東方巡遊記

大峯奥駈道トレッキング

目次

01
プロローグ
02
吉野駅~金峯山寺~吉水神社~吉野水分神社~金峯神社~愛染の宿~青根ヶ峰~四寸岩山~足摺宿~二蔵宿~女人結界門~洞辻茶屋
03
洞辻茶屋大峯山寺/山上ヶ岳小笹の宿女人結界門大普賢岳行者還岳行者還小屋一ノ垰聖宝ノ宿弥山弥山神社
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エピローグ

2019年4月28日(日) 2日目

登山家モード。

「東方巡遊記」にアクセスしていただき、誠にありがとうございます。当サイトの情報は一旅人の感想に過ぎません。記載内容を過信して発生したトラブルには一切の責任を負いかねますので、必ず注意事項に目を通した上で記事をお読みください。写真・文章等のコンテンツは形態を問わず転載を禁じます。

洞辻茶屋

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0400起床。気温は0℃…外は寒いです。ダウンシュラフのおかげでよく眠れました。

現在地は大和国吉野郡/奈良県吉野郡天川村。山上ヶ岳の手前、標高1483mにある洞辻茶屋。大峯奥駈道の第六十八靡浄心門」です。

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速やかにテントを撤収して朝食の準備。今日から長丁場。時間を無駄にできません。装備をパッキングしたら弥山を目指して出発です。

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昨日パーティーを組んだ登山家の皆さんは5時過ぎに出動。私は気温が上がり始める日の出まで待機。0530出発します。

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洞辻茶屋から南の大峯山(山上ヶ岳)方面へ。出迎不動尊が行場入りを出迎えてくれます。

雨の気配のない穏やかな天気。2日目は山上ヶ岳と行者還岳を越えて弥山へ。当初の計画では行者還小屋に泊まる予定だったのが、初日に洞辻茶屋まで到達した勢いで延伸します。17時前には弥山の山小屋に入りたい。

天気予報によると青空に恵まれるのは今日まで。明日は前線がかかり、明後日まで雨が想定されます。伸ばせるうちに伸ばして…と意気込んでみたところで、まだまだ先は長く雨天行動は避けられません。うまく避難小屋や山小屋を利用します。

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これから先は単独行。危険箇所が増えるのでヘルメットを着用します。気温は3℃。無風。昨日の疲れは残っていません。

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まずは山上ヶ岳の山頂へ。スローペースで行きます。

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0540、陀羅尼助茶屋。道沿いに供養塔が並んでいます。

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山道を覆うように設けられた陀羅尼助茶屋。一応、風除けの寝場所としても使えそうです。

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山頂にかけて供養塔が立ち並びます。開山期間は修験者で賑わうのでしょう。

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陀羅尼助茶屋の先に分岐あり。左は古来から使われている行者道。油こぼし、鐘掛岩などの岩場を登る難所です。右は階段が設置された平成新道。右から登りましょう。

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長い階段。岩場を登るよりはマシです。私の後から洞辻茶屋を出発した登山家(D氏)と同行。初日に洞辻茶屋で泊まった人は大体同じぐらいのペース。リタイアしなければ、熊野までほぼ同じ行程になるでしょう。

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大峯山寺の境内である山上ヶ岳へ。歴史や信仰に興味を持たない登山者でも、修験道の聖地に足を踏み入れたと感じるはず。

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山頂の宿坊群が見えました。その前に西の覗に寄り道します。

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0609、表行場の西の覗。断崖絶壁から身を乗り出す荒行で知られ、大峯の修験道の代名詞みたいになっています。高所恐怖症なので岩場に近付くのも恐ろしい。登山には不向きな人です。

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西の覗から西方の眺望。遠くに和泉山脈と金剛山地が見えます。手前の山間部に栄える町は天川村の洞川集落。大峯奥駈道を縦走しない場合は洞川から山上ヶ岳へ。吉野から歩くよりも近いです。

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北の眺望。昨日歩いてきた尾根が見えます。遥か向こうには、かつて日本の中心だった奈良の都。金剛山地や奈良盆地の地形は古代から変わっていません。無事に奥駈を踏破したら奈良市街の史跡巡りに戻りたいです。

金剛山地は大和国(奈良県)と河内国(大阪府)の境界。左から最高峰の金剛山(1125m)、水越峠(516m)、葛城山(959.2m)。飛鳥時代、役小角は金峯山に入る前に金剛山地で修行したと伝わります。この辺りの歴史は初日の吉野(p.2)でも簡潔に紹介しました。

平安時代に成立した『日本霊異記』の伝説によると、役優婆塞(役小角)は修行により呪術を身につけ鬼神を操りました。ある時、鬼神を使い金峯山と葛城山の間に橋を架けさせようとしますが、葛城山の地主神である一言主大神が文武天皇に讒訴したことで逮捕。伊豆島(東京都の伊豆大島)に流されます。(配流は実話です)

『続日本紀』には文武天皇3年(699年)の記録が残っています。役小角の能力が人々を惑わせているとの讒言により伊豆島に配流。世間の噂では、鬼神を使役して水を汲んだり薪を採らせたりして、命令に従わなければ呪術で縛ることもできたといいます。この噂が後世の伝説の基になったのでしょう。

『日本霊異記』によると伊豆島から富士山に飛び修行を続けた役小角。大宝元年(701)に赦免されて都に戻り、仙人になり空に飛び去ったとか。「役小角の伝説は多すぎて紹介できないから省略する」と記されており、平安時代の時点で超人的呪術者と認識されていたことが分かります。金峯山と葛城山の間の橋…完成すれば参詣が楽になりそうです。

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D氏とともに大峯山寺へ。行場の注意事項が掲示されていました。山頂に近付くにつれて残雪が多くなります。

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山頂周辺には5軒の大きな宿坊があり、修験者以外の登山者も利用することができます。但し、大峯山寺が開かれるのは5月~9月の僅かな期間。宿坊も開山期間に合わせて運営されており4月は閉鎖中。軒下にテントを張るぐらいは許されると思います。

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等覚門をくぐり山内に入ります。「身口意三業を整え参入召されよ」とあり、この山頂が一大霊場であることを意識します。

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石段を登ると蔵王堂が見えました。

大峯山寺/山上ヶ岳

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0630、山上ヶ岳(1719.4m)の大峯山寺に到着。大峯奥駈道の第六十七靡山上ヶ岳」です。

吉野の金峯山寺(p.2)と重複して由緒を紹介。金峯山とは吉野山から大峯山(山上ヶ岳)に至る山域のこと。古来より神聖な山々として崇拝される聖域でありました。飛鳥時代の白鳳年間、山岳呪術者の役小角が金峯山に修行に入り、修験道独自の本尊である金剛蔵王大権現を感得されたと伝わります。

寺伝によると役小角が桜の木に蔵王権現の姿を刻み、大峯山と吉野山で祭祀を行ったのが大峯山寺と金峯山寺の始まり。蔵王堂は奈良時代前期の天平年間(729~749年)に行基により改築。平安時代前期の昌泰年間(898~901年)に再建されたそうです。

戦国時代の天文3年(1534年)に焼き討ちで壊滅するも、江戸時代の元禄4年(1691年)になって蔵王堂が再建されました。後に外陣が造営され、江戸時代を通じて一大道場として隆盛。麓の金峯山寺と一体の寺院、山上蔵王堂と称しました。

ところが明治に神仏分離・廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、神仏習合の修験道は廃絶に追い込まれる事態になりました。金峯山寺は廃止され、後に金峯山修験本宗の総本山として復活。山上ヶ岳の大峯山寺は吉野・洞川の寺院によって運営され、別個の寺院として修験道の復興に尽力されています。

大峯山寺では毎年5月3日に戸開式、9月23日に戸閉式を行い、5月~9月の限られた期間に修験者や登山者が登って賑わいます。私達のような修験者でない一般人は、オフシーズンに訪れたいです。

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本堂の蔵王堂は閉鎖されており無人。あと5日もすれば全国から修験者が集結し、大峯奥駈道の七十五靡を駆け巡るのでしょう。

さて、山上ヶ岳には藤原氏の史跡もあります。蔵王堂が再建された元禄4年(1691年)頃に経塚が発見され、出土品の内容から平安時代中期の寛弘4年(1007年)の造営と判明。当時の最高権力者だった藤原道長が経筒を携えて山上ヶ岳に登り、この蔵王堂付近に埋納したと推測されています。

経塚とは、平安時代に末法思想の影響で始まったとされる信仰形態。未来の弥勒の世のため、仏教の経典を保存する崇高な目的がありました。霊山たる金峯山の参詣が盛んになり、経塚造営の適地と考えられたでしょう。信心深い人物でもあった道長は、自筆の経典を経筒に納めて登山したのです。

山上ヶ岳で発見された金銅経筒は日本最古のもの。千年前の大物貴族の信仰を伝える極めて貴重な国宝です。現在では金峯神社が所有し、京都国立博物館にて厳重に保管。未来の弥勒の世のため、永遠に受け継がれてほしいと願います。

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山頂で小休止しているとR氏が現れました。難所の鐘掛岩をゆっくり登ってきたとのこと。単独行は寂しいので追従させていただきます。一人で踏破できる自信がありません……

0639、山上ヶ岳を出発。裏行場や稲村ヶ岳(1726.1m)には寄らず、尾根伝いに縦走して南の弥山を目指します。

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南西に見える山が目的地の弥山(1895m)。山上ヶ岳から大小のピークを越えて回り込むルート。順調に進んでも、あと10時間は歩かなければなりません。その奥には八経ヶ岳、釈迦ヶ岳…今は考えないでおこう。

R氏が担いでいるのは容量120Lのマカルー。ベテランの山屋に酷使される伝説のザックです。軽量化など気にせずパッキングして20kgを超える重量。百戦錬磨の登山家だけあって重さを感じていない雰囲気。ウルトラライトの対極に君臨する別次元の山行スタイルです。

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山中に点在する石積の跡。江戸時代にはお堂や茶屋があったと思われ、往時の大峯奥駈道の賑わいが想像できます。

小笹の宿

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0710、標高1630mの小笹の宿。第六十六靡の「小篠の宿」です。

最盛期に47軒ものお堂と茶屋がひしめいた情景は失われ、現在は行者堂、避難小屋、不動明王像、聖宝座像が並びます。テント泊に適した広場と水場があり、寝場所としては有効。昨日到着した人が出発準備を始めていました。

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行者堂と避難小屋。数人が寝られる程度の大きさですから、早めに確保しないと定員オーバーになります。あくまで避難小屋なので期待しすぎないように。

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ザックを下ろして小休止。カロリーを計算して小分けしたドライマンゴーが行動食。他にもパワージェルショッツと塩タブレットを用意しています。避難小屋の近くにある水場で水を補給。常に2L満タンにします。

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0723、出発。竜ヶ岳(1725m)の北を巻いて阿弥陀森へ。行動・小休止の時間配分はR氏に従います。

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尾根上に出ました。昨年の台風の影響で道が荒れており、地形を確認しないと道迷いの恐れがあります。倒木を跨いだり、くぐったり、迂回したり。一応、赤テープが目印なのかな?

女人結界門

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0750、女人結界門(1644m)。第六十五靡の「阿弥陀森」です。

阿弥陀森のピーク(1680m)の南西。吉野郡天川村と川上村の境界に相当します。かつての女人結界は小笹の宿に設置されており、昭和45年(1970年)になって現在地に移されました。

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女人結界の外側から。この先、女性は入山できない決まりです。地元の事情通の登山家から裏話を伺ったものの、掲載しにくい内容だったので詳細は控えておきます。

北側の五番関の結界(p.2)と同じく、大峯山寺から登山者へのお願いが掲示されています。大峯山の女人結界は長い歴史の中で築き上げられた伝統。修験道を再興・維持している大峯山寺の主張は尊重するべきです。くれぐれも人権ナンチャラで強行登山などしないようお願いします。

修験道は修行する山域によって派閥があり、大峯山の大峯修験と熊野三山の熊野修験は異なります。熊野三山でお祀りされる熊野権現は女性や穢れを嫌わず、どのような巡礼者も受け入れたという説話があります。個人的には開放的な熊野古道のほうが好き。

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阿弥陀森を過ぎると南に一直線。次は大普賢岳を越えていきましょう。第六十四靡の「脇の宿」は気付かず通過。それより先へ登っていかなければなりません。

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滑りやすい岩場の登り。登山者同士で上下から安全を確認。滑落しないよう慎重に、慎重に登ります。

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明王ヶ岳(1569m)から小普賢岳(1737m)へ。ピークハントには興味ないので素通りします。

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東方の眺望が開けました。右手には日出ヶ岳(1695.1m)を最高峰とする大台ヶ原。ということは、遥か彼方に見える陸地は志摩半島でしょう。

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まもなく大普賢岳。現在の気温は11℃で適度な涼しさ。飲み水の消費量を抑えられています。

夏場は飲み水の必要量が増える一方、補給のための水場が涸れてしまう場合があります。有害な蟲も大量発生し、ひたすら過酷な山行になるでしょう。やはり大峯奥駈道の踏破は春の連休が最も適しているのです。冬季縦走は…熟練者なら挑戦してもいいんじゃないかな。

大普賢岳

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0856、大普賢岳(1780.1m)。天川村・川上村・上北山村の境界。第六十三靡の「普賢岳」です。

山頂付近に分岐が存在し、南東に下ると第六十二靡の「笙ノ窟」へ。重要な行場ではありますが弥山を優先に。体力温存のため寄り道は控えます。

昨日、洞辻茶屋に泊まった登山者がちらほら。ハイペースで先行したはずのU氏を見つけました。N氏は弥山を目指して足早に出発したそうです。私達はゆっくり行きましょう。

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北には今朝登った山上ヶ岳。南西には今日の目的地である弥山。このペースなら12時頃に行者還小屋で昼食、17時までに弥山の山小屋に辿り着けそうです。

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0909、出発です。せっかく山頂まで登ったのにまた下り。以降もピークの登り下りを繰り返します。

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切り立った尾根上の道。もう穏やかな里山ではありません。これから更に深い山に入っていきます。

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0921、標高1690mの水太覗。まだまだ体力に余裕があります。

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弥勒岳(1688m)の北西を通過。第六十一靡の「弥勒岳」です。

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この先は険しい岩場が連続。内侍という山伏が転落したから「内侍落とし」。薩摩の者が転げて死んだから「薩摩ころげ」など、恐るべき名称が残っています。

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岩場を横断して国見岳(1655m)を回避。鎖が設置されているとはいえ足元が不安定。こんな難所を通った西行法師を尊敬します。

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1010、岩場の中に突然平地が現れました。標高1529m。テント泊に適した安全地帯。第六十靡の稚児泊」です。

時間に少し余裕があるため小休止。私と同じザックを担いだ登山者を見つけました。大型のGRAND CAPUCIN 75+は徒歩旅にも便利。もう7年も登山や野宿の旅に使っています。

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すぐに出発。岩場は続きます。

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修行に相応しいダイナミックな地形。岩場に通路が設けられています。

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鎖場を下って、また登って。D氏の練度も相当なものです。

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1044、七曜岳(1584m)。第五十九靡の「七曜岳」です。

狭い岩場に座り込んで弥山を視認。R氏はナビゲーションのスキルが非常に高く、地形図と眺望からルートの険しさを判断しています。縦走登山の熟練者ではないと謙遜されていましたが、ビギナーから見ると神様のような存在です。

弥山には設備の整った山小屋があり、テント場や避難小屋が併設されています。「もしかしたらビールを買えるかもしれない」とか言って無理やりモチベーションを高め、あと6時間頑張ります。

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1055、出発。七曜岳を一気に下って岩場を脱出。後はアップダウンを繰り返して弥山を目指します。

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無双洞への分岐を通過し、1485mのピークを越えました。徐々に弥山へ近付いています。

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1139、「みなきケルン」と名付けられた石積み。昭和40年(1965年)に命を落とした学生の遭難碑です。大峯奥駈道は毎年のように遭難事故が発生する深い山域。縦走だけでなくハイキングにも相応の危険が伴います。無理な山行はご遠慮ください。

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1152、行者還岳との分岐。多数の中型ザックが残置されており、ハイカーの皆さんが山頂に向かった模様。せっかくだから私達も寄り道していきましょう。D氏は疲労が溜まり、ここで休憩するとのこと。

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山頂へ。ザックを置いて軽快に登ります。ウルトラライト装備の登山者が羨ましい。

行者還岳

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1202、行者還岳(1546.6m)。第五十八靡の「行者還り」になります。山頂からの眺望は得られませんでした。

北東の分岐から登ると何の変哲もない山。南側は断崖絶壁の険しい山容になっており、役行者が引き返したという伝説が残ります。それで行者還岳と呼ばれるのですね。

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ピークだけ見て分岐に戻ろうと思ったら、山岳写真家に眺望ポイントを教えてもらいました。南西の弥山にアプローチするルートを改めて確認。時刻は12時過ぎ。午後の展望が開けました

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1215、分岐に戻って行程再開。行者還岳の南側を下ります。

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1228、行者雫水。貴重な水場です。2L足りているので補給しませんでした。

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1237、金剛蔵王の石碑が安置された行場。ここが現在の第五十八靡行者還り」です。

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遂に山小屋が見えました。

行者還小屋

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1237、標高1415mの行者還小屋。気温は15℃。平成15年(2003年)に行者還岳の南に新設されました。20人ほど収容可能、トイレも備える立派な山小屋です。当初の計画では行者還小屋に泊まる予定でした。

これより南の山体を行者還トンネル(R309)が貫いており、トンネルの西口・東口までマイカーでアクセスすることが可能。小屋で見かけた軽装備のハイカー達は全員マイカー組と推定。日帰りまたは山小屋泊で弥山や八経ヶ岳に登るのでしょう。GWらしく賑わっていました。

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山小屋に入って休憩。とても綺麗で快適に寝られそうです。

比較的順調なペースで進み、ここで昼食タイム。肉が欲しいので定番のビーフジャーキーを齧ります。これだけでも十分満たされてパワーバーは不要でした。 ちなみにアミノバイタルプロは1日3食分を用意。合法的なドーピングです。

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1310、しっかり休んで出発。ハイカーの皆さんに見守られながら弥山へ。

世間的には大型ザック=熱心な縦走登山家。初日の最寄駅や電車内でも見知らぬ人に応援されました。この辺りの山域で大型ザックを担ぐのは奥駈組と決まっており、日帰りハイカーから狂った登山家と認識されているようです。ああ、私は山屋ではございませんよ……

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行者還岳の次は一ノ垰。大小のピークを越える尾根道です。軽装備の気楽なハイカーが羨ましい。

天気予報によると、早ければ今夜から雨。テントを濡らすと面倒なことになりますから、弥山の山小屋を利用するのがベストです。混雑していなければいいのですが。

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地形図上のピークは1486m、1458m、1472m。実際には偽ピークが多くて何度も登らされている感覚。弥山まで、こんな調子でアップダウンが延々続きます。

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根本から倒れた木。台風の影響でしょう。所々で荒れており不明瞭な道もあります。

一ノ垰

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1409、一ノ垰(1466m)。第五十七靡の「一の多和」です。垰(多和)とは山上の鞍部を指す言葉。かつては一ノ垰にも宿があったのだとか。

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1412、一ノ垰の先の分岐で小休止。長丁場で疲れが溜まり、体全体が重いです。単独行なら座り込んで進めなかったでしょう。

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1427、重い腰を上げて出発します。

分岐を西に入って弥山まで一直線。この先も緩いアップダウンの繰り返し。最後は長い急登が待ち構えています。かなり、疲れて、います。

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1445、奥駈道出合。行者還トンネル西口に下る分岐です。日帰りのハイカーはこれから下山の時間。我々も早く弥山に着いて行程を終えたいです。

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2日目にして体力を失い、気力で登ります。熊野まで後4日。一体どうなるのでしょう?

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1510、弁天ノ森(1600.5m)。この手前が第五十六靡の「石休宿」でした。

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弁天ノ森を下ってまた登り返し。何も考えず、ただ登ります。

聖宝ノ宿

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1547、標高1562mの聖宝ノ宿跡。第五十五靡の「講婆世宿」です。

ここで講婆世宿の由緒を紹介しておきましょう。飛騨国の僧侶の講婆世は僧正の位を請願するも認められず、大峯に入って帝を呪詛し、病気にさせて大僧正の位を手にします。しかし自らの罪を悔い、当地で身を捨てたという伝説が生まれました。中世まで講婆世僧正の木像があり、修験者から崇敬されていたとか。

一方の聖宝ノ宿は、空海の弟の弟子であった聖宝に由来。聖宝(理源大師)は役小角が開いた大峯修験を再興したとされ、弥山に登拝した際に病気になって当地で入寂されたと伝わります。もちろん役小角と同じく後世に伝説化された人物なのですが、中世以降は聖宝の史跡として崇められたようです。

ここに安置された理源大師像は江戸時代初期、元禄5年(1692年)に鋳造されたと判明しています。聖宝ノ宿が衰退した後は野ざらしになって損傷してしまい、大正9年(1920年)に大修理され原型を留めていないらしい。……案内板がないので文献を参照しないと由緒不明です。

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いよいよラストスパート。弥山八丁と呼ばれる300mの直登へ。山頂まで1時間ぐらいかかるでしょう。

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弥山から北の眺望。午前中に縦走した岩山がそびえています。こんなに険しい山々を進んできたんだ。

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階段が続く急斜面。少し登るたびに小休止。奇声を発しながら気力を振り絞って弥山へ。流石のR氏も疲労が滲み出ています。

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山頂の山小屋へ。一歩ずつ、確実に。そうやって吉野から40kmぐらい歩きました。真面目に歩き続けることに意味があります。

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R氏とD氏より先行して登ります。もう少し、もう少し…山頂は近いです。

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山頂付近。あれが最後の階段のはず。

弥山

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1701、 弥山の山小屋に到着!既に山小屋とテント場は奥駈組で賑わっています。小屋の標高は1876m。1895mの山頂は奥にあります。ここが第五十四靡の「弥山」です。

洞辻茶屋から弥山まで11時間半。2日目の歩行距離は約22kmでした。(個人差があります)

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明らかに只者ではない人を見かけて話を伺いました。この方は大峯奥駈道を1泊2日で走破するトレイルランナー。テントやシュラフは携行せず、シートにくるまって仮眠するのみ。極限まで切り詰めたウルトラライト装備で走り続けるそうです。絶対真似したくないけど凄い。きっと天狗だと思う。

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R氏とD氏も山小屋に到着。山小屋で宿泊するのは贅沢だと思ったので、避難小屋の受付を済ませて500円でビールを購入。早速、一緒に歩いてきた仲間とともに祝杯をあげます。R氏に牽いてもらわなければ辿り着けなかったでしょう。

弥山には30名ぐらい泊まっている雰囲気。逆峯だけでも50名以上縦走しているのは確実で、順峯とあわせて100名以上が大峯に潜伏しているはず。例年の連休なら日数が足りず縦走できなかった人達が、今年の10連休で一気に集結したのでしょう。しかも熟練者揃いです。

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何故か誰も利用しない避難小屋へ。15人ほど収納可能な広々とした小屋です。

避難小屋を称する割には無料ではなく3000円。ちょっと高い気もしますがトイレ等の設備が整って、
外気から遮断されてくつろげるからありがたいです。上記のようにビールや食糧、水も補給可能でした。山小屋を選んだ登山者も多かったです。

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エネルギーが尽きる前に夕食の準備。温かいピラフを食べると体力が戻りました。今日はこれ以上、山道を歩かなくていい。そう思うだけで幸せです。

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夕食を済ませたら弥山の山頂へ。実は弥山に登ったのは初めてのことではなく。2017年5月に大峯奥駈道の下見として訪れました。当時は近鉄下市口駅から天川村の川合集落までバスを利用。最短ルートで弥山に登り、狼平でテント泊の後に下山しました。

この鳥居をくぐると山頂の弥山神社。南から狼平、栃尾辻を経て川合集落に至ります。これ以上縦走を続けられない場合はエスケープが可能。下山(リタイア)の決断は早ければ早いほどいいです。無理して縦走を続けるのは危険ですから。

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南には明日の早朝に登る八経ヶ岳(1915.2m)。その奥には仏生ヶ岳や釈迦ヶ岳が控えています。この先、次々に難路が立ちはだかるでしょう。気力だけで越えてみせます。

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弥山神社の鳥居前に「皇太子殿下行啓記念」の石碑。大正時代に皇太子殿下(後の昭和天皇)が登山されました。

弥山神社

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弥山の山頂(1895m)に鎮座する弥山神社。山麓の天河神社(天河大辨財天社)の奥の院です。吉野蔵王と熊野権現の中間に位置することから、吉野熊野宮とも呼ばれました。

主祭神は市杵島姫命、天宇受売命、吉野坐大神、熊野坐大神。天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、伊耶那岐命、伊耶那美命、天照大御神、月読命、建速須佐之男命など多くの神様をお祀りし、習合して天河大辨財天、法辨財天と称しています。

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こちらは役行者堂です。

古くは御山または深山と呼ばれた霊山。山頂から五鈷杵など修験道の法具が発見されており、平安時代から続く修行の場であったことが判明しています。近世以降は宇宙の中心、万物の根源を成す「須弥山」に因み、「弥山」と呼ばれるようになりました。

天河神社と弥山神社の創建年代は不明。社伝によると役小角が大峯山の蔵王権現に先立って勧請、天降る天女を辨財天と感得されて山頂にお祀りしたのが起源です。山岳と水への信仰が、弁財天信仰と習合して発展したと考えられる社。千年以上も昔、この山に登って祭祀を行う人々が確かに存在しました。

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暗くなってきたので小屋に戻ります。現在の山小屋は平成6年(1994年)に建て替えられ、最大250人を収容可能な大きさと設備を誇っています。

かつての弥山には池宿という宿があり、後に吉野熊野宿、近世以降は弥山宿に変わりました。当時これほど立派な山小屋が整備されているわけがなく、修験者は質素な参籠所で休み、厳しい修業を続けました。楽しい登山とはかけ離れた世界です。

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日が暮れて避難小屋にIN。室内は6℃。D氏が酎ハイを買ってきてくれて再び酒盛り。こんな様子を修験者に見られたら呆れられそう。

他に避難小屋を利用する登山者は現れず。ウェットティッシュで体を拭いたり、装備を整理したり、恵まれた環境にいるうちに出来ることを全部やります。今日の出来事のメモ、明日のルート確認も忘れずに。テント泊ではなかなか余裕が持てません。

マットとシュラフを敷いたら旅人同士で語り合います。R氏は本当に経験豊富で、旅や装備の話がとても面白い。私も真っ当な社会人なんかより遊び人に憧れるタイプ。そうやって自転車と徒歩の旅に熱中してきました。この苦行が終わったら出雲と佐渡の旅です。

1945、明日の天気を心配しつつ就寝。
3日目に続きます。

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