東方巡遊記

伏見稲荷大社探訪 V

2022-02-05 改訂
2009-05-29~2021-07-25 実施

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目次

01.「伏見稲荷大社探訪」の目次と概要

12.奥宮と白狐社で命婦狐の原像を考察

奥宮/白狐社

命婦社と記された奥宮稲荷社に加わった命婦社命婦になった小ススキと阿小町奥命婦と記された白狐社野干坂の伊賀専・稲荷山の阿小町

奥宮と白狐社で命婦狐の原像を考察

奥宮
2018年5月20日。神馬舎から石段を登って奥宮へ。この石段は江戸時代後期の弘化3年(1846年)に整備されました。奥宮の右手が鳥居ゾーンの入口です。

厳重に保護された神使の狐 厳重に保護された神使の狐
2020年10月11日。石段の両側を守る神使の狐達。破損を防ぐためか金網付きの覆屋で厳重に保護されています。ちょっと窮屈そう。

奥宮

奥宮の由緒 稲荷大神を祀る奥宮
三間社流造の奥宮
2019年2月24日。稲荷大神をお祀りする奥宮。三間社流造で、摂末社ではない別格の社とされます。左隣の白狐社と混同されることが多く、中世の稲荷信仰の成り立ちを考える上で特に興味深い社です。

命婦社と記された奥宮

白川業資王の『業資王記』によると、平安時代末期の仁安2年(1167年)に「命婦社」の記録あり。室町時代、長禄3年(1459年)の『稲荷社指図』には「命婦 文殊」。応仁の乱から復興した明応8年(1499年)の『明応遷宮記録』には「上ニハ命婦御前社」。安土桃山時代の天正17年(1589年)、秦継長が描いた『社頭図』には「上ノ御殿」とあり、時代によって名称が異なります。

『明応遷宮記録』の時点では八間の廻廊が存在。天正16年(1588年)に豊臣秀吉の祈願(p.7を参照)により社殿が修理された際、廻廊が再建されたとありますが、残念ながら現存しておりません。古くは命婦社だったのが江戸時代後期の天明年間(1781~1789年)に「上御殿」の名称に統一。明治12年(1879年)からは「奥宮」と称されています。この時点でややこしいです。

平成の調査によると、天正16年に修理された社殿は明応8年の本殿再建の頃まで遡れる可能性があり、もしかすると古代の稲荷社本殿跡かもしれない、という大胆な推測も。荷田氏が命婦の伝説と関わり深いことから、山麓の荷田氏の稲荷社だったと想像してみるのも面白いです。完全に憶測ですが。(荷田氏の稲荷信仰はp.9を参照

稲荷社に加わった命婦社

伏見稲荷大社探訪 V|荘厳な楼門を彩る朱色と白狐の由来
奥宮の古い社名であった「命婦」とは、本来は律令制で五位以上の女官を指します。稲荷社では平安時代末期に東寺の密教の影響を受けて神仏習合が始まり、鎌倉時代には祭神が荼枳尼天と習合し、狐の要素が加わった稲荷信仰が確立。何らかの経緯で神様にお仕えする白狐を命婦と称するようになりました。(この辺りの経緯はp.7で紹介しました)

やがて稲荷の上中下社にも命婦がお祀りされるようになり、下社は阿古町、中社は黒烏、上社は小薄と称しました。後に本殿とは別の社殿が造営され、命婦社あるいは白狐社という形式になったとか。長禄3年の『稲荷社指図』には山麓の「命婦 文殊」のほか、山上の中社に「クロフ 弥勒」、上社に「小ススキ 普賢」が見え、室町時代には命婦狐の社があったと分かります。

室町時代の享禄・天文年間(1528~1555年)に秦長種が描いた『稲荷山旧跡図』を見ると、稲荷山中に人呼塚または命婦塚が存在。大西親盛が江戸時代中期の享保17年(1732年)に編纂した『稲荷谷響記』には命婦社と荷田社(p.11を参照)の元の鎮座地だったと記され、荷田氏と命婦狐の深い繋がりを示します。両社が山麓に遷座した後も、命婦塚が荷田氏の旧蹟という伝承は残りました。(p.22を参照

東羽倉家の荷田春満が江戸時代前期の元禄7年(1694年)に編纂した『稲荷社由緒注進状』によると、上之御殿(現在の奥宮)は白狐社とも称し、真狐神をお祀りします。左の奥命婦(現在の白狐社)の祭神は阿古町と尾薄であり、荷田氏の認識では二社とも命婦狐をお祀りする社でした。あまりにもややこしいので、奥宮の各時代の名称と祭神を整理して表にまとめます。


名称
祭神
出典
筆者
備考
仁安2年(1167) 命婦社
業資王記 白川業資王 狐と習合する前
長禄3年(1459) 命婦
稲荷社指図
本地仏は文殊
明応8年(1499) 命婦御前社
明応遷宮記録 荷田氏
応仁の乱の後
天正17年(1589) 上ノ御殿
社頭図 秦継長
元禄7年(1694) 上之御殿
真狐神 稲荷社由緒注進状 荷田春満 別名は白狐社
天明(1781~1789) 上御殿
伏見稲荷の由緒記

上御殿に名称統一
明治以降 奥宮 稲荷大神 伏見稲荷の由緒記

命婦になった小ススキと阿小町

では、どうして稲荷の神様の眷属が「命婦」なのでしょうか。まずは中世に成立した命婦の伝説を見てみましょう。鎌倉時代末期、正慶元年(1322年)の『稲荷記』によると、平安時代中期の後一条天皇御代(1016~1036年)にかけて、進命婦と稲荷大明神命婦という二人の命婦がおりました。ここでいう命婦は狐ではなく人間の女性。本来の意味での女官です。

内容は稲荷大明神命婦が藤原頼通と結ばれるというもの。進命婦が稲荷の眷属の狐「阿古町」のおかげで出世し、「命婦」の称号を譲ったという由来も語られます。モデルは藤原祇子でしょう。稲荷大明神には男女を結び付ける愛法神・性愛神の性格もあり、平安時代から盛んに信仰されました。『稲荷記』はその神徳を示すエピソードといえます。

東寺に伝わる『稲荷大明神流記』によると、洛北の船岡山に異相の狐の老夫婦が暮らしていました。平安時代初期の弘仁年間(810~824年)に稲荷詣に訪れ、稲荷の眷属になりたいと請願して認められたとあります。雄狐は「小ススキ」として上社に、雌狐は「阿小町」として下社に仕えました。……と記されているだけで、肝心の命婦の由来は省略されています。

秦氏系の社家が江戸時代中期の寛延3年(1750年)以前に編纂した『神号伝併後附十五箇條口授伝之和解』では、延久3年(1071年)に後三条天皇が稲荷社に行幸した際、老狐に命婦の官位と封戸を授けたと伝えます(実際の行幸は延久4年です)。雌雄の狐を描いた衝立を島命婦・走命婦と称したともありますが、ここでも命婦の由来は抜け落ちています。

白狐社

命婦専女神を祀る白狐社 白狐社
2019年2月24日。奥宮の左隣、命婦専女神をお祀りする末社の白狐社。稲荷大神の眷属を祭神とする唯一の社です。奥宮と同じく、近世以前の位置付けはよく分かっていません。

奥命婦と記された白狐社

天正17年の『社頭図』には「奥命婦」と記載。大師堂(現在の玉山稲荷社)の辺りに鎮座していたことが確認できます。元禄の大修理で現在地に遷座されるも、右隣の命婦社と大変混同されやすく、天明年間になり当社は「白狐社」に。命婦社は「上御殿」の名称に定まりました。かなり分かりにくいので、白狐社の各時代の名称と祭神を整理して表にまとめました。

荷田春満の『稲荷社由緒注進状』によると、奥命婦(現在の白狐社)の祭神は阿古町と尾薄であり、進命婦という女官に由来すると記されます。具体的な命婦狐の由緒は荷田氏が得意としており、上述の『稲荷記』と『稲荷大明神流記』は東寺と関係の深い荷田氏の伝承と思われます。『稲荷社由緒注進状』の白狐社・奥命婦の由緒も明確です。では秦氏の認識はどうでしょうか。

秦氏の『神号伝』では白狐社について「雌雄の狐霊を祀る命婦社を誤ってそう呼んでいる」。大西親業が江戸時代後期の寛政8年(1796年)に編纂した『便蒙秘記』では「荷田氏の白狐社を命婦社と誤称している」と説明されており、命婦社の位置付けを把握できていません。但し大西親業の『稲荷社事実考証記』では白狐社の祭神を専女三狐神として、両狐の窟の上に社を造営したとも記されます。


名称
祭神
出典
筆者
備考
天正17年(1589) 奥命婦
社頭図 秦継長 大師堂付近に鎮座
元禄7年(1694) 奥命婦 阿古町と尾薄 稲荷社由緒注進状 荷田春満 進命婦に由来
天明(1781~1789) 白狐社
伏見稲荷の由緒記
白狐社に名称統一
寛政8年(1796) 白狐社 専女三狐神 稲荷社事実考証記 大西親業 狐の窟の上に造営
現代
白狐社 命婦専女神 伏見稲荷の由緒記

上述したように本来の「命婦」は女官。「専女」は老女を意味しました。現在の祭神である命婦専女神は「神様にお仕えする老女」を意味しており、『稲荷大明神流記』に登場する老狐の阿小町にちなむと思われます。その原像は稲荷社で祭祀を行った巫女でしょうか。以下で考察します。

野干坂の伊賀専・稲荷山の阿小町

ここまで紹介してきた命婦狐の伝説は、神仏習合の稲荷信仰が確立した中世に生まれたもの。平安時代に「阿古町に命婦の称号を譲った」とか「小ススキと阿小町が稲荷の眷属になった」という話は、稲荷社において白狐を命婦と称するようになってから創作された設定と見ていいでしょう。

それより遡って平安中期に書かれた藤原宗忠の『中右記』を読むと、天仁2年(1109年)に稲荷社に参詣した際、下御社(おそらく当時の本殿)、若宮の次に「阿古万千」を通ったとあります。阿古万千とは阿古町でしょう。上述した白川業資王の『業資王記』でも、平安末期の仁安2年(1167年)に「命婦社」の記録あり。平安時代に「阿古万千」や「命婦社」が存在したのは疑いようのない事実です。

最も興味深いのは平安時代に藤原明衡が記した『新猿楽記』です。これには「野干坂伊賀専之男祭叩蚫苦本舞 稲荷山阿小町之愛法[鼻兀]鰹破前喜」という露骨に性的な記述があり、「野干坂の伊賀専が男祭に凹を叩いて舞う。稲荷山の阿小町が愛法に凸を振って喜ぶ」と解釈されます。ぼかして書いたけど凹凸とは男女のアレのことです。うか様が凸なんか見たら恥ずかしがりそう。

野干坂は京都北山、深泥池と宝ヶ池の間の狐坂のこと。野干は本来ジャッカルを指したのが日本では狐の意味に転じました。野干坂の男祭に関する平安時代の日記は存在せず、野干坂の由来や狐の役割は不明としか言いようがありません。伊賀専と称する老いた巫女が狐に関わる愛法神の祭祀を行った、という解釈は決して的外れなものではないと思います。もしかしたら狐をお祀りしたかもしれません。

稲荷山の阿小町は愛法神たる稲荷大明神の祭祀を行った巫女と考えるのが妥当です。巫女の阿小町自身が神格化され、稲荷の神様に仕えるという意味で「命婦」の称号を授かって「阿古万千」や「命婦社」が造営。更には何らかの事情で狐と同一視されて「命婦狐」に。荼枳尼天との習合を経て稲荷の眷属たる白狐が誕生したのではないでしょうか。阿古町の原像はなんとなく想像できても、小ススキや狐との関係性は謎のままです。

鎌倉時代の成立とされる『荷田講式』では、阿古町を「神狐の即身」と称賛しています。室町時代の『二十二社註式』によると本殿下社の祭神は大宮女命。阿小町のように神様に仕える巫女が神格化されて祭神になったとする説があり、荷田氏の伝承では大宮女命を命婦神と称します。大宮女命が祭神になった経緯と、阿小町の伝説が生まれた経緯は密接に関係していると思われます。

荷田氏が命婦神・命婦狐を信仰するようになった経緯は分かりません。稲荷信仰と狐の習合は東寺の密教の影響が大きいことから、秦氏よりも東寺に近い立場だった荷田氏が積極的に狐の要素を取り入れたと考えるのは真っ当な説でしょう。色々な資料を読んで考察した上での推測ですよ。

白狐社 白狐社前の常夜燈
白狐社の狐穴 白狐社の狐穴
2020年9月19日と10月11日。白狐社の側面下部に穴が設けられています。これは白狐が出入りするための狐穴。祭神の命婦専女神が鍵を持っているのでしょうね。

稲荷山を象徴する朱塗りの千本鳥居
次ページ、千本鳥居のある参道に入ります。

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