東方巡遊記

伏見稲荷大社探訪 V

2022-02-05 改訂
2009-05-29~2021-07-25 実施

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目次

01.「伏見稲荷大社探訪」の目次と概要

14.奥社奉拝所からお滝巡りに至る裏道

奥社奉拝所/おもかる石/後醍醐天皇歌碑裏道白瀧大神

命婦谷に鎮座する奥社奉拝所稲荷山を巡拝する「お山巡り」後醍醐天皇を導いた「みつのともし火」後醍醐天皇歌碑の建立稲荷山で生まれたお塚信仰

奥社奉拝所からお滝巡りに至る裏道

奥社奉拝所

千本鳥居から奥社奉拝所
2014年4月25日。千本鳥居を抜けると奥社奉拝所。鳥居のトンネルの先に奥社が見える瞬間が好き。

早朝の奥社奉拝所 白狐を象った絵馬
0630、奥社奉拝所。奥の院とも呼ばれます。「いなこん」では奥社が何度も登場。夕方や夜間の影の描写が特に良かったですね。ここまでは本殿から簡単にアクセスできます。

命婦谷に鎮座する奥社奉拝所

奥社奉拝所は稲荷山(233.8m)と七面山(108m)の谷に位置する遥拝所・供物所。稲荷大神の眷属の白狐が暮らしたことに因み命婦谷と呼ばれています。白狐社・奥宮(p.12を参照)とともに命婦社としての性格を持っており、中世に成立した命婦狐の伝説が生きていると感じます。

室町時代、明応8年(1499年)の『明応遷宮記録』に「当社奥院トテ命婦形マシマス也」と記され、江戸時代後期の寛政6年(1794年)には焼失するも再建。元治元年(1864年)の『花洛名勝図会』に命婦社として描かれています。昭和50年(1975年)になって社殿前に拝所が増設。白狐を象った絵馬が奉納されています。

奥社奉拝所 昼間の奥社奉拝所
奥社奉拝所の手水舎
奥社奉拝所の社務所
2018年5月20日、2014年4月7日、7月12日。奥社の左手前には手水舎。うか様が座ってゲームをしていた石垣があります。右手には社務所と茶屋。階段を下ると24時間使えるトイレがあり、後述する裏道に繋がります。いなりちゃんが、ここから境内に入ってきたこともありました。

奥社奉拝所から千本鳥居の入口 奥社奉拝所から稲荷山の入口
奥社奉拝所から稲荷山の入口 奥社奉拝所から稲荷山の入口
振り返ると千本鳥居。拝所の左手に進むと稲荷山の四ツ辻方面へ。3~4枚目は2018年5月20日です。

京都一周トレイル東山コース2-1番の標識 伏見稲荷大社境内案内図
京都一周トレイル東山コース、E-2-1。稲荷山の三ヶ峰をカバーする案内図があります。伏見稲荷駅前のE-1は「いなこん」の作中でそのまま再現されていたのが、こちらは「京都一周トレイル 京都市」→「東部一周トレイル」に改変。舞台探訪では細部に着目します。

稲荷山を巡拝する「お山巡り」

伏見稲荷大社探訪 V|稲荷山の七神蹟を巡拝するお山巡り
山麓から熊鷹社、三ツ辻を経て四ツ辻に向かい、三ヶ峰を含む七神蹟を巡拝することを「お山巡り」といいます。境内案内図によると、一ノ峰まで登ると約4km、約2時間の行程。稲荷山全体をじっくり探訪するなら丸一日かかりますので、撮影や混雑、休憩の時間を考慮して無理せず登ってください。体力的にお山巡りできない方は、奥社で遥拝するといいでしょう。

お山巡りは意外と険しく、ちょっとしたハイキングに相当。歩き慣れていない観光客は夏場など相当きついらしいので、動きやすい服、滑りにくい靴、それから水分補給が必要です。信仰に基づいて巡拝するための参道であることも忘れないでください。稲荷山はテーマパークでもなければトレランコースでもありません。(お山巡りはp.19から詳しく紹介

奥社奉拝所の手水鉢 奥社奉拝所の手水鉢
2020年9月19日。古そうな手水鉢。残念ながら奉納年は分かりませんでした。

「いなり、こんこん、恋いろは。」のポスター 昼間の奥社奉拝所
2014年4月7日。「いなこん」のポスターが境内の至るところに掲示されており、スタンプラリーの企画もありました。ポスター内の場所 は奥社から稲荷山の入口と分かるでしょう。鳥居の扁額が「稲荷大神」→「伊奈里大神」に変わっている以外、ほぼ同じですね。

白狐を象った絵馬 「いなり、こんこん、恋いろは。」の絵馬
奥社左奥には白狐の絵馬コーナー。うか様やいなりちゃんのイラストが沢山ありました。天照大御神を描くのは流石にヤバい気がするのですが、「いなこん」では普通に天照大御神をパロっているし、伏見稲荷は伊勢神宮を中心とする神社本庁に属してないからセーフです。(所属しないだけで伊勢神宮とは友好関係にあります)

奥社後背の遙拝所 遥拝所に奉納された沢山のミニ鳥居 遥拝所に奉納された沢山のミニ鳥居
2014年4月25日と2020年9月19日。奥社の背後にも遥拝所があります。磐座の下にミニ鳥居が奉納。後述するお塚の一種であり、稲荷山で生まれた独特の風習です。

奥社後背の遙拝所
拝所右側の電燈はトシ様が縛り付けられてたやつ。朝からあんな光景は見たくないですね……

おもかる石

おもかる石 おもかる石
奥社右奥に佇む「おもかる石」。千本鳥居と並んで有名なスポットです。

願い事をしてから石燈籠の空輪を持ち上げ、予想より軽ければ願い事が叶い、重ければ叶わないとか。稲荷大神の依代ですから、ふざけて粗末に扱わないようお願いします。「いなこん」原作では、うか様を探しているいなりちゃんと燈日くんが、おもむろにおもかる石を持ち上げる場面がありました。

後醍醐天皇歌碑

後醍醐天皇の歌碑 後醍醐天皇の歌碑
後醍醐天皇の歌碑
2019年4月20日。おもかる石の右には後醍醐天皇の歌碑。稲荷社にとって重要な伝説が記されています。左の案内板を頼りに内容を見てみましょう。

後醍醐天皇を導いた「みつのともし火」

鎌倉時代の正応元年(1288年)に生まれた尊治親王(後醍醐天皇)。文保2年(1318年)、花園天皇に譲位される形で第96代天皇に即位しました。天皇親政を行う中で武家政権である鎌倉幕府の打倒を目指すようになったらしく、元弘元年(1331年)には息子の護良親王や武将の楠木正成たち支持者とともに挙兵。反乱は一時的に失敗し、天皇は逮捕・廃位されて隠岐国(島根県の隠岐島)に流されてしまいます。

倒幕を諦めなかった後醍醐天皇は隠岐島を脱出。幕府側の武将であった足利高氏を味方につけて勢力を結集し、元弘3年(1333年)に北条氏の鎌倉幕府を滅ぼすことに成功します。京の都に戻った後醍醐天皇は天皇親政の建武の新政を始めますが、あらゆる滅茶苦茶ぶりから足利尊氏の離反を招き、僅か2年半で失脚。花山院に幽閉されるのでした。

『吉野拾遺』によると延元元年(1336年)、天皇は花山院を脱出して遠く離れた大和国(奈良県)の吉野へ赴きました。日が暮れて一行は闇路に迷い、天皇が「ここはどこか」と尋ねると、刑部大輔の大江景繁が「稲荷の御社の前」と答えました。天皇は以下の歌を詠んで伏し拝みます。

むば玉の くらきやみじにまよふ也 吾にかさなんみつのともし火

すると社の上から赤い雲が現れて臨幸の道を照らし、一行が大和国の内山に至ると金の御岳(金峯山)で消えたそうな。無事に京を出た後醍醐天皇は山深い吉野の地で南朝を立ち上げて北朝・室町幕府と対立。それから57年間、天皇が二人も存在する南北朝時代が始まり…(略)この話は長くなるから、明治時代に南朝が正統とされた。ということで終わりましょう。

『吉野拾遺』は室町時代の成立と考えられており、歴史書ではなく様々な伝説を集めた説話集になります。とはいえ後醍醐天皇が密教に傾倒していたのは事実ですし、権力を掌握できるという荼枳尼天の修法まで行っていたとか。「みつのともし火」は稲荷の狐の尻尾にある三鈷の如意宝珠と解釈。当時流行していた神仏習合の稲荷信仰の影響を受けているはずです。

後醍醐天皇に「稲荷の御社の前」と告げた大江景繁は稲荷神社において偉人に位置付けられ、大正13年(1924年)から大江景繁祭が斎行。現在では表参道脇の霊魂社(p.5を参照)に合祀されています。本人も稲荷社の祭神になるとは思わなかったでしょう。

花矢倉展望台から吉野山の眺望
2017年12月の「吉野山探訪」では、後醍醐天皇が南朝を立ち上げた吉野の史跡を巡りました。金峯山寺や後醍醐天皇陵も詳しく紹介しておりますので、興味のある方はどうぞ。

後醍醐天皇歌碑の建立

後醍醐天皇歌碑の奉納は明治25年(1892年)のこと。崇敬者の土井柾三氏が歴史に埋もれた伝説を思い起こして歌碑の建立に至りました。柾三氏は明治28年(1895年)に稲荷神社参拝のための稲荷新道(p.28を参照)まで整備された偉人です。碑文は風化して判読が難しくなり、平成19年(2007年)に柾三氏後裔の土井哲雄氏により案内板が奉納されています。

歌碑の左下には稲荷神社宮司の近藤芳介氏、禰宜の羽倉芳豊氏、主典の桑田孝恒氏の名前も。羽倉芳豊氏はおそらく竹(羽倉)良豊氏のこと。かつて後水尾上皇から社家の西羽倉家に下賜された茶席書院を松本家に移築、修理した人物です。明治の混乱の中で稲荷社の歴史を守った人々を忘れてはなりません。(御茶屋の来歴はp.9を参照

昭和の写真を見ると、後醍醐天皇の歌碑は奥社左手の目立つ位置に鎮座しました。いつの間にか参拝者が気付きにくい右奥に追いやられ、せっかく案内板を新設したのに歌碑の内容を読もうとする人は殆ど見かけません。歌碑を奉納した柾三氏の遺志を尊重し、もっと歴史を大切にしていただきたいです。

裏道

奥社奉拝所の裏道
奥社の南には裏道があります。この柵も、うか様が座ってゲームをしてたところ。いなりちゃんは裏道から入ってきて、うか様を見つけました。

奥社奉拝所の裏道へ
2019年4月20日。社務所と茶屋の間から裏道に下ります。

奥社奉拝所の裏道 奥社奉拝所の裏道
奥社奉拝所の裏道 裏道のお塚
2019年4月20日。階段を下ると左手に命婦瀧への案内碑。うか様が座っていた柵の下にお塚があります。そういえば、まだお塚の紹介をしていませんでした。

白瀧大神

白瀧大神のお塚 白瀧大神のお塚
白瀧大神のお塚
2019年4月20日。裏道の南、鬱蒼とした竹林の中に佇む白瀧大神。豪華な楼門や拝殿がある伏見稲荷とは別世界です。無数の石碑、いわゆる「お塚」が並んでおり、一つ一つに信仰がこめられています。

白瀧大神のお塚 白瀧大神のお塚
2019年4月20日。白瀧大神の風景。民間信仰の世界です。

稲荷山で生まれたお塚信仰

伏見稲荷大社探訪 V|明治期に生まれたお塚信仰と熊鷹社
明治時代に神仏習合の稲荷信仰が否定され、稲荷山の大部分が官有地として没収されると、個々の崇敬者が稲荷神社に無断で鳥居を奉納するようになりました。同じ時期、神仏分離で心の拠り所を失った崇敬者が、オリジナルの神名を記した石碑を無断で持ち込んで独自の拝所を設ける「お塚」の信仰も生まれます。

神社側で稲荷山を管理できなくなった間に拝所は増え続け、鳥居とお塚が密集する独特の風景が完成。すっかり定着して稲荷山の象徴になりました。稲荷山が伏見稲荷大社に返還された現在では無秩序な建立は禁止され、社務所か茶屋を通じて奉納することになっています。(お塚の成立経緯はp.17で詳しく紹介

竹林の裏道 竹林の裏道
竹林の裏道 裏道のお塚
2019年4月20日。竹林の裏道を東に抜けていきます。別に怖いところではありませんので。

竹林の裏道 竹林の裏道
2019年4月20日。奥社からこちら側に下るのはお塚の崇敬者のみ。いなりちゃんが一人で通るには心細いかもしれない。

裏道 裏道
2019年4月20日。裏道を抜けると農地に合流します。地形的には稲荷山西麓と七面山北麓の谷になり、西に戻ると「いなこん」OPの通学路や東丸神社脇の裏口(p.9を参照)に繋がります。

お塚が並ぶ裏道 お塚が並ぶ裏道
お塚 滝行の場
2019年4月20日。生活道のような道を東に進みます。様々なお塚や滝行の場がある隠れた信仰の聖地。興味本地で入っていかないほうがいいと思います。

学校の裏手
2019年4月20日。学校の裏手に辿り着きました。以前は燈日くんが通うR高校だったのが2014年に移転。2016年、跡地に新しい工業高校が開校しました。伏見稲荷の周辺は少しずつ変化しています。

命婦瀧の手前 命婦瀧の手前
2019年4月20日。命婦瀧の手前までやってきました。

命婦瀧の手前
2019年4月20日。この先、お滝巡りをしながら稲荷山の一ノ峰に繋がります。

稲荷山に佇む民間信仰の神社とお塚
では、奥社奉拝所に戻って参道を進みましょう。

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