東方巡遊記

尾道探訪

目次

01
福山(福山駅~常石港)~向島(歌港~岩屋山)
02
向島(大元神社~展望地~福本渡船)
03
海岸通り(福本渡船~突堤/ベンチ~尾道渡船)
04
商店街(渡し場通り/オバQ~御旅所~宝土寺~吉備津彦神社~鎌倉稲荷~尾道町奉行所跡)
05
海岸通り(荒神堂小路~住吉浜/住吉神社/中央桟橋~薬師堂浜~出雲大社道~尾道市役所)
06
浄土寺山(山陽本線~斎藤邸~尾道大橋/新尾道大橋~浄土寺~一橋邸~不動岩~奥の院)
07
西國寺山(厳島神社/八坂神社~亀山八幡宮~西國寺~大山寺)
08
西國寺山(菅公腰掛岩タイル小路福善寺御袖天満宮大山寺
09
千光寺山(ロープウェイ~艮神社~猫の細道~天寧寺~千光寺参道~中村憲吉旧居)
10
千光寺山(千光寺~鼓岩~千白稲荷神社跡)
11
千光寺山(千光寺公園~八福稲荷~八畳岩~文学のこみち~尾道城)
12
千光寺山(千光寺新道~ロケ地の階段~信行寺前踏切~跨線橋)
13
尾道駅周辺(土堂小学校~ロケ地の路地~尾道鉄道跡~ガウディハウス~空き地)
14
尾道駅周辺(尾道駅~蘇和稲荷神社~駅前渡船~尾道駅前桟橋)
15
栗原川以西(祇園橋~東巌通橋~天満神社~竜王山~西願寺)
16
向島(福本渡船~岩屋山/大元神社~歌港)|しまなみ海道
17
向島(高見山~津部田~津部田の坂道~備後造船~胡子神社/海物園跡)
18
向島(駅前渡船~尾道渡船~呼子浜の待合所~兼吉の丘~神原造船)
19
尾道(尾道駅)~福山(福山駅~福山城)|出雲(国鉄大社駅~荒木小学校~出雲大社)

2017年7月28日(金) 2日目

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御袖天満宮に通じる路地 
西國寺(p.7)から下って、一旦R2に復帰。長江口東交差点からJR山陽本線をくぐり御袖天満宮へ。

この通りは、地形的には千光寺山と西國寺山の谷間に位置。防地口(p.5)と同じく、中世には入り江のようになっていました。江戸時代以前から民家や商家が並んでいたと思われます。

西國寺山地図 
西國寺山エリアの地図。現在地は千光寺山と西國寺山の間の長江地区。尾道を東西に探訪する場合、この辺りが中間点です。では、御袖天満宮の周辺から探訪していきましょう。

※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋。「カシミール3D」で出力し、ポイントを追記しています。

銀山街道の標石 銀山街道の標石 
尾道の探訪用地図 
御袖天満宮の参道に通じる路地。

本通りから山手に入り込んだところにあり、事前に探訪用地図を用意しないと分かりません。大林作品や「かみちゅ!」の舞台探訪に来た先人達は、作中のカットを探し求め、相当苦労して歩き回ったはず。ほぼ情報がない時代によく見つけられたものです。

入口には銀山街道(出雲街道)の標石。「左いづも往来 右天満宮道」と刻まれており、江戸時代末期の安政6年(1859年)に設置されました。大森銀山~尾道を結んだ銀山街道はp.5で紹介しました。この通りは街道を行き交う人々で賑わったことでしょう。

御袖天満宮に通じる路地 
御袖天満宮へ。尾道らしい路地です。

御袖天満宮に通じる路地 銀山街道の標石 
御袖天満宮に通じる路地 
2019年12月14日。フィルムで撮ると昭和感が増します。

菅公腰掛岩

御袖天満宮の参道 菅公腰掛岩の標柱 
御袖天満宮の参道右手にある菅公腰掛岩へ。ついでにタイル小路にも寄り道します。

……自転車による探訪は移動が楽な反面、意外と小回りが利かず徒歩に比べると不便な場面も。特に尾道では、路地に入って写真を撮る頻度が高いため、いちいち自転車を置いて行動するのが煩わしくなります。ここでも適当なところに自転車を残して入りました。

菅公腰掛岩へ 
菅公腰掛岩へ 大林宣彦監督のメッセージ 
2019年12月14日と2018年3月31日。

映画「時をかける少女」に登場したタイル小路に通じる路地。ロケ地巡りに押しかける観光客のマナーが問題になり、大林宣彦監督の切実なメッセージが掲示されました。全ての探訪者が心に留めるべき内容です。

菅公腰掛岩の注連柱 菅公腰掛岩の注連柱 
2019年12月14日。路地を直進すると注連柱があり、御袖天満宮の旧蹟になっています。

菅公腰掛岩へ 菅公腰掛岩 
菅公腰掛岩。民家の裏手にひっそり佇んでいます。

平安時代前期の昌泰4年(901年)、藤原時平らの陰謀により失脚した菅原道真が、京の都から筑前国(福岡県)の大宰府へと左遷されました。途上で尾道に船を停め、座って休んだという伝説を持つ岩。当時の海岸線は現在よりもっと内陸側にあったのです。

里人から麦飯と醸酒を振る舞われた道真は大いに感銘を受け、衣の袖を裁ち、自身の画像を描き里人に授けて大宰府に赴きました。道真は大宰府で不便な暮らしを強いられ、延喜3年(903年)に死去。後に、時平や醍醐天皇など道真の追放に関与した人物が次々に命を落とし、憤死した道真の仕業と恐れられ、天神様としてお祀りされるようになります。

平安中期の延久年間(1069~1074年)になって、里人が大山寺に菅公の御袖を御神体とする祠を建立。これが御袖天満宮の由来…後は境内で紹介していきましょう。

菅原道真が休んだ菅公腰掛岩 菅原道真が休んだ菅公腰掛岩 
菅原道真が休んだ菅公腰掛岩 長江地区の案内板 
2018年3月31日と2019年12月14日。旧蹟は忘れ去られることなく大切にお祀りされています。御袖天満宮始まりの地なので、参道から寄り道してみてね。

タイル小路

タイル小路の階段 タイル小路の階段 
タイル小路の階段 
注連柱左手の階段を登ると福善寺へ。振り返ると「かみちゅ!」で見覚えのある風景。2話の八島様捜索で光恵ちゃんが登っていたところ。ここがタイル小路です。

タイル小路の階段 菅公腰掛岩の桜 
タイル小路の階段 
2018年3月31日。地元の人が昭和45年(1970年)の大阪万博を記念して、道にタイルを埋め込んだのがタイル小路の始まりでした。

後に大林監督の「時をかける少女」の撮影に使用され、原田知世さんが歩いた不思議な雰囲気の路地として有名に。以来、ロケ地巡りの観光客が記念にタイルを置くようになりました。しかし、元々生活道だった路地にマナーを守れない人々が押しかけ、嫌気が差した住人によってタイルが撤去、という結果を招きました。そういう事情で、先程の大林監督のメッセージがあったのです。

タイル小路跡 ガス管 
2018年3月31日。階段の左手にも路地が続いています。周囲の民家は廃墟になって荒れ果てており、僅かに残ったタイルを見ると虚しくなりました。先に進みましょう。

福善寺

浄土真宗の福善寺 福善寺の由緒 
福善寺境内 福善寺境内 
2018年3月31日。浄土真宗の福善寺。

守護大名の山名宗全の側近であった太田垣光景の子孫、但馬国の城主太田垣因幡守の孫の甲斐守が出家して行栄法印を名乗り、安土桃山時代の天正元年(1573年)、尾道の久保町に道場を開いたのが始まり。江戸時代初期の寛永7年(1630年)、持倉氏が築いた丹花城跡に移りました。この境内は「転校生」のロケ地になりましたね。

御袖天満宮

御袖天満宮の参道 御袖天満宮の参道 
御袖天満宮の参道 御袖天満宮の扁額 
いよいよ御袖天満宮へ。「かみちゅ!」の舞台探訪では絶対外せない神社。大林監督の「転校生」のロケ地としても超有名です。と言いつつ、レポは歴史の話題メインで進めます。

天神町倉庫と常夜燈 井戸とお地蔵さん 
2019年12月14日。参道脇の天神町倉庫と常夜燈に梅の神紋。井戸の奥にお地蔵さんがお祀りされていたり、古き良き生活感あふれる情景が残っています。

御袖天満宮の参道 御袖天満宮の鳥居 
2019年12月14日。正月の注連縄の準備が始まっていました。御袖天満宮を訪れるのはこれで7回目です。

御袖天満宮の社号標と標柱 御袖天満宮の社号標と標柱 
一の鳥居は江戸時代末期の嘉永5年(1852年)に奉納。鳥居前には難しい漢文の宣揚文が刻まれた標柱。「郷社天満神社」の社号標もあります。

「かみちゅ!」では「来福神社」として登場する社。作中では石造の一の鳥居が朱塗りに改変されていました。16話、ゆりえ様と健児君は社号標脇に停めた自転車に乗り、ジョンを追いかけて町中を走り回りました。

御袖天満宮の参道 御袖天満宮の参道 
2017年9月9日。一の鳥居をくぐり、石段を登って境内へ。随神門の右奥に見えるのは大山寺の鐘塔です。明治の神仏分離まで、天満宮と大山寺は一体でした。

御袖天満宮の参道 中型ザックとハイドレーションパック 
2017年9月9日。参道から尾道市街を振り返って。

天満宮の創建当時は参道下に入り江があったはず。江戸時代、大規模な埋め立てを行って海岸線が遠くなり、明治以降は背の高い建物が密集して海が見えなくなりました。「かみちゅ!」で描かれた海の見える参道は、幻想の風景です。

真夏の尾道は最高に暑く、徒歩の探訪は体力勝負。「かみちゅ!」の舞台を回ると、ちょうと天満宮で正午に。中型ザックにハイドレーションパック、トレッキングシューズ。機能性・機動性の高い山歩き用のアウトドア装備が必要です。

御袖天満宮の参道 
2018年3月31日。山手に位置する境内まで石段を登ります。

映画「転校生」では尾道の色々な路地や建物が、位置関係お構いなしに組み合わせて使用されました。一夫と一美は踏切(p.12)を渡って天満宮の参道に向かい、階段落ちのシーンでは踏切の音が印象的に鳴り響きます。実際には、この参道から踏切の音は聞こえません。大林監督の巧妙な演出なのでした。

「かみちゅ!」の来福神社は日の出町の山中に鎮座。現実のように千光寺山・西國寺山・浄土寺山は存在せず、市街の奥の山中に、長い参道や境内があるような描写でした。神社に向かうルートは大林作品同様継ぎ接ぎになっていて、細かいカットを探すのが大変です。

御袖天満宮の猫 御袖天満宮の猫 
御袖天満宮の猫 御袖天満宮の猫 
2019年12月14日。随神門の手前にトイレと休憩所あり。南東には千光寺山(pp.9-12)のロープウェイ。この参道は猫ちゃんが多かった。猫だらけです。

力石を担ぐ沖仲仕、和七の像 力石を担ぐ沖仲仕、和七の像 
力石の案内板 
2017年9月9日。力石を担ぐ沖仲仕、和七の像。

住吉神社(p.5)でも紹介した力石。尾道が北前船の寄港地になった江戸時代、港の荷役を行ったのは沖仲仕と呼ばれる人達でした。尾道港では扱う品物によって東浜と西浜に分かれており、とんでもなく重い力石を担いで力自慢を競い合いました。西浜の和七は特に屈強な沖仲仕だったそうです。

御袖天満宮の随神門 
御袖天満宮の狛犬 御袖天満宮の狛犬 
2019年12月14日。随神門を守る狛犬。目についたものは何でも撮って掲載するスタイル。

桃咲稲荷神社と厳島神社 厳島神社 
2019年12月14日。左手には桃咲稲荷神社と厳島神社。

桃咲稲荷神社 花 
桃咲稲荷神社の標柱 桃咲稲荷神社の社殿 
2019年12月14日。桃咲稲荷神社。やはり宣揚文が刻まれた標柱があります。

桃咲稲荷神社の社殿 「金神」と刻まれた祠 
2019年12月14日。桃咲稲荷の右手に「金神」と刻まれた祠。詳細不明ですが、間違いなく信仰の証です。

御袖天満宮の随神門 
こちらが随神門。江戸時代中期の享保年間(1716~1736年)に建てられました。御袖天満宮は昭和48年(1973年)の火災で本殿を失っており、江戸時代から残る随神門は大変貴重です。

御袖天満宮の石段 石段を登って拝殿へ 
随神門をくぐり、石段を登ると拝殿です。「転校生」と「かみちゅ!」でお馴染みの光景。尾道の舞台探訪で最も有名な場所だと思います。

御袖天満宮の石段 
2018年3月31日。随神門から拝殿に至る55段の石段。

約5mの一本物の石材を綺麗に54段も並べ、最上段のみ、わざと2本の石材を繋いでいます。両側の石垣も立派で、極めて完成度の高い参道。江戸時代に尾道の石工が制作したと推測されます。この技術の高さを分かっていただけるでしょうか?

御袖天満宮の石段 艮神社の拝殿 
「かみちゅ!」のOPを再現してみました。来福神社の参道と境内は御袖天満宮がモデル。社殿は艮神社(p.9)という変則的な使われ方でした。1枚目と2枚目を合成すると、来福神社の出来上がり!

御袖天満宮の石段と随神門 御袖天満宮の随神門 
御袖天満宮の石段と随神門 
2018年3月31日。境内から見下ろした55段の石段と随神門。意外と急勾配で、高所恐怖症の人には怖い。

映画「転校生」で一夫と一美が転げ落ち、二人の中身が入れ替わるシーンで有名な石段。尾美としのりさんと小林聡美さんがベニヤ板の上を転がり、小林さんが大怪我をした裏話もよく知られていると思います。これまで沢山のファンが真似をして転がってきたのでしょうね。

尾道で一番有名なロケ地にも関わらず案内板が一切無いのは、映画と同じ風景を楽しんでほしいという大林監督の意向によるもの。ロケ地であることを宣伝して観光客を呼び込もうとする行政に対し、大林監督は一貫して反対を唱え続けてきました。舞台探訪をやっている私も同感です。

……くれぐれも随神門に缶を蹴り上げたり、参道脇で立ちションしないようにお願いします。作中のシーンを真似する人が続出して問題になり、タイル小路のような事態を招いてほしくありません。ひっそり探訪して楽しむのが一番です。

石段を登って拝殿へ 御袖天満宮の石段と随神門 
御袖天満宮の石段と随神門 石段を登って拝殿へ 
2017年9月9日と2019年12月14日。石段を登りきると、やはり注連柱(標柱)があります。起源は定かではありませんが、広島の神社に多いです。

御袖天満宮の石段と紅葉 御袖天満宮の石段と拝殿 
御袖天満宮の石段と紅葉 御袖天満宮の随神門と紅葉 
2019年12月14日。紅葉の季節も美しい。フィルムはLomography Color Negative 400(ネガ)、FUJIFILM Velvia 100(リバーサル)を使っています。

御袖天満宮の拝殿 御袖天満宮の由緒 
拝殿にて参拝。祭神は菅原道真公です。

学問の神様として崇敬される菅原道真。大宰府に流されて怨霊になった話ばかり有名で、具体的な経歴や業績に言及されることは少ないです。菅公とは、いつの時代のどのような人物だったのでしょうか。以下、天神様として崇められるに至った経緯を長々と紹介。

『古事記』と『日本書紀』の記述によると、天照大御神から葦原中国平定のため遣わされた天穂日命が、出雲の大国主命に帰順して葦原中国に住み着いてしまいました。天穂日命は有力氏族の出雲国造や土師氏の祖神であると伝わり、菅原氏は土師氏の子孫であります。

『日本書紀』によると垂仁天皇32年(3年頃)、皇后の日葉酢媛命の葬儀に際して出雲国(島根県)の野見宿禰が進言。人を埋める殉葬に代わり、埴土で人や馬を作って陵墓に立てることになりました。これが埴輪の起源とされ、野見宿禰は功績により土師職に任命されて土師臣に。子孫は土師連として、代々天皇の喪葬を担当する氏族になったと伝わります。あくまで伝説であり、実際の埴輪の起源とは考えられていません。

『続日本紀』によると奈良時代末期、光仁天皇御代の天応元年(781年)に土師古人らの言上があり、葬儀ばかりに携わるのは本意ではないとして改姓を願い出ています。言上は認められ、居住地の大和国(奈良県)菅原邑にちなんで菅原氏に。菅原古人は桓武天皇の侍読(学者)を務めるほど有能な人物でしたが、家は貧しく子供たちは苦労したとも記録されています。

古人の子の清公、孫の是善は家業を受け継いで学者に。清公の時代には菅原家の私塾である山陰亭が開かれました。後世には菅家廊下と呼ばれ、学者の名門として知られています。平安時代初期の承和12年(845年)、是善の三男として道真が誕生。道真は曽祖父から続く学問一筋の家系に生まれたのです。

道真は少年時代から作詩の才能があり、父祖と同じく勉学に励んで18歳で文章生になりました。道真の作文の才能は藤原氏を始めとする貴族に広く知れ渡り、高名な人物の願文・上表を代筆した記録が数多く残されています。当時の貴族社会で、道真は早くから才能を認められていました。

元慶元年(877年)には祖父や父と同じく式部少輔・文章博士を兼任。若くして目標の地位に達した道真は、学者として多くの仕事をこなしました。藤原基経の主導で編纂された『日本文徳天皇実録』の序文も代筆しており、後に道真本人が『日本三代実録』の編纂に関わることへの布石になります。しかし文人社会は対立抗争が激しく、危うい立場にあったのも事実でした。

仁和2年(886年)、讃岐守に任命され讃岐国(香川県)へ赴任。左遷呼ばわりされて悲しみながらも、仕事は真面目にこなしています。この時期、即位直後の宇多天皇から藤原基経に出された勅の内容が問題となり、基経が一切の職務を放棄する阿衡事件が発生。藤原氏の権力を見せつけました。都での不毛な騒動を聞きつけた道真は基経を諌める誠実な意見書を送り、後の出世と失脚に繋がったと推測されています。

寛平2年(890年)、国司の任期を終えて都に帰還。蔵人頭・式部少輔・左中弁・左京大夫を兼任して位階を上げ、まもなく参議・式部大輔・左大弁・勘解由長官・春宮亮を兼任しました。若き宇多天皇が道真の才能や誠実さを見抜いて抜擢したと見られており、道真が権大納言兼右近衛大将、基経の子の時平が大納言兼左近衛大将、という政治体制が確立するのでした。

道真の業績として特筆すべきものは歴史書の編纂です。『日本書紀』から続く六国史の最後である『日本三代実録』は時平らとともに編纂に携わるも後述の失脚により途中で離脱しますが、道真が独自に編纂した『類聚国史』は寛平4年(892年)に完成しています。これは従来の国史を項目毎に再編集した実用書として後世にも重用され、道真の几帳面な仕事がそのまま評価に繋がっている好例です。

『類聚国史』はそれまでの国史を原文のまま引用しており、早い時点で散逸した『日本後紀』の記事を復元することも可能。文献史学の視点で歴史を学ぶ現代人にとって極めて貴重な文献です。私は風流なセンスは持ち合わせておらず、道真の歌や詩は分かりません。ですが後世に学問の神様として崇められたのは決し誇張ではない。道真のおかげで残された歴史があると断言できるのです。

御袖天満宮の拝殿 御袖天満宮の拝殿 
御袖天満宮の拝殿の写真色々。以下も菅原道真公の話を続けます。

宇多天皇が道真に寄せた信頼は異常なほどだったと言えます。敦仁親王(後の醍醐天皇)の立太子の時から道真一人に相談し、寛平9年(897年)、やはり道真に相談して敦仁親王に譲位したとか。醍醐天皇御代も引き続き道真と時平が政治のトップの座にあり、菅原家を快く思わない勢力が活発に動き始める時期でした。道真の破滅は突然訪れます。

昌泰4年(901年)正月。右大臣の道真と左大臣の時平は相並んで従二位に。その直後、意味不明な罪状により大宰府への左遷が決まります。「寒門より俄に大臣に取り立てられたのに止足の分を知らず専権の心があり…」と、いかにも陰険な陰謀家の藤原氏が考えそうな宣命が『政事要略』に残っており、時平ら貴族連中が醍醐天皇と結託して邪魔な道真を追放したと推測できます。宇多上皇が駆けつけるも手遅れで、道真は直ちに都を追われました。

筑前国(福岡県)に下向するのに食糧や馬は与えられず、朝廷の使いと年少の男女を伴って自費で大宰府に赴きました。道真が任命された大宰権帥は権限を持たない名ばかりの職であり、粗末な東屋で都に帰る日を待ちわびて不便な暮らしを強いられました。しかし道真が赦されることはなく、元々身体が弱かったことも災いしたのか、延喜3年(903年)に59歳で生涯を終えました。ここまで書くのが辛かった。

異変が起きたのは5年後です。延喜8年(908年)、時平一派とされる藤原菅根が雷に打たれ死去。翌年、権勢の絶頂期にあった藤原時平も39歳という若さで病死してしまいます。疫病や旱害が続き、憤死した道真の怨霊の仕業と恐れられたのは当然のこと。延喜23年(923年)には醍醐天皇の子で皇太子の保明親王までもが薨去。『日本紀略』に「菅帥の霊魂宿忿のなす所なり」との噂が記されています。

事態を重く見た醍醐天皇は道真の名誉回復を行います。右大臣に復帰、正二位を追贈、左遷の詔書を破棄、改元して延長に。それでも異変は収まらず、保明親王の子の慶頼王が夭逝してしまいます。道真の憤死から27年経った延長8年(930年)、内裏の清涼殿に落雷が直撃。藤原清貫ら多数の死傷者を出す大惨事となり、現場を目撃した醍醐天皇も体調を崩して3ヶ月後に崩御するという国家規模の非常事態に陥りました。

後年に雷神・怨霊と見なされた道真。その神格化は死後まもなく始まっていたらしい。延喜5年(905年)、味酒安行が神託により大宰府の墳墓に祠廟を設け、延喜19年(919年)、醍醐天皇の勅命により藤原仲平(時平の弟)が社殿を造営。「天満大自在天神」と称した社は、後の太宰府天満宮に発展することになります。神号の起源はよく分かっていませんが、明らかに神仏習合の信仰です。

落雷事件の後、都でも道真をお祀りする動きがありました。天暦元年(947年)、託宣により北野の右近の馬場に社が創建。天徳3年(959年)、藤原師輔(時平の甥)によって社殿が増築され、永延元年(987年)には一条天皇の勅使により祭祀が行われました。この時に「北野天満宮大神」の神号が用いられており、後の北野天満宮に発展します。

正暦4年(993年)、一条天皇は道真に正一位・太政大臣を追贈。立派な社殿を造営したのも、道真の怨霊を鎮める目的がありました。それから月日は流れ、道真や時平を知る者が存在しなくなった時代。菅原道真という実在の人物からかけ離れた神格化がどんどん進み、様々なイメージや伝説が生み出されて庶民に普及します。

当初は怨霊だったのに、やがて現世利益を願う神様に。中世以降、天神様は全国規模でお祀りされるようになり、現代では学問の神様として誰もが知っている人物に。学業成就を願う人々が絶えることのない天満宮。尾道の御袖天満宮も、その一つなのでした。

道真と天満宮に関する参考文献は以下の通り。歴史学者の坂本氏による道真の評伝は特に優れており、実在の人物像を正しく理解できる内容なのでオススメです。
坂本太郎『菅原道真』吉川弘文館(1962)
竹内秀雄『天満宮』吉川弘文館(1968)

御袖天満宮の参道 石段を登って拝殿へ 
御袖天満宮の手水舎 御袖天満宮の石段と随神門 
2007年9月11日撮影分の御袖天満宮。初めて尾道を訪れた2007年の「瀬戸内ツーリング I」。2005年の「かみちゅ!」放送から2年後の舞台探訪でした。

御袖天満宮の拝殿 
2007年9月11日。

10年前はサイトなんて立ち上げるつもりもなく、先人達の探訪レポを参考に雰囲気を楽しむだけの旅。作中のロケーションに終始して尾道の歴史には全然興味無し。後から見返すと、使える写真が少なくてがっかりしてしまいます。恥ずかしいことに天満宮の成り立ちも知りませんでした。

尾道を巡る「瀬戸内ツーリング I」を無事に終え、2008年には出雲を目指した「山陰ツーリング I」を実施。東方Projectの元ネタや神話の舞台を巡る旅が始まります。以降、紆余曲折を経ながら神社や古墳、史跡巡りに特化して、現在では信仰に基づく旅のレポを公開するようになりました。

そういう意味でも安易に「聖地巡礼」の表現は使えず、当サイトでは全てのレポを「舞台探訪」と呼称しています。聖地巡礼と称してアニメの舞台を巡るのは個人の自由ですが、神社や寺院には古来より受け継がれてきた信仰が存在しており、畏れ多くてアニメの聖地程度の扱いで済ませることはできません。

アニメや映画の聖地として現地を訪れる方に対し、神道や仏教の思想を強制する意図は全くありません。しかし信仰や歴史について少しでもいいから理解を深め、その地域の信仰を尊重していただけたら大変嬉しく思います。

「かみちゅ!」の絵馬 「かみちゅ!」の参拝記念ノート 
2007年9月11日。まだ「かみちゅ!」の余韻が残っていた境内。

御神木の大楠の裏に設置されている絵馬掛けは「かみちゅ!」ファン専用コーナーみたいになってました。参拝記念ノートまであって、当時の盛り上がりを感じます。

ファンがマナーを守って訪れたおかげで、「かみちゅ!」の絵馬やノートが半公認になった御袖天満宮。アニメの「聖地巡礼」で痛絵馬を奉納する代表例になりました。2007年に放送された「らき☆すた」でも作中の神社のモデルとして、武蔵国(埼玉県)の鷲宮神社に多くのファンが訪れて痛絵馬を奉納。今ではそちらが一番有名になりました。

但し、神社とは神様をお祀りする本来の意味での「聖地」。アニメの舞台に使われたという意味の「聖地」を超越する神域です。わざわざ難しい文献を読んで信仰や歴史を学ぶ必要はありませんが、神社を訪れる以上、由緒と祭神は知っておいてほしいと切に願います。ちなみに、鷲宮神社の祭神は出雲の土師氏の祖神である天穂日命。菅原道真の祖神でもあるのですね。

御袖天満宮の拝殿 石段を登って拝殿へ 
御袖天満宮の拝殿 御袖天満宮の拝殿 
2017年9月9日、2018年3月31日、2019年12月14日。春・夏・冬と色んな季節に訪れてレポを充実させるのです。赤瓦が特徴的な拝殿は明治38年(1905年)に再建。紋幕には天満宮のシンボルの梅花の神紋。石の鉾がかっこいいです。

御袖天満宮の由緒は上述の通り。道真が下向の途上で尾道に船を停めて休んでいたとき、里人から麦飯と醸酒を振る舞われたことに大いに感銘を受け、衣の袖を裁ち、自身の画像を描き里人に授けて大宰府に赴きました。それから間もない延喜3年(903年)、道真は大宰府で亡くなります。

平安時代中期の延久年間(1069~1074年)、里人が大山寺に菅公の御袖を御神体とする祠を建立。これが菅公をお祀りする御袖天満宮の始まりと伝わっています。一応補足しておくと、こういった伝説は後世に各地で生まれました。別に真偽を追求しているわけではありませんので誤解なさらぬよう。

後に御袖天満宮と称して社殿が中興されており、江戸時代前期の慶長11年(1606年)と貞享4年(1687年)に造営。江戸末期の寛政11年(1799年)と嘉永2年(1849年)に修復がありました。残念ながら昭和48年(1973年)の火災で拝殿奥の本殿は失われ、昭和50年(1975年)に再建されています。

御袖天満宮のさすり牛 さすり牛の由緒 
では、境内の見どころを紹介していきましょう。まずは境内の右手に鎮座している「さすり牛」。江戸時代末期の天保10年(1839年)に奉納。もちろん尾道の石工による作品です。

天満宮には必ずと言っていいほどある臥牛像。実は生前の菅原道真と牛に深い関係があったわけではなく、菅公の神号の一つである「天満大自在天神」に関係すると推測。ヒンドゥー教のシヴァを仏教では大自在天(摩醯首羅)といい、どちらも白い牛に跨った神様として描かれるのでした。

「天満大自在天神」の明確な由来は不明ですが、災いをなす怨霊と大自在天の習合によるものでしょう。必然的に牛に跨る姿でイメージされて後世の人々に伝わり、道真と牛の結びつきを説く伝説が生まれたと考えられます。庶民に普及する過程で起源が失われるのはよくあること。

渡会春彦を祀る白太夫社 御袖天満宮のさすり牛 
2019年12月14日。さすり牛の左隣には摂末社の白太夫社。道真の養育係と伝わる渡会春彦をお祀りしています。伝説と史実の見極めが非常に難しい。

御袖天満宮の境内 御袖天満宮の境内 
参道の石段を振り返ってみます。

1枚目は「かみちゅ!」16話のラストシーンの場所。2枚目はコミック版1巻の表紙のアングルに合わせてみました。コミック版は実際の尾道の風景をそのまま再現しているので、向島ドックのクレーンや天寧寺の三重塔も描かれています。注連柱に刻まれた文字もそれっぽく再現されてました。

御袖天満宮の境内 
2018年3月31日。16話、ゆりえ様が振り返るラストシーン。桜の季節に再現してみようと思ったけど、後ろに海は見えませんでした。

御袖天満宮境内から長江市街 御袖天満宮境内から千光寺山 
参道の下に広がる尾道市街。埋め立てが進んで海岸線はずっと南に。南東には千光寺山ロープウェイが見えます。

対岸の向島の小山は兼吉の丘(p.18)。福本渡船ではなく尾道渡船乗り場の上に位置。2話の八島様捜索の場面でゆりえ様達が向かった「神様ご休息センター」の入口が存在する場所。もちろん実際にはありません。

御袖天満宮の手水舎 御袖天満宮の手水舎 
石段を上がって左手の手水舎。OPで八島様とみこちゃんが立っているところ。御袖天満宮に巫女さんは常駐しておりませんので、アニメみたいな巫女姉妹を探し求めないでください。私もちょっと期待しましたけど……

御神木の大楠 手水舎の手作りの龍 
御袖天満宮の境内 
2019年12月14日。静かな冬の境内。御神木の大楠と、手作りの龍がかわいい手水舎。個人的に3枚目がお気に入り。フィルム良いよね。

御袖天満宮の大楠と絵馬掛け 御袖天満宮の絵馬掛け 
大楠の裏の絵馬掛け。流石に参拝記念ノートは無くなったけど、「かみちゅ!」の絵馬は根強く奉納されています。放送から12年、どれぐらい知名度があるのでしょう?

御袖天満宮の旧拝殿 御袖天満宮の旧拝殿 
2019年12月14日。旧拝殿です。明治38年(1905年)に現在の赤瓦の拝殿が建てられ、旧拝殿は境内西に移築。扁額には「神徳輝」とあります。

御袖天満宮の境内 
境内の左手には御神木と授与所。「かみちゅ!」では階段の奥に畑がありました。作中の境内は実際より省略して描かれていますが、建物の配置などよく再現されていると思います。

御神木の大楠と絵馬掛け 御神木の大楠 
2019年12月14日。御神木の大楠と絵馬掛けです。

御袖天満宮の石碑 御袖天満宮の授与所 
2019年12月14日。授与所の入口。ここにも注連柱が建てられていました。

御袖天満宮の筆塚 
2019年12月14日。拝殿の左には小さな池があり、筆塚と呼ばれる石碑が奉納されています。優れた文人であった菅公にあやかった信仰ですね。

松浦武四郎氏の石碑 
2019年12月14日。筆塚の隣には松浦武四郎氏の石碑。「聖跡廿五拝 第十九番 御袖天満宮寶前」と刻まれています。

松浦武四郎氏は幕末から明治にかけて活躍した探検家。天神様を崇敬し、菅公ゆかりの二十五社に石碑と鏡を奉納。『聖跡二十五霊社巡拝双六』には「第十九番 尾道御袖社」とあり、菅公が里人に衣の袖を授ける場面が説明付きで描かれています。今でも「菅公聖蹟二十五拝」の巡礼の風習が残っており、御袖天満宮は間違いなく天神信仰の聖地なのでした。

大山寺

大山寺境内 真言宗の大山寺 
大山寺境内 大山寺の由緒 
天満宮の右隣には真言宗の大山寺。開基の詳細は不明なのですが…平安時代初期、空海の入唐の頃には既に開かれていたと伝わります。

平安中期の延久年間(1069~1074年)になって、里人が大山寺に菅公の御袖を御神体とする祠を建立。同時期、西國寺住職の慶鑁和尚が多くの末寺を建てており、大山寺もその頃に中興されたと考えられています。

上述のように御袖天満宮は大山寺から発展。大山寺は天満宮を管理する別当寺「天神坊」になり、古くから神仏習合の寺社として人々に崇敬されました。菅公を崇める天神信仰は仏教との関わりが深く、神仏習合は普通のことだったのです。

ところが明治時代の神仏分離により、天満宮と天神坊の関係は断ち切られることに。こうして隣り合う境内を行き来できるのは昔の名残。明治の近代化の影で、多くの文化や信仰が破壊されました。寺社を巡っていると、そういう負の歴史に直面することになります。

御袖天満宮と大山寺 大山寺境内 
真言宗の大山寺 大山寺境内 
2018年3月31日。天満宮から大山寺へ。「かみちゅ!」では三枝家として登場していました。

長江の町並みや西國寺山のタンク岩は割愛。まだまだ補完することになるでしょうけど、このエリアの探訪は一通り完了です。

長江から千光寺山へ 
御袖天満宮から下って自転車を回収。尾道の探訪行程の半分を終えてR363→R2へ。
次、尾道三山で最も広い千光寺山の探訪です。

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