東方巡遊記

大峯奥駈道トレッキング

目次

01
プロローグ
02
吉野駅~金峯山寺~吉水神社~吉野水分神社~金峯神社~愛染の宿~青根ヶ峰~四寸岩山~足摺宿~二蔵宿~女人結界門~洞辻茶屋
03
洞辻茶屋~大峯山寺/山上ヶ岳~小笹の宿~女人結界門~大普賢岳~行者還岳~行者還小屋~一ノ垰~聖宝ノ宿~弥山~弥山神社
04
弥山~八経ヶ岳~舟ノ垰~楊子の宿~仏生ヶ岳~孔雀岳~馬の背~釈迦ヶ岳~深仙宿
05
深仙宿~太古ノ辻~天狗山~地蔵岳~涅槃岳~持経宿~平治宿~転法輪岳~行仙岳~行仙宿
06
行仙宿笠捨山地蔵岳/垂直降下香精山玉置山展望台玉置神社玉置山展望台
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***
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エピローグ

2019年5月1日(水) 5日目

令和の山行。

「東方巡遊記」にアクセスしていただき、誠にありがとうございます。当サイトの情報は一旅人の感想に過ぎません。記載内容を過信して発生したトラブルには一切の責任を負いかねますので、必ず注意事項に目を通した上で記事をお読みください。写真・文章等のコンテンツは形態を問わず転載を禁じます。

行仙宿

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0400起床。静かに準備を始めます。

現在地は大和国吉野郡/奈良県吉野郡十津川村と下北山村の境界。行仙岳の南、標高1088mの行仙宿の山小屋。大峯奥駈道の第十九靡行仙岳」の近くです。

本日、徳仁親王が第126代の天皇陛下に即位され、平成から令和に改元されて新しい治世が始まりました。神日本磐余彦尊(神武天皇)の東征の経路とされる大峰山脈。その山中で新たな時代を迎えるのは感慨深いものがあります。

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軽い朝食を済ませて小屋の外へ。汚れたブーツを履いて、重いザックを背負います。山小屋宿泊者のうち、奥駈組は私達を含めて10名ほど。明日の熊野本宮大社を目標に頑張りましょう。

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0509、出発。5日目の目的地は玉置神社。寝場所は到着してから決めます。

昨日と同じく、尾根伝いのアップダウンが連続。笠捨山から香精山の区間は岩場だらけの危険地帯。奥駈最大の難所、6mの垂直降下が待ち構えています。恐怖心はあれど、今更引き返すわけにはいきません。気合で攻略します。

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まずは笠拾越から笠捨山の急坂へ。深仙組の各自のペースで登っていきます。天気は曇り。午後から晴れるかも…との情報。

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山頂まで無言で登ります。今まで大小のピークを越えてきたのだから、こんな急登で音を上げるはずがないでしょう。

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0542、1246mのピークを通過。これは笠捨山ではなく偽ピーク。本物の笠捨山は霧の中でした。

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霧の山道を歩きます。

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山頂が見えました。

笠捨山

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0634、笠捨山(仙ヶ岳)。標高1352.7m。第十八靡の「笠捨山」です。

気温は16℃で蒸し暑く、せっかく補給した飲み水がすぐ減ります。前半に比べると小休止の回数も増えました。南奥駈道が敬遠される理由がよく分かります。

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山頂に鎮座する道祖神。こちらは私の専門外の分野です。詳しくは由緒碑を参照してください。

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西行法師に因んだ笠がありました。

西行が大峯奥駈道で修行した時、過ぎてきた山々に感激して笠を捨てたとか、あまりの寂しさに笠を捨てて逃げたと伝わる山。それ以来、笠捨山と呼ばれるようになったそう。西行の人柄なら、どの説も当てはまります。

西行を真似してヘルメットを捨てたら、この先の岩場で困るから捨てないでおきます。深い山々で西行の史跡を見つけるのはとても楽しい。「実は私、西行法師の大ファンで(以下略)」「西行ファンなんて存在するんだ……」みたいな。

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0644、出発。笠捨山から西の尾根道に入ります。近世は南の尾根で上葛川の集落に下り、岩の口から縦走路に復帰していたらしい。

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0702、葛川辻の分岐。左は地蔵岳を回避できる謎の巻道。右は地蔵岳の危険地帯を通る奥駈道。……右に進んで岩場を突破します。

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地蔵岳へ。近くに水場があるようです。寄り道は疲れるので行きませんでした。

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送電線をくぐります。一見すると普通の里山。難所が存在するようには思えないです。

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地形図には記されない電源巡視路の分岐。おそらく地蔵岳の真下に設けられた巻道でしょう。我々は敢えて危険なほうを選びました。直登します。

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突然岩場が現れました。これは相当険しくなる予感です。

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3日目の釈迦ヶ岳(p.4)に匹敵する岩場。巨岩に行き当たり、向こう側に渡る箇所を探します。

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南に通路を見つけました。赤テープが目印のようです。

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巨岩の脇を通り抜けました。修行に相応しい急峻な地形です。

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一帯の鎖は米沢典之医博により設置されました。足場を確保しながら濡れた岩場をよじ登ります。平気で登っていくN氏が羨ましい。

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疲労が溜まった5日目に険しい難所越え。令和元年から何故こんな山行をやっているのでしょう?登山なんか二度とやりたくない…と思ってしまうのでした。

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まもなく地蔵岳です。手前の巨岩が第十七靡の「槍ヶ岳」だったらしい。それよりも6mの垂直降下が不安でたまりません。

地蔵岳/垂直降下

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0754、地蔵岳(1250m)。この先が懸案の垂直降下です。態勢を整えてから挑戦しますよ。

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地蔵岳を下って断崖絶壁の鎖場へ。クライミング経験者のN氏が偵察してくれます。

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先行のN氏による撮影。

大峯奥駈道で最大の危険箇所。高さ6mの切り立った岩場を慎重に下ります。鎖が設置されているとはいえ非常に滑りやすく、踏み外さないように足場を確保する必要があります。単独行で転落・強打したら間違いなく死にますからね。

この写真のF氏は林業の専門家。アウトドア経験が豊富で難なく下っていました。もちろんN氏やF氏から見ても危険箇所に変わりなく、「ここはヘルメットが必要かも」と話しておられました。それぐらい危ない難所ということです。

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次は私の番です。

F氏の指示に従って死に物狂いで降下。遠巻きに撮影すると大したことない高さなのに、実際に鎖を掴んで下るのは死ぬほど恐ろしかった。無事に攻略できたことを、全ての人々に感謝します。

地蔵岳の直登を選んだ場合、この断崖絶壁は絶対に避けて通れません。自信のない方は上葛川への巻道で迂回しましょう。但し、巻道の一部は不明瞭との情報もあります。(未確認)

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こちらは大ベテランのR氏。過酷な単独行を生き抜いてきた熟練者です。経験も技術も桁違いで全く参考になりませんでした。結局、私だけがビギナーのヘタレだったというわけです。

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無事に岩場を脱出しました。後続のO氏とK氏の姿は見えず。あの二人なら多分大丈夫でしょう。

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次は東屋岳を経て香精山へ。もう難所らしい難所は存在しないはず。先は長いので気を緩めないようにします。

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0832、東屋岳の四阿宿跡。標高1230m。第十六靡の「四阿宿」です。また湿度が上がってレンズが曇りました。昨日の雨晒しが影響しているのかも。

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また小休止。流石に皆きつそうです。先程の岩場でザックのチェストストラップが外れたため、コードを結んで補修しておきます。スペアの携行は大切。いつもより長めに休憩し、0845出発しました。

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鬱蒼とした森の中を進みます。天気は曇りのまま。雨が降りそう。

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0850、拝み返し。標高1160m。第十四靡の「拝み返し」です。順峯の際、熊野を拝み返す風習がありました。

付近に第十五靡の「菊ヶ池」あり。例によって見落としてしまいました。

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0858、檜ノ宿跡を通過。昔はこの辺りに宿所が点在していました。面影は失われて石碑だけが立っています。

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香精山への登り。標識に熊野本宮大社の表示が現れました。あと24.3km。この疲労度では限りなく遠いです。

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ゆっくり登ります。

香精山

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0913、香精山(1121.9m)。第十三靡の「香精山」になります。長丁場で極限まで疲れているのは全員同じ。立ち止まって休んだら先へと進みます。

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0943、貝吹之野。修験者が法螺貝を吹いた場所です。

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森の中を下ります。この急斜面は膝に悪いですよ。

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境界杭やマーキングがあり、林業の作業道として使われている模様。行仙岳以降、すっかり里山の雰囲気になりました。だからといって難易度が下がるわけではないのですが。

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1012、適当な場所で小休止。私達以外の奥駈組も見知った顔ばかりです。吉野からここまで、それぞれの苦労があったはず。

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東に上葛川の集落が見えました。まもなく古屋の辻に至ります。

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1023、標高665mの古屋の辻。北西に下るとR425に面した21世紀の森と小川集落。南東に下ると上葛川集落からエスケープ可能です。あぁ…体が重い。座り込んで休憩します。

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1035、出発。古屋山跡に登ります。

100年以上前の明治22年(1889年)、十津川の一帯で未曾有の豪雨災害が発生。山地が崩壊して249名もの死者を出す大惨事となり、「明治22年の十津川大水害」として語り継がれています。

古屋山の山体は豪雨の影響により崩壊。上葛川から薪集めに登っていた2名が亡くなりました。北東麓には堰止湖が形成され、後に決壊して平地に。近年、跡地に21世紀の森という公園が整備され、一角に大水害の記念碑が建てられています。

大水害は熊野川一帯にも被害をもたらしました。中洲の大斎原に鎮座した熊野坐神社(熊野本宮大社)では、多くの社殿が流されて山の中腹へと遷座を余儀なくされました。明治の過度な森林伐採で山が弱ったところに豪雨が重なり、大災害を引き起こしたとする説があります。

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1038、古屋宿跡。標高675m。第十二靡の「古屋宿」です。崩落により宿跡は完全に失われました。

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如意珠岳へ。どんどん進みます。

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1045、如意珠岳(736m)。第十一靡の「如意珠岳」になります。かつては千眺之森と呼ばれたそうですが、崩落で地形が一変し眺望は得られません。

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黙々と休憩中。このペースなら13時頃に玉置神社です。駐車場の売店のしいたけうどんが今日の昼食。「玉置でうどん&ビール!」を目標に前進します。寝場所は未だに決めていません。

このコンデジは工事現場用のRICOH G800。雨続きの旅でも行程を記録できる防水仕様なのに、湿気のせいでレンズ保護用のプロテクターがすぐ曇ります。現時点で1000枚以上撮影。レポ執筆のために必要です。
(詳細は「GEARS」を参照)

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1100、出発。休みすぎました。

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1106、蜘蛛の口(岩の口)。上葛川集落に通じる分岐です。笠捨山の先で巻道を選んだ場合、ここで縦走路に復帰します。

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まもなく林道との合流。霧に包まれて雰囲気は良いです。

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1110、稚児之森。703mのピークを過ぎると林道です。

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1117、舗装された林道に合流。天気は回復せず、とうとう雨が降り始めました。嘆いても晴れませんからレインウェアを着ます。せめて明日ぐらいは晴れてほしい。

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大峰山脈と大峯奥駈道の案内板が設置。この山域の歴史的背景を学んで歩くことが大切です。インドア(文献)とアウトドア(山行)の活動を組み合わせて、「大峯奥駈道トレッキング」の長いレポが成り立っています。

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1122、林道を出発。玉置神社まで尾根沿いの山道と林道が並走。この状況で山道に入るのは気が進みません。意見が一致して林道歩きを選びました。

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実にコンディションの良い舗装路。いつも徒歩旅で歩いているタイプの道です。熊野古道でも、こんな道を延々と歩いてきました。ここでペースを上げて一気に玉置神社を目指します。

振り返ると3名ともペースダウン。登山家は舗装された道に苦痛を感じ、長時間歩くと脚をやられるらしい。そうだったのですか……

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1152、山道の入口。山屋の3名は尾根沿いの山道へ。バックパッカーの私は引き続き林道へ。玉置神社手前の展望台で合流します。

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玉置山まで4kmの看板。ハイペースで飛ばしたら20分程度です。霧のため山間の集落は見えませんでした。

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久々の舗装路で絶好調。まるで水を得た魚のようです。自転車で走るのも楽しいでしょうね。

玉置山展望台

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1220、玉置山展望台に到着。短いボーナスステージでした。

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玉置山展望台を確認。標高938m。東屋とトイレがあります。先行の奥駈組とマイカーの観光客が休憩中。展望台の軒下にテントを設営できそうです。

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1231、山道を選んだ3名が到着。雨は本降り。止む気配はありません。まだ昼ですが、これ以上歩くのは不可能。展望台を寝場所にします。

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東屋と展望台にテントを設営。早速、玉置神社に向かいます。

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1326、ザックを置いて展望台を出発。後続のO氏とK氏が追い付きました。どうやら巻道を選んだようです。

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玉置神社まで車道を歩きます。道端に世界遺産っぽい記念碑が佇んでおり、大峯奥駈の記念写真を撮るには絶好の場所。多分そのために設置されたのでしょう。

中世から近世にかけて流行した熊野詣と大峯奥駈。明治時代に入ると下火になり、巡礼道の多くが失われました。近年になって歴史が見直され、ルートが再発見されて大々的に整備。「新宮山彦ぐるーぷ」に代表される精力的な活動で再興されたのです。

平成12年(2000年)、「熊野参詣道」が国の史跡に指定。次いで平成14年(2002年)、「大峯奥駈道」が国の史跡に指定されました。平成16年(2004年)には「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録。熊野古道と大峯奥駈道、その拠点となる寺社の大部分が含まれています。

周辺が整備されて多くの観光客が訪れる一方、中世や近世のように長い道のりを歩き通すのは少数派。熊野古道の観光案内を読むと「世界遺産」の言葉が独り歩きして、巡礼道としての歴史は二の次になっているように感じてなりません。

9年前の2009年12月に「熊野古道トレッキング I」を実施。5回に及ぶ旅で伊勢路・中辺路・大辺路・小辺路・高野山町石道を歩き、様々な文献を読んで熊野三山の信仰について理解を深めてきたつもりです。その上で「世界遺産」ありきな宣伝を見ると、なんか違う気がすると思います。

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ひたすら雨。レインウェアの性能を実感します。地蔵岳で降られなかったことだけが幸運でした。

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1344、玉置神社の駐車場に到着。吉野よりも賑わっていました。

最近、特別な社として人気が高まっており、マイカーやバスツアーの観光客が沢山訪れています。車でアクセスする場合は十津川沿いのR168から林道へ。曲がりくねった狭い道のため、暴走しないようお願いします。尚、パ○ースポットみたいな要素は興味ないから触れません。

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駐車場のこじんまりした売店。お土産、自販機、トイレもありました。

事前調査によると、この駐車場はテント泊適地。雨が降らず、混雑していなければ利用したと思います。先程の展望台は私達がテントを張って定員オーバー。昼過ぎに到着して寝場所を確保するのが重要です。そのためにハイペースで歩きました。

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昼食。しいたけうどん&スーパードライで1000円。温かいうどんと冷たいビールが疲れた体に染み渡ります。

初日の洞辻茶屋から同じ行程だった4人の集まり。難所を振り返ったり、明日の熊野川渡渉を想像したり、予定通りの単独行では決して味わえなかった楽しみ方です。旅が終わっても、大峯奥駈での体験は一生忘れないでしょう。

玉置神社

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1435、昼食を終えて玉置神社へ。記念すべき令和元年の参拝です。

一の鳥居は玉置山(1076.8m)の北西に位置。ここから南の中腹に鎮座する本殿に向かいます。明日は北の展望台から玉置山に登って境内に下り、南の尾根道を通って熊野本宮大社を目指す予定。地図を参照しないと位置が分かりにくいです。

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一の鳥居をくぐって雨の参道を歩きます。山手に設けられた拝所は、大山祗命を祭神とする山之神。玉置神社は山岳・磐座信仰から始まった考えられています。

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西斜面の階段を下ります。

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雨のおかげで幻想的な雰囲気。

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本宮辻(玉置辻)の標識がありました。この階段を下ると奥駈終点の熊野本宮大社へ。まだ相当な距離があり、8時間ぐらいかかります。

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手水舎で身を清めて拝殿へ。

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玉置山(1076.8m)の南に構える荘厳な社殿。山頂を遥拝する向きに造営されています。

祭神は国常立尊、伊弉諾尊、伊弉冊尊、天照大御神、神日本磐余彦尊。古くから十津川郷の総鎮守として崇敬されたと伝わります。

神日本磐余彦尊(神武天皇)の東征の際、神宝の玉を置いて勝利を祈願したという玉置山。役小角や空海が如意宝珠を埋めた伝説も残っており「玉置」の由来の一説として語り継がれてきました。本殿より山手には玉石社が鎮座しています。

玉置神社自体の創建年代は不明。社伝によると崇神天皇61年(紀元前37年頃)の創建と記され、王城火防鎮護と悪魔退散のため早玉神を奉斎したのが起源です。早玉神とは、熊野速玉大社の主祭神である熊野速玉大神のこと。この創建伝承も「玉置」の社名の由来を示しています。

中世には神仏習合の修験道の道場に発展。玉置神社は熊野三山の奥の院に位置付けられ、順峯または逆峯で修行する際の宿坊が整備されました。第十靡の「玉置山」は当社を中心とする玉置山一帯の行場を指すようです。

江戸時代には別当寺の高牟婁院が置かれ、社僧が優勢になって社家や十津川郷との関係が悪化。明治時代の神仏分離・廃仏毀釈により仏教勢力は排除され、諸堂は破壊、仏像は破棄されてしまいました。負の歴史です。

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拝殿にて参拝。令和の幟が掲げられています。

天孫、瓊瓊杵尊が天降ってから179万2470余年後。神日本磐余彦尊は日向国(宮崎県)から東方を目指して船出し、熊野神邑(和歌山県新宮市)に着き、八咫烏の導きで吉野へ北上。奈良県の畝傍山南東に橿原宮を築いて初代天皇(神武天皇)に即位。大和朝廷を立ち上げて日本という国が始まったことになっています。

『日本書紀』に記された日本の始まり。神武天皇が天下を治めた時代から長い年月が流れ、本日より第126代の天皇陛下の治世が始まりました。ここでは神話や古代史に関する難しい話題は避け、「令和」の御代をお祝いしたいと思います。

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摂末社にも参拝します。左は訶遇突智神、早玉男神、高倉下神をお祀りする神武社。右は春日大神、八幡大神、住吉大神をお祀りする若宮社です。

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大日如来像を安置する大日堂社。神仏分離を乗り越えて再建されたお堂です。

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境内を散策。これは夫婦杉と神代杉。コンデジのレンズが急激に曇りました。

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社務所前を通って水場へ。中の人に許可を頂いて水を補給します。明日もノンストップ。満タンに汲みましょう。

神仏分離で廃止された高牟婁院の建物は残り、現在では社務所や修験者の宿坊として使われます。宿坊は大峯奥駈道を縦走する者に限り利用可能。但し、縦走開始前の届け出が必要です。

残念ながらレンズが曇りすぎて撮影不能に。大巳貴命をお祀りする玉山社の写真はありません。玉置山中腹に設けられた社殿のない玉石の拝所であり、かつて神日本磐余彦尊が神宝を置いた場所と伝わります。念のためスペアカメラを携行するべきでした。本当に残念です……

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1537、境内を出て展望台に戻ります。こんな曇り写真を掲載しても意味ないし。

玉置山展望台

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1609、玉置山展望台のテントに戻りました。何もかもビショビショで嫌になってしまいます。

行仙宿から玉置山展望台まで7時間半。展望台と玉置神社の往復・参拝で2時間半。4日目の歩行距離は約19kmになりました。(個人差があります)

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やっと雨から遮断されました。テントで寝るのは初日の洞辻茶屋以来。プライベートな空間でゆったり至福のひととき。夕食を作りながら今日の出来事を詳しく記録します。

食糧を消費して少しずつザックを軽くするはずが、余り気味に用意したおかげで一向に減ってくれません。登山に必要なカロリー摂取量、みたいな情報を真に受け、必要量の倍以上の食糧を携行してしまいました。今更気付いても手遅れです。

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O氏とK氏が玉置神社から戻り、明日以降のルートを入念に確認します。

深仙組6名のうち、熊野本宮大社で行程を終えるのは私とN氏、K氏の3名。R氏、F氏、O氏は熊野古道に入り那智大社と速玉大社へ。本宮と那智山の間には中辺路の雲取越えが存在しており、このペースなら新宮まで2日以上かかるでしょう。流石登山家。狂ってます。(褒め言葉)

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18時前、雨が上がって山々が見えました。西は野迫川方面、熊野古道の小辺路が通ります。北は上北山方面、大峯奥駈道が通っています。吉野から途方もない距離を歩きました。

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山間部の町は十津川村の折立集落。十津川温泉北トンネルと今戸高架橋が建設中。水害対策の事業として秋には開通する予定です。

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19時前。すっかり暗くなりました。マイカーのおじさんが現れて皆で宴会を開催。奥駈の終わりを控えて旅や人生について語り合い、10年前の自転車旅の日々が懐かしく思い出されました。一度旅人になったらずっと旅人。その精神は不変です。

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それぞれのテントに入って寝る準備。明日、大峯奥駈道の旅が終わります。

20時過ぎ、就寝。
6日目に続きます。

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