東方巡遊記

墨染寺探訪

2022-05-07 公開
2014-04-07~2022-04-05 実施

西行寺幽々子の元ネタ巡り。墨染の桜で知られる山城国深草の寺院を訪れました。墨染という地名の由来を、美しい桜の写真とともに紹介します。

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目次

墨染駅墨染橋/琵琶湖疏水墨染寺墨染駅

「墨染寺探訪」の概要探訪活動に用いるカメラ「いなこん」と墨染駅京都を流れる琵琶湖疏水上野峯雄が詠んだ墨染の桜桜寺として再興された墨染寺西行法師と墨染桜の伝説西行寺幽々子と墨染の桜

墨染の桜で知られる山城国深草の寺院を探訪

京阪墨染駅

京阪本線の墨染駅
2022年4月5日。1432、京阪本線の墨染駅にて下車。短い探訪の始まりです。

「墨染寺探訪」の概要

本記事は2003年頒布の「東方妖々夢」の元ネタ巡りを主題に作成。妖々夢に登場する西行寺幽々子のテーマ曲『幽雅に咲かせ、墨染の桜 ~ Border of Life』と、桜符「完全なる墨染の桜」の元ネタを求めて、墨染桜で知られる山城国深草の墨染寺を桜の季節に訪れました。東方に関連した寺院・史跡探訪だけでなく、満開の桜の写真もお楽しみいただける内容になっています。ぜひ東方原曲を聞きながらご覧ください。

探訪活動に用いるカメラ

探訪のメインカメラはアウトドア用のコンデジ。RICOH WG-6です。印象的な写真を撮るためにフィルム式の一眼レフカメラも活用。マニュアルのASAHI PENTAX SP、オートフォーカスのMINOLTA α-7700iを使っています。フィルムはKodak ColorPlus 200(ネガ)とFUJIFILM Velvia 100(リバーサル)。桜の美しさを強調するためのフィルム選定です。

墨染地図
墨染駅周辺の地図。墨染橋で琵琶湖疏水を渡ると墨染寺。距離は僅か200mです。

国土地理院の「地理院地図(新版)」にポイントを追記しています。

京阪墨染駅のホーム 京阪墨染駅の表札
京阪墨染駅の改札口 京阪墨染駅の改札口
三条・出町柳方面のホームと改札口。PiTaPaとICOCAに対応します。

京阪墨染駅の駅舎 京阪墨染駅の表札
大和街道に面した墨染駅の駅舎。ここは京都府京都市伏見区の墨染町。歴史的な行政区分は山城国紀伊郡深草郷です。「墨染(すみぞめ)」という印象的な地名は、平安時代に上野峯雄が藤原基経の死を悼んで詠んだ桜の歌に由来します。地名になり、寺号になり、東方にも登場した墨染の桜。その概要は墨染寺にて紹介します。

墨染駅の踏切 墨染駅の墨染さん
2014年4月7日。淀屋橋・中之島方面のホームに墨染朱美さんのパネルが設置されていました。

「いなこん」と墨染駅

2014年1~3月、伏見稲荷大社が舞台のアニメ「いなり、こんこん、恋いろは。」(略称は「いなこん」)が放送されました。登場人物の名前が京阪電車の駅名に由来することから、タイアップ企画として伏見稲荷駅や墨染駅にパネルが展示されていた時期があります。「いなこん」の登場人物の中では抜群の人気を誇る墨染さん。メタ的な話をすると、その名字も上野峯雄の歌に由来すると言えます。

伏見稲荷大社探訪 V 1/28|秦氏が創建した伊奈利社を徹底探究
伏見稲荷大社探訪 V」では、「いなこん」の舞台探訪を主題として伏見稲荷のあらゆる要素を探訪しました。東方要素も少しだけありますので、興味のある方はご覧ください。

京阪墨染駅の駅舎 京阪墨染駅の駅舎
踏切を渡ると淀屋橋・中之島方面の駅舎です。

京阪3000系の快速急行 京阪3000系の快速急行
3000系の快速急行が通過。墨染駅には通勤準急・準急・普通しか停まりません。

京都と奈良を結ぶ大和街道
京都と奈良を結ぶ大和街道。墨染駅西方の墨染寺に向かいます。

墨染橋/琵琶湖疏水

琵琶湖疏水に架かる墨染橋 琵琶湖疏水に架かる墨染橋
琵琶湖疏水に架かる墨染橋。昭和39年(1964年)の竣工です。

琵琶湖疏水に架かる墨染橋 琵琶湖疏水に架かる墨染橋
墨染橋の西詰。「墨染橋」「疏水」とあります。

墨染橋から琵琶湖疏水上流の様子
琵琶湖疏水に浮かぶ桜の花びら 墨染橋の落描き
墨染橋から琵琶湖疏水上流の様子。桜の花びらが流れてきました。滋賀県から引き込んだ琵琶湖の水は京阪本線沿いに流れ、最終的に宇治川に注ぎます。

京都を流れる琵琶湖疏水

明治2年(1869年)に東京遷都が決行され、衰退しつつあった京の都。窮状を危惧した第3代京都府知事の北垣国道氏は、滋賀県の琵琶湖から京都に水を引き入れる大規模な水路の整備を計画します。新進気鋭の技術者、田邉朔郎氏を設計責任者に迎えて、途方も無い難工事を経て明治23年(1890年)に琵琶湖疏水の第1疏水が開通。京都が近代都市に生まれ変わる基礎になりました。「蹴上探訪」では琵琶湖疏水の史跡を紹介しています。

蹴上探訪|インクラインを中心に琵琶湖疏水の史跡を探訪

墨染橋から琵琶湖疏水下流の様子
琵琶湖疏水に架かる墨染橋 墨染橋から琵琶湖疏水下流の様子
疏水下流の様子。すぐ南に関西電力の墨染発電所と伏見インクライン跡があります。本記事は墨染寺の探訪に特化。疏水関連の史跡は割愛させていただきます。

大和街道に面した墨染寺
疏水を渡ると墨染寺の看板が見えました。

墨染寺

墨染寺の山門 墨染寺の山門
1枚目は2014年4月7日。墨染寺は市街地の中にひっそり佇んでいます。

墨染寺の寺号標 墨染寺の寺号標
日蓮宗の墨染寺。山号は深草山です。この寺号標は平成2年(1990年)に建立されました。上野峯雄の歌をはじめ、地名や駅名の墨染は全て「すみぞめ」ですが、墨染寺は「ぼくせんじ」と読みます。私はこの記事を書くまで「ぼくぜんじ」と思い込んでいました。

「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目塔
題目塔に刻まれた「墨染櫻寺」 題目塔に刻まれた「實相院法入日中」
「南無妙法蓮華経」と刻まれた日蓮宗特有の題目塔。側面には「墨染櫻寺」「實相院法入日中」。桜寺は墨染寺の愛称。實相院は左京区岩倉の実相院と関係あるのでしょうか?

墨染寺の山門
墨染寺の夜桜ライトアップのポスター 墨染寺の山門
墨染寺の山門。札には「開運厄除 毘沙門天王 安産子育 鬼子母大善神」とあります。夜桜ライトアップとイベントのポスターが掲示されていました。

山門の向こうに広がる桜の世界 山門の向こうに広がる桜の世界
山門をくぐって境内へ。門の向こうに、満開の桜の世界が広がっています。

墨染寺境内の桜
墨染寺境内の桜 墨染寺境内の桜
2枚目は2014年4月7日。墨染寺は隠れた桜の名所。桜の季節でも観光客は少なく、とても静かです。

リバーサルフィルムで撮った墨染寺の桜
リバーサルフィルムで撮った墨染寺の桜 リバーサルフィルムで撮った墨染寺の桜
広角レンズとリバーサルフィルムの組み合わせ。Velvia 100で意図的にコントラスト強めの写真を撮っています。あくまでイメージ写真として鑑賞してください。

墨染寺境内の桜 墨染寺境内の桜
参道を覆う満開の桜。桜の種類には詳しくないのですが、とにかく美しいです。

鬼子母大善神をお祀りする鬼子母神堂 鬼子母大善神をお祀りする鬼子母神堂
参道の左手。鬼子母大善神をお祀りする鬼子母神堂だと思います。

参道を覆う満開の桜
参道に舞い降りる桜の花びら
参道に舞い降りる桜の花びら。妖々夢5面道中のようです。ここで流れるBGMは『東方妖々夢 ~ Ancient Temple』。私の場合、5面の妖夢で全機やられてコンティニューします。

墨染寺境内の桜 3
2014年4月7日。満開の桜の先に本堂があります。

リバーサルフィルムで撮った墨染寺の桜 リバーサルフィルムで撮った墨染寺の桜
リバーサルフィルムで撮った墨染寺の桜
本堂前の2本の桜が特に幽雅です。コンデジで撮ると地味すぎるので、桜の美しさを強調するためにフィルムカメラを使っています。実際の風景より桜色が濃くなるのが特徴です。

墨染寺境内の桜 墨染寺境内の桜
ColorPlus 200で撮った墨染寺の桜 ColorPlus 200で撮った墨染寺の桜
同じく本堂前の桜。3~4枚目はColorPlus 200とスカイライトフィルターの組み合わせ。温かく柔らかい印象の写真を得られます。このフィルム選定は大成功でした。

「墨染井」と刻まれた手水石 「墨染井」と刻まれた手水石
参道の傍らに「墨染井」と刻まれた手水石がありました。願主は歌舞伎役者の二代目中村歌右衛門。江戸時代後期の明和5年(1768年)に奉納されたそうです。

墨染寺の桜と日蓮像 墨染寺の桜と本堂
墨染寺の桜と本堂 墨染寺の桜と本堂
1~2枚目は2014年4月7日。満開の桜と本堂。ここでBGMを『幽雅に咲かせ、墨染の桜 ~ Border of Life』に切り替えましょう。2003年に頒布された妖々夢は記事執筆時点で19年前(!)の作品ですが、そのストーリーや演出の素晴らしさは全く色褪せておらず、今でも探訪活動の原動力になっています。

辻説法を行う日蓮の銅像 辻説法を行う日蓮の銅像
「立正安国」の銘板 袈裟を着た狸の置物
本堂前には、辻説法を行う日蓮上人の威厳あふれる銅像が鎮座します。台座には日蓮が唱えた「立正安国」の銘板。堂々とした日蓮像と、のんびりした狸の置物の組み合わせが面白いです。

辻説法を行う日蓮の銅像 辻説法を行う日蓮の銅像
日蓮像に刻まれた「功」の字 墨染寺の日蓮像の銘板
平成11年(1999年)、日蓮宗の立教開宗750年の慶讃記念に建立された日蓮像。足元には彫刻家の名と思われる「功」の字が刻まれていました。日蓮の立教開宗は鎌倉時代の建長5年(1253年)ですから、2003年の750周年に先駆けて建立されたのでしょう。

墨染寺の案内板
本堂前に設置された墨染寺の案内板。ちょっと物足りない内容です。

墨染寺の壽碑 墨染寺の壽碑
参道左手の壽碑(寿碑)。昭和16年(1941年)、墨染寺を復興した学妙上人の顕彰碑として建立されたものです。こういった記念碑は難しい漢文で書かれ、風雨に曝されて判読不能になっている場合が多いです。平成16年(2004年)、壽碑の内容を写した案内板が併設され、当寺の由緒が分かりやすく読めるようになりました。ありがとうございます。

墨染寺の造営に関する記念碑
本堂前。墨染寺の造営に関する重要な記念碑があります。左は昭和9年(1934年)の「風水害復興□□□ 金貳仟圓也 目黒学妙」碑。貳仟圓は二千円のことです。右は平成2年(1990年)の本堂屋根総葺替 庫裡厨房修復 第四十一世日達代」の碑。これらの壽碑、案内板、記念碑の内容を踏まえて、墨染寺の由緒を紹介します。

上野峯雄が詠んだ墨染の桜

平安時代前期、清和天皇から宇多天皇の4代にわたって政治の実権を握った藤原北家の藤原基経。その経歴や人物像について紹介すると長くなるので割愛しますが、初めて関白(天皇を補佐する官職)に就いた有能な公卿として知られます。宇多天皇の即位に際して一悶着あり、菅原道真に諌められた事件から4年後の寛平3年(891年)、基経は56歳でこの世を去りました。薨去後、昭宣の諡号が送られ、上記の壽碑では「堀川左大臣藤原基経昭宣公」、案内板では「藤原昭宣公」と称されます。

宇多天皇の次代、醍醐天皇御代に成立した『古今和歌集』には、堀川太政大臣(基経のこと)が深草に埋葬された際、その死を嘆き悲しんだ上野岑雄(峯雄とも)が詠んだ歌が収録されています。

深草の 野辺の桜し心あらば 今年ばかりは墨染に咲け

「深草の桜も喪に服して墨染色に咲いてほしい」という意味の歌。伝説では、深草の桜が上野岑雄の哀歌のように薄墨色に咲き、当地を「墨染」と称するようになったといいます。

桜寺として再興された墨染寺

案内板によると、墨染寺は清和天皇御代の貞観16年(874年)に建立された貞観寺の旧蹟です。貞観寺とは、仁寿1年(851年)に藤原良房(基経の叔父)と真雅が惟仁親王(後の清和天皇)の御願寺として建立した寺院のこと。当時は広大な寺院だったのが、時代の流れとともに衰退。安土桃山時代の天正年間(1573~1592年)、大僧都日秀上人が豊臣秀吉から当地を寄付され、日蓮宗寺院の「墨染桜寺」として再興されたようです。「墨染」の寺号は、もちろん上野峯雄が詠んだ墨染の桜に由来します。

再興された墨染桜寺は立派な堂宇を誇ったそうですが、寺運が振るわず、数百年にわたり荒廃してしまいます。その後、宇治の直行寺、梅津の本福寺に住した第37世の学妙上人が当寺の惨状を嘆いて復興に尽力。上人の功績を後世に伝えるため、昭和16年(1941年)に上記の壽碑が建立されました。昭和9年(1934年)の記念碑に刻まれた「目黒学妙」は学妙上人のこと。墨染寺が再興されたのはつい最近の話であり、私達が美しい墨染の桜を楽しめるのは学妙上人の功績に他なりません。

西行法師と墨染桜の伝説

願わくは 花の下にて春死なむ その如月の望月のころ

平安時代末期から鎌倉時代初期という激動の時代を生きた歌聖、西行法師(1118~1190年)の有名な作品です。武士の家系に生まれた西行は23歳の若さで突如出家し、高野山などの山々に庵居しながら諸国を旅し、感傷的で風流な歌を詠みました。桜と月を愛し、願い通り桜の季節に入寂した西行。その生き様は多くの人々を魅了し、後世には『西行物語』を始めとする様々な伝説が創作されました。

文治2年(1186年)、69歳になった西行は、平重衡の焼き討ちに遭った東大寺の砂金勧請のため、藤原秀衡の本拠地であった陸奥国(岩手県)の平泉へ。道中、鎌倉の鶴岡宮では武将の源頼朝と対談して先祖代々の武術を披露し、秀衡から送られる砂金の安全を確保するなど、ただの歌僧に留まらない大物ぶりを発揮しています。ここまでは『吾妻鏡』に記された史実です。

千葉県東金市に残る伝説によると、西行は深草の墨染桜の枝を杖として、山部赤人と小野小町を偲びつつ東国に赴きました。その道中で貴船大明神を安置した西行は、傍らに杖を挿して以下の歌を詠み、立ち去りました。西行が残した杖は芽を吹き、墨染桜となって現在に至ります。

深草の 野辺の桜木心あらば 亦この里にすみぞめに咲け

残念ながら、この歌は西行の歌集には見えません。「墨染」の歌はいくつかありますが、その意味は墨染の衣(僧衣)であり、出家した自分自身を指しています。墨染桜の歌は、上野峯雄の歌を用いて後世に創作された西行伝説の一種でしょう。しかしながら、西行の没後に生まれた伝説や歌には、なんとなく「西行らしさ」が含まれていて、実際の出来事のように思えるのだから不思議なものです。

ちなみに、西行は藤原房前を祖とする藤原北家の武将、藤原秀郷の子孫です。元を辿ると西行と基経は遠い親戚であり、後述する「妖々夢」の西行寺幽々子も基経と血縁関係にあると言えます。更に付け加えると、「永夜抄」に登場する藤原妹紅は藤原不比等の娘であり、房前の異母兄弟に相当します。墨染桜の伝説に登場する基経と西行、東方の幽々子と妹紅は、全員が藤原氏なのでした。

西行寺幽々子と墨染の桜

「東方妖々夢」のバックストーリーによると、その昔、幻想郷に自然を愛する歌聖が暮らしていました。旅を終えた歌聖は死期を悟ると、願い通り見事な桜の下で永眠。以来、その桜はますます見事に咲き誇り、多くの人を死に誘う妖力を持つに至りました。いわく付きの妖怪桜は「西行妖」と呼ばれ、西行寺家に伝わります。この歌聖は、上述した西行法師をモチーフにした人物。作中では西行の歌や桜が効果的に用いられており、BGMや弾幕が秀逸です。

桜の下で永眠した歌聖には娘がいました。西行寺幽々子です。彼女には元々死霊を操る程度の能力が備わっていたのが、西行妖の影響か、いつしか死に誘う程度の能力を持ってしまいます。人を死に追いやってしまう能力を嘆いた幽々子は、生きる苦しみを断つため、西行妖の満開の桜の下で自害。自らの亡骸をもって西行妖の桜を封印し、その魂は白玉楼で安らかに暮らすこととなります。

歌聖が亡くなってから千年余り後。自身の封印で亡霊となった幽々子は、生前のことなどすっかり忘れて死に誘う能力を満喫していました。ある日、古い書物を読んで何者かの亡骸が西行妖の下に封印されていることを知った幽々子は、興味本位で桜を満開にして死者を復活させようと企みます。しかし幽々子が白玉楼に留まっているのは封印のおかげです。西行妖の満開が亡霊である幽々子の消滅に繋がるとも知らずに、魂魄妖夢を使って幻想郷中の春を集めるのでした。

ほとけには 桜の花を たてまつれ 我が後の世を 人とぶらはば

「妖々夢」の6面導入部に用いられた西行の歌。「自分が死んだら桜を供えてほしい」という意味です。道中曲の『アルティメットトゥルース』とは、幽々子が自害して西行妖を封印したという「究極の真実」なのでした。幽々子のテーマ曲の『幽雅に咲かせ、墨染の桜 ~ Border of Life』と、スペルカードの桜符「完全なる墨染の桜」は、深草の墨染桜のように、歌聖と幽々子の死を悼んで咲く西行妖を表しているといえます。春を集めて「完全なる墨染の桜」が実現するとき、歌聖の娘は千年の時を越えて復活し、亡霊の幽々子は消滅します。

身のうさを 思ひしらでや やみなまし そむくならひの なき世なりせば

「完全なる墨染の桜」を破った後に現れる西行の歌。「出家しなければ自身の辛さに気付かなかっただろう」という意味ですが、ここでは幽々子が死に誘う程度の能力を嘆き、自害する前に詠んだ辞世の句のように思えます。BGMが『ボーダーオブライフ』に変わり、西行妖をバックに幽々子のシルエットから耐久弾幕「反魂蝶」が繰り出されるという、東方史上最高の演出。私は反魂蝶について、「西行妖の力を得た幽々子の亡骸」の能力と解釈しています。

弘川寺探訪」では、西行法師が入寂した河内国の弘川寺を舞台に、西行の生涯と幽々子のバックストーリーを紹介しています。本記事に比べると著しく不完全な内容であり、大幅な加筆を予定していますが、探訪レポとしては辛うじて通用するレベルだと思います。墨染寺と併せてご覧ください。

墨染寺の本堂 墨染寺の本堂
本堂にて参拝。本尊は日蓮宗特有の十界大曼荼羅です。扁額には「桜寺」「鬼子母神」とあります。

墨染寺の桜と本堂 手水鉢に浮かぶ桜の花びら
墨染寺の墨染桜 墨染寺の墨染桜
肝心の墨染桜は本堂の右手にあります。2枚目の手水鉢の写真がお気に入りです。

三代目の墨染桜
三代目の墨染桜 三代目の墨染桜
案内板は見当たりませんが、これが三代目の墨染桜のようです。藤原基経の死を悼んで薄墨色に咲いたという墨染桜。その伝説は1131年後の現在まで語り継がれています。

墨染寺の若い桜 墨染寺の若い桜
まだ若い桜もありました。すいません。桜の品種は分からないです。

四代目の墨染桜 四代目の墨染桜
境内の奥には四代目の墨染桜。この桜が大木になる頃には、私はもう存在しないのでしょう。

「南無妙法蓮華経 法界」と刻まれた題目塔 「南無妙法蓮華経 法界」と刻まれた題目塔
満開の桜を存分に楽しめたので、後は境内の石碑を観察します。本堂の右手前には「南無妙法蓮華経 法界」と刻まれた2基の題目塔。大きいほうは江戸時代後期、享和3年(1803年)癸亥の仲秋、小さいほうは天保8年(1837年)丁酉の仲夏に建立されました。

文政9年の石碑 文政9年の石碑
「度」だけ読み取れる石碑。文政9年(1826年)丙戌の建立です。荒廃した時期があったとは言え、江戸時代を通じて墨染寺は維持され続けました。

嘉永6年の石碑 嘉永6年の石碑
達筆すぎて読めない石碑。江戸末期、嘉永6年(1853年)癸丑の4月に奉納されました。

「南無妙法蓮華経」の題目塔
本堂の左手前。「南無妙法蓮華経」の題目塔です。

「妙見宮」と刻まれた手水石
「妙見宮」と刻まれた手水石。鎮守社として妙見宮がお祀りされていた名残でしょうか。

「華道桑原専慶流 家元補佐 西村慶珠翁之塔」 「華道桑原専慶流 家元補佐 西村慶珠翁之塔」
この石碑は「華道桑原専慶流 家元補佐 西村慶珠翁之塔」。昭和5年(1930年)の七四忌建立とあります。石碑の裏には西村家のお墓がありました。華道で有名な一族のようです。

墨染寺の山門
では、山門をくぐって境内を出ます。

大和街道 墨染橋
琵琶湖疏水を渡って墨染駅へ。ちなみに今日は平日でした。

京阪墨染駅

京阪本線の墨染駅
1518、京阪本線の墨染駅に戻りました。

京阪墨染駅のホーム 京阪墨染駅の時刻表
淀屋橋・中之島方面のホーム。上述したように、墨染駅には通勤準急・準急・普通しか停まりません。

京阪墨染駅のホーム 京阪7000系の準急
1535の準急淀屋橋行き(7000系)に乗車。丹波橋で特急に乗り換えて帰ります。お疲れ様でした。

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