東方巡遊記

伏見稲荷大社探訪 V

2022-08-07 改訂
2009-05-29~2022-07-30 実施

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目次

01.「伏見稲荷大社探訪」の目次と概要

10.稲荷社の一大勢力だった愛染寺跡

愛染寺跡表門跡愛染堂跡講務本庁/弁天社跡社務所/竹屋跡神幸道/裏門跡愛染寺の常夜燈愛川家の常夜燈愛染寺上人の墓地

稲荷社で活動した勧進聖たち本願所から発展した愛染寺神仏分離による愛染寺の破却

稲荷社の一大勢力だった愛染寺跡

愛染寺跡

伏見稲荷境内の神具店 伏見稲荷境内の神具店
2019年8月4日と2022年7月30日。境内の北側に神具店が並びます。ここは近世の稲荷社の発展に大きな役割を果たした愛染寺の跡地。もはや跡形すら残りませんが、明治以前の稲荷社には愛染寺と称する有力な寺院がありました。その歴史を詳しく紹介します。

稲荷社で活動した勧進聖たち

平安時代末期、東寺の密教の影響を受けて神仏習合が始まった稲荷社。鎌倉時代には祭神が荼枳尼天と習合し、狐の要素が加わった稲荷信仰が確立しました。室町時代の長禄3年(1459年)に描かれた『稲荷社指図』によると、五座の神様に本地仏が設定され、中世らしい神仏混淆の社であったと分かります。(神仏習合の経緯はp.5p.7。祭神と本地仏はp.8を参照

長禄3年の『稲荷社指図』では本殿の北東に「神宮寺 如意輪」「弘法大師号福光院」などの寺院が見えます。応仁元年(1467年)に稲荷山に参籠した金春禅竹の『稲荷山参籠記』には、山中の神仏習合の社堂、竜頭太の社まで記されており、中世の稲荷山を窺い知ることができる貴重な史料です。愛染寺の建立以前から、稲荷社には仏教寺院が立ち並んでいました。(金春禅竹についてはp.8を参照

室町時代に応仁の乱(p.5を参照)が勃発。禅竹が参籠した翌年の応仁2年(1468年)には稲荷社が戦場になり、山麓の社殿は焼失。数々の社堂があった稲荷山も荒廃します。稲荷社の壊滅から6年後の文明6年(1474年)、稲荷社の勧進聖の福阿弥が東寺を訪れた記録が『東寺執行日記』に残っており、早くも稲荷社の復興に向けて勧進聖の活動が始まっていたようです。

勧進聖とは諸国を巡って寺社・仏像・橋などの造営資金を集めた僧侶。橋の勧進を行うことから「橋聖」、修験道の十穀断の苦行を実践することから「十穀(十石)聖」とも呼ばれました。神仏習合だった稲荷社では応仁の乱の以前より十穀聖の活動があり、長禄2年(1458年)には伊勢神宮の内宮大橋の勧進まで行っています。(橋聖に因む十石橋はp.26で紹介

明応8年(1499年)、稲荷山西麓に五社相殿の本殿が再建。明応の正遷宮(p.8を参照)を主導したのは荷田氏系の社家ですが、社殿の造営にかかる莫大な費用を調達したのは円阿弥を本願とする勧進聖でした。永正16~17年(1519~1520年)頃に勧進聖の本願所が設置されたらしく、安土桃山時代の文禄3年(1594年)になって正式な本願所が発足します。

本願所から発展した愛染寺

愛染寺の寺号が初めて現れる史料は江戸時代初期、寛永10年(1633年)の『稲荷社本願所預り証文』。3代目住職の天阿上人により本願所が愛染寺に改称されたと伝わります。秦氏系社家の毛利公慶の日記によると、承応4年(1655年)の春、本願所に護摩堂が建てられつつあり、5月には上醍醐寺の水本大僧正が本願所に赴いて愛染明王像の開眼供養が執り行われたとも記されます。

愛染寺はその名の通り愛染明王に由来すると推測されます。承応4年の日記に登場する愛染明王像は護摩堂に安置されたはずで、その護摩堂が愛染堂と改称されて寺号になったと考えるのが自然です。しかし寛永10年の『稲荷社本願所預り証文』に現れる愛染寺を見逃すわけにはいきません。稲荷社の護摩堂に愛染明王像が安置される以前から、何らかの形で愛染明王の信仰があったと考えられます。

稲荷社に設けられた愛染寺の僧侶は、諸国を巡って庶民に稲荷信仰を広め、江戸時代には全国規模で正一位稲荷大明神がお祀りされるようになりました。勧進聖の精力的な活動が稲荷の知名度を上げたと言っていいでしょう。但し、勧進聖は神仏習合・本地垂迹の世界観に基づき、荼枳尼天・弁財天・歓喜天を混淆した稲荷信仰を広めました。「愛染寺が稲荷社の勧請を行うのは許されない」と社家が奉行所に訴えたこともあり、稲荷社の祠官を務める社家は、新興の愛染寺を快く思っていませんでした。

小出淡路守守里が企画した元禄7~15年(1694~1702年)の大修理(p.7を参照)の頃、愛染寺は稲荷社の一大勢力になっていました。守里の娘が愛染寺を熱心に崇敬していた事情もあり、修造費用は幕府が負担。楼門の移設や本殿の修理など大部分の建物に手が加えられました。このとき、愛染寺預の周雄が稲荷社の本殿内陣に入って五座の神像をスケッチする事件を起こし、社家を憤慨させています。表向きは神仏習合の稲荷社ですが、神道側の社家の不満は明治時代までくすぶり続けます。

愛染寺は江戸幕府と深い関係にありました。江戸時代末期の文久3年(1863年)、第14代将軍の徳川家茂が230年ぶりに上洛した際には愛染寺で休憩しており、その後も家茂と慶喜に度々利用されています。全盛期の愛染寺の敷地面積は746坪。少し古いですが天明8年(1788年)の『愛染寺指図』が残っており、徳川将軍の休憩所に相応しい屋敷だったようです。一方で、社家の東大西家は長州藩の勤皇志士である木戸孝允(桂小五郎)を匿ったことがあります。愛染寺と社家は、政治的にも対極に位置しました。

神仏分離による愛染寺の破却

明治元年(1868年)に神仏判然令が出されると、全国規模で廃仏毀釈の嵐が吹き荒れました。稲荷社では仏教勢力に反発していた社家が直ちに愛染寺を閉門。愛染寺をはじめとする諸堂や仏像・神像が撤去され、それまで社家の葬儀を司った西光寺、神人や農家の葬儀を司った浄安寺も廃絶に追い込まれます。明治4年(1871年)には近代社格制度の導入で官幣大社の「稲荷神社」になり、仏教色を抹消した新しい稲荷神社として、境内や参道の近代化が進められます。(廃仏毀釈についてはp.5を参照

境内から撤去された仏像・神像は愛染寺に集められ、一部の「偶像」は焼却処分されたという悍ましい記録が残ります。それでも愛染寺に関する全ての痕跡が失われたわけではなく、「愛染寺」と刻まれた江戸時代の石燈籠(常夜燈)は境内各所に現存。愛染寺上人の墓地も残されました。本ページでは愛染寺の跡地や常夜燈をピックアップして掲載。かつて稲荷社に愛染寺が存在した事実を広く知っていただきたいと思い、写真を撮って記事を書いています。

表門跡

愛染寺跡の神具店 愛染寺跡の神具店
2022年5月28日。観光客で賑わう神具店。実質的には観光客向けの土産物店です。江戸時代後期、天保4年(1833年)の『稲荷社本願所愛染寺建物絵図并絵様書』と元治元年(1864年)の『花洛名勝図会』を照らし合わせると、ここに愛染寺の土壁が築かれていました。

伏見稲荷の愛染寺跡 伏見稲荷の愛染寺跡
2022年7月30日。現在の丸十陶庵と鈴屋神具店の間が、愛染寺の表門に相当します。230年ぶりに上洛した徳川家茂は、この稲荷社の境内から愛染寺の屋敷に入りました。

愛染堂跡

伏見稲荷の愛染堂跡 伏見稲荷の愛染堂跡
2022年7月30日。愛染明王をお祀りした愛染堂は、現在の友田神具店とトイレの場所にありました。愛染堂は稲荷社側を向く形で建てられており、2枚目の写真の位置から参拝できました。

愛染堂跡の神具店 愛染堂跡の神具店
2022年5月28日。愛染堂跡。154年前まで仏教のお堂があったなんて誰も知らないでしょう。近世の稲荷社において重要な役割を担った寺院ですから、せめて跡地を示す案内板ぐらいは設置してほしいです。本記事にどれだけ詳しく愛染寺の歴史を書いたところで、零細サイト故に全くアクセスされず、読まれもしないのが実情です。この情報が保存され、後世の人々に知られるといいのですが……

講務本庁/弁天社跡

弁天社跡の講務本庁 弁天社跡の講務本庁
2022年5月28日と7月30日。神具店から東に進むと講務本庁。ここは弁天社跡です。神仏習合の弁天信仰は市杵嶋姫を祭神として存続した例もありますが、稲荷社では廃絶の憂き目に遭いました。向かい側に鎮座した大黒社も同様に失われ、跡地に授与所が建っています。

社務所/竹屋跡

講務本庁と社務所 講務本庁と社務所
講務本庁と社務所 講務本庁と社務所
2022年7月30日と5月28日。講務本庁の右奥は社務所。「竹屋」と称する茶屋があった場所です。明治時代の神仏分離と近代化により、境内北側の風景は大きく変化しました。

神幸道/裏門跡

愛染寺脇の神幸道 神幸道の愛染寺跡
2018年10月14日と2022年7月30日。稲荷社の北側参道の神幸道。この左手にも愛染寺の土壁が築かれ、裏門が設けられていました。やはり面影は残りません。(神幸道についてはp.6を参照

愛染寺の常夜燈

神幸道に並ぶ常夜燈
2020年9月19日。神幸道脇(p.6を参照)に並ぶ常夜燈。伏見稲荷を訪れて最初に見つかる愛染寺の痕跡です。

「奉寄進永代常夜燈石燈籠二基」と刻まれた常夜燈 「奉寄進永代常夜燈石燈籠二基」と刻まれた常夜燈
「宿坊 愛染寺」と刻まれた常夜燈 「宿坊 愛染寺」と刻まれた常夜燈
2020年10月11日。「奉寄進永代常夜燈石燈籠二基」。奉納年月日は江戸時代中期の正徳4年(1714年)甲午歳の9月吉日。奉納者は「□□岩右衛門 □□善吉」。左下に「宿坊 愛染寺」と刻まれています。社家と愛染寺は常夜燈の奉納を取り次ぐ立場。実際に奉納したのは稲荷大明神を崇敬する庶民でした。庶民からすれば、稲荷社でも愛染寺でもご利益は変わらなかったでしょう。

「稲荷社御寶前」と刻まれた常夜燈 「稲荷社御寶前」と刻まれた常夜燈
2020年10月11日。同じく神幸道脇の常夜燈。「稲荷社御寶前」の下の文字が潰れて判読不能。「愛染寺」の痕跡を消すため、意図的に削られた可能性があります。

「宿坊 愛染寺」と刻まれた常夜燈
2020年10月11日。奥社奉拝所から三叉路に至る参道脇(p.16を参照)に佇む常夜燈。

「奉挑稲荷社常夜灯」と刻まれた常夜燈 江戸時代前期の貞享3年に奉納された常夜燈
「宿坊 愛染寺」と刻まれた常夜燈 「京建仁寺丁 油良大蔵」と刻まれた常夜燈
2020年10月11日。「奉挑稲荷社常夜灯」。奉納年月日は江戸時代前期、貞享3年(1686年)丙寅歳の5月吉日。奉納者は「京建仁寺丁 油良大蔵」。奉納の取り次ぎは「宿坊 愛染寺」です。この常夜燈は愛染寺が発展しつつあった元禄の大修理以前の奉納。私が確認した愛染寺の常夜燈の中では最古です。

伏見稲荷大社境内案内図
2020年10月11日。三叉路(p.16を参照)の境内案内図の裏側に立つ常夜燈。

境内案内図の裏側の常夜燈 享保13年に奉納された常夜燈
「宿坊 愛染寺」「再興 中村屋久兵衛」と刻まれた常夜燈 「願主 神先宗左衛門」と刻まれた常夜燈
2020年10月11日。奉納年月日は江戸時代中期、享保13年(1728年)戊申年の正月吉日。「伏水 西 福田 津金」「願主 神先宗左衛門」「宿坊 愛染寺」「再興 中村屋久兵衛」と刻まれています。愛染寺の常夜燈を見つけて後世に伝える、という使命感を持って探索しています。

十石橋手前の石燈籠(常夜燈)
2020年9月19日。十石橋の手前。最も有名な常夜燈です。(p.27も参照

「稲荷山御神前」「宿坊 愛染寺」と刻まれた常夜燈 「稲荷山御神前」「奉寄進永代常夜燈」と刻まれた常夜燈
「京衣棚 服部清兵衛 京銭座」と刻まれた常夜燈 「京衣棚 服部清兵衛 京銭座」と刻まれた常夜燈
2020年10月11日。「稲荷山御神前」「奉寄進永代常夜燈」「宿坊 愛染寺」「京衣棚 服部清兵衛 京銭座」。奉納年月日は江戸中期、元禄14年(1701年)辛巳歳の10月吉日です。衣棚の服部清兵衛なる人物は不詳。銭貨を鋳造した京銭座の関係者なのでしょうか。

愛染寺の痕跡として最も有名な常夜燈
2020年9月19日。同じ常夜燈。「愛染寺」とはっきり刻まれています。愛染寺が稲荷社の一大勢力だったことを示す貴重な文化財です。

「江州草津 奉献永代常夜燈 池尾其兵衛」と刻まれた常夜燈 「江州草津 奉献永代常夜燈 池尾其兵衛」と刻まれた常夜燈
「宿坊 愛染寺」と刻まれた常夜燈 安永2年(1773年)癸巳年の8月に奉納された常夜燈
2020年10月11日。「江州草津 奉献永代常夜燈 池尾其兵衛」「宿坊 愛染寺」。奉納年月は江戸後期、安永2年(1773年)癸巳年の8月です。愛染寺が取り次いだ常夜燈は意外なほど残っています。

稲荷社参道の常夜燈 「車丁 大居卯之助」と刻まれた常夜燈
「愛染寺」と刻まれた常夜燈 「弥生」と刻まれた常夜燈
2020年10月11日。「車丁 大居卯之助」「愛染寺」「弥生」。奉納年は江戸前期の慶安3年(1650年)。ここに並ぶ常夜燈は稲荷社の歴史そのもの。今の伏見稲荷に存在しない愛染寺の遺跡です。

愛川家の常夜燈

権殿左手に立つ鳥居
2022年5月28日。権殿左手に立つ鳥居(p.11を参照)。ここにも興味深い常夜燈が残ります。

「大阪 神徳講」と刻まれた常夜燈 「執次 愛川家」「願主 黒田竜伯」と刻まれた常夜燈
「中之講」と刻まれた基壇
2020年10月11日。「大阪神徳講」「願主 黒田竜伯」「執次 愛川家」「中之講」。奉納年月日は江戸時代後期、安永3年(1774年)甲午歳の9月吉日です。愛川家は愛染寺から還俗した者が名乗った姓。この常夜燈は、愛染寺の全盛期に愛川家が稲荷社の運営に携わっていたことを示します。

愛染寺上人の墓地

58 「前愛染寺上人天阿不生位」と刻まれた墓碑
2022年6月4日。稲荷山南西麓の墓地、在の山(p.9を参照)の一角に愛染寺上人の墓碑が並びます。

「前愛染寺上人天阿 不生位」と刻まれた墓碑
天阿上人の墓碑 天阿上人の墓碑
2022年7月30日。「前愛染寺上人天阿 不生位」と刻まれた墓碑。上述したように、天阿上人は稲荷社本願所を愛染寺に改称したと伝わる人物です。この墓碑によると、天阿上人は延宝2年(1674年)の2月15日に入寂されました。

愛川家の墓石
2022年7月30日。愛川家の墓石。愛染寺から還俗した僧侶は愛川家を称しました。明治の神仏分離の際、強制的に還俗させられた者が多かったはずです。このページでは、私が知る限りの愛染寺の史跡を紹介しました。他にも見つけたら教えてください。

稲荷社の歴史が詰まった境内の末社
次ページ、秦氏と荷田氏ゆかりの境内末社を紹介します。

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