2022-02-05 改訂
2009-05-29~2021-07-25 実施
2014年4月25日。奥宮の前を通り、いよいよ鳥居ゾーン。稲荷山を徹底的に探訪します。
2020年9月19日。令和2年3月に建てられた最新の鳥居。花王の創立130周年記念に奉納されました。稲荷山の鳥居は今でも増え続けています。その経緯はこれから紹介しますので、実際に参道を歩いている感覚で読み進めてください。
2020年9月19日。新しい鳥居が増える一方で、昔からある常夜燈の存在も忘れてはなりません。
2020年9月19日。参道脇に佇む記念碑。一つずつ銘文を確認します。
2020年10月11日。昭和15年(1940年)の「紀元二千六百年記念樹」の碑。「京都市實業青年團」により奉納されました。元の場所から移設されたのか、記念樹は見当たりません。
2020年10月11日。明治35年(1902年)の「寄附 敷石々段」の記念碑。「京都(大)共成組」によって奥宮南脇から上供物所・十二洞前まで石畳が敷設されました。稲荷神社の記録に「境内より命婦谷に至る敷石布設工事竣工」とあります。十二洞は裏参道の一角に鎮座する産場稲荷のことです。(p.25を参照)
2020年9月19日。平成9年(1997年)の「参道改修奉納」の記念碑。福岡市の崇敬者の松井スミ氏によって奉納され、やはり伏見稲荷の工事記録に残ります。昔も今も庶民の寄進で成り立つ稲荷社。その証となる常夜燈や記念碑を撮影しておきたい。
2020年9月19日。大正8年(1919年)己未歳8月の石鳥居。「祈祷所 羽倉伯耆守」(荷田氏系の社家)と刻まれた常夜燈。安政3年(1856年)丙辰歳の11月に「東村」から寄進された玉垣…あらゆる場所に稲荷社の歴史が散らばっています。
2018年5月20日。朱塗りの鳥居が並ぶ参道へ。朝日が反射して美しいです。
早朝の静かな参道。扁額に「稲荷大神」の神号が輝き、神様の存在を意識します。
2014年7月12日。宵宮祭・本宮祭の準備中。沢山の献納提灯が設置され、参道が真っ赤に照らされます。本宮祭の模様は2014年7月20日の「伏見稲荷大社探訪 VI」をご覧ください。「いなこん」の舞台探訪としても一度は訪れたいお祭りです。
稲荷山に鳥居を奉納する風習は江戸時代に生まれました。江戸時代末期、元治元年(1864年)刊行の『花洛名勝図会』では、上ノ殿(奥宮)~命婦社(奥社奉拝所)に並ぶ鳥居が確認できます。当時、鳥居ゾーンは麓の一部の参道にしか存在しなかったのです。
明治時代に神仏習合の稲荷信仰が否定され、稲荷山の大部分が官有地として没収されると、個々の崇敬者が稲荷神社に無断で鳥居を奉納するようになりました。石鳥居や朱塗りの鳥居は増え続け、大正14年(1925年)に吉田初三郎が描いた『伏見稲荷全境内名所図絵』では、既に稲荷山全域の参道が鳥居で埋め尽くされています。
鳥居の増殖と同じ時期、オリジナルの神名を記した石碑を無断で奉納するお塚の信仰も発生。神社側で稲荷山を管理できなくなった間に、その風景は著しく変容しました。稲荷山が伏見稲荷大社に返還された現在では無秩序な建立は禁止され、社務所か茶屋を通じて奉納することになっています。財力と信仰心がある方はどうぞ。
ちなみに、稲荷山に奉納された鳥居は約1万基あるらしい。古代の秦氏が見たら驚愕するか感心するか分かりませんけど、稲荷社が誇る1300年以上の歴史の中では最新ともいえる風習です。今ではすっかり定着して稲荷山の象徴になりました。(明治以降の稲荷山の変容はp.17で詳しく紹介)
2019年8月5日。左手には大正時代に整備された神苑斎場。奉射祭や火焚祭など神事の場として使用されます。普段は入れないからここまで。
2019年8月5日。神苑斎場の南縁部。ここが古墳時代(4世紀末)の命婦谷遺跡です。
昭和55年(1980年)の調査により、神苑斎場の南縁部から丹後型円筒埴輪が出土。付近の古墳にあった埴輪を棺に転用したらしく、深草を統治した有力な豪族の埋葬地と推測されます。秦氏が山背国に入る以前の文明を示す貴重な遺跡。深草と丹後地方の豪族が交流していた証拠でもあります。
古代の伏見・深草には紀氏や土師氏の勢力が存在。埴輪を利用して有力者を埋葬した光景が想像できます。悲しいことに古墳時代に興味ある人は少なくて、案内板も設置してもらえません。山上にも何らかの遺跡があり、鏡や石棺らしきものが発見されています。(p.18を参照)
2018年5月20日。明治に始まった鳥居の奉納は止むことなく、新しく朱色に塗ったばかりの鳥居をよく見かけます。朱塗りではない石鳥居も所々に残っており、その多くは明治から大正時代にかけて奉納されたものです。
2020年10月11日。ひときわ目立つ大正9年(1920年)奉納の石鳥居。撤去か補修か、工事が始まっています。できれば後世のために保存してほしい。
千本鳥居までやってきました。伏見稲荷で最も有名と思われる鳥居のトンネル。二手に分かれた参道は両方とも奥社奉拝所に至ります。順路は決まっておらず、左右どちらを通っても構いません。(2014年の時点では)
千本鳥居が設けられた時期は不明。元治元年(1864年)の『花洛名勝図会』を見ると二手に分かれた鳥居が描かれており、江戸時代末期には千本鳥居が存在したと断言できます。明治27年(1894年)刊行の『都名詞画譜』には風流な感じで、明治28年(1895年)の『京都伏見官幣大社稲荷神社之全図』には精密に千本鳥居が描かれ、鳥居が急増してから稲荷神社の名所になっていたと分かります。
明治36年(1903年)の『日本之勝観』には千本鳥居の白黒写真が掲載。まだ鳥居のサイズが統一されずバラバラな感じが面白いです。近代の稲荷神社の様相を知るには、文献だけでなく絵画や写真も参考になります。
2018年5月20日。有名になりすぎて観光客だらけ。9割は外国人です。
2013年頃は早朝にひっそり訪れていた千本鳥居。今では6時でも観光客を見かけます。昼間は大混雑し、記念撮影のために行列ができるほ ど。参道は混雑緩和のため右側通行と指定され、外国語の表示も現れました。「いなこん」の探訪をやっていた頃の静かな千本鳥居は、二度と体験できないでしょう。
2018年5月20日。千本鳥居の入口を守る神使の狐達。ネガでもリバーサルでも印象的に写ります。
左の狐が咥える巻物は稲荷の秘宝、右の狐が咥える玉は稲荷大神が秘める神徳の象徴です。楼門前の狐(p.7を参照)が咥える鍵は稲荷大神の宝蔵を開く秘鍵。内拝殿前(p.8を参照)では稲荷信仰を象徴する黄金の稲穂を咥えていました。稲荷大神にお仕えする白狐は無限に存在しますから、どの狐もデザインが異なります。既存の狐像を参考に製作する場合があるようで、意匠がよく似た狐も見かけます。
2020年9月19日。千本鳥居前の狐像の基壇は大正2年(1913年)に奉納。狐像は新しく見えます。
2020年10月11日。千本鳥居前の石鳥居。明治41年(1908年)と大正12年(1923年)の奉納です。
千本鳥居の中へ。他の参道より鳥居が低くて密度が高いため、鳥居のトンネルを通るような独特の雰囲気。人気があるのも頷けます。
2014年7月12日。電燈には伏見稲荷の神紋である抱き稲。いつ頃から使われているのかは不明です。
2018年5月20日。朝日が差し込む朱色のトンネル。リバーサルフィルムで鮮やかさとコントラストを強調しました。鳥居の裏側には奉納した個人や企業の名が刻まれており、全国規模で崇敬されていることが分かります。