東方巡遊記

大峯奥駈道トレッキング

目次

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プロローグ
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吉野駅金峯山寺吉水神社吉野水分神社金峯神社愛染の宿青根ヶ峰四寸岩山足摺宿二蔵宿女人結界門洞辻茶屋
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エピローグ

2019年4月27日(土) 1日目

苦行の始まり。

「東方巡遊記」にアクセスしていただき、誠にありがとうございます。当サイトの情報は一旅人の感想に過ぎません。記載内容を過信して発生したトラブルには一切の責任を負いかねますので、必ず注意事項に目を通した上で記事をお読みください。写真・文章等のコンテンツは形態を問わず転載を禁じます。

近鉄吉野駅

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0430に自宅を出発して吉野へ。0755、近鉄吉野線の吉野駅にて下車。ここは大和国吉野郡/奈良県吉野郡吉野町です。

橿原神宮駅から登山者やハイカーが続々加わり、吉野に向かう電車には20名ぐらいの山屋が乗車していました。吉野駅で降りた人達の装備を見たところ、奥駈組は10名程度。熊野まで孤独な苦行が想像され、恐ろしくなってきました。

山麓の吉野駅の標高は200m。大峯奥駈道を歩いて熊野本宮大社まで約100kmの行程です。険しい縦走路が延々続き、エベレストを登って下るのと同じ標高差。世間では、西日本で一番過酷なロングトレイルと認識されています。

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桜のシーズンが終わって閑散とした吉野駅前。気温は15℃。どんよりした天気で雨の気配を感じます。ハイカーに山上までタクシーの同乗を勧められるも丁重にお断り。全行程を自分でザックを担いで歩き通すことに意味があります。

今年のGWは天皇陛下の退位と即位に伴う10連休が設定され、多忙な社会人にとって大峯奥駈道を踏破できる絶好の機会でした。今日出発すると5日目に令和元年を迎え、6日目に熊野本宮大社でゴール。あくまで順調に進んだ場合の話であって、途中のリタイアも十分考えられます。まだ旅は始まってもいません。無事に踏破できるのか、誰にも分からないのです。

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出発前に装備をしっかり点検。ザックが18kg、サコッシュが0.5kgで合計18.5kg。直前まで軽量化のために装備の削減や入れ替えを行い、無事、構想段階の目標だった20kg以内の重量に収められました。前々日に新しいレインウェア、前日にサコッシュが届く慌ただしさです。

初めて熊野を歩いたのは2009年12月の「熊野古道トレッキング I」。当時はサイクルツーリング(自転車旅行)の野宿装備を流用しており、テントを携行しないにもかかわらず総重量20kgオーバーの有様でした。2015年12月の「熊野古道トレッキング V(執筆中)」を終えて装備を見直し、見た目は変わらなくとも、中身は大峯奥駈道のために一新されています。

もちろん、旅を実施する自分自身も大きく変わりました。9年前に熊野を歩いた時、大峯は絶対ムリだと思っていましたから。

吉野山地図 
こちらが吉野山周辺の地図。

吉野山とは金峯山寺を中心とする山域のこと。吉野川から金峯神社に至るまで寺社や史跡が連なり、じっくり歴史探訪をすると丸一日かかるほど広い地域です。大峯奥駈道の行場である七十五靡を辿って熊野を目指す場合、近鉄六田駅で下車して吉野川を渡るところから行程が始まります。

※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋。「カシミール3D」で出力し、ポイントを追記。利用規約に基づいて掲載しています。

実は「大峯奥駈道トレッキング」実施前の事前調査として、2016~2018年にかけて3回吉野を訪れて金峯神社まで確認済み。2017年12月の「吉野山探訪 II」に史跡探訪の情報をまとめています。今回の山行で省略した箇所も紹介しておりますので、そちらのレポを参照してください。

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0815、本宮を目指して滞りなく出発。

吉野ロープウェイの千本口駅から七曲りに取り付き。ロープウェイは2017年4月の事故から運休状態だったのが、今年3月、桜のシーズンを前に運行を再開されています。観光で訪れる際はどうぞ。

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七曲りを登って吉野山の尾根上へ。その名の通り、つづら折れの急坂です。

吉野といえば桜の名所として有名な観光地。下千本・中千本・上千本・奥千本の4エリアが存在し、ここは吉野山の入口にあたる下千本エリアになります。数週間前まで七曲りは大変な混雑だったはず。

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0830、尾根上の街道(R15)に上がりました。無料休憩所でザックを下ろし、吉野駅を眺めて小休止。装備を軽量化したとはいえ重いことに変わりはありません。これから山に入って6日間も歩くとは…先が思いやられます。

私は登山には興味のない旅人。熊野古道の大部分を踏破してしまった以上、最難関の大峯奥駈道を歩かないわけにはいかず、重い腰を上げて縦走登山を実施することになりました。この旅を終えれば、やっと重荷から解放されるのです。

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2016年12月29日撮影分。近鉄吉野線の六田駅にて下車。ここは奈良県吉野郡大淀町です。

吉野川北岸に位置する六田駅は、七十五靡を辿って熊野を目指す行程の起点。ここから柳の宿跡、丈六山を経て七曲りの上まで、大峯奥駈道のルートの一部として紹介しておきます。

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2016年12月29日。吉野川の両岸を結ぶ柳の渡し跡。北が吉野郡大淀町、南が吉野町です。

平安時代、大峯修験を再興した聖宝によって開かれたと伝わり、大正8年(1919年)に美吉野橋が架かるまで大いに賑わったそうです。柳の傍らに江戸時代後期の天明6年(1786年)の常夜燈が移設・現存。実際の渡し場は少し上流にあったそうですが消滅。面影はありません。

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2016年12月29日。美吉野橋を歩いて吉野川を渡ります。

南詰には修験道の開祖とされる役行者(役小角)像。飛鳥時代の舒明天皇6年(634年)に大和国茅原に生まれ、葛城山や金峯山で修行し修験道の礎を築いたと伝わります。その活躍は伝説化されており、実態はよく分かっていません。

中世に修験道が隆盛する中で偉大な修験者として崇敬され、入寂から1100年を迎える江戸時代後期の寛政11年(1799年)、時の光格天皇によって「神変大菩薩」の諡号を送られました。修験道が衰退した今でも、信仰は受け継がれています。

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2016年12月29日。集落を抜けて山に入った辺りに、第七十五靡の「柳の宿」があったらしい。靡の多くは廃絶し、その古態は不明です。

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2016年12月29日。車道を跨いで山道を登ると吉野神宮の境内へ。少しでも迷うと行程が遅れます。要注意ですよ。

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2017年12月2日。明治25年(1892年)、明治天皇の意向で創建された吉野神宮。南朝を立ち上げた後醍醐天皇を奉斎、顕彰する新しい社です。

文保2年(1318年)に第96代天皇に即位した後醍醐天皇。武家政権である鎌倉幕府を打倒すべく挙兵するも捕らえられ、流された隠岐島から脱出。足利高氏とともに幕府を滅ぼしました。京の都に戻った後醍醐天皇は天皇親政の建武の新政を開始するも、あらゆる滅茶苦茶ぶりで各方面の不満を招き、 僅か2年半で失脚します。

それでも諦めない天皇は延元元年(1336年)に都を脱出。山深い吉野の地で南朝を立ち上げて北朝・室町幕府と対立しますが、北朝打倒は叶わず、3年後の延元4年(1339年)に吉野行宮で崩御されました。南北朝の対立は続き、正平3年(1348年)には吉野が攻略されて行宮が焼失。後村上天皇は賀名生に逃れ、吉野の南朝が栄えたのは僅かな期間でした。

元中9年/明徳3年(1392年)の明徳の和約により両朝が合一。天皇が二人も存在した57年に及ぶ南北朝の混乱が終わりました。後世には後醍醐天皇の野望や南朝について様々な観点で評価が下され、明治維新後、南北朝の正統性を巡って学者や政治家を巻き込む論争が勃発。明治天皇(北朝の子孫)の裁定で南朝が正統ということになっています。

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2017年12月2日。吉野神宮は標高272mの丈六平に位置します。元弘3年(1333年)、護良親王が吉野で鎌倉幕府に対し挙兵。その際、幕府の軍勢が本陣を置いた場所として知られています。

吉野山は神仏習合の修験道の一大道場であり、丈六平にも蔵王堂を始めとする諸堂が並んでいました。残念ながら吉野神宮を造営する際に整地されて跡形もなく消滅。この辺りが大峯奥駈道の第七十四靡丈六山」の跡地と思われます。後醍醐天皇を顕彰する一方で、歴史ある寺院が抹消されてしまいました。

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2016年12月29日。吉野神宮から金峯山寺方面に歩きます。

急な不動坂を上がると峰の薬師堂跡。丈六平と同じく明治時代に跡形もなく破壊され、本尊の薬師如来像は金峯山寺に移されました。一部の仏像が破壊を免れたことは幸いです。

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2017年12月2日。史跡や眺望を楽しみながら金峯山寺へ。ここまで事前調査の抜粋でした。

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では先へと進みます。吉野ロープウェイの吉野山駅を過ぎて、金峯山寺の総門である黒門をくぐりましょう。

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商店が並ぶ門前町。銅の鳥居が見えました。早朝の吉野は観光客が少なくて静寂そのもの。吉野駅を出発した登山者の皆さんはペースが速く、もう一人だけになってしまいました。孤独な旅路です。

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室町時代に建てられたと伝わる銅の鳥居。扁額に「発心門」とあり、聖域の入口を示します。中世の修験者も気持ちを引き締めて通ったでしょう。

傍らには吉野山と大峯奥駈道の地図が設置。ひと目で長く険しい道のりだと分かってしまいます。初日は吉野山域を抜けて大天井ヶ岳手前の二蔵宿まで。少しずつ、少しずつ、距離を伸ばしていくのです。本当に辿り着けるのでしょうか……?

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金峯山寺へ。門前町の雰囲気はとても良いです。吉野山をじっくり探訪するのがオススメ。

今回は6日間で奥駈道を踏破するのが目的。初日からのんびり史跡巡りをやってる余裕はありません。二蔵宿まで少しの遅延も許されないシビアな行程です。(一応、余裕をもった計画を組んでいます)

金峯山寺

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0843、金峯山寺の仁王門に到着。標柱には「修験道 根本道場 金峯山寺」。現代においても修験道の一大道場であります。

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2017年12月2日撮影分。

仁王門が建てられた年代は不詳ながら、下層は室町時代の延元年間(1336~1340年)頃、上層は康正年間(1455~1457年)頃の再建と推測。金峯山寺では最古の貴重な建築物であり、国宝に指定。現在、内部の仁王像とともに大修理が行われています。

さて、金峯山寺の本堂たる蔵王堂は南向き。にもかかわらず北の仁王門が正門になっています。かつては南に正門としての二天門が存在していましたが、正平3年(1348年)に戦乱で焼失して以来再建されていません。

中世に隆盛した大峯修験の形式にも流行り廃りがあり、熊野から順峯する修験者がいなくなって南門の役割が失われ、逆峯する際の北門(仁王門)が正門になったと考えられています。登山のチェックポイントみたいな感覚で通り抜けるのではなく、修験道の聖地としての歴史的背景を大切にしたいです。

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仁王門を抜けると本堂の蔵王堂。本尊である蔵王権現に奥駈の開始を報告。いよいよ逆峯で熊野を目指す旅が始まります。

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2017年12月2日。金峯山寺蔵王堂の全景。標高は365m。大峯奥駈道の第七十三靡吉野山」です。

蔵王堂は金峯山寺の中心となる本堂であり、秘仏の本尊、蔵王権現三体のほか多くの尊像を安置。文献上は平安中期の康和5年(1103年)には存在しており、現存の建物は安土桃山時代の天正20年(1592年)の再建。仁王門と同じく国宝に指定されています。

金峯山とは吉野山から大峯山(山上ヶ岳)に至る山域のこと。古来より神聖な山々として人々に崇拝される聖域でありました。飛鳥時代の白鳳年間、山岳呪術者の役小角が金峯山に修行に入り、修験道独自の本尊である金剛蔵王大権現を感得されたと伝わります。

寺伝によると役小角が桜の木に蔵王権現の姿を刻み、大峯山と吉野山で祭祀を行ったのが金峯山寺の始まり。以来、吉野では桜を御神木として崇める風習が生まれ、山中に桜が植えられて桜の名所になりました。

平安時代、都で密教や修験道が隆盛。金峯山の蔵王権現の信仰も盛んになりました。末法思想の流行で金峯山詣が行われるようになり、熊野と吉野を結ぶ長く険しい修行の道が開かれました。これが大峯奥駈道として知られるルートの起源です。

やがて熊野三山を巡る熊野詣が始まり、大峯と熊野の山々は修験道や巡礼で栄えます。深い山中を抜けるための道や宿坊が各地に整備され、熟練の修験者が先達として奥駈を指導する体制が成立。中世から近世にかけて、多くの人々が大峯に入りました。

ところが明治に神仏分離・廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、神仏習合の修験道は廃絶に追い込まれる事態になりました。金峯山寺も廃止を余儀なくされますが、天台宗寺院として再興。昭和23年(1948年)には独立して金峯山修験本宗の総本山になり、一度は衰退した大峯奥駈の修験道の復興に尽力されています。

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金峯山寺から南へ。上述したように、古くはここに二天門がありました。小雨が降ってきたのでザックにレインカバーを装着。雨続きの山行も想定のうち。構わず大峯へ進みます。

大峯奥駈道踏破の目安となる七十五箇所の「靡(なびき)」。昔は山中の道や里(距離の単位)を示す言葉だったと考えられ、近世または近代になって霊場・行場という解釈に変化したようです。大峯で行われた山岳修験は詳しい記録を残さずに衰退してしまい、残念ながら靡の多くも廃絶。古態は謎に包まれています。

本レポでは森沢義信氏の『大峯奥駈道七十五靡』に基づき、大峯奥駈道の七十五箇所の靡を簡潔に紹介していきます。全てチェックできず見落としてしまった箇所もあります。完璧ではありませんのでご容赦ください。

吉水神社

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ザックの重さを感じながら早足で歩きます。左には後醍醐天皇ゆかりの吉水神社の鳥居。もう史跡に寄り道できる時間はありません。

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2017年12月2日。後醍醐天皇をお祀りする吉水神社。

社伝によると飛鳥時代の白鳳年間、役小角によって創建。元々は吉水院と称し、金峯山寺の格式高い僧坊として栄えました。後醍醐天皇が吉野に逃れた際は吉水院の宗信法印の援助を受けて、ここに南朝の行宮を設置。後に実城寺を行宮に定めました。吉水院は南北朝時代の始まりの地なのです。

明治時代の神仏分離で吉水院の寺号は廃止され、後醍醐天皇、楠木正成、宗信法印を祭神とする吉水神社に。修験道の廃絶、吉野山の諸堂破壊、金峯山寺と吉水院の廃止…史跡巡りの旅をやっていると各地で明治の寺院抹消の跡を目にします。急激な近代化と国家の発展の影で、多くの文化が葬り去られたのです。

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街道の一角に鎮座する勝手神社。天之忍穂耳命を主祭神として、大山祇命、久々能智命、木花咲耶姫命、苔虫命、葉野姫命を配祀。

創建年代は不明ながら吉野八社明神の一社。金峯山の入口に鎮座することから吉野山口神社と称しました。平成13年(2001年)に不審火で焼失し、御神体は吉水神社に遷座。以来、本殿再建のための寄付金を募りながら現在に至っています。寺社を破壊するなど絶対に許されない。必ず罰が当たります。

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0900、分岐です。左に下ると吉野山の中千本エリア。谷の向こうに如意輪寺と後醍醐天皇陵があります。ストレートに大峯奥駈道に向かう場合は右へ進みます。

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2016年12月29日。如意輪寺と後醍醐天皇陵に参拝しました。

平安時代前期の延喜年間(901~923年)、日蔵(道賢)上人によって開かれた如意輪寺。後世には吉野に逃れた後醍醐天皇の勅願寺になりました。天皇は延元4年(1339年)に崩御、当寺の裏山に埋葬されます。「身は仮へ南山の苔に埋まるとも魂魄は常に北闕の天を望まん」と、最期まで北朝討伐を願っていたとされます。

後村上天皇御代の正平2年(1347年)、南朝の武将である楠木正行(忠臣楠木正成の息子)が、四條畷の戦いに出陣する直前に如意輪寺の御陵に参拝。本堂の扉に鏃で辞世の句を刻んだものが現存します。決戦に赴いた正行は二度と帰りませんでした。

後醍醐天皇の御陵は宮内庁により塔尾陵として管理。傍らに長慶天皇の皇子である世泰親王も埋葬されています。一般的な南向きの天皇陵とは異なり、北向きに造られた陵墓。吉野の遥か北に位置する京の都を見据える向きになっています。この御陵を訪れたとき、後醍醐天皇の強烈な思念を感じました。

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喜蔵院、善福寺、桜本坊の前を通り、速須佐之男命を祀る小山神社前を左へ。青空が見えてきました。

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徐々に登りがきつくなります。宗信法印の墓所を過ぎて上千本へ。色々な史跡が点在します。

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上千本エリア。つづら折れの急坂です。本宮大社まで所々に大峯奥駈道の標識が設置。『山と高原地図』と併せてナビゲーションしても、山中には迷いやすい箇所が多数存在しています。ルートの確認を怠らないでください。

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まもなく吉野水分神社。その前に花矢倉展望台に寄り道します。

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0933、花矢倉展望台から北の眺望。尾根上には金峯山寺を中心とする吉野の町並み。都から遠く離れた山中に存在することが分かります。気温は9℃。風が強くなり、一気に冷えてきました。

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2017年12月2日。普段の史跡巡りではフィルムカメラを多用。歴史探訪にふさわしいレトロスペクティブな風景を撮影できます。

ここは大和国吉野郡/奈良県吉野郡吉野町。奥の山々は大和国(奈良県)と河内国(大阪府)の境界の金剛山地。左から最高峰の金剛山(1125m)、水越峠(516m)、葛城山(959.2m)。そして雌岳(473.9m)と雄岳(517m)から成る双耳峰の二上山です。役小角は金峯山に入る前、金剛山地で修行したと伝わります。

吉野は『古事記』と『日本書紀』にも登場する地名です。神日本磐余彦尊は日向国(宮崎県)から東方を目指して船出し、熊野神邑(和歌山県新宮市)に着き、八咫烏の導きで吉野へ北上。奈良県の畝傍山南東に橿原宮を築いて初代天皇(神武天皇)に即位。大和朝廷を立ち上げて日本という国が始まったことになっています。

神日本磐余彦尊が訪れた頃には先住民が暮らしていたらしく、応神天皇や雄略天皇の時代には吉野宮なる離宮が設けられました。西暦672年。天智天皇の弟の大海人皇子が吉野へ隠棲するも挙兵し、近江朝廷を滅ぼして飛鳥浄御原宮を築き天皇(天武天皇)に即位。これが古代史上最大の内戦とされる壬申の乱です。

一般的には後醍醐天皇が逃れた地として有名な吉野。神武天皇から役小角まで多くの伝説が語り継がれており、歴史的背景を詳しく紹介していくと1ページには収まりません。「大峯奥駈道の入口」程度の扱いでは済まされない場所なので、かなり簡潔に吉野の歴史の古さについて触れておきました。

吉野水分神社

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0938、標高597mの吉野水分神社(子守宮)。近世まで大峯奥駈道の七十五靡には含まれておらず、新しく第七十二靡の「水分神社」に指定されています。

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2017年12月2日。楼門の奥にひっそり佇む社殿。厳かな雰囲気です。正殿に天之水分大神、左殿に高皇産霊神、少名彦神、御子神。右殿に天萬栲幡千幡姫命、玉依姫命、瓊々杵命をお祀りします。

創建年代は不明。天之水分大神の神名が表すように、山の水を田畑に分配する神様として崇敬されています。平安時代の『延喜式神名帳』にも記載される古社であり、後に「みくまり」が「みこもり」に転じて子守明神に。この辺りは子守集落と呼ばれます。

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北の高城山(698m)には登らず金峯神社へ。道沿いに牛頭天王社跡や修験者の供養塔が残り、ただのトレイルコースではないと実感するはずです。

金峯神社

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1004、金峯神社の境内に至る修行門。門前町の「発心門」が金峯山の一の鳥居、「修行門」が二の鳥居という位置付けです。いよいよ山が近付いてきました。

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1010、急な参道を登って金峯神社に到着。標高749m。第七十一靡の「金峯神社」です。

休憩所では数名の奥駈組が準備中。麓からも続々と登山者が追いついてきました。全員が単独行のテント泊装備。目指す方向も同じです。せっかくなので3名と臨時パーティーを組んで歩くことに。孤独な縦走登山は寂しいですから……

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2017年12月2日撮影分の金峯神社。

祭神は吉野山の地主神である金山毘古命。創建年代は不明ながら『延喜式神名帳』に記された古社です。この山域は古くから金峯山や金の御岳と呼ばれる聖地であり、神仙境や黄金浄土という観念から黄金の産出地と信じられ、金山毘古命の社が創建されたとする説があります。

後世には黄金にまつわる数々の伝説が作られ、神仏習合の時代は金精大明神として崇敬されました。実際のところ、金峯山で金鉱脈は見つかっていませんが、古代の人々の霊山の意識は現代にも受け継がれています。

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1017、4名で金峯神社を出発。分岐を直進して青根ヶ峰方面に登ります。

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2017年12月2日と2018年4月8日。分岐を右に入ると桜の名所の奥千本エリア。西行法師が暮らした西行庵が再現されています。

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、全国を旅しながら風流な歌を残した西行法師。桜と月を愛した歌聖として知られる偉大な僧侶です。若くして出家した後、吉野山で暮らした時期があり、この山の美しい桜を愛していました。

西行は50歳を過ぎてから熊野詣に行き、極めて過酷な修行で知られた大峯奥駈道にも挑戦。順峯と逆峯どちらで踏破したのか定かではないものの、『山家集』に大峯の山々や宿の名が記されていることから、間違いなく熊野~吉野を修行しながら歩き通しています。

交通手段やアウトドア装備が未発達の時代に、感傷的な歌を残しながらも屈強な精神で道を進んだ西行。歌聖というより徒歩の旅人、遊び人として尊敬すべき人物です。西行は私の徒歩旅のあり方に大きな影響を与えてくれました。今回の大峯奥駈には、西行の足跡を辿る目的もあるのです。

2016年4月、桜が満開の頃に「弘川寺探訪 II」を実施。西行法師終焉の地である河内国(大阪府)の弘川寺を訪れました。偉大な旅人、西行の軌跡を紹介していますので興味ある方はどうぞ。当サイトの主題である「東方舞台探訪」に基づいた探訪レポです。

愛染の宿

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1021、標高791mの安禅寺宝塔院跡。かつて第七十靡の「愛染の宿」がありました。ここにも分岐が存在、右に下ると奥千本エリアです。今のところ予定通り。16時までに二蔵宿に到着したい。

「宿」とは修験者が利用した宿所のこと。修験者は宿に逗留し、周辺の行場を訪れて修行しました。時代の流れとともに山中の宿の大部分は衰退して失われ、靡と同じく、跡地としてその名を残すだけになっています。

安禅寺の愛染の宿は大峯奥駈道の入口に置かれました。吉野山の奥の院とも呼ばれて諸堂が並ぶ寺院であったのが、明治時代の廃仏毀釈で跡形もなく抹消。何も残っていません。破壊された寺院と史跡…こんな話題ばかりなのが悲しいです。

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吉野駅を出発してから2時間。ようやくトレッキングらしい道に入りました。ここまで導入部、これからが大峯奥駈の本番です。まずは尾根伝いに青根ヶ峰へ。賑やかになってきました。

パーティーの皆さんはロングトレイルの踏破が目的。テント泊装備で僅か11kgというウルトラライト装備のU氏。ランドナーでユーラシア大陸を横断して登山経験も豊富なR氏。自然調査の専門家で当然のようにアウトドア経験の豊富なN氏。奥駈踏破に相応しいベテランの登山家ばかりです。

一方の私は吉野から熊野に至る史跡を巡るために入山。歴史探訪とトレッキングを兼ねた徒歩旅みたいな意識です。もちろん大峯で徒歩旅の計画・装備は一切通用しないため、この旅に合わせて仕方なく縦走登山用の装備を揃えました。そんなわけで、見た目は登山家と変わりません。

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1028、 青根ヶ峰への分岐。余裕があるので登っていきましょう。

傍らには女人禁制を象徴する女人結界の標柱が設置。「右 大峯山上 従是女人結界 左 蜻蛉滝」と刻まれています。昭和45年(1970年)、女人禁制の範囲は南の五番関まで縮小。この標柱は役割を失い、昔の風習を物語る記念碑になりました。

青根ヶ峰

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1032、青根ヶ峰(858.1m)。せっかく登ったのに眺望はありませんでした。

「何もないですね……」と呟きながら小休止。たった数分の登りでも体力は確実に失われます。以降、回避できるピークは素通りする方針が確定。この決断は正しかったと思います。

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一旦、舗装された林道に合流。山上ヶ岳に至るイラストマップがありました。

青根ヶ峰の先には四寸岩山、大天井ヶ岳、山上ヶ岳。計画上の目的地は大天井ヶ岳の前の百丁茶屋跡(二蔵宿)。皆さんは山上ヶ岳を越えたがってるけど不可能でしょう。その手前の洞辻茶屋には到達できそうです。無理せず、確実に。

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山道に入って、また林道へ。自転車なら快適に走れそうな舗装路。黒滝村と川上村の境界です。

実はR氏だけでなくN氏もサイクルツーリスト。自転車の野宿旅の話題が通じるのはとても楽しい。旅人にしか理解できない独特の世界観があります。登山とは大きく異なる分野ですね。

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正面に見えるのが四寸岩山。先頭を交代しながら進みます。

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まだ里山のような雰囲気。体力が余っているから楽々登れます。もちろん、そう言っていられるのは初日だけ。

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小休止しながら心見茶屋跡、守屋茶屋跡を通過。昔は修験者や参詣者のための茶屋や宿が山中に点在。修験道が衰退した現在では僅かな小屋しかありません。そういう事情は熊野古道も同じです。

『山と高原地図』で現在位置と今後のルートを確認。標識だけを頼りに歩くのは危険。道迷いの恐れがあります。大峯奥駈道の単独踏破に挑戦するレベルの登山家であれば、十分な経験と装備が備わっているから大丈夫でしょう。ナビゲーションは絶対に欠かさないように。

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四寸岩山へ。南の山上ヶ岳には雪が残っています。春でも降雪したり氷点下になるのは想定済み。3シーズン装備では低体温症の恐れがあります。

四寸岩山

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1209、標高1235.9mの四寸岩山(守屋岳)。麓の吉野駅から1000m以上登りました。

ピークで小休止するとすぐに出発。1日あたりの行動距離・時間が非常に長いため、いちいち座り込んで大休憩するわけにはいきません。登山経験の豊富な皆さんのペースに着いていきます。

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西の和歌山方面の眺望。まだ深い山々の入口に過ぎません。

足摺宿

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1224、足摺茶屋跡(足摺宿)。標高1185m。1205mのピークの手前です。自炊や野営の手段が限られていた時代には、山中の茶屋や宿が重要な役割を果たしました。

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足摺宿の内部。蔵王権現をお祀りする蔵王堂が設けられています。修験者のお堂であって登山者の寝場所ではないものの、悪天候時の避難小屋としての利用は許されると思います。

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小さいピークのアップダウンが続きます。18.5kgのザックが段々重くなってきました。脚が攣りそう。

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1258、林道に合流します。

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山道に復帰。前方に二蔵宿が見えました。3名ともペースが速くて追い付けません。これが登山経験の差です。

二蔵宿

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1312、初日の目的地だった百丁茶屋跡(二蔵宿)。標高1076m。ここが第六十九靡の「二蔵宿」です。かなりのハイペースで歩き続けたこともあり、予定より3時間も早く到着できました。

吉野駅から5時間。スローペースで行動する人は二蔵宿でストップ。宿泊に適した立派な避難小屋が設置されており、中は休憩または宿泊する登山者で満員でした。長居する気はなく小屋の外で休みます。

GWは大峯奥駈道の踏破で賑わうシーズンです。昼過ぎに小屋に着かないと定員オーバーになる場合も。軽量化といってテントを携行せず小屋泊を前提にすると、当てにしていた寝場所が使えない事態が予想されます。緊急用のツェルトぐらい用意したほうがいいですよ。

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二蔵宿の設備。テント泊可能な広場に簡易トイレ。近くには水場もあるらしい。(未確認)

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ザックを下ろして広場のベンチで休憩します。昨日コンビニで買ったパンとおにぎりが昼食。束の間の休息で脚の疲れを和らげます。

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1332、休憩を終えて出発します。

役行者の祠から二つのルートに分岐。右は急峻な大天井ヶ岳(1439m)を登る吉野古道。左は大天井ヶ岳の東斜面を巻いていく吉野新道です。全員の意見が一致して、楽なほうの新道を選びました。巻けるときには巻く。体力温存の秘訣です。

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縦走路に比べると緩い吉野新道。所々、土砂崩れで崩落していました。

身軽なU氏に追従するのは非常に厳しく、ザックの重さと相まって両太腿が攣りかけ。ウルトラライトの人に着いていくのは無理です。明日以降は自分のスローペースで行きましょう。本当に脚がヤバイ。

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1405、貴重な水場を発見。

食糧は日数分を携行すればいいとして、水は消費した分だけ補給しなければなりません。飲み水の確保は大峯奥駈道の縦走で最もシビアな要素。地図で水場を確認し、飲み水を切らさないよう心がけます。夏場は涸れることもあるため、特に注意が必要です。

今回の山行ではザック内に2Lのボトルを2本、外付けポーチに0.5Lのボトルを1本携行しています。合計4.5Lを携行して4.5kg。はっきり言って重いです。

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これから先も水場は点在します。ザック内に4Lも不要と判断、半分捨てて2Lにします。「水場で水を捨てる人は初めて見た」と言われながら排水。一気に2kg軽量化して、ザックの総重量は16.5kgになりました。

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身軽になってペースアップ。五番関を目指します。

女人結界門

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1500、五番関(1211m)。天川村と川上村の境界となる峠。大天井ヶ岳の縦走路と合流します。

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五番関に設けられた女人結界門。この先、女性は入山できない決まりです。

大峯山寺のある大峯山(山上ヶ岳)は女人禁制。古くから男性だけで厳しい修行に励んできたと伝わります。昭和45年(1970年)、青根ヶ峰から五番関まで女人結界が後退。諸事情で範囲が縮小されても女人禁制の方針に変わりはなく、大峯山寺からの重要なお知らせが掲示されています。

女人禁制の維持を巡っては論争が続いており、男女平等を主張する活動家の槍玉に挙げられています。過去には女性グループが山上ヶ岳へ強行登山を行ったり、「女」の文字が剥がされる馬鹿げた事件もありました。史跡の破壊は見苦しいからやめてください。

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登山者へのお願いもありました。女人結界は先人達が築き上げた宗教的伝統であり、登山者にも維持をお願いしたい、という切実な内容です。女性が吉野から熊野まで大峯奥駈道を縦走する場合、山上ヶ岳の麓を大きく迂回しなければなりません。

私は性別とか人種とか気にしない生物なので、男女の待遇を分ける戒律は基本的に支持しておりません。しかし大峯山の女人結界は長い歴史の中で築き上げられた伝統。修験道を再興・維持している大峯山寺の主張は尊重するべきです。はい、この話題はここまで。

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1515、出発。女人結界門をくぐって山上ヶ岳方面へ。蛇腹茶屋跡の鍋冠行者堂の前を通ります。残雪が目立ち、体感気温も下がってきました。

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今日中に山上ヶ岳は無理と気付き始め、手前の洞辻茶屋を目標に黙々と歩きます。

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1557、標高1448mの今宿跡。先行の登山者がテントを設営していました。私達は風雨を凌げる洞辻茶屋まで登ります。17時までには行程を終えたい。

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寒々しい眺望。風が強いです。立ち止まるより登り続けましょう。

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洞辻茶屋までもう少し。霧氷です。今夜の山上ヶ岳は相当冷え込みそう。

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山々の風景。少しずつ深くなるのを感じます。

今回のウェアは半袖シャツと長袖ソフトシェルのみ。ダウンジャケットまでパッキングするとザックが嵩張るし、この程度の気温ならソフトシェルでも十分に暖かいです。もちろんGORE-TEXのレインウェアも携行してますよ。無いと雨天時に終わりますから。

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今宿跡より南の尾根は蛇腹と呼ばれます。鎖が設置された岩場があって中々険しい。体力がどんどん落ちて危うい感じ。

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蛇腹を過ぎて洞辻茶屋を視認できました。山上ヶ岳は山の向こう。ここからは見えません。

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洞辻茶屋へ。霧氷に震えながら進みます。

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もうすぐ洞辻茶屋…風は更に強くなり、霰まで吹き付けてきました。野外のテント泊より屋根付きの寝場所がいいです。

洞辻茶屋

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1639、洞辻茶屋に辿り着きました。最初に目に入るのが円満不動明王です。

登山好きで知られる徳仁親王も登られたそうで、不動明王の前に「皇太子殿下御立寄地」の記念碑が。4日後の5月1日には第126代の天皇陛下に即位され、令和に改元されて新しい治世が始まります。

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標高1483mの洞辻茶屋。大峯奥駈道の第六十八靡浄心門」です。茶屋の北側に分岐があり、西に下ると天川村の洞川へ。これ以上縦走を続けられない場合はエスケープできます。

靡の名になった浄心門は詳細不明のまま消滅。現在では修験者・登山者向けの茶屋が営まれています。山上ヶ岳の大峯山寺が開かれるのは5月~9月の僅かな期間。洞辻茶屋は開山期間に合わせて営業されるため4月は閉鎖中。休憩所や寝場所として使うことは可能です。

近鉄吉野駅から洞辻茶屋まで8時間以上。初日の歩行距離は約21kmでした。(個人差があります)

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茶屋内部の様子。気温は4℃。屋根に覆われた吹き抜け構造の休憩所です。テントを張れば夜の寒さぐらい余裕で凌げるでしょう。先に到着した登山者達がテントの設営を始めています。

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茶屋の中央には洞辻神変堂。役行者と前鬼・後鬼をお祀りする小さなお堂です。山中のお堂は熱心な修験者によって奉納されました。

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茶屋の南側…つまり山上ヶ岳方面。出迎不動尊が行場入りを出迎えてくれます。ハイペースな人は山上ヶ岳を越えていったのかな?

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小屋型の立派なトイレもありました。飲み水こそ存在しないものの充実の設備。洞辻茶屋まで行程を伸ばして大正解でした。

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場所を確保してテントを設営。定番のステラリッジテント1型です。

これまで熊野古道の旅で使っていた野宿セットは、自転車旅の流用だったので重くて徒歩旅には不向き。3年前、大峯奥駈に備えてテントやシュラフを一新しました。気楽なバックパッキングではなく厳しい縦走登山を意識して、自分の徒歩旅スタイルの範囲内で軽量化を実現しています。

ウルトラライト系のキャンプ装備は別次元すぎるし、テントを新調するなら徒歩旅や自転車旅にも使いたい。色々検討した結果、無難なステラリッジを選んだのでした。ちなみにクロノスドームやムーンライトは既に持っています。
(詳細は野宿セットのページを参照)

ザックの中身は6日間の山行に対応したフル装備。テント・グラウンドシート・ダウンシュラフ・ロールマット。レインウェア・自炊セット・救急セット・小物セット・着替え等。水と食糧を含まない状態で10kg…十分な軽さだと思います。登山経験の豊富な皆さんから見ても軽い部類だそうで。

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明るいうちに素早く夕食の準備。温かいパスタを食べて癒されます。

水の消費量を抑えられるよう考慮した食糧。少量の湯で作れるアルファ米とパスタが主食です。必要なカロリーを計算して、朝昼晩のメニューをセット。副食としてソーセージやパワーバー各種を組み合わせて、よく効くと評判のアミノバイタルプロも用意しました。

自炊セットの内容はシンプルに。湯を沸かす小型のマグカップとバーナーのみ携行。クッカーを洗う手間を省き、軽量化にも繋げています。火器は相変わらずツーリング用のジュニアバーナー。これだけは従来のバーナーを使い続けています。
(詳細は自炊セットのページを参照)

実はどれぐらい食糧が必要か分からず、登山家の情報に基づいて余り気味に用意しました。少食の私には標準的なカロリー摂取量など当てはまらず、初日の時点で食糧が多すぎると発覚。これは失敗です。1日2000kcalで足りました。(個人差があります)

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設営と夕食を終えて18時になりました。今朝、六田駅で下車した登山家(F氏)が遅れて到着。吉野山の散策で思いのほか時間をかけてしまったとのこと。七十五靡を巡るにしても、初日は洞辻茶屋が限界でしょうね。

世間ではスマートフォンの所持が当たり前になり、登山家の皆さんはスマートフォンで明日の天気やルートを確認。私はデジタル機器に疎いので非常用の携帯電話しかありません。紙媒体の地形図と行程表で明日の予定を再確認するとともに、防水仕様のメモ帳に今日の出来事を記録しておきます。

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日没後の気温は2℃。奥駈踏破のため全国から集まった山屋達と語り合い、外気から遮断されたテント内のシュラフに潜り込みました。明日の目標は弥山。しっかり寝て、しっかり歩きましょう。

19時前、就寝。
2日目に続きます。

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