東方巡遊記

大峯奥駈道トレッキング

目次

01
プロローグ
02
吉野駅~金峯山寺~吉水神社~吉野水分神社~金峯神社~愛染の宿~青根ヶ峰~四寸岩山~足摺宿~二蔵宿~女人結界門~洞辻茶屋
03
洞辻茶屋~大峯山寺/山上ヶ岳~小笹の宿~女人結界門~大普賢岳~行者還岳~行者還小屋~一ノ垰~聖宝ノ宿~弥山~弥山神社
04
弥山~八経ヶ岳~舟ノ垰~楊子の宿~仏生ヶ岳~孔雀岳~馬の背~釈迦ヶ岳~深仙宿
05
深仙宿~太古ノ辻~天狗山~地蔵岳~涅槃岳~持経宿~平治宿~転法輪岳~行仙岳~行仙宿
06
行仙宿~笠捨山~地蔵岳/垂直降下~香精山~玉置山展望台~玉置神社~玉置山展望台
07
玉置山展望台玉置山玉置神社大森山金剛多和七越峰熊野川大斎原熊野本宮大社熊野本宮館
08
***
09
エピローグ

2019年5月2日(木) 6日目

旅路の果て。

「東方巡遊記」にアクセスしていただき、誠にありがとうございます。当サイトの情報は一旅人の感想に過ぎません。記載内容を過信して発生したトラブルには一切の責任を負いかねますので、必ず注意事項に目を通した上で記事をお読みください。写真・文章等のコンテンツは形態を問わず転載を禁じます。

玉置山展望台

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0400起床。とうとう最終日。現在地は大和国吉野郡/奈良県吉野郡十津川村。玉置山の北、標高1088mにある玉置山展望台。大峯奥駈道の第十靡玉置山」の近くです。

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朝食を済ませて濡れたテントを撤収。気温は10℃。雨は上がり、風が強いです。

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深仙組の構成員も準備完了。F氏は那智山まで伸ばすため先行で出発。私達は令和の初日の出を見てから出動します。結局、コンデジのレンズの曇りは消えませんでした。

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蛇崩山(1172m)と西岳(1123.4m)の間から日が昇りました。奈良県吉野郡十津川村と和歌山県東牟婁郡北山村の境界です。

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令和元年5月2日の日の出。雨雲が消え、太陽が熊野への道を照らします。やはり私の旅は神様に守られていると思います。

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早朝から熊野を目指す力を得られました。熊野権現に導かれて本宮大社を目指します。

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0520、5名のパーティーで出発。舗装された林道で世界遺産の記念碑へ。昨日歩いた玉置神社への道と重複します。

6日目の目的地は熊野本宮大社。最終日は下り道…というわけではなく、昨日と同じように小さいピークが続きます。地形図によると南端の七越峰までアップダウン。実は、最終行程が一番長くて辛い道のりなのです。

七越峰を下ると熊野川の東岸へ。水量が少なければ歩いて西岸に渡ります。一昨日より雨が続いて増水が予想されるものの、できれば最後の熊野川は徒歩で渡りたいです。その場面をずっと楽しみにしていました。

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0529、記念碑奥の展望台。十津川の森の案内板がありました。

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「世界遺産 大峯奥駈道」で記念撮影。こんなこともあろうかとミニ三脚を常備しています。旅先での一期一会の出会いを忘れないための写真。深仙組との珍道中は良い思い出になりました。

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0546、出発。餓坂(かつえ坂)を登って玉置山へ。身の毛のよだつ名称ですが由来は不明。

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黙々と登ります。

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電波塔の脇を通ります。

玉置山

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0602、玉置山(1076.8m)。沖見岳や舟見岳とも呼ばれており、空気が澄んでいれば熊野灘が見えるとか。修験道では無漏岳または牟婁岳。大峯八大金剛童子のうち悪除童子の在所とされ、一帯の行場を指して第十靡玉置山」になります。

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山頂には沖見地蔵尊が安置。明治時代の廃仏毀釈で行方不明になるも、後に頭部と胴体が別々に発見されて古態に戻されました。廃仏毀釈では素朴なお地蔵様まで破壊対象になったのです。

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0608、出発。南の中腹に下ります。

玉置神社

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玉置神社の境内に入りました。湿気でレンズが曇ってほぼ使用不能な状態。N氏に提供していただいた写真を多用します。

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早朝の静かな境内。拝殿で本宮へと進む旨を報告します。玉置神社の由緒は昨日(p.6)紹介済み。そちらを参照してください。

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拝殿にて参拝。

今回は大峯奥駈道の踏破に専念し、玉置山を散策する余裕がありませんでした。次はフィルムカメラを携行して訪れるでしょう。そうやって探訪レポを充実させる方向性です。

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0626、境内を出発。尾根沿いの巻道で玉置辻に下ります。

中世の順峯では熊野~玉置山への縦走路を歩きましたが、逆峯が主流になった江戸時代は玉置山以降のルートを省略。南西の切畑集落に下って熊野川沿いに本宮を目指したり、南東の竹筒集落に下って舟で新宮に向かったとか。

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0643、玉置辻(本宮辻)。鳥居をくぐって林道と交差します。後続の奥駈組のおじさんが派手に転倒。疲労が限界を超えているので気を付けます。

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林道を跨いで山道に入ります。まだ今日の山行は始まったばかり。一歩ずつ、1kmずつ、距離を伸ばします。

この先に分岐があり、第九靡の「水呑宿」に通じるらしい。意識が飛びかけて分岐すら気付かなかった。体力はもちろん、最後の気力も失いつつあります。

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大森山まで長~い登り。809m、1008m、1078mのピークの他、小ピークと隠れピークのアップダウンが連続。一向に楽にならない、永遠に苦しい道のりです。

快晴で気温が20℃近くに上がり、とうとうコンデジのレンズが内部結露。2日も雨晒しで使った後に急激な温度変化。カメラにとっては最悪のコンディションです。このまま壊れるかも。

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東西方向の尾根道に合流。ここは大和国吉野郡と紀伊国牟婁郡を分けた尾根。奈良県吉野郡十津川村と和歌山県新宮市の境界です。

南西には東牟婁郡熊野川町(今は新宮市)の篠尾集落。山間を縫うように熊野川が流れているのが確認できます。遠くに見える稜線を熊野古道の中辺路が通っており、中辺路最大の難所、雲取越えと呼ばれます。険しい縦走路を駆ける大峯奥駈道と異なり、熊野古道は修験者でない庶民も歩いた巡礼の道。極力ピークを避けて峠を越えるルートが設定されており、難所とされる雲取越えも大峯奥駈に比べると緩やかです。

但し、深い山々を抜ける険しい道には変わりなく、9年前に那智山から本宮へ歩いた時は大変苦労しました。大峯奥駈道と熊野古道は性格が異なるから比べても無意味。熊野は熊野で、適切な計画と装備を用意して歩いてください。

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まもなく大森山の山頂です。ペースを上げて…はい、無理。O氏に追従するのが精一杯です。

大森山

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0749、大森山(1078m)。きつい登りを終えて少しだけ休憩。謎のテンションで写真を撮ります。

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すぐに出発。0806、南西の大水ノ森(1045.2m)を通過。1000mを超えるピークはこれが最後でした。以降、どんどん高度を下げていきます。

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急斜面の下り。連日のアップダウンで脚をやられ、5人とも斜面で滑って転倒する事態に。

かくいう私も2日目の弥山八丁で左膝が故障。左を庇うように歩いた結果、右膝も潰れました。ゴールが近付く安心感で両脚が脱力しています。それ以外はなんともないけど、脚が動かない。

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0833、標高836mの篠尾辻。熊野川沿いの切畑集落に至る分岐です。この手前が第八靡の「岸の宿」だったとか。

篠尾辻は奈良県吉野郡十津川村、和歌山県田辺市、新宮市の境界になります。平成の大合併により東牟婁郡本宮町が田辺市に統合、熊野川町が新宮市に統合され、大雑把な区分になりました。

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次は五大尊岳へ。標高は下がっても険しい南奥駈道。アップダウンは最後の最後まで続きます。

南西には熊野川と下向橋、そして本宮の町並み。あの山際に熊野本宮大社が鎮座しています。せっかくの風景が結露で台無しに。とても辛いです。

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0900、五大尊岳(825m)。第七靡の「五大尊岳」になります。平成17年(2005年)に山頂の不動明王像が消失。後に新しい尊像が建立されたと記されていました。

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狭い尾根を通って下り道へ。蟻の戸渡りと呼ばれています。

金剛多和

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1008、金剛多和。標高440m。第六靡の「金剛多和」です。大峯八大金剛童子の後世童子の在所とされ、六道の辻とも称される冥界への入口とのこと。役行者像が安置されていました。

多和(垰)とは山上の鞍部を指す言葉。金剛多和は西の上切原、東の篠尾に通じる峠です。行程を思い返せば2日目に第五十七靡の「一の多和」(p.3)、3日目に第四十六靡の「船の多和」(p.4)を通りました。「金剛タワー」じゃないので間違えないように。

ここでも座り込んで休憩。長旅で疲れているのは私だけではなく、経験豊富なメンバーも疲労が滲み出ています。この山行が楽勝だという人は存在しないでしょう。お互いに支え合ってギリギリ気力を保っているのです。

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1021、無意識のうちに出発。金剛多和にストックを忘れたことに気付き、急いで引き返してパーティーに追い付きました。また登りが始まります。

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1039、大黒天神岳(573.9m)。第五靡の「大黒岳」です。次行きましょう。

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切り開かれた台地に出ました。熊野川沿いの大居集落が見えて、人里に下ってきた実感が湧きます。

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送電線をくぐって山在峠に下ります。

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1123、山在峠の手前。この場所も修験道の行場です。気温は21℃。随分暑くなりました。

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峠の直前でN氏がマダニを発見。自然調査の専門家である氏の助言に従い、靴下をトレッキングパンツの裾に被せました。氏はマダニに噛まれた経験があるそうです。

注意を払わないから気付かないだけで、有害なマダニはそこら中に生息しています。暑い季節でも長袖のシャツを着るのが登山家の常識。私には山の知識が圧倒的に不足していると痛感しました。

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万全のマダニ対策を施して出発。1132、舗装された林道に合流しました。ここが現代の山在峠(265m)になります。

林道を跨いで山道に入ると吹越山(325m)へ。熊野三山前の最後の靡、第四靡の「吹越山」です。

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……吹越山を回避して林道を歩きます。マダニに遭遇したばかりで山に入るのを拒否。少しだけでも楽な道を歩いて本宮大社に向かいます。ユーモアを忘れないK氏がピースサインをくれました。

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林道から尾根伝いの山道に入ります。軽いアップダウンをこなして七越峰へ。

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1210、吹越峠(307m)で小休止。玉置山展望台を出発して7時間が経過。熊野川に下るのは13時頃と予想します。

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仕方なく出発。長い…遠い…足が痛い…動かない体を気合で動かします。

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1220、開けた台地に出ました。眼下には熊野川と本宮の町並みが広がります。深い山々を抜け、大きい町を見てホッとしました。

中洲の森は熊野本宮大社の旧社地である大斎原。明治22年(1889年)の十津川大水害で社殿を失うまで、大斎原に十二社から成る熊野坐神社が鎮座していました。古くは陸続きではなく、橋も設けられない舟のような社地。参詣者は川を歩いて参拝したと伝わります。

この水量なら徒歩で渡れそう。本宮のゴールが楽しみです。

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1242、出発。山道を下ります。コンデジの内部結露は悪化する一方。携帯電話のカメラで代用しましょうか。

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1248、七越峰森林公園に下りました。「これはテント泊適地ですね」「トイレもある」みたいな感想しか出てこないのが奥駈組の特徴。寝場所の選定は大峯奥駈の死活問題ですから。

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林道から七越峰へ。これは短い登りです。

七越峰

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1254、七越峰(262m)。西行法師が大峯奥駈道で修行した時、七越峰で月を眺めてロマンチックな歌を詠みました。山頂には延命地蔵尊をお祀りする七越神社があります。

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七越峰から西端の備崎へ。舗装路と並走する巻道です。

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最後の山道に差し掛かりました。長い旅路が終わろうとしています。

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奇声を発しながら登ります。まさに極限の精神状態でした。

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1323、156mのピーク。これが大峯奥駈道最後の山です。

吉野から険しい山々が連なる大峰山脈に入り、大小のピークを越えながら備崎まで辿り着きました。どれほどのピークを攻略したのか見当もつきませんが、一つたりとも楽な登りは存在しなかったと記憶しています。

高くて険しい北奥駈道の山々。低いながらも深く険しい南奥駈道の山々。全部きつくて最後まで楽をさせてくれませんでした。やはり大峯奥駈道は過酷な修行のための道だったのです。

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では、熊野川に下りましょう。

この辺りには大規模な経塚遺跡が存在しており、大峯奥駈道の一要素、備崎経塚群として知られます。カメラが内部結露で終わったので写真はありません。熊野川や大斎原を撮れないのが残念です。無念の一言に尽きます。

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以降はN氏の写真を多用させていただきます。156mのピークを西に下ると熊野川の東岸へ。気が抜けて転ばないよう気を付けながら。

熊野川

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堤防の階段から河原に降り立ちます。O氏は熊野川のために沢用サンダルを携行。私も沢用ではないけどサンダルを用意しました。

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1335、全員が熊野川東岸に下りました。6日間の苦行を経て、遂に熊野川まで到達。まさか吉野から歩き通せるとは思いませんでした。大峯奥駈道を踏破した喜びを皆で分かち合います。

玉置山展望台を出発してから8時間。最終日の長丁場が一番長く感じられました。もう歩かなくていいという安心感が湧き上がり、脱力とは違う興奮状態にあるのが分かります。

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広大な河原と穏やかな流れ。先行したF氏が待っていてくれました。私達以外にも奥駈を終えたグループが佇み、熊野川に辿り着いた達成感で満ち溢れています。

構想段階から孤独で険しい苦行が想像され、仕方なく縦走登山用の装備を揃えて挑んだ大峯奥駈道。登山ビギナーのバックパッカーには厳しすぎる行程であり、吉野駅を発ったとき、踏破できる自信はありませんでした。当初のモチベーションは非常に低かったと思います。

北奥駈道の時点で体力を消耗して限界を迎え、極度に疲れながらも気力を振り絞って歩いた道のり。テント泊装備で6日かけて縦走するのは限りなく辛くて、早く終わってほしいと願いながら歩き続ける有様でした。決して誇張ではなく、熟練者でもきついと感じる山行です。

それでも熊野まで歩き通すことができたのは、吉野や深仙で出会ったベテラン登山家の皆様のおかげ。ペースの維持、ルートの確認など本当に頼りになりました。私だけの単独行なら間違いなく途中でリタイアしていたでしょう。深仙組のR氏、N氏、F氏、O氏、K氏に心より感謝申し上げます。

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熊野川中洲の大斎原。大峯奥駈道の最後の靡です。

かつて熊野本宮大社(熊野坐神社)は大斎原に鎮座しました。中洲にあり、江戸時代まで橋も設けられなかった舟のような社地。奥駈以外の参詣者は西岸から川を歩いて参拝したと伝わります。徒歩で川を渡るのは身を清める効果があり、水垢離と同じ。そうやって熊野権現の聖域に入りました。

私達が目指した「熊野」とは何でしょうか。成務天皇御代(131~190年頃)に熊野国が成立、熊野国造(熊野連)が当地を支配したと伝わりますが、熊野坐神社の起源と同じく実際のところはよく分かりません。肝心の「熊野」という地名の語源すらはっきりしていなくて、奥まった山岳と森林に「籠もる」意味と推測されます。

熊野の地名が初めて登場するのは『日本書紀』。伊奘諾尊の妻の伊弉冉命が火の神(軻遇突智)を産んで亡くなり、ある一書によると「紀伊国の熊野の有馬村に埋葬された」そうです。その土地の人々は花をもって歌舞してお祭りすると記されており、巨岩を御神体に伊弉冉命をお祀りする花の窟神社として、今でも三重県熊野市有馬町に鎮座しています。

古代より伊弉冉命の伝説があった熊野の地。果てしない深山幽谷の世界は「神々が住むところ」とか「死者の霊が隠れるところ」といった異界として崇められ、中世には熊野三山なる一大霊場に発展することになります。おそらくは素朴な山林の自然信仰から始まった熊野独特の信仰と神社。それが神仏習合の霊場になり、大峯奥駈道の起点の「熊野」になりました。

熊野三山の発展よりもずっと昔、孝徳天皇御代(645~654年)に熊野国は廃止。紀伊国に牟婁郡として編入されて後世に至りました。明治の廃藩置県と平成の大合併で牟婁郡は原型を留めず、現在の熊野本宮大社の鎮座地は和歌山県田辺市になります。ここが熊野国・紀伊国牟婁郡だった歴史を忘れないでください。

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サンダルに履き替えて渡渉の準備。重いアルパインブーツで渡るのは無謀ですから、邪魔にならないようザックの天蓋に括り付けます。コンデジの代わりに携帯電話のカメラで撮りました。

水量が多くて渡渉に適さない場合、南の備崎橋に迂回してR168で本宮大社へ。1日早ければ雨で迂回を余儀なくされていたはず。最高の条件を用意してくださった神様に感謝します。

F氏は私達を見送った後、熊野古道中辺路の難所、雲取越えに入ります。この時間から那智山まで伸ばすのは多分不可能。中間点の小口集落の野宿適地を伝えておきました。F氏とはここでお別れです。

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1346、N氏が熊野川を渡ります。サンダルは携行しておらず裸足での渡渉。砂利を踏みしめて対岸まで歩くのは痛そうです。水量は少なく安全に渡れる雰囲気。続きましょう。

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わざわざ沢用サンダルを用意したO氏。装備にこだわる新進気鋭の登山家です。

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残りの3名も熊野川に足を踏み入れます。深さは膝まで。水が冷たくて気持ちいいです。

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旧社地の大斎原を眺めて渡ります。西行法師も同じように歩いたでしょう。

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まもなく対岸。最高に楽しいです。

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1356、西岸に渡り終えました。奥駈を踏破して熊野川を渡れたことに感激し、もはや体の痛みや疲労など感じなくなっています。この異常な高揚感、精神状態を表現するのは難しい。私は山の中で狂ってしまったのかもしれない……

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備崎を振り返って今日の行程に満足。あとは最後の靡の大斎原と本宮大社へ。無敵モードの深仙組が河原を練り歩きます。

本宮地図 
こちらが熊野本宮大社周辺の地図。大峯奥駈道を下って備崎から熊野川を渡りました。大斎原と本宮大社は徒歩で十分探訪できる距離です。

本宮大社は熊野古道の中心部にあります。北の高野山に向かう小辺路、吉野に向かう大峯奥駈道。南東の那智山・新宮・伊勢に通じる中辺路・伊勢の共通ルート。西の田辺に向かう中辺路の分岐2ルートの合流点になっています。各ルートの情報はp.1で紹介した熊野古道レポを参照してください。

※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋。「カシミール3D」で出力し、ポイントを追記しています。

大斎原

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1413、大斎原の熊野坐神社。大峯奥駈道の第一靡本宮大社」です。境内は撮影禁止のため写真はありません。

熊野川の中洲に設けられた大斎原。川を渡って熊野坐神社に参拝することを、「濡藁沓(ぬれわらじ)の入堂」と表現しました。令和元年に熊野参詣の歴史を再現できて感無量です。

熊野坐神社の創建年代は不明。社伝によると崇神天皇御代(紀元前97~30年頃)、天火明命の孫である熊野連が熊野大権現の神勅を受け、熊野川の大斎原の地に社殿が創建・造営されたとのこと。あまりにも昔の話ですから実態はよく分かっていません。

『延喜式神名帳』の社名は「熊野坐神社」。平安時代には熊野早玉神社、那智山権現とともに、神仏習合の一大霊場として発展。熊野三山が成立します。信心深い皇族が熊野三山を巡礼する熊野詣が定着して以来、深い山中を抜けるための道や茶屋が熊野の各地に整備され、中世から近世にかけて大勢の人々が巡礼に訪れました。

明治時代になると神仏分離・廃仏毀釈の影響を受け、仏教要素の強い熊野詣は衰退。やがて巡礼の道も消滅します。熊野坐神社は明治22年(1889年)の十津川大水害で甚大な被害を受け、上四社・中四社・下四社などの社殿のうち上四社以外を失いました。その後、規模を縮小して上四社の神殿を山の中腹に遷座し、戦後は「熊野本宮大社」に改称して現在に至ります。

近年になって熊野の巡礼道の歴史が見直され、ルートが再発見されて大々的な整備が行われました。熊野古道の五つの主要ルートが徒歩旅向けに復元されて、紀伊路・中辺路・伊勢路・大辺路・小辺路が存在しています。これに高野山町石道・大峯奥駈道、拠点となる寺社を含め、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成しています。

大水害以前の大斎原は十二社と摂末社が鎮座する広大な社。上四社・中四社・下四社の祭神は熊野十二所権現と称されました。社殿を流された大斎原は再興されず旧社地として保存されることとなり、現在、二基の石祠に中四社・下四社・摂末社の祭神が合祀されています。写真はありませんが各社の祭神は以下の通りです。

中四社
第五殿…忍穂耳命
第六殿…瓊々杵尊命
第七殿…彦穂々出見尊
第八殿…鵜葦屋葦不合命

下四社
第九殿…軻遇突智命
第十殿…埴山姫命
第十一殿…彌都波能賣命
第十二殿…稚産霊命

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参拝を終えて熊野本宮館へ。この大鳥居は平成12年(2000年)に奉納。「熊野参詣道」が国の史跡に指定された年です。

令和元年の10連休はマイカーの観光客で賑わい、熊野古道のトレッキングが目的のハイカーも多かった。大型ザックを背負って靴が泥だらけの奥駈組は少数派。「何この人達……」って奇異の目で見られました。我々は怪しい者ではございません。

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「世界遺産 熊野本宮館」。平成21年(2009年)に開いたビジターセンターです。R168を挟んで熊野本宮大社と向かい合う便利な立地。紀伊田辺や新宮方面に下るバス停が併設されており、野宿に適したベンチと軒下も備えています。これまで2回寝ました。

時刻は14時半。重さを感じなくなったザックを下ろして休憩。帰りのバスまで余裕があるためゆっくりします。もう時間やペースを心配して歩かなくていいのね。

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防水仕様のはずのコンデジ、RICOH G800。レンズも液晶も内部結露して撮影不能になりました。雨の大峯奥駈道で酷使したのだから仕方ないでしょう。まだ電源は入るけど信頼性は低下。これで引退です。(後日、結露が消えてスペア扱いになりました)

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ノンストップで歩いた反動で空腹気味。近くのお食事処「きっちん」で昼食にします。カツカレーを食べて身も心も満たされました。めちゃくちゃ美味かったです。

深仙組のメンバーとの別れを惜しみつつ、写真のアップロード先についてやりとりします。旅人と一緒に行動する機会は時々ありますが、これほど濃密な山行は初めての経験でした。孤独な旅じゃなくてよかったです。

熊野本宮大社

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1535、最終目的地の熊野本宮大社。

2009年12月の「熊野古道トレッキング I」の目的地。
2010年12月の「熊野古道トレッキング II」の経由地
2013年12月の「熊野古道トレッキング III」の経由地。
2014年12月の「熊野古道トレッキング IV(執筆中)」の目的地。
2015年12月の「熊野古道トレッキング V(執筆中)」の目的地。
熊野の旅では必ず訪れる重要な社です。

2009年12月に伊勢市駅を発ったときに始まった熊野の旅。伊勢路・中辺路・大辺路・小辺路・高野山町石道を歩き通し、長い野宿旅の積み重ねでバックパッキングの経験値を上げました。「大峯奥駈道トレッキング」は6日間で成し遂げたのではありません。今日の本宮大社に至るまで、実に9年以上の歳月を要したのです。

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一の鳥居をくぐって境内へ。令和元年の参拝者で賑わっています。

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令和の参拝と御朱印の行列。流石に長時間並ぶのはきついです。

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神門前で奥駈の終了を報告。熊野権現のお導きに深く感謝します。無事、果てしない旅路を終えられました。

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2013年12月31日。大晦日に賑わう熊野本宮大社です。南の中辺路・伊勢路を歩いて本宮に到着。翌日、西の中辺路に入って田辺へと下りました。

初詣の準備が進む参道を通り、神門をくぐって上四社で参拝。上述したように明治の大水害で現在地に遷座を余儀なくされ、残念ながら十二社が並んだ古態は再現されておりません。それでも熊野の中心らしい荘厳さを感じられます。

上四社のうち三神(家津美御子大神・速玉大神・夫須美大神)を、熊野三山(本宮・速玉・那智)それぞれの主祭神としてお祀りされ、中世の神仏習合の中で本地仏が設定され熊野三所権現と称しました。本宮の主祭神は家津美御子大神(素戔嗚尊:阿弥陀如来)です。

社殿は左から西御前・中御前・証誠殿・東御前。大峯奥駈道の第一靡本宮大社」は証誠殿を指しています。初めて訪れた方には難解かもしれませんが参拝順序があり、証誠殿→中御前→西御前→東御前が正式とされます。上四社の祭神と本地仏は以下の通り。

第一殿の西御前(結宮)…夫須美大神(伊邪那美大神:千手観音)
第二殿の中御前(結宮)…速玉大神(伊邪那岐大神:薬師如来)
第三殿の証誠殿(本宮)…家津美御子大神(素戔嗚尊:阿弥陀如来)
第四殿の東御前(若宮)…天照大神(十一面観音)

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熊野大権現の幟が立ち並ぶ参道。晴れやかな気分で各自の帰路につきます。 その前に、那智と新宮も紹介しておきましょう。

那智地図 
熊野那智大社周辺の地図。和歌山県東牟婁郡那智勝浦町です。

山麓にJR紀勢本線の那智駅がありアクセスは容易。熊野灘に面して補陀洛山寺と熊野三所大神社が鎮座し、串本・田辺に通じる大辺路、新宮に通じる中辺路の合流点。そこから中辺路で那智山の那智大社と青岸渡寺に向かいます。

那智山から中辺路の雲取越えに入り、深い山々を抜けると北東の本宮大社へ。熊野古道では険しい部類に入るルートです。補給とエスケープ手段が限られるため要注意。

※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋。「カシミール3D」で出力し、ポイントを追記しています。

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2014年12月31日。那智山の熊野那智大社と青岸渡寺。大峯奥駈道の第二靡那智山」になります。大辺路を歩いて那智から那智山をじっくり探訪。翌日、雲取越えで2日かけて本宮に向かいました。

熊野那智大社の創建年代も不明。古代より那智御瀧(那智大滝)が信仰対象でした。社伝によると神日本磐余彦尊(神武天皇)の東征の際、那智御瀧を大己貴命の御神体としてお祀りしたとあります。一行は天照大御神の八咫烏に導かれて大和の橿原に到達し、神日本磐余彦尊が初代天皇として天下を治めました。

仁徳天皇5年(317年頃)に御瀧から山の中腹に遷座。熊野と御瀧の神々をお祀りする社殿が造営されたと伝わるも、熊野坐神社と同じく古代の様子についてはよく分かっていません。中世に神仏習合の熊野三山が成立すると当地も一大霊場に発展し、熊野夫須美大神(伊邪那美大神:千手観音)を主祭神としました。

社殿と同時期、裸形上人により寺院が開かれたと伝わり、長い間、神社と寺院が一体の「那智山権現」として隆盛しました。何度も書いてきたように明治時代の神仏分離で修験道は廃絶。西国三十三所の第一番札所だった如意輪堂だけが破壊を免れ、天台宗の青岸渡寺(山号は那智山)として独立しました。

仏教から分離された神社のほうは熊野夫須美神社を称し、後に熊野那智神社、戦後は「熊野那智大社」に改称されます。表向きは否定された那智権現の信仰形態は現在も残っており、熊野三山の中では最も神仏習合の要素が濃い寺社です。上五社の祭神と本地仏は以下の通り。

第一殿の滝宮…大己貴命(千手観音)
第二殿の証誠殿…家都御子大神(素戔嗚尊:阿弥陀如来)
第三殿の中御前…御子速玉大神(伊邪那岐大神:薬師如来)
第四殿の西御前…熊野夫須美大神(伊邪那美大神:千手観音)
第五殿の若宮…天照大神(十一面観音)

新宮地図 
熊野速玉大社周辺の地図。和歌山県新宮市の中心都市であり、補給や宿泊ができる熊野古道の一大拠点。新宮城跡や徐福公園などの史跡も多いです。

JR紀勢本線の新宮駅で容易にアクセス可能。本宮大社に向かうバスも出ており探訪に便利です。南の那智に通じる中辺路、北の伊勢に通じる伊勢路、熊野川沿いに本宮に通じる中辺路(通行止めが多い)、3ルートの合流点になっています。

※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋。「カシミール3D」で出力し、ポイントを追記しています。

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2014年12月30日。新宮市の神倉神社と熊野速玉大社。大峯奥駈道の第三靡新宮」になります。大辺路で那智に到着した後、鉄道で訪れました。

『日本書紀』の神日本磐余彦尊(神武天皇)の東征伝説の地。一行は熊野神邑に至って天磐盾に登り、熊野荒坂津に着きました。土地の神の毒気を受けて神日本磐余彦尊の軍勢は進めなくなりますが、武甕雷神の霊剣「布都御魂」を高倉下から受け取って行軍を再開。上述のように、八咫烏に導かれて大和の橿原に到達しました。

神倉神社の創建年代は不明。古代より神倉山のゴトビキ岩が信仰対象であり、神日本磐余彦尊が登った天磐盾と見なされるようになりました。この磐座を御神体に、高倉下命と天照大御神をお祀りしています。神倉山の石段は非常に険しいので気を付けてください。

ゴトビキ岩は熊野の神々が最初に降臨した磐座でもあり、景行天皇58年(128年頃)、北麓に新たな社殿が造営されました。神倉山に鎮座した古宮に対して山麓の新宮という地名が生まれ、平安時代には熊野三山の一つ「熊野早玉神社」に発展。現在は「熊野速玉大社」と称します。

主祭神は熊野速玉大神(伊邪那岐大神)と、熊野夫須美大神(伊邪那美大神)の二柱です。上四社の祭神と本地仏は以下の通り。

第一殿の結宮…熊野夫須美大神(伊邪那美大神:千手観音)
第二殿の速玉殿…熊野速玉大神(伊邪那岐大神:薬師如来)
第三殿の証誠前…家津美御子大神(素戔嗚尊:阿弥陀如来)・国常立尊
第四殿の若宮…天照大神(十一面観音)
第四殿の神倉宮宮…高倉下命

熊野本宮館

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……バスで帰る前に一服。近くのYショップでビールを買って最後の宴会。大峯奥駈道を踏破した猛者だけに許される祝杯です。これにて深仙組は解散。皆さん、長旅お疲れ様でした!

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1640、紀伊田辺駅行きの龍神バスが来ました。本数が限られているため定員オーバー気味です。私は乗車を諦めて本宮にもう一日滞在を決定。K氏は長旅を終えて帰っていきました。

那智山に向かうはずのO氏は予定を変更。新宮駅行きのバスで次なる行程へと進みました。皆それぞれの行き先に向かい、連休が終わります。最終的に、初日に一緒だった3名が本宮に残りました。

玉置山展望台から大斎原まで9時間。熊野本宮大社の参拝・散策で2時間半。5日目の歩行距離は約23kmになりました。吉野からの総合歩行距離は約120kmです。(個人差があります)

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観光客が少なくなった頃合いに寝場所を確保。いつも使っている右手奥のベンチに居座ります。

ザックの中身を全部出して整理。必要なかった食糧を並べて呆れ返ります。出発時点の総重量は水4.5Lと食糧4kg込みで18.5kg。どちらも半分にすれば14.5kgの軽さで実施できていました。次回は…いや、これほど過酷な縦走は二度とやらないでしょう。

Yショップでモンスターとおやつを買い、R氏、N氏と初日を思い出しながら語り合います。3人とも自転車で各地を旅したサイクルツーリスト。旅人特有の世界観の中で行きている種族です。久々に北海道を走りたくなってきました。

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大活躍したアルパインブーツ。Montura Vertigo Leather GTXです。2年前に大峯奥駈道の踏破を想定して導入。堅牢な作りで足首までしっかり保護してくれました。
(詳細はフットウェアのページを参照)

ワックスを入念に塗布して元々の防水性を更に高め、雨続きの山行でも内部はドライに保たれていました。靴下とインソールの工夫も高い効果を発揮。今回、最も評価が高まった装備です。

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19時を過ぎると観光客は皆無です。蚊が多いのでインナーテントを設営。のんびり野宿気分で休みましょう。

21時前、安心しきって就寝。
最終日の7日目に続きます。

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