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富田林駅~弘川寺~西行堂~西行墳~似雲墳~花の庵跡~西行庵跡~富田林駅 |
西行寺幽々子の元ネタ巡り。桜と月を愛した歌聖、西行法師終焉の地。河内国の弘川寺を桜の季節に再訪しました。
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0932、近鉄長野線の富田林駅にて下車。ここは河内国/大阪府富田林市です。
気温は25℃。天気は晴れのち曇り。7年ぶりに訪れたら駅前が綺麗になっていました。金剛山地に向かうらしいハイカーで溢れています。
ここから弘川寺まで金剛バスを利用します。富田林駅前バス停から、1005の河内行きに乗車。終点の河内まで25分、運賃は370円になります。ハイカーと観光客でバスは満員に。
※バスの運賃や時刻表は頻繁に改正されます。レポ記載の情報は古くなっていることがありますので、必ず最新の運賃・時刻表を確認した上で訪れてください。
このままR200を直進すると南のR309に合流。水越トンネルか狭い旧道で金剛山地の水越峠を越え、葛城水分神社や葛城一言主神社がある大和国/奈良県御所市に入ります。関西のサイクリストの間では有名すぎるヒルクライムルートですが、私は一度も走ったことがありません。
こちらが弘川寺周辺の地図。本日は桜山を歩くだけの短い探訪となります。
※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋。「カシミール3D」で出力し、ポイントを追記。利用規約に基づいて掲載しています。
金剛山(1125m)を最高峰とする金剛山地の西麓にあり、花見ついでに葛城山(959.2m)に登るハイカーが多い模様。東方ファン以外にも隠れた桜の名所として知られています。駐車場は満車。県外ナンバーの車もそこそこありました。
真言宗醍醐派の弘川寺。山号は龍池山。桜の名所だけでは済まされないので簡潔に由緒を書くと…飛鳥時代、天智天皇4年(665年)に役小角により開かれました。天武天皇御代の白鳳5年(677年)に雨乞いをして効験著しく、龍池山弘川寺の寺号を賜って勅願寺になったと伝わります。
奈良時代、聖武天皇御代の天平9年(737年)、後に東大寺の大仏造営に尽力する行基が修行。平安時代初期の弘仁年間(810~824年)になると、嵯峨天皇の勅命を受けた空海によって中興されました。空海は同時期に高野山を真言密教の道場として整備し、その功績から弘法大師と尊称される人物です。
鎌倉時代には西行法師が当寺で入寂。南北朝時代や戦国時代には戦場になり焼失するも復興し、江戸時代、似雲法師が訪れて西行ゆかりの地と知られました。西行と東方の関係については、これから紹介していきましょう。
境内の様子。左手に植えられているのは隅屋桜。南朝の忠臣で弘川城主だった隅屋興市正高卿が、ここで奮戦し討ち死にしたと伝わっています。
探訪のメインカメラは工事現場用のコンデジ、RICOH G600。サブカメラとしてフィルム式の一眼、PENTAX SPも携行しました。フィルムはFUJIFILM SUPERIA X-TRA 400(ネガ)を使用しています。
(詳細は「GEARS」を参照)
弘川寺は桜と月を愛した歌聖、西行法師終焉の地。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて全国を旅した西行は、鳥羽天皇御代、元永元年(1118年)に佐藤義清の名で生まれました。大百足や平将門を討伐した勇猛な武将、藤原秀郷の9世の孫であり、佐藤の姓は左兵衛尉の藤原という意味…つまり藤原氏の一族です。
藤原氏の摂関政治から上皇の院政に変わる時代、裕福な名家に生まれ、当然のように武芸に秀でていた義清は、京の都において鳥羽上皇の警護を担当していたこともあります。この警護隊は北面の武士と呼ばれる精強な武士により構成。現代では皇宮警察の特別警備隊に相当する部門でした。
既に妻子がおり、精強な武士であったにも関わらず、保延6年(1140年)、義清は23歳という若さで突如出家。動機は友人の死、失恋、不毛な政治など諸説ありますが、とにかく家族や武士の身分を捨て、仏道に入ったのです。出家後の名は西行。円位を称した時期もありました。
出家した西行は仏道より風流を求めたらしく、特定の宗派や寺院に属さないフリーな僧侶になりました。完全な世捨て人になったわけではなく貴族や歌人との交流を続け、山城国(京都府)の鞍馬山・小倉山などを転々とした後、東国を放浪。大和国(奈良県)の吉野山を経て紀伊国(和歌山県)の高野山を拠点とするも、たまに都に戻っていたようで、保元元年(1156年)の帰京時には鳥羽法皇が崩御。保元の乱、崇徳上皇の配流という一連のショッキングな出来事に遭遇しています。
旅を続けるうちに仏道への傾倒を強め、50歳を過ぎ、弘法大師の遺跡や崇徳上皇の陵墓を訪れるため四国へ。高野山に戻ると伊勢国(三重県)に移住。当時流行っていた熊野詣に行き、極めて過酷な修行で知られる大峯奥駈にも挑戦しています。凄い精神力ですね。更に治承・寿永の乱(1180~1185年)で焼き討ちに遭った東大寺再建の勧請のため、僧侶、重源の依頼で東国を再訪。相模国(神奈川県)の鎌倉では源頼朝と対談します。この頃には、武士が政治の実権を握る時代が始まろうとしていました。
長い旅を終えた西行は文治5年(1189年)に、座主の空寂上人を慕って河内国(大阪府)の弘川寺へ。翌年、文治6年(1190年)の2月16日、73歳で入寂されました。動乱の時代に求道者かつ数奇者として全国を放浪した西行。その亡骸は当地に埋葬されたと伝わっています。
元々武芸だけでなく和歌の才能も秀でていた西行は、旅の中で多くの歌を残し、その歌や逸話は今でも色褪せません。武士、僧侶、歌人、旅人…色々な要素が伝説となって語り継がれ、後世の歌人達に多大な影響を与えたことはよく知られているでしょう。全国を旅したことから、旅先で西行の史跡を見ることも多いです。
西行の歌集としては『山家集』や『山家心中集』があり、逸話としては作者不詳の『西行物語』と『撰集抄』が大変有名。藤原頼長の『台記』と鴨長明の『発心集』にも西行が登場します。『西行物語』と『撰集抄』は西行伝説として脚色されたもので、当時の西行に対するイメージがよく分かります。
残念ながら私は仏教思想を深く理解できておらず、和歌を楽しむ風流なセンスも全く持ち合わせていません。私にとって西行は、歌聖というより旅人として尊敬すべき人物。交通手段やアウトドア装備が発達していなかった時代に、徒歩で各地を放浪した遊び人の先駆けなのです。
というわけで関連レポを紹介。
2013年6月の「鞍馬寺・貴船神社探訪 II」では京都府の鞍馬山。
2017年12月の「吉野山探訪 II」では奈良県の吉野山。
「熊野の旅」では三重県の伊勢神宮や和歌山県の高野山を始めとして、熊野三山や大峯奥駈道を踏破しています。そちらのレポも併せてどうぞ。
2年後の2018年4月1日。曇りがちな天気が残念だったので、桜のシーズンの弘川寺を再々訪しました。
メインカメラはRICOH G800に交替。サブカメラとして携行したのはMINOLTA α8700i。フィルムはFUJIFILM PROVIA 100F(リバーサル)を使用。Velviaは派手すぎるので今回は淡いPROVIAを選びました。幽々子様の演出を意識するならVelviaでも良かったかも。
いかで我 この世のほかの 思ひいでに 風をいとはで 花をながめむ
ゆくへなく 月に心の すみすみて 果てはいかにか ならむとすらむ
仏道に入った西行ではありますが、その歌は悟りを開いたという感じではなく、心の内を吐露する素朴で感傷的なものが多いです。特に桜と月の美しさ、儚さに心を奪われがちだったようで、出家しても執着を捨てきれない心境が表現されています。
惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ
出家以前の義清については記録が少なく、北面の武士だった頃の家庭環境はほとんど不明。『発心集』と『西行物語』によると妻と娘がいたようですが、名前すら残っておらず二人の生涯はよく分かっていません。『尊卑分脈』によると隆聖という息子がいたとも。
出家するには家族を捨てなければなりません。『西行物語』では出家の妨げとなる家族の縁を断つため、4歳になる娘がすがりつくのを縁の下に蹴落としたとあります。義清の決意の固さを示すエピソードとして有名である一方、『発心集』によると身を案じて弟の仲清に預けたらしい。
妻は義清の出家直後に尼僧となり、高野山北西麓の天野に篭って修行に明け暮れました。娘は九条民部卿(藤原顕頼)の娘の冷泉殿に引き取られ、15歳ぐらいのとき、久々に都に帰ってきた父、西行と再会。両親と同じく出家を志し、母が暮らす天野へ旅立ちました。
妻と娘がその後どうなったのかは不明。『西行物語』によると二人はひたすら修行に明け暮れ、娘は正治元年(1199年)の秋彼岸に生涯を閉じたそうな。『西行物語』では西行の入寂を建久9年(1198年)としており、後を追うように極楽往生を遂げた、というお話になっています。
それでは、本堂の右手から桜山へ。ちょっとしたハイキングコースです。
『撰集抄』によると西行が高野山に篭っていた頃、寂しかったので鬼がするように人間を造ろうとします。死者の骨を拾い集めて反魂の秘術を行ってみたものの、見栄えが悪くて心を持たない出来損ないが生まれてしまい、人間の形なので殺すことができず山奥に遺棄したとか。
……この人造人間は怪しすぎて実話と思えませんが、そんな伝説が生まれるほど変わり者だったのでしょうか。800年以上前に亡くなった歌聖の風変わりなエピソードが、今でも怪奇譚のように語られているのは面白いです。本当に色々なイメージを持つ人物ですね。
尚、現代の参考文献としてオススメできるのは目崎徳衛氏の『西行』。歌聖のイメージにこだわらず、西行という人物に焦点を当てています。古典の『西行物語』は脚色されすぎており、『西行』のほうが実証的。西行の歌や花に関する文献は色々ありすぎるので割愛。適当に探してみてください。
西行の入寂から長い年月が流れ、江戸時代の享保17年(1732年)。熱心な西行ファンであった歌僧の似雲は全国を放浪する中で、西行終焉の地を求めて弘川寺を訪れ、遂に墳墓を発見します。自身も当寺に庵居し、宝暦3年(1753年)に81歳で入寂。死後は遺言通り、西行の傍らに埋葬されました。この西行堂は似雲が建立したそうです。
年たけて 又越ゆへしと おもひきや いのちなりけり さやの中山
さやの中山とは遠江国(静岡県)の小夜の中山のこと。徒歩で越えるには険しく、鈴鹿峠と箱根峠に並ぶ難所でした。この歌は東国再訪の際に詠まれたもので、当時の西行は既に69歳。感傷的な歌を残しながらも、屈強な精神で道を進んだのでしょう。年老いても旅を続ける西行の強さを物語っています。
江戸時代に整備された東海道五十三次において、日坂宿と金谷宿を結ぶルートに位置する小夜の中山。2013年4月の「東海道ツーリング」では、かつて西行が歩いたことも知らずに自転車で走破しています。自転車の旅は気楽でいいですね。
西行堂から少し登って広場に出ました。う~ん、やっぱり曇ってます。
西行について紹介したところで、ようやく東方の話題。「妖々夢」に登場する西行寺幽々子は歌聖の娘という設定。ゲーム内では西行の歌や桜が演出に用いられていることから、幽々子様は西行と桜がモチーフのキャラクターと分かります。そもそも西行寺という姓で気付かないわけがありません。
「妖々夢」は春度の高い演出をはじめBGMや弾幕が秀逸。難易度も高めですが、最もお気に入りの作品です。
広場の様子。桜山を周遊するコースが簡単に整備されています。ここは西行を追慕する山。宴会の場ではありません。山内での飲酒・食事は禁止されているので念のため。
願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ
かつて、満月の頃に桜の下で死にたいと願った西行。全国を放浪し、桜を愛してやまなかった歌聖を象徴する作品です。歌に残した通り、旧暦の2月16日(現在の3月末)に当地で入寂されました。釈迦入滅の翌日に生涯を閉じるという、長い旅を終えた僧侶らしい最期。「妖々夢」では、5面導入部でこの歌が用いられています。
幽々子様のスペルカード、幽曲「リポジトリ・オブ・ヒロカワ」は、まさに西行を埋葬した墳墓のこと。そのまんまで分かりやすい。私の場合、運が良ければここまでノーコンティニュー。大抵は5面の魂魄妖夢に全機やられています。妖夢強すぎる。
ほとけには 桜の花を たてまつれ 我が後の世を 人とぶらはば
自分が死んだら桜を供えてほしいという意味。西行の願い通り、似雲は墳墓の周辺に千本桜を植えました。「妖々夢」の6面導入部ではこの歌が用いられ、満開の桜の中を進みます。本当に素晴らしい演出ですから、未経験の方も是非PLAYしてみてください。最初はノーマルじゃなくてイージーのほうがいいですよ。
「妖々夢」のバックストーリーによると、その昔、幻想郷に自然を愛する歌聖が暮らしていました。旅を終えた歌聖は死期を悟ると、願い通り見事な桜の下で永眠。以来、桜は見事に咲き誇り、多くの人を死に誘う妖力を持ちました。いわく付きの妖怪桜は「西行妖」と呼ばれ、西行寺家に伝わります。この歌聖とは、言うまでもなく西行をモチーフにした人物ですね。
さて、設定では明言されていないのですが…西行寺家の幽々子様は、桜の下で永眠した歌聖の娘。彼女には元々死霊を操る程度の能力が備わっており、いつしか死に誘う程度の能力を持ってしまいます。もしかしたら西行妖の影響かもしれません。
人を死に追いやってしまう能力を嘆いた幽々子様は、生きる苦しみを断つため、西行妖の満開の桜の下で自害。自らの亡骸をもって西行妖の桜を封印するのでした。ここまでは割とシリアスなストーリーだと思いますし、生前の出来事について色々妄想できそうです。
身のうさを 思ひしらでや やみなまし そむくならひの なき世なりせば
出家しなければ自身の辛さに気付かなかっただろうという意味。「妖々夢」では6面最終スペカ「反魂蝶」の直前に用いられており、幽々子様が死の能力を嘆き、自害する前に詠んだようにも思えます。BGMが「幽雅に咲かせ、墨染の桜」から「ボーダーオブライフ」に変わり、西行妖をバックに「反魂蝶」が繰り出される…東方史上最高の演出です。
……自身の封印で亡霊となった幽々子様は、生前のことなどすっかり忘れて死に誘う能力を満喫。千年後、誰かの亡骸が西行妖の下に封印されていることを知り、興味本位で春度を集めさせて桜を満開にしようと企てます。 この辺から、いつもの東方らしくなってきますね。
ここまで長々と紹介してきたように、「妖々夢」は西行の歌や桜が重要なテーマとなる作品。もっとも西行の娘と西行寺幽々子のエピソードは全くの別物で、父に蹴落とされたり出家して修行に明け暮れたわけでもありません。娘の存在を基にした東方オリジナルの設定と考えたほうがいいでしょう。
尚、西行妖なる桜も実在しません。見たい方は蓮台野から冥界に行ってください。秘封倶楽部のメンバーが入口を知ってるはず。
西行の没後、『西行物語』などの伝説が庶民にも普及。熱心なファンが生まれ、西行の足跡を辿る旅が度々行われています。似雲もその一人であり、生涯を西行追慕に捧げて今西行と呼ばれました。先人を偲んで旅する精神は、現代の舞台探訪に通じているような気がします。
尋ねえて 袖に涙のかかるかな 弘川寺に 残る古墳(ふるつか)
似雲が西行の墳墓を発見した後、弘川寺は西行の史跡として整備されました。今日、舞台探訪と称して訪れることができるのは、先駆者である似雲のおかげと言っていいでしょう。
広場から桜山に登り、適当に歩きます。ルートが色々あるから迷わないように。ネガで撮ると地味過ぎました。
須磨明石 窓より見えて住む庵の うしろにつづく 葛城の峯
北西方面には白砂青松の名所として知られた須磨・明石。兵庫県に統合される以前、須磨は摂津国、明石は播磨国に属しました。東の後背に続くのは、河内国・大和国の境界となる金剛山地の葛城山。
一見すると地名を並べただけのシンプルな歌ですが、晩年の西行に思いを馳せながら当地で暮らしたという、似雲の穏やかな心が感じられます…あくまで私の解釈で。
微妙な天気で桜は満開。北西に大阪湾と六甲山系がうっすらと見えます。大気汚染が存在しない時代は、もっと澄んでいたはず。白いヘンテコなタワーはPL教団の大平和祈念塔です。
晩年の西行が暮らした西行庵跡まで登ってきました。更に登ると、葛城山のハイキングコースに繋がります。この景色を眺めながら、西行は何を想ったのでしょう。
麓まで 唐紅に見ゆるかな さかりしぐるる 葛城の峰
尋ね来つる 宿は木の葉に埋もれて 煙を立つる 弘川の里
気温は18℃。現在の時刻は1108。満開の桜の中で一旦休憩タイムです。
……7年前の2009年4月12日。東方ファンの同志と共に弘川寺を訪れました。かなり古い探訪ですが、記念に掲載しておきます。
「妖々夢」の完成版が発表されたのは2003年のこと。この探訪当時でも既に6年前の作品だったわけで、先駆けとなる探訪者のレポを頼りに訪れました。肝心の桜山は満開を過ぎて葉桜だったとさ。
似雲墳と西行の歌碑。初期の探訪は撮影枚数が極端に少なく、レポとして掲載できるような内容ではありません。「東方の元ネタ」程度の認識だったから仕方ない。
内容の薄いレポは公開できませんから、古典を読んだりして西行について理解を深め、7年後の再訪は「妖々夢」の前提として西行を主題に。2年後には再々訪も実施して、更に写真を充実させました。
ここから2018年4月1日。満開の桜山を歩きます。色々探訪しているうちに、どんどん月日が流れていきます。東方の探訪はライフワークみたいなもの。まだまだ続くでしょう。
フラワーマスターではありませんので、桜の種類は全くと言っていいほど知りません。というか、花がメインの写真なんて初めてです。
花見れば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ 苦しかりける
花に染む 心のいかで 残りけん 捨て果ててきと 思ふわが身に
もろともに われをも具して 散りね花 憂き世をいとふ 心ある身ぞ
ここまで2018年4月1日補完分でした。
風になびく 富士の煙の空に消えて ゆくへも知らぬ わが思ひかな
東国再訪の際に富士山の噴煙を眺めて、ひたすら放浪の旅を続ける自分の心境を詠んだ西行。富士山を眺める西行の姿は日本画のテンプレになりました。生前の幽々子様は「富士見の娘」と称していたことから、明言されなくても歌聖の娘と推測できるわけです。
東方ファンなら御存知だと思いますが、富士山は「永夜抄」と「儚月抄」のエピソードに登場。貴族の娘であった藤原妹紅は蓬莱山輝夜なる月の姫を恨み、富士山で焼却処分されようとしていた蓬莱の薬を奪って服用。不老不死の蓬莱人になって死ぬほど後悔するのでした。
妹紅のテーマ曲である「月まで届け、不死の煙」とは、富士山の噴煙、あるいは焼却されるはずだった蓬莱の薬のこと。1300年ぐらい前ですから、飛鳥時代末期~奈良時代初期のお話です。「儚月抄」で明かされた妹紅の過去はシリアスなので必読ですよ。
1145、本堂へ下りました。帰りのバスは1245。あと1時間あります。
どうして西行ゆかりの地で妹紅の話題なのか?「永夜抄」のバックストーリーは『竹取物語』がベースになっており、藤原妹紅は車持皇子こと藤原不比等の娘と考えることができます。実在の不比等は飛鳥末期~奈良初期にかけて政界で暗躍…じゃなくて活躍し、藤原氏の繁栄の礎を築いた人物です。
西行は藤原氏の一族であり、不比等から400年以上後の子孫。つまり、もこたんと幽々子様は遠い親戚ということになりますが、幽々子様に富士見の娘だった頃の記憶はありません。今となってはどうでもいいことです。
西行が各地を放浪し、妻と娘が尼僧として修行していた時代。蓬莱人の妹紅はこの世を恨み、妖怪狩りに明け暮れていました。そんな妹紅も、桜と月を愛した歌聖を知っていたかもしれません。実際の歴史と東方の設定の区別がつかなくなってきたので、妄想は程々にしておきましょう。
本坊庭園と西行記念館へ。入館料は500円。西行と似雲の資料を展示しています。大体30分ぐらいで見れますので、探訪の際は是非どうぞ。
1245、河内バス停から富田林駅前行きに乗車。本日の歩行距離は約3km。行程終了です。
1310、富田林駅にリターン。後は適当に乗り換えて帰ります。「妖々夢」から13年後のリポジトリ探訪。西行と幽々子様の元ネタ巡りはこれにて完了。お疲れ様でした。