東方巡遊記

伏見稲荷大社探訪 V

2022-08-07 改訂
2009-05-29~2022-07-30 実施

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目次

01.「伏見稲荷大社探訪」の目次と概要

19.稲荷山の七神蹟を巡拝するお山巡り

大杉社眼力社御膳谷奉拝所/祈祷殿/御膳谷神蹟/御膳谷旧蹟

稲荷山にあった上中下社2月初午に行われた稲荷詣「しるしの杉」の信仰上社と中社の衰退稲荷山の野生動物稲荷山の森林大貫眞浦氏の「稲荷山復舊之記」中社跡かもしれない御膳谷奉拝所

稲荷山の七神蹟を巡拝するお山巡り

お山巡りスタート
2014年4月25日。稲荷山の七神蹟を巡る「お山巡り」開始。四ツ辻を直進して時計回りに一ノ峰へ。

お山巡り参道 お山の清浄を保つ為、ゴミ等は必ずお持ち帰り下さい。
2014年4月25日。 時計回りの場合、薬力社までは緩やかな地形。すぐに大杉社が見えてきます。お山の清浄を保つ為、ゴミ等は必ずお持ち帰り下さい。

稲荷山にあった上中下社

『山背国風土記』の逸文にある伊奈利社の創建以来、秦氏は伊奈利山の山上で神様をお祀りしたと伝わります。平安時代前期、天暦3年(949年)の『神祇官勘文』では奈良時代初期の和銅年中(708~715年)に初めて伊奈利山三ヶ峰の平地に顕現されたという禰宜・祝の申状を紹介しており、実態不明ながら創建当初から山上に上中下社の原型(拝所のような祭祀の場)が存在したと想像できます。(伊奈利社の創建伝承はp.5を参照

同じく『神祇官勘文』によると、醍醐天皇御代の延喜8年(908年)、左大臣の藤原時平により三箇社が修造されました。この修造が稲荷社の社殿に関する最古の記録であり、本格的な社殿造営が行われたと考えられます。山上の三箇社は独立しており、現在の西麓本殿のような一宇相殿ではなかったはず。この時期に上社・中社・下社の三社が確立したのでしょう。(藤原時平による社殿修造はp.8を参照

平安時代に始まった初午詣では稲荷山の上中下社を巡拝しました。当時の貴族の日記によると下社は山麓、中社・上社は山中にあったと解釈でき、稲荷山の三ヶ峰と三社は一致していませんでした。下社は早い段階で遥拝所として山麓に遷された、あるいは西麓の荷田氏(p.9を参照)の稲荷社と想定することもできます。お山巡りのルートも現代とは異なっており、平安時代の参道や社殿の位置を特定するのは難しいです。(初午詣については後述します)

藤原道綱母の『蜻蛉日記』では康保3年(966年)、藤原宗忠の『中右記』では天仁2年(1109年)に稲荷詣の記事あり。藤原頼長の『台記別記』では久安4年(1147年)の参詣の際、山麓の下社から中社・上社に登って「本路」で下社に戻り、久安6年(1149年)の参詣では「帰坂」で下っています。帰坂は稲荷山北西麓の今熊野観音寺、東福寺に通じるルートとされ、行幸に用いられたことから後世には車坂とか御幸道と称されました。現在の御幸奉拝所(p.23を参照)に相当すると思われます。

風土記逸文では「白鳥が山の峰に飛び去って子を生んだ」、『神祇官勘文』では「伊奈利山三ヶ峰の平地に顕現された」と記される伊奈利社の創建伝承。必ずしも三ヶ峰のピークを指すわけではなく、山中の平地に設けた祭祀の場が上中下社に発展したと考えられます。かなり混同されやすいですが、歴史的に見れば三ヶ峰に上中下社が存在していたわけではありません。(混同された経緯はp.22で説明

2月初午に行われた稲荷詣

稲荷大明神の神徳が庶民に広まった平安時代。2月初午の日に稲荷山に参詣する風習が生まれました。明確な起源は不明ながら稲荷祭(p.8を参照)と同時期に始まっていたらしく、旧暦では春先のハイキング的な参詣でもありました。神奈備や神体山といえば禁足地として入山を制限するのが一般的ですが、稲荷山では「お山巡り」と称して山上の聖地を巡拝する信仰です。後述する「しるしの杉」の要素が加わり重要な行事とされます。

『大鏡』には平安時代初期の元慶8年(884年)、2月初午の稲荷詣が大変賑わったとの回想があります。平安中期になると、2月初午に庶民や貴族がこぞって稲荷山に参詣。当時のお山巡りの様子は貴族の日記や歌集に数多く記録されており、上述した大物貴族のほか、清少納言の『枕草子』や『今昔物語集』の茨田重方のエピソードなど、初午の稲荷山の賑わいを知ることができる貴重な史料が残ります。

2月初午に参詣するようになった経緯は分かりません。春先に山の神様を迎えて豊作を祈願する行事は全国にありますから、稲荷山に鎮座される神様が農耕神として崇敬される流れで、初午の稲荷詣が特別に重視されて定着したと考えられます。後世には稲荷社の創建を和銅4年(711年)の2月11日戊午とする説まで登場しました。(実際の和銅4年2月に戊午日は存在しません)

江戸時代に写された『月次祭礼図屏風(模本)』には、室町時代の初午詣の帰坂の様子が描かれており、山中に露店や宴会を開く参詣者の姿を確認できます。応仁の乱の壊滅から復興すると参詣者が戻り始め、費用がかさむ稲荷祭の復活は江戸時代まで待たなければならなかった一方、初午詣は早くから復活しています。稲荷大明神への信仰は決して失われませんでした。

江戸時代、勧進聖(僧侶)の精力的な活動によって稲荷信仰が全国規模で普及。庶民が初午詣に訪れる情景が様々に描かれており、天明7年(1787年)刊行の『拾遺都名所図会』では稲荷山。寛政11年(1799年)刊行の『都林泉名勝図会』では一の鳥居。どちらも参詣者が押し寄せて平安時代以上に混雑した様子が伝わってきます。江戸時代から一気に記録が増えますね。

「しるしの杉」の信仰

平安中期に初午詣が流行する中で、稲荷山の杉の小枝を折って身に付ける信仰が生まれました。菅原孝標女の『更級日記』には「稲荷より給ふしるしの杉よ」とあり、稲荷山の杉は「しるし(験)の杉」と呼ばれる参詣のシンボルでした。貴族の日記は当時の信仰や風習を知る上で欠かせない史料です。神仏習合で荼枳尼天や白狐など様々な要素が加わった中世以降も、「しるしの杉」は稲荷詣のシンボルとして用いられました。

きさらぎや けふ初午のしるしとて 稲荷の杉は もとつ葉もなし

これは鎌倉中期の『新撰六帖題和歌』にある藤原光俊の歌。2月初午の日に稲荷山に参詣する人々が杉の葉を採りすぎた様子が詠まれており、初午詣の流行と賑わいが感じられます。「しるしの杉」の起源は不明。伊奈利社の創建伝承である『山背国風土記』の逸文には伊侶巨秦公の子孫が「社の木を家に移して奉斎し、植えた木が繁ると福を得られる」とあり、伊奈利山を根源とする神奈備・神籬の祭祀の一種と考えられます。この秦氏の信仰が「しるしの杉」の原点ではないでしょうか。

現在の伏見稲荷では新暦の2月初午の日に初午大祭が斎行。旧暦とは異なり、まだ冷え込む季節に初午詣が行われます。平安時代の「しるしの杉」の信仰を受け継ぎ、今でも稲荷山全域の杉が伏見稲荷の御神木。初午大祭では杉と椎の枝で作った青山飾りが社殿に掲げられ、参拝者に御神木の「しるしの杉」が授与されます。古くから受け継がれてきた伏見稲荷の行事。そのルーツは秦氏の伊奈利山の信仰にあるかもしれないと考え、遠い昔の祭祀と繋がるロマンを感じます。

杉を神聖視する「しるしの杉」の信仰は伏見稲荷だけでなく、大和国一宮の三輪明神(奈良県の大神神社)にもあります。三輪明神は三輪山を御神体として大物主大神をお祀りする古社。お山は禁足地となって入山・撮影などが厳しく制限されます。聖山にもかかわらず物見遊山みたいな参詣が流行した稲荷山は実に大らかであり、その寛容さは熊野三山の巡礼に通じると思います。そういった土壌があったからこそ、近世に何でもありな稲荷信仰が隆盛したのです。

上社と中社の衰退

室町時代の応仁の乱直前、長禄3年(1459年)に描かれた『稲荷社指図』によると、山麓の下社(現在の本殿に相当)に四大神(毘沙門)・中御前(千手)・大タラチメ(如意輪)・大明神(十一面)・田中(不動)が鎮座。山中の中社に千手・中御前・毘沙門、上社に十禅師(地蔵)・大明神(十一面)が鎮座され、それぞれ本地仏が設定されていました。現代の本殿祭神との関係は以下の通りです。

山中の中社 山中の上社
千手 中御前 毘沙門 十禅師(地蔵) 大明神(十一面)
山麓の下社
四大神(毘沙門) 中御前(千手) 大タラチメ(如意輪 大明神(十一面) 田中(不動)
現代の本殿
下社摂社
中社
下社
上社
中社摂社
田中大神 佐田彦大神 宇迦之御魂大神 大宮能売大神 四大神

応仁の乱による稲荷社壊滅から31年後の明応8年(1499年)。稲荷山西麓に五社相殿の本殿が再建されました。社家の荷田氏の『明応遷宮記録』によると山中の上社・中社も再建されたと分かります。この記録に山麓の下社は現れません。やはり平安時代から山麓に鎮座した下社が、明応8年の本殿に発展したと考えるのが妥当でしょう。(明応の正遷宮はp.8を参照

『明応遷宮記録』では稲荷山三ヶ峰が「三ノ塚」と呼ばれ、上塚に正天、中塚に弁財天、下塚に荒神が鎮座。三ヶ峰は稲荷大明神をお祀りする場所ではなく、末社のような位置付けだったと理解できます。この記録を見ると、平安時代以来の上中下社は明らかに三ヶ峰とは別所に鎮座していました。しかし三ヶ峰を上中下塚と称したのが後世に混乱を招き、三ヶ峰=上中下塚=上中下社と信じられるようになります。

荷田氏が主導した明応の正遷宮により、稲荷社の祭祀は西麓に集中。山中の上社・中社は以降の記録に現れず、衰退していったと思われます。伊奈利山の三ヶ峰を重視した秦氏と、稲荷山西麓への遷座を主導した荷田氏の対立。応仁の乱の影響で山上の祭祀は衰退し、平安時代に多くの人々が巡拝した上社と中社は幻の存在になりました。明応の正遷宮に関して、荷田氏を快く思わない秦氏系の社家は一切の記録を残していません。

大杉社

大杉大神を祀る大杉社
2014年4月25日。大杉大神をお祀りする大杉社。その名の通り、杉が御神木の社です。七神蹟以外にも大杉社や眼力社など数々の拝所があり、明治以降に個々の崇敬者が設立した「お塚」に由来します。(お塚についてはp.17を参照

大杉社と茶屋「杉乃家」 大杉社と茶屋「杉乃家」
2018年5月20日。参道を挟んで茶屋「杉乃家」。稲荷山の神蹟・拝所に共通する構成です。

ミニ鳥居 ニホンザル出没注意
2014年4月25日。ミニ鳥居とニホンザル注意の貼り紙。稲荷山には猪・猿が出没します。凶暴なので絶対に近寄ったり餌付けしないでください。珍しがって写真を撮ってる場合じゃないよ。

稲荷山の野生動物

古くは山城国全域に生息していたと思われる狐。稲荷山に住み着き、稲荷の眷属の白狐と混同されることもあったでしょう。狐が都の人々に親しまれたかどうかは分かりませんが、後世には都市の開発に伴って住処を失い姿を消しました。それでも東山には自然が多く残っており、猪や鹿のほか、熊(ツキノワグマ)の目撃情報もあります。もしかしたら、まだ東山に狐が住んでいるかもしれません。

稲荷信仰に荼枳尼天や狐の要素が加わったのは鎌倉時代のこと。稲荷大明神の眷属たる白狐は野生の狐とは全く異なる高次元の存在です。そういった信仰が生まれる前に編纂された『日本書紀』の中では、深草の秦大津父から「貴神」と呼ばれる狼が登場します。狼は大神に通じ、古代より神獣のイメージを持っていました。(秦大津父と狼の伝説はp.5、稲荷信仰と狐の習合はp.7を参照

ここからは推測…というか憶測です。古代の伊奈利山には山神と崇められる狼が存在しており、その信仰があったからこそ、後世に狐と習合しやすかったと考えるのはどうでしょうか。ただ秦氏の伊奈利社の象徴は白鳥である上、稲荷社の命婦狐の伝承は荷田氏から出てきたと思われますので、狼から狐に通じるという発想は無理がありそうです。(命婦狐についてはp.12を参照

新緑が映える朱塗りの鳥居
2014年4月25日。大杉社から眼力社へ。朱塗りの鳥居に緑が映えます。

宵宮祭・本宮祭の準備が進む参道 宵宮祭・本宮祭の準備が進む参道
2014年7月12日。宵宮祭・本宮祭の準備が進んでいました。

新緑が映える朱塗りの鳥居
新緑が映える朱塗りの鳥居
新緑が映える朱塗りの鳥居
2013年5月2日と2014年4月25日。この辺りは特に緑が綺麗。新緑シーズンがオススメです。

稲荷山の森林

稲荷山の鬱蒼とした森林は近世に蘇りました。三ヶ峰に4世紀後半の遺跡が存在していることから、古墳時代には原生林が失われていたとする説があります。伊奈利山が神聖な山と認識されていたのは間違いないでしょうが、『山背国風土記』の逸文に記された秦氏の伊奈利社創建の時代には、山麓から山頂にかけて伐採・開拓されていたと想像されます。(三ヶ峰の遺跡はp.22を参照

平安時代初期、空海は東寺の伽藍整備のために材木を必要とし、淳和天皇の許可を得た上で最寄りの稲荷山の木々を伐採しました。この時、立派な御神木が切り出されてしまったと考えられます。後に天皇が病気になり、占いによって稲荷山を荒らした祟りであることが判明。当時の人々は、稲荷山に鎮座される神様が大いに怒って祟りをなしたと解釈したのです。うか様に怒られた天皇かわいそう……(伐採事件についてはp.5を参照

時は流れて江戸時代。空海の伐採や応仁の乱の壊滅(p.5を参照)から稲荷山の自然は回復しており、なんと赤松林で覆われた松茸産地に生まれ変わっていました。この時代の稲荷山は社家の所有地ではなく、幕府直轄地として稲荷社に預けられる形式。収穫された松茸は京都所司代に献上されました。赤松林の手入れは行き届き、庶民にも松茸の名所と知られていたほど。神域とは何だったのでしょう?

明治時代には稲荷山の大部分が官有地として没収。稲荷神社が管理できる土地は限られてしまいましたが、可能な範囲で檜や杉が植林されています。明治28年(1895年)の『京都伏見官幣大社稲荷神社之全図』では、まだ赤松林で覆われていた頃の稲荷山が描かれました。官有地になって手入れできなくなった事情もあり、戦後は松枯れが蔓延。稲荷山の松は壊滅し、松茸産地の面影は全く残りません。

昭和37年(1962年)に稲荷山の全官有地が伏見稲荷大社に返還されると大規模な手入れが始動。古態を取り戻すために杉・檜・松の植林が盛んに行われています。平安時代の「しるしの杉」に象徴される杉の育成を始め、神域にふさわしい森林作りが地道に続けられています。こうして稲荷山を根源とする信仰が後世に受け継がれるのですね。(稲荷山の変容はp.17を参照

たとえ穏やかな神様であっても、神域を冒涜すれば祟りがあります。稲荷山が神奈備として守られてきた歴史的背景をしっかり理解した上で訪れてください。決して物見遊山ではなく、神様が顕現されたお山を巡拝させていただく、長い歴史を持つ稲荷社について学ばせていただく、という謙虚な態度が求められます。ここは観光地ではありません。山全体が神域なのです。

稲荷山参道の石碑 稲荷山参道の石碑
2014年4月25日。眼力社手前。参道の右手に特徴的な石碑があります。傍らに白猫が佇んでいました。

大貫眞浦氏の稲荷山復舊之記 大貫眞浦氏の稲荷山復舊之記
2019年4月20日。反時計回りで巡拝すると左手に石碑が見えます。「いなこん」では重要な探訪ポイント。昔、伊奈里神社で迷子になった燈日くんが辿り着いた場所です。人間の姿で顕現したうか様に出会い、一緒に山麓へ下った燈日くん。うか様は、この時から燈日くんに目をつけていたという疑惑が……

大貫眞浦氏の稲荷山復舊之記 大貫眞浦氏の稲荷山復舊之記
2019年4月20日。「稲荷山復舊之記」と刻まれています。この記念碑は稲荷山の神域回復の象徴。アニメの背景として済ませられるものではありません。以下、その内容を見ていきましょう。

大貫眞浦氏の「稲荷山復舊之記」

伏見稲荷大社探訪 V|明治期に生まれたお塚信仰と熊鷹社
明治4年(1871年)、稲荷社は官幣大社の「稲荷神社」に改称されて国家の管理下に入りました。同年に悪名高い上知令(上地令とも)が出され、古代より神域であった稲荷山の大部分が官有地として没収。社有地として認められたのは三ヶ峰を含む七神蹟と、それらを結ぶ参道のみ。神社側で稲荷山を管理できなくなった間、無断で石碑(お塚)や鳥居が奉納されるようになり、稲荷山の風景は著しく変容しました。(p.17も参照

稲荷神社としては祭祀のために稲荷山の返還が不可欠であり、何度も請願を行い、明治政府に没収された土地を取り戻していきます。明治34年(1901年)に稲荷神社宮司の国重正文氏が死去されると、下野国(栃木県)鹿沼の今宮神社の社家に生まれた大貫眞浦氏が5代目宮司に着任。国重氏の遺志を継いで稲荷山復舊に取り組まれました。

明治35年(1902年)、とても十分な面積とは言えませんが一部の土地が返還。大正3年(1914年)になり、神域回復を記念して「稲荷山復舊之記」の建立を企画されました。奉納したのは崇敬者の渡辺多四郎氏です。大貫氏の在任中も無断のお塚は増え続けて撤去は難しくなり、既存のお塚は修復のみ許可という方針に転換するなど、諸問題への柔軟な対処を迫られました。この時期、多くのお塚と茶屋が稲荷神社の管理下に入ります。

大貫氏は大正5年(1916年)に死去されますが稲荷山復舊の遺志は受け継がれ、戦後、官幣大社から単立宗教法人の「伏見稲荷大社」に改称しても稲荷山返還の努力は続きます。上知令から91年経ち、鎮座1250年の翌年となる昭和37年(1962年)、ようやく全ての官有地が伏見稲荷大社に返還。明治時代に奪われた稲荷山を取り戻し、神域回復に成功したのです。その翌年、宮司の藤巻正之氏により「稲荷山復元記念之碑」が建立されました。(p.27を参照

参道脇にあり、今では誰も気に留めなくなった記念碑。そこに刻まれた内容や奉納した人物、時代背景を調べると、稲荷山の伝統を守るために行動された偉大な先人達の存在が浮かび上がります。それを再発見して広く世間に紹介するのが探訪活動であり、稲荷山の神様を崇敬する意思表示なのだと最近気付きました。誰かが語り継がないと、本当に忘れ去られてしまいます。

眼力社

眼力社と茶屋「眼力亭」 眼力大神と石宮大神を祀る眼力社
2018年5月20日と2014年4月25日。眼力大神と石宮大神をお祀りする眼力社。その名の通り、眼に御利益のある神様として崇敬され、向かいの茶屋「眼力亭」とともに人気のある社です。朱塗りの鳥居や狐の要素は持っていても、山麓に鎮座する本殿とは大きく異なった雰囲気。現代の稲荷山は民間信仰の一大聖地でもあります。

眼力社手水舎の逆さ狐 眼力社手水舎の逆さ狐
2014年4月25日と2018年5月20日。手水舎の「逆さ狐」は今村久兵衛氏の作品。大阪城の鯱を作った高名な鋳物師です。そういえば、四ツ辻に至る参道に今村氏の名が刻まれた記念碑(p.16を参照)がありました。何か関係があるのでしょうか。

御膳谷奉拝所

御膳谷奉拝所 御膳谷奉拝所
2014年4月25日。眼力社のすぐ先に御膳谷奉拝所。伏見稲荷が管理する七神蹟の一つです。

御膳谷奉拝所 御膳谷奉拝所
御膳谷奉拝所 御膳谷奉拝所の社務所
2018年5月20日と2019年4月20日。山麓の本殿に比べると静かなところ。茶屋ではなく公式の社務所が置かれています。

中社跡かもしれない御膳谷奉拝所

御膳谷奉拝所は、地形的には稲荷山の三ヶ峰北斜面の御膳谷に位置。秦親臣が写した江戸時代前期、寛文9年(1669年)の『寛文之大絵図』には「御前ヶ谷」と記され、位置関係から三ヶ峰の奉拝所であったことが理解できます。古くは神饗殿と御竈殿があり、稲荷山の神様に神饌をお供えする祭祀の場でした。現在でも祈祷殿にて朝夕の日供奉献が続けられています。

上述したように、平安時代の稲荷山には上社・中社・下社の三社が確立。初午詣の際は山麓の下社、山中の中社・上社を巡拝しました。当時の貴族の日記と実際の地形を照らし合わせて検討すると、現在の御膳谷奉拝所の位置に中社が存在したのではないか。という推測が現実味を帯びます。考古学的な調査は行われていませんが、社殿の造営に相応しい場所です。

御膳谷奉拝所の狛犬 御膳谷奉拝所の参道
2019年4月20日。鳥居前に佇む一対の狛犬。狐像が主流の伏見稲荷では珍しい存在です。

御膳谷奉拝所の狛犬
御膳谷奉拝所の狛犬 御膳谷奉拝所の狛犬
2022年7月30日。苔むした狛犬。崇敬者の名入りの前掛けを見ると、この狛犬がどれだけ大切にされているか分かります。

祈祷殿

山上の祈祷所 御膳谷奉拝所の祈祷殿
御膳谷奉拝所の祈祷殿
2018年5月20日、2019年4月20日、2020年10月11日。石鳥居から石段を登ると山上の祈祷所へ。

御膳谷奉拝所の狐
苔むした神使の狐達 苔むした神使の狐達
2019年4月20日と2020年10月11日。祈祷所の登り口を守る神使の狐達。左の狐が咥える巻物は稲荷の秘宝、右の狐が咥える玉は稲荷大神が秘める神徳の象徴。苔むした感じがかっこいいです。

祈祷殿
2018年5月20日。山上の祈祷所こと祈祷殿。昭和37年(1962年)の建立です。祈祷殿の中には崇敬者による日供が並び、信仰の篤さを感じられます。

祈祷殿後背の御饌石と御神木 祈祷殿後背の御饌石
2022年7月30日。祈祷殿後背の御饌石と御神木。1月5日には御膳谷奉拝所で大山祭が斎行。御饌石の上に中汲酒を盛った斎土器70枚を供えて神事を行った後、神職が日蔭の蔓を首にかけて七神蹟を巡拝します。大山祭は注連張神事とも称し、山上の社の注連縄を掛け替える目的があります。

御膳谷神蹟

御膳谷神蹟
2018年5月20日。祈祷殿奥の御膳谷神蹟。扁額には由緒不明ながら「力松大神」とあり、後背の石碑をお祀りしています。 ご覧のように、祈祷殿や神蹟の周囲には無数のお塚が密集しています。現在の稲荷山には1万基以上のお塚が存在するらしい。御膳谷は特に多く、熊鷹社を凌ぐお塚ワールドです。「いなこん」でも御膳谷のお塚が描かれていましたね。(熊鷹社とお塚についてはp.17を参照

御膳谷旧蹟

御膳谷旧蹟
御膳谷旧蹟 御膳谷旧蹟
2018年5月20日、2022年7月30日、2019年4月20日。御膳谷神蹟の右手には御膳谷旧蹟。こちらは「奥村大神」。なぜ力松大神・奥村大神なのか伏見稲荷でも把握しておらず、お塚信仰の流行に伴って崇敬者が名付けたものと思われます。

御膳谷旧蹟の神馬
御膳谷旧蹟の神馬 御膳谷旧蹟の神馬
2022年7月30日。御膳谷旧蹟の神馬。昭和3年(1928年)、尼崎市の崇敬者によって再建されました。

御膳谷旧蹟の神馬
御膳谷旧蹟の拝所
御膳谷旧蹟の拝所
2022年7月30日。御膳谷旧蹟の拝所。この形式は稲荷山の殆どの神蹟・お塚に共通します。

 御膳谷奉拝所のお塚 御膳谷奉拝所の参道
2018年5月20日。旧蹟から社務所に下る石段。御膳谷の色々な風景を撮りたいです。

御膳谷奉拝所のお塚
御膳谷奉拝所のお塚
御膳谷奉拝所のお塚
2019年4月20日と2014年4月25日。お塚で埋め尽くされた稲荷山独特の世界観です。

御膳谷奉拝所のお塚 御膳谷奉拝所のお塚
御膳谷奉拝所のお塚 御膳谷奉拝所のお塚
2014年4月25日と2018年5月20日。石碑や扁額にはオリジナルの神名が記されており、一つ一つのお塚に崇敬者の信仰がこめられています。

御膳谷神蹟 御膳谷奉拝所のお塚
御膳谷奉拝所のお塚 御膳谷奉拝所の参道
2013年5月2日。これは露出オーバーで淡すぎる。実際には鬱蒼とした森の中で薄暗いです。

御膳谷の苔むしたお塚 御膳谷の苔むしたお塚
御膳谷の苔むしたお塚 御膳谷の苔むしたお塚と狐
2018年5月20日。稲荷社の長い歴史の中では、明治以降に生まれたばかりの風景。いい感じに苔むして、なんだか古代から存在しているように見えます。古びれたからそう見えるのではなく、そこに明治以前の素朴な信仰があるから。奇妙な光景だからといって、むやみに怖がったりしないでください。

稲荷山の信仰を象徴するお塚 稲荷山の信仰を象徴するお塚
稲荷山の信仰を象徴するお塚 稲荷山の信仰を象徴するお塚
2019年4月20日。稲荷山が信仰の山として発展してきた歴史的環境を踏まえると、生まれたばかりのお塚の信仰も、自然な成り行きであると感じます。精神的な面で、お塚は古代の祭祀に繋がっているのではないでしょうか。様々な信仰が交わる聖地…それが稲荷山の姿なのです。

山上の祈祷所 道脇に鎮座する御神木
道脇に鎮座する御神木 道脇に鎮座する御神木
2018年5月20日と2020年9月19日。参道脇の御神木。令和2年の初午大祭で奉納された鳥居と紋幕があり、丁重にお祀りされているのが分かります。ここにも木を大切にする「しるしの杉」の信仰が受け継がれていました。

稲荷山に設けられた拝所と滝行の場
次ページ、稲荷山のお塚とお滝を巡ります。

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