東方巡遊記

大峯奥駈道トレッキング

目次

01
プロローグ
02
吉野駅~金峯山寺~吉水神社~吉野水分神社~金峯神社~愛染の宿~青根ヶ峰~四寸岩山~足摺宿~二蔵宿~女人結界門~洞辻茶屋
03
洞辻茶屋~大峯山寺/山上ヶ岳~小笹の宿~女人結界門~大普賢岳~行者還岳~行者還小屋~一ノ垰~聖宝ノ宿~弥山~弥山神社
04
弥山八経ヶ岳舟ノ垰楊子の宿仏生ヶ岳孔雀岳馬の背釈迦ヶ岳深仙宿
05
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エピローグ

2019年4月29日(月) 3日目

難路は続く。

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弥山

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0400起床。現在地は大和国吉野郡/奈良県吉野郡天川村。弥山の山頂付近、標高1876mの避難小屋。大峯奥駈道の第五十四靡弥山」です。

室内の気温は5℃。朝食を済ませて素早くパッキング。4時起床、5時過ぎ出発が基本です。

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小屋の外では登山者達が朝食中。装備的に奥駈組ではなさそうです。

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出発前に弥山の山頂(1895m)へ。南には今から登る八経ヶ岳(1915.2m)が見えます。厚い雲、雨の気配を感じる空。まだ降らないでほしい。

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0515、弥山を出発。体力は多分回復しました。

3日目の目的地は…今のところ未定。当初の計画では深仙宿の避難小屋の予定です。初日と2日目にかけて行程を大幅に延伸したおかげで、午後から南奥駈道に進んでいくのは十分可能と思われます。深仙の次の山小屋は持経宿。そこまで伸ばせるでしょうか?

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弥山を下って南の八経ヶ岳へ。今日もD氏とともにR氏に追従。山頂周辺は縞枯れが目立ちました。

弥山の北西に位置する頂仙岳(1717.7m)には寄り道せず。実態は不明ながら第五十三靡の「朝鮮ヶ岳」に相当します。八経ヶ岳に至る縦走路には頂仙岳の遥拝所が存在。気付かないまま通過してしまいました。

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オオヤマレンゲ保全区域に入ります。鹿による食害から貴重な植物を守るため、八経ヶ岳周辺にフェンスが設けられています。

第五十二靡古石宿」の跡も気付かず通過。廃絶した靡は注意深くチェックしないと見落とします。

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八経ヶ岳へ。この程度の登りは険しい部類に入りません。

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山頂の錫杖が見えました。

八経ヶ岳

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0545、近畿最高峰の八経ヶ岳(1915.2m)。大峯奥駈道の第五十一靡八経ヶ岳」です。役小角が法華経八巻を埋納した山と伝わり、仏経ヶ岳、八剣山とも呼ばれます。

八経ヶ岳のすぐ南西に明星ヶ岳(1894m)。その先は仏生ヶ岳(1805.2m)、釈迦ヶ岳(1799.9m)。昨日と同じく、尾根伝いの縦走路が果てしなく続きます。釈迦ヶ岳の手前にかけて岩場などの危険箇所あり。見るからに険しそうで気が進まないです。

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3年前の2015年12月20日。山城国葛野郡/京都府京都市右京区の愛宕山。飛鳥時代末期となる大宝年間(701~704年)、役小角と泰澄が神廟を建立したと伝わり、現在は愛宕神社が鎮座しています。

愛宕山の参道中腹から南東を眺めると、急峻な西山の向こうに京都市街が広がります。切り立った保津峡の遥か彼方に見えるのが大峰山脈。一番右に弥山と八経ヶ岳のシルエットが浮かんでいます。

いずれ縦走しなければならない大峯奥駈道を始めて意識した瞬間。この1週間後、「熊野古道トレッキング V(執筆中)」で高野山町石道と小辺路を踏破。5回に及ぶ旅で熊野古道を歩き尽くし、遂に「大峯奥駈道トレッキング」が始動。最後の難路に挑戦するまで、3年もかけて装備と計画を検討していたのです。

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弥山を振り返って。立派な山小屋とテント場が見えます。その北には昨日縦走してきた険しい尾根。一番左にそびえるのが山上ヶ岳(1719.4m)です。ひたすら歩き続けて、ようやくここまで進みました。

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そして北西の金剛山地。大和国の都からどんどん遠ざかっていくのが分かります。八経ヶ岳は奈良県吉野郡天川村、上北山村、五條市の境界。大峯奥駈の目的地は紀伊国牟婁郡(和歌山県)の熊野本宮大社。紀伊半島最深部の社まで、まだ半分以上も行程が残っています。

明治時代に奈良県が生まれると同時に大和国は廃止。平成の大合併で多くの郡が市に統合されて消滅した一方で、吉野町や天川村を始めとする町村は吉野郡を維持しています。郡の枠組みは古い地名を残す歴史的な行政区分です。安易に廃止して良いものではありません。

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0550、釈迦ヶ岳を目指して出発。深仙宿の避難小屋は釈迦ヶ岳のすぐ先。12時頃には到着できるのではないでしょうか。

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八経ヶ岳を下って明星ヶ岳へ。ベテランのR氏は山岳気象の知識も豊富。この状態ならまだ雨は降らないとの予想です。

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明星ヶ岳(1894m)へ登り返し。第五十靡の「明星ヶ岳」になります。西の巻道を通り、ピークには寄りません。

大峯の縦走路には多数のピークが存在するも、北奥駈道では巻道で回避できる箇所が点在。後半の南奥駈道は殆どのピークを踏ませるルート設定。疲労や水不足が相まって、更なる苦行が想像されます。

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明星ヶ岳を過ぎました。この辺りに第四十九靡の「菊の窟」があったらしい。極秘の行場とされ様々な伝説が残っているものの、実際の場所は分かっていないとのこと。

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根本から倒れた木。台風の影響でしょう。道が荒れており不明瞭な箇所もあります。と、昨日も書きました。

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尾根上を避けて西斜面を巻きます。所々、土砂崩れで崩落していました。

1767mのピーク付近に第四十八靡禅師の森」。1694mのピーク付近に第四十七靡五鈷嶺」。どちらも実態は不明です。

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崩落した斜面の向こうに見える七面山。第四十五靡の「七面山」です。

1624m、1619m、1556.8mのピークから成り、猫か鬼を思わせる特徴的なシルエットの山。縦走路の西にあるため寄り道はしません。ここから遥拝します。

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五鈷嶺の下から険しい岩場に突入。ロープを掴み、慎重に登って下ります。滑落しないよう安全第一で行きましょう。

舟ノ垰

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0730、岩場を抜けて舟ノ垰(1594m)。第四十六靡の「船の多和」です。迷いやすいので要注意。

昨日の弥山八丁の階段で脚をやられ、ペースが低下。淡々とレポを書いているから実情が伝わりにくいけれど、私だけでなくR氏もD氏も相当に疲労が溜まっています。それでも熊野を目指して歩かなければならない。停滞など許されないのです。

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1693mのピークを巻いたところで、先行していたU氏に再び追い付きました。U氏のペースなら余裕で持経宿まで行けるでしょうが、今の私達には無理そう。ひとまず深仙宿を目指します。

緩やかな台地を直進していると、東側の斜面から奥駈の登山者が現れました。誤って七面山への分岐に入り戻ってきたらしい。道に迷って復帰できなければ確実に遭難します。常にナビゲーションしながら歩いてください。

尚、1693mのピークは五條市、十津川村、上北山村の境界。大峯奥駈道の稜線の大部分が自治体の境になっています。

楊子の宿

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0804、楊子ヶ宿の避難小屋。標高1594m。第四十四靡の「楊子の宿」です。小屋には入らず、道端にザックを下ろして小休止。3時間も歩いたのに全然進んでいない気がします。かなり辛い。これからもっと辛くなります。

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仏生ヶ岳を経て釈迦ヶ岳に向かいます。釈迦ヶ岳手前の鞍部は明らかに崩落しており、その先には馬の背と呼ばれる難所が存在します。事前調査で分かっていても、実際に見ると怖いです。

仏生ヶ岳

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仏生ヶ岳(1805.2m)の東を通過。第四十三靡の「仏生ヶ岳」になります。奥駈道は何故か仏生ヶ岳の山頂を避け、仏生の横駈なる巻道を通ります。

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0919、鳥の水。貴重な水場です。飲み水が減ってきたので補給しておきました。この水量だと夏場は涸れて使えなくなりそうです。

孔雀岳

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孔雀岳(1779m)も巻道で回避。第四十二靡の「孔雀岳」です。

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0933、孔雀覗。どう見ても奥駈装備の登山家に出会いました。防水仕様のOzonic 70を背負った医学生のO氏です。初日に出会ったN氏やF氏は元気にしているでしょうか。

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孔雀覗から南東の眺望。昨日通った山上ヶ岳の西の覗(p.3)と同じく、断崖絶壁から身を乗り出す荒行が行われたそうです。深い山々の間に池原ダムの貯水池が見えていますね。

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釈迦ヶ岳を攻略すべく出発。修験道の行場に相応しい急峻な地形です。この岩場をロープや鎖で登らなければなりません。R氏に「大丈夫だよ」と言われながらも恐怖に震えています。

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釈迦ヶ岳へ…緊張します。

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最初の難所である両部分け。ロープを頼りに岩場の間を通ります。昔はもっと深い切れ込みがあったらしく、行者が携行する法螺貝が擦れることから、法螺擦りとも呼ばれたそうです。

両部とは密教における金剛界と胎蔵界のこと。岩場より北が金剛界、南が胎蔵界と考えられました。大峯奥駈道の長い行程を南北に分けた場合、釈迦ヶ岳や深仙宿が中間点に相当します。密教の世界観は難しい。

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両部分けの次は椽の鼻。断崖絶壁に設けられた狭い道を通ります。巨岩の下には大正時代に寄進された蔵王権現像。江戸時代は役行者像が祀られていたと伝わります。

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崩落した斜面を慎重に渡ります。もし踏み外せば谷底へ転落するでしょう。釈迦ヶ岳の周辺は特に危険度が高いです。

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1006、難所を過ぎて一休み。釈迦ヶ岳の手前、第四十一靡の「空鉢岳」です。空鉢岳に相当する岩山・行場は諸説あるとのこと。

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すぐに出発。正面に見えるのは鉄鉢岩(弥勒岩)。この岩山が空鉢岳とする説もあります。もしかして、この岩を登るの……?

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と思ったら岩場は回避できる模様。急な斜面を通って弥勒岩を迂回します。

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最後は岩場を登る羽目に。既に体力も気力も消耗しています。

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山頂のお釈迦様が見えました。この先、難所の馬の背が待ち受けています。嫌だなぁ…引き返して下山したいなぁ……

馬の背

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1034、馬の背。短いナイフリッジに頼りない補助ロープが設置。北奥駈道を代表する危険地帯と見なされています。

先行の登山者達に見守られ、意を決して岩場を横断。ヤバげな雰囲気の割には難なく通れて拍子抜けしました。雨天時には滑落の恐れがあり、危険箇所なのは事実です。「大したことない」などと油断すると死にますよ。

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馬の背を渡ったところ。北には今朝登った八経ヶ岳。昨日と比べて格段に険しい道のりでした。

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まもなく釈迦ヶ岳。もう岩場はありません。

釈迦ヶ岳

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1050、釈迦ヶ岳(1799.9m)。第四十靡の「釈迦ヶ岳」です。先行のO氏が休んでいました。

近世には山頂に釈迦堂があり、釈迦、文殊、普賢の木像をお祀りしていたらしい。現在の釈迦如来立像は大正13年(1924年)に奉納。高さ3.6m、重さ134kg。釈迦ヶ岳を象徴する大きな銅像です。

像は吉野の六田駅から山麓の前鬼口まで荷馬車で運ばれ、大峯史上最強の強力と評された岡田雅行氏が山頂へ担いで登りました。地元民に「オニ雅」と恐れられる怪力であった岡田氏は3分割した像を担ぎ、前鬼口~釈迦ヶ岳の約12.5km、標高差1500mを自分の力で運搬したのです。以来、釈迦ヶ岳の釈迦如来像は多くの修験者の崇敬の対象になりました。

奉納から80年以上経った平成19年(2007年)。風雨で老朽化した銅像が解体・修復され山頂に再建されました。主要な部位はヘリコプターで運搬、一部は人力で担ぎ上げられました。お釈迦様の名を関した山頂に釈迦如来像が輝く霊山らしい姿。この風景は沢山の崇敬者の尽力により成り立っています。

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十津川村と下北山村の境界となる釈迦ヶ岳。雨の気配を感じながら今後のプランを検討します。R氏はあと5時間ぐらい歩いて持経宿の山小屋を目指す意欲的な案。私は釈迦ヶ岳の真下にある深仙宿の避難小屋で停止する消極的な案。

昨日は洞辻茶屋から山上ヶ岳を越え、弥山まで一日中歩きました。その反動で、今日はこれ以上歩きたくない気持ちが勝ります。黙々と同行しているD氏は限界を迎えている感じ。結論は出ず、一旦下ってから考えます。

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釈迦ヶ岳を下って深仙宿へ。1799.9mの山頂から標高が一気に下がり、熊野へと通じる深山幽谷の世界が現れました。

大峯奥駈道が険しくなるのはこれから。深仙以降の南奥駈道は小ピークが連続し、水場が少なく、エスケープ手段も限られるため難易度は一気に上がります。よく勘違いされますが本当に険しいのは高い山ではなく、外界から隔絶された深い山々なのです。

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深仙のお堂と小屋が見えました。第三十九靡の「都津門」は気付かず通過。もう歩くだけで精一杯だから仕方ないです。

深仙宿

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1133、ようやく深仙宿に辿り着きました。標高1496m。第三十八靡の「深仙宿」です。

吉野から熊野に至る大峯奥駈道の中間点に位置し、大峯八大金剛童子のうち香精童子の在所とされる深仙。古くから神仙(深仙)に逗留して周辺で修行が行われており、西行法師も深仙で月を眺めて感傷的な歌を詠んでいます。800年以上前に見えた月は綺麗だったでしょうね。

近世には護摩堂や灌頂堂など諸堂のほか、宿坊も併設する大きい行場だったことが分かっています。現在は役小角や不動明王をお祀りする灌頂堂が建てられ、小さい避難小屋が設置。付近に水場も存在しています。

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灌頂堂の前で休もうとすると、先に進んでいたはずのN氏とF氏に会いました。O氏も加わって6名の疲れ切った奥駈組が集まり、午後のプランについて不毛な相談を始めます。

時刻は12時前。おそらく夕方頃に雨。明日以降も雨が続くためテント泊は避けたいです。深仙宿の次の有力な寝場所となると持経宿の山小屋。持経まで5時間ぐらいですから17時頃に到着できるでしょう。但し、途中で雨に遭って体力と時間を消耗するのは確実です。

深仙の避難小屋の定員は8人程度。午後から後続の奥駈組が次々に深仙に到着し、小屋が満員になってテント設営を余儀なくされるはず。雨を覚悟で持経まで伸ばすか、深仙で一旦停止するか。結論が出ないまま時間が過ぎてしまいます。

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見かねた私が「今日は深仙!」と切り出し、無理やり避難小屋で泊まる方針に決定しました。N氏やF氏も、誰かが切り出すのを待っていた様子。早速、狭い避難小屋に入って寝場所を確保します。

弥山から深仙宿まで6時間。3日目の歩行距離は約14kmでした。吉野からここまでの距離は約57km。無事に前半の行程を終えました。(個人差があります)

山上ヶ岳の手前から同行したD氏は下山を決断。体力的に限界を迎え、縦走は続けられないとのこと。太古の辻から東麓の前鬼に下るため深仙を出発されました。強行登山は遭難事故の元。この決断は正しかったと思います。

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夕食には早すぎる時間。小屋の付近にある水場「香精水」へ。釈迦ヶ岳の岩場から染み出す霊水です。

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1547。のんびり休憩したら4時間経ちました。予想通り、後続の奥駈組が到着してテントを設営。深仙宿は釈迦ヶ岳と大日岳の間の鞍部にあり、雨さえ降らなければ快適なテント場です。尚、トイレはありません。

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16時頃、雨が降り出しました。避難小屋には定員を上回る11人が入り、皆でお喋りしながら夕食の準備を始めます。

小屋の中の全員が単独行のテント泊装備。ロングトレイルの踏破が目的の強者揃いです。大峯奥駈道の難易度の高さはよく知られており、誰も付き合ってくれないから単独で来たのだとか。そういう事情は徒歩旅派の私もよく分かります。

テント泊装備といっても個性にあふれており、ウェアの種類から装備のパッキングまで多種多様。各自の経験に基づいて登山スタイルを確立しており、マニアックなシュラフやハイドレーションパックなど、一部の人しか分からない話で盛り上がります。

一番面白かったのが火器の種類。定番のガスバーナー以外にガソリン、アルコール、固形燃料、そしてジュニアバーナーなど自炊に対する思想がバラバラでした。いつも一人で野宿旅ばかりやってるから、こんな集まりは刺激的。このうち数名とは、熊野まで共に歩くことになるでしょう。

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夕食を済ませて寝る準備。かなり窮屈ですが小屋で寝られるだけマシ。明日のルートを確認し、今日はお休みです。

1830、就寝。
4日目に続きます。

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