埴土を利用し、伏見には古くから土器を作る文化が存在したと想像できます。昭和29年(1954年)、稲荷山北麓の古池付近を開墾中に多数の土器(須恵器と土師器)が出土しました。これらの土器の使用年代は不明ながら、稲荷山の土器文化の裏付けになります。江戸時代には埴土を原料とする伏見人形が生まれ、現在でも伏見の土産物・縁起物として一部で生産が続けられています。

渡来氏族の秦氏は鍛冶を得意としました。秦氏が稲荷山の赤土を用いた証拠は存在しないものの、当地で鍛冶に従事する中で生まれた鍛冶信仰が、後世の刀鍛冶の伝説の下地になったと考えたいです。付け加えると、稲荷山の赤土には朱色の原料となる水銀が多く含まれています。秦氏は大陸由来の水銀精製技術を持っており、水銀鉱物の辰砂から鮮やかな朱色を得られました。

農耕の神様として崇敬される稲荷大神。その神徳を象徴する朱色の根源はよく分かっていません。秦氏が鍛冶や水銀精製を得意とした歴史的背景から、かつての伊奈利神は鍛冶・水銀の神様であったとする仮説も提唱されています。稲荷社の朱色の由来を秦氏に求めるなら、稲荷山の赤土・鍛冶の赤・水銀の朱は抑えておきたいです。 (同様の話題をp.7で紹介しました

伏見稲荷大社探訪 V|荘厳な楼門を彩る朱色と白狐の由来

宮本包則の記念碑 宮本包則の記念碑
2020年9月19日。社殿の右手には刀工の石碑があります。

「明治元辰年 伯耆国大垣産 宮本能登守菅原包則」と刻まれた記念碑 「明治元辰年 伯耆国大垣産 宮本能登守菅原包則」と刻まれた記念碑
2020年9月19日。「明治元辰年 伯耆国大垣産 宮本能登守菅原包則」と刻まれています。

稲荷山で刀を鍛えた刀工 宮本包則

宮本包則は江戸時代後期の天保元年(1830年)、伯耆国大垣(鳥取県の大柿)に生まれました。幕末に勤皇方の刀工として名を挙げ、孝明天皇の御剣も鍛えています。明治元年(1868年)には三条小鍛冶宗近が小狐丸を鍛えた伝説に因み、稲荷山に参籠して作刀に精励。完成した御剣は明治天皇に奉献され、二振は稲荷神社に納められました。謡曲「小鍛冶」の舞台となった稲荷山は刀鍛冶の聖地です。稲荷明神のもとで刀を鍛えた包則のただならぬ思いが感じられます。

御劔社の釼石あるいは雷石
2019年8月5日。多くの伝説を持つ雷石、あるいは釼石。

長者社神蹟にまつわる雷と剣の伝説には、秦氏、荷田氏、賀茂氏の諸要素が散りばめられています。一見すると関係ないようで、実は根底では繋がっている雰囲気。割れた土器の断片を繋ぐように一つずつ検証して、なんとなく原初の信仰が見えてきます。それにしても、稲荷信仰の歴史は分からないことが多すぎ。やっぱり本当のことは神様しか知らないのですね。

稲荷山の一ノ峰へ 稲荷山の一ノ峰へ
2014年4月25日。御劔社から一ノ峰へ。お山巡りで最も険しい石段の登りになります。

清少納言の稲荷詣

平安時代中期に流行した2月初午の稲荷山参詣(p.19を参照)。その記録の一つに清少納言の『枕草子』があります。「うらやましげなるもの」と題された章段によると、夜明けに出発するも坂道が苦しくてバテてしまったと記され、後から来た参詣者が普通に登っていく様子を羨ましがっています。10時ぐらいになって暑くなり、何しに来たんだと涙を流す清少納言。とてもリアルな描写です。

「中の御社」あたりの坂道が特に苦しかったそうで、地形的に薬力社~御劔社~一ノ峰へ登る箇所と推定されます。インドア系の清少納言にとって稲荷詣は大変な苦行であった一方、「まろは七度まうでし侍るぞ。三度はまうでぬ。いま四度はことにもあらず。まだ未に下向しぬべし」と言いながら余裕で下る40歳ぐらいの女性もいて、熱心な崇敬者には何ともなかったようです。

機能性の高いアウトドア装備が存在しない時代でも、神仏を崇敬する信仰心があれば険しい山を歩き通すことができました。私は野宿装備を担いで熊野詣を10回、大峯奥駈を1回やりましたが、熊野詣を34回も実施したという後白河上皇とか、50歳を過ぎてから大峯で2度も修行した西行法師には到底かないません。そういう人達が羨ましいです。

春繁社

稲荷山参道 春繁大神を祀る春繁社
2018年5月20日。石段の途中に鎮座する春繁社。春繁大神をお祀りする社です。

僧正峰付近の登り 僧正峰付近の登り
2020年10月11日。長い石段を登ってくる観光客は皆きつそう。歩き慣れていない人は覚悟しといてください。下山できなくなるほどバテますから。

稲荷山の修験道

春繁社から先の斜面左手は僧正峰と呼ばれ、修験者の行場だったらしい。平安時代に大江匡房が記した『本朝神仙伝』によると、白山を開いた泰澄は吉野山を経て稲荷社で数日念誦しました。すると夢の中に一女が現れ、補陀落の観世音が大明神として示現したと告げるのでした。この伝説では明らかに稲荷山が神仏習合の霊山と認識されています。

泰澄は奈良時代に活躍した伝説的修験者です。『本朝神仙伝』の真偽はともかく、平安時代に都で密教や修験道が隆盛したのは紛れもない事実。低山でありながら深く険しい稲荷山は、鞍馬山や愛宕山と並ぶ修験道の一大霊場だったと考えられます。山中の滝や磐座を巡拝する現代の「お山巡り」は、精神的な面で古い修験道に繋がっていると感じます。

西野山

西野山の入口
春繁社から石段を登り、一ノ峰の手前で左折。一旦、参道を離れます。

西野山へ 西野山へ
2019年4月20日。普通の人は、こんな道に入ろうとは思わないです。

西野山へ 稲荷山の標識
2019年4月20日。この時は台風の影響で倒木が多く、西野山まで行くのは諦めました。標識をよく見ると、左は"Mt. INARI"、右は"INRAI SHRINE"になってます。誰も"インライ"になっていることに気付かなかったのでしょう。次に訪れたら直ってたりして。

西野山へ 西野山
稲荷山の地形図
2014年4月25日。稲荷山の東に位置する西野山へ。この辺りが上述した修験道の僧正峰です。

まっすぐ尾根伝いにアプローチできるわけではなく、お滝巡りがある谷の北を迂回して乗り換えます。低山にしては深くて入り組んだ地形なので、興味本位で参道を逸脱すると遭難の危険性あり。市街地に接して迷いそうにない京都一周トレイルでも道迷いが多発しています。里山だからといって甘く見ず、十分注意して歩きましょう。地形図とコンパスでナビゲーションしたほうがいいです。

稲荷社境界の標柱 女性の一人歩きは注意しましょう。
稲荷社境界の標柱がありました。稲荷山は伏見区、西野山は山科区になります。

山の緑を火災から守ろう
踏み跡が付いているものの、西野山の標識などは設置されていません。奥社奉拝所(p.14を参照)や伏見神寶神社(p.15を参照)からお滝巡りを経て、一ノ峰と西野山に登ることも可能です。くれぐれも迷わないようにね。

西野山へ お塚
西野山まで作業道らしき道を歩きます。道沿いにお塚が点在。クマバチが多かったです。

西野山の山頂 西野山の三等三角点
0845、西野山山頂(239m)に到着。三等三角点がひっそり設置されています。森に囲まれて眺望はありません。地味です。

西野山の山頂 西野山の山頂
稲荷山の一ノ峰より僅かに高い西野山。東麓の大石神社にも通じます。ここは山科の西野山。伏見の稲荷山とは別物です。たまに間違える人がいるらしい。

稲荷山参道へ 稲荷山参道の鳥居
鳥居が並ぶ参道に戻ります。この風景を見ると稲荷山に入ったと感じます。

稲荷山の一ノ峰へ
参道に復帰しました。

稲荷山三ヶ峰の神蹟とお塚を巡拝
次ページ、ようやく稲荷山の一ノ峰です。

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