2022-08-07 改訂
2009-05-29~2022-07-30 実施
命婦谷に鎮座する奥社奉拝所|稲荷山を巡拝する「お山巡り」|後醍醐天皇を導いた「みつのともし火」|土井柾三氏の後醍醐天皇歌碑|稲荷山で生まれたお塚信仰
2014年4月25日と2022年7月30日。千本鳥居を抜けると奥社奉拝所。鳥居のトンネルの先に奥社が見える瞬間が好き。
2014年4月25日。奥社奉拝所。奥の院とも呼ばれます。「いなこん」では奥社が何度も登場。夕方や夜間の影の描写が特に良かったですね。ここまでは本殿から簡単にアクセスできます。
奥社奉拝所は稲荷山(233.8m)と七面山(108m)の谷に位置する遥拝所・供物所。稲荷大明神の眷属の白狐が暮らしたことに因み命婦谷と呼ばれます。白狐社・奥宮(p.12を参照)とともに命婦社としての性格を持っており、中世に成立した命婦狐の伝説が生きていると感じます。
室町時代、明応8年(1499年)の『明応遷宮記録』に「当社奥院トテ命婦形マシマス也」と記された奥の院。江戸時代後期の寛政6年(1794年)には焼失するも再建。元治元年(1864年)の『花洛名勝図会』に命婦社として描かれています。昭和50年(1975年)になって社殿前に拝所が増設されました。
2014年7月12日。奥社の左手前には手水舎。うか様が座ってゲームをしていた石垣があります。右手には社務所と茶
屋。階段を下ると24時間使えるトイレがあり、後述する裏道に繋がります。いなりちゃんが、ここから境内に入ってきたこともありました。
2018年5月20日と2022年6月4日。賑やかな奥社の様子。この境内にも色々な見どころがあります。
2014年4月7日と4月25日。奥社は白狐(命婦)を象った絵馬を奉納する社として知られます。
2022年7月30日と2020年9月19日。奥社の手水鉢。「烏四上 井尻氏」と刻まれています。奉納年は分かりませんでした。
2022年7月30日。手水鉢の注ぎ口は池田市の崇敬者によって奉納されました。
2022年7月30日。手水舎の記念碑。表面には昭和9年(1934年)の水道管埋設、裏面には大正8年(1919年)の水道管新設の寄附者の名が刻まれています。稲荷神社の工事記録には、昭和9年に「命婦谷手水舎・水道埋設工事竣工」とあります。
2022年7月30日。こちらは昭和54年(1979年)、池田市の崇敬者が参拝50周年記念に建立した碑。上述の注ぎ口とともに設置されたと思われます。
2014年4月25日と2022年6月4日。振り返ると千本鳥居。2014年時点では左右どちらを通っても構わなかったのに、観光客の増加に伴い右側通行と指定されました。
2014年4月25日、2022年6月4日、2018年5月20日。拝所の左手は稲荷山の四ツ辻方面に通じます。
2022年7月30日。「熱中症に注意!」の警告。水分・塩分補給、適度な休憩、日除けなどの熱中症対策を行ってください。真夏のお山巡りは想像以上に過酷です。
2014年4月25日。京都一周トレイル東山コース、E-2-1の標識。稲荷山の三ヶ峰をカバーする案内図もあります。京阪伏見稲荷駅前のE-1は「いなこん」の作中でそのまま再現されていたのが、こちらは「京都一周トレイル 京都市」→「東部一周トレイル」に改変。細かい差異ばかり見ています。
稲荷山の山麓から四ツ辻に向かい、三ヶ峰を含む七神蹟を巡拝することを「お山巡り」といいます。境内案内図によると、一ノ峰まで登ると約4km、約2時間の行程。稲荷山全体をじっくり探訪するなら丸一日かかりますので、写真撮影や混雑、休憩の時間を考慮して無理せず登ってください。体力的にお山巡りできない方は、奥社で遥拝するといいでしょう。
お山巡りは意外と険しく、ちょっとしたハイキングに相当します。歩き慣れていない観光客は夏場など相当きついらしいので、動きやすい服、滑りにくい靴、それから水分補給が絶対に必要です。信仰に基づいて巡拝するための参道であることも忘れないでください。稲荷山は観光地やテーマパークでもなければトレランコースでもありません。(お山巡りはp.19から詳しく紹介)
2014年4月7日。「いなこん」のポスターが境内の至るところに掲示されており、スタンプラリーの企画もありました。ポスター内の場所は奥社から稲荷山への入口と分かるでしょう。鳥居の扁額が「稲荷大神」→「伊奈里大神」に変わっている以外、ほぼ同じですね。
2014年4月25日。奥社左奥には白狐の絵馬コーナー。うか様やいなりちゃんのかわいいイラストが沢山ありました。天照大御神を描くのは流石にヤバい気がするのですが、「いなこん」では普通に天照大御神をパロっているし、伏見稲荷大社は伊勢神宮を中心とする神社本庁に属してないからセーフです。(所属しないだけで伊勢神宮・神社本庁とは友好関係にあります)
2014年4月25日と2020年9月19日。奥社の背後にも遥拝所があります。磐座の下にミニ鳥居が奉納。後述するお塚の一種であり、稲荷山で生まれた独特の風習です。
2022年6月4日。拝所前の蝋燭立て。左側は昭和52年(1977年)、「東京 初穂一心講」の崇敬者によって奉納。右側は昭和53年(1978年)、曽我家の崇敬者によって奉納されました。
2014年4月25日。トシ様が縛り付けられてた電燈。朝からあんな光景は見たくないですね……
2014年4月25日。
奥社右奥に佇む「おもかる石」。願い事をしてから石燈籠の空輪を持ち上げ、予想より軽ければ願い事が叶い、重ければ叶わないとか。稲荷大神の依代ですから、ふざけて粗末に扱わないようお願いします。「いなこん」原作では、うか様を探しているいなりちゃんと燈日くんが、おもむろにおもかる石を持ち上げる場面がありました。
2020年9月19日と2022年6月4日。おもかる石は千本鳥居と並んで観光客に人気のスポット。行列整理用のコーンバーが設置されています。
2019年4月20日。おもかる石の右に鎮座する後醍醐天皇の歌碑。稲荷社にとって重要な伝説が記されています。左の案内板を頼りに内容を見てみましょう。
鎌倉時代の正応元年(1288年)に生まれた尊治親王(後醍醐天皇)。文保2年(1318年)、花園天皇に譲位される形で第96代天皇に即位しました。天皇親政を行う中で武家政権である鎌倉幕府の打倒を目指すようになったらしく、元弘元年(1331年)には息子の護良親王や武将の楠木正成たち支持者とともに挙兵。反乱は一時的に失敗し、天皇は逮捕・廃位されて隠岐国(島根県の隠岐島)に流されてしまいます。
倒幕を諦めなかった後醍醐天皇は隠岐島を脱出。幕府側の武将であった足利高氏を味方につけて勢力を結集し、元弘3年(1333年)に北条氏の鎌倉幕府を滅ぼすことに成功します。京の都に戻った後醍醐天皇は天皇親政の建武の新政を始めますが、あらゆる滅茶苦茶ぶりから足利尊氏の離反を招き、僅か2年半で失脚。花山院に幽閉されるのでした。
『吉野拾遺』によると延元元年(1336年)、天皇は花山院を脱出して遠く離れた大和国(奈良県)南部の吉野へ赴きました。日が暮れて一行は闇路に迷い、天皇が「ここはどこか」と尋ねると、刑部大輔の大江景繁が「稲荷の御社の前」と答えました。天皇は以下の歌を詠んで伏し拝みます。
「むば玉の くらきやみじにまよふ也 吾にかさなんみつのともし火」
すると社の上から赤い雲が現れて臨幸の道を照らし、一行が大和国の内山に至ると金の御岳(金峯山)で消えました。無事に京を出た後醍醐天皇は山深い吉野の地で南朝を立ち上げて北朝・室町幕府と対立。それから57年間、天皇が二人も存在する南北朝時代が始まり…この話は長くなるから別の機会に紹介します。
『吉野拾遺』は室町時代の成立と考えられており、史実ではなく様々な伝説を集めた説話集になります。とはいえ後醍醐天皇が密教に傾倒していたのは事実ですし、権力を掌握できるという荼枳尼天の修法まで行っていたと伝わります。「みつのともし火」は稲荷の狐の尻尾にある三鈷の如意宝珠と解釈されます。当時流行していた神仏習合の稲荷信仰の影響を受けているはずです。
この伝説の中で後醍醐天皇に「稲荷の御社の前」と告げた大江景繁は、稲荷神社において歴史上の偉人に位置付けられ、大正13年(1924年)から大江景繁祭が斎行されています。現在では表参道脇の霊魂社(p.5を参照)に合祀。本人も稲荷社の祭神になるとは思わなかったでしょう。
「吉野山探訪」では、後醍醐天皇が南朝を立ち上げた吉野の史跡を巡りました。金峯山寺や後醍醐天皇陵も詳しく紹介しておりますので、興味のある方はどうぞ。
稲荷神社に後醍醐天皇歌碑が奉納されたのは明治25年(1892年)のこと。崇敬者の土井柾三氏が歴史に埋もれた伝説を思い起こして歌碑の建立に至りました。柾三氏は明治28年(1895年)に稲荷神社参拝のための稲荷新道(p.30を参照)、明治31年(1898年)に境内の防火用水整備(p.26を参照)を行った偉人です。碑文は風化して判読が難しくなり、平成19年(2007年)に柾三氏後裔の土井哲雄氏により案内板が奉納されています。
歌碑の左下には稲荷神社宮司の近藤芳介氏、禰宜の羽倉芳豊氏、主典の桑田孝恒氏の名前も。羽倉芳豊氏はおそらく竹(羽倉)良豊氏のこと。かつて後水尾上皇から社家の西羽倉家に下賜された茶席書院を松本家に移築、修理した人物です。明治の混乱の中で稲荷社の歴史を守った人々を忘れてはなりません。(御茶屋の来歴はp.9を参照)
昭和の写真を見ると、後醍醐天皇の歌碑は奥社左手の目立つ位置に鎮座しました。いつの間にか参拝者が気付きにくい右奥に追いやられ、せっかく案内板を新設したのに「おもかる石」だけが人気になり、歌碑の内容を読もうとする人は殆ど見かけません。歌碑を奉納した柾三氏の遺志を尊重し、もっと稲荷社の歴史を大切にしていただきたいです。
2014年4月25日。奥社の南には裏道があります。この柵も、うか様が座ってゲームをしてたところ。いなりちゃんは裏道から境内に入ってきて、うか様を見つけました。
2019年4月20日。階段を下ると左手に命婦瀧への道標。うか様が座っていた柵の下にお塚があります。そういえば、まだお塚の紹介をしていませんでした。
2019年4月20日。裏道の南、鬱蒼とした竹林の中に佇む白瀧大神。豪華な楼門や拝殿がある伏見稲荷とは別世界です。無数の石碑、いわゆる「お塚」が並んでおり、一つ一つに信仰がこめられています。
2019年4月20日。白瀧大神の風景。明治時代に生まれた民間信仰の世界です。
明治時代に神仏習合の稲荷信仰が否定され、稲荷山の大部分が官有地として没収されると、個々の崇敬者が稲荷神社に無断で鳥居を奉納するようになりました。同じ時期、神仏分離で心の拠り所を失った崇敬者が、オリジナルの神名を記した石碑を無断で持ち込んで独自の拝所を設ける「お塚」の信仰も生まれます。
神社側で稲荷山を管理できなくなった間に拝所は増え続け、鳥居とお塚が密集する独特の風景が完成。すっかり定着して稲荷山の象徴になりました。稲荷山が伏見稲荷大社に返還された現在では無秩序な建立は禁止され、社務所か茶屋を通じて奉納することになっています。(お塚の成立経緯はp.17で詳しく紹介)
2019年4月20日。道標に従い、竹林の裏道を東に抜けていきます。一角には「大憲天祖教会本部」のお塚。別に怖いところではありませんので。
2019年4月20日。奥社からこちら側に下るのはお塚の崇敬者のみ。「天壌教会」のお塚に至る道もあります。いなりちゃんが一人で通るには心細いかもしれない。
2019年4月20日。裏道を抜けると農地に合流します。地形的には稲荷山西麓と七面山北麓の谷。西に下ると稲荷社社家の墓地、伏見街道、または東丸神社脇の裏口(p.9を参照)に通じます。
2019年4月20日。生活道のような道を東に進みます。様々なお塚や滝行の場がある隠れた信仰の聖地。興味本地で入っていかないほうがよさそうでした。
2019年4月20日。学校の裏手に辿り着きました。「いなこん」の作中では、いなりちゃんが通う「藤草中学校」がある設定。実際に藤草中学校のモデルになった深草中学校と藤森中学校はもっと南に位置し、ここには燈日くんが通う高校のモデルになった立命館高校がありました。尚、立命館高校は2014年に長岡京に移転し、2016年には跡地に京都市立京都工学院高校が開校しています。
2019年4月20日。この先、お滝巡りをしながら稲荷山の一ノ峰に繋がります。