目次 |
|
01 |
福山(福山駅~常石港)~向島(歌港~岩屋山) |
02 |
向島(大元神社~展望地~福本渡船) |
03 |
海岸通り(福本渡船~突堤/ベンチ~尾道渡船) |
04 |
商店街(渡し場通り/オバQ~御旅所~宝土寺~吉備津彦神社~鎌倉稲荷~尾道町奉行所跡) |
05 |
海岸通り(荒神堂小路~住吉浜/住吉神社/中央桟橋~薬師堂浜~出雲大社道~尾道市役所) |
06 |
浄土寺山(山陽本線~斎藤邸~尾道大橋/新尾道大橋~浄土寺~一橋邸~不動岩~奥の院) |
07 |
西國寺山(厳島神社/八坂神社~亀山八幡宮~西國寺~大山寺) |
08 |
西國寺山(菅公腰掛岩~タイル小路~福善寺~御袖天満宮~大山寺) |
09 |
千光寺山(ロープウェイ~艮神社~猫の細道~天寧寺~千光寺参道~中村憲吉旧居) |
10 |
千光寺山(千光寺~鼓岩~千白稲荷神社跡) |
11 |
千光寺山(千光寺公園~八福稲荷~八畳岩~文学のこみち~尾道城) |
12 |
千光寺山(千光寺新道~ロケ地の階段~信行寺前踏切~跨線橋) |
13 |
尾道駅周辺(土堂小学校~ロケ地の路地~尾道鉄道跡~ガウディハウス~空き地) |
14 |
尾道駅周辺(尾道駅~蘇和稲荷神社~駅前渡船~尾道駅前桟橋) |
15 |
栗原川以西(祇園橋~東巌通橋~天満神社~竜王山~西願寺) |
16 |
向島(福本渡船~岩屋山/大元神社~歌港)|しまなみ海道 |
17 |
向島(高見山~津部田~津部田の坂道~備後造船~胡子神社/海物園跡) |
18 |
向島(駅前渡船~尾道渡船~呼子浜の待合所~兼吉の丘~神原造船) |
19 |
尾道(尾道駅)~福山(福山駅~福山城)|出雲(国鉄大社駅~荒木小学校~出雲大社) |
※当サイトの内容を過信して発生したトラブルには一切の責任を負いかねます。必ず注意事項に目を通してからレポをお楽しみくださいますよう、強くお願いします。サイト内に掲載している写真・文章等のコンテンツは、形態を問わず転載厳禁です。
浄土寺山(p.6)を下り、R2に乗って西國寺山へ。JR山陽本線と同じく、本通りの北に設けられた道。江戸時代の西国街道に代わるメインルートです。
西國寺山エリアの地図。南北に広いので、まずは南側から探訪。ここでは西國寺まで。御袖天満宮はp.8から。1ページごとのボリューム調整が結構大変です。
※国土地理院の「地理院地図(新版)」から抜粋。「カシミール3D」で出力し、ポイントを追記しています。
2019年12月14日。防地口交差点の西に亀山八幡宮が鎮座。高台を走る山陽本線のおかげで気付きにくい。南の市街から通じる参道がぶった切られています。
地形的には西國寺山と浄土寺山の谷間に位置。中世には防地口(p.5)付近まで入り江のようになっており、周辺が港町の中心部だったと推測されています。その頃には既に八幡宮がありました。
2019年12月14日。久保町から延びる亀山八幡宮の参道。神門の向こうには八坂神社が見えます。こうやって路地を覗くのが尾道っぽい。
歓楽街(新開地区)の真ん中に鎮座する八坂神社。この地区は江戸時代中期の宝暦年間(1751~1764年)、豪商の橋本家(加登灰屋)によって埋め立てられました。後に歓楽街として発展し、DEEPな場所になっています。
八坂神社は明治以前には祇園社と称しました。山城国愛宕郡八坂郷の祇園社(感神院とも)が総本社。起源は分かっていないのですが平安時代には確立しており、祇園精舎の守護神、牛頭天王をお祀りした神仏習合の社。中世から近世にかけて隆盛した信仰の一つです。
牛頭天王のルーツは不明。平安時代、怨霊や疫病を鎮める御霊会が始められて以来、人々から行疫神として畏怖されつつ崇敬されるようになりました。その経緯は明らかではありませんが色々な神様と習合していき、『古事記』や『日本書紀』に登場する素戔嗚尊と同一視。薬師如来や武塔神とも習合。もはや正体不明です。
『備後国風土記』の逸文には重要な説話があります。その昔、北海の武塔神が南海の神の娘に求婚しに出かけ、日が暮れたので二人の兄弟の家に泊めてもらおうとしました。弟の巨旦将来は裕福で家が沢山あるのに惜しんで貸さず、兄の蘇民将来は貧しいながらも神を歓待しました。
後に武塔神は八柱の子を伴って再訪。蘇民将来の娘以外の人々を皆殺しにした上で、「吾は速須佐雄能神なり」と自らの正体を明かしました。その時、世間に疫病が流行れば蘇民将来の子孫と称し、茅の輪を腰に着ければ助かると言ったそうな。怖い神様ですね……
この説話は茅の輪くぐりの起源に留まらず、牛頭天王と習合した武塔神(素戔嗚尊)が登場。武塔神と蘇民将来は朝鮮に由来するという説があり、素戔嗚尊も新羅に関係するエピソードを持っています。あくまで推測ですが牛頭天王も朝鮮半島にルーツがあって、様々な要素を詰め込んだ祇園社の祭神になったと思います。
残念ながら、独特の祇園信仰は明治時代に廃絶。神仏分離・廃仏毀釈の流れで仏教要素は徹底的に排除され、長く崇敬されてきた牛頭天王を廃して祭神は素戔嗚尊に一本化。山城国の祇園社は、鎮座地にちなんで八坂神社に改められました。明治の近代化の影で、多くの文化や信仰が失われたのです。
2019年12月14日。扁額には「厳嶋神社・八坂神社」とあります。
尾道の八坂神社は元々、常称寺境内に鎮座。御調郡の産土神として崇敬されていたようです。江戸時代初期の承応4年(1655年)に尾道で疫病が流行した際、沼隈郡、鞆の浦の鞆津祇園宮(現在の沼名前神社)の祭神を勧請。祇園社として祭礼(祇園祭)が行われ、江戸中期から盛んになりました。祇園祭の見どころの三体神輿は明暦4年(1658年)に作られます。
明治の神仏分離の影響は尾道にも及びました。明治2年(1869年)、常称寺から祇園社が引き離され、八坂神社に改称された上で新開地区の厳島神社に合祀。それでも江戸時代から行われた伝統ある祇園祭は続けられ、土堂町・十四日町・久保町の三基の神輿が市内を練り歩く、尾道の夏を盛り上げる勇壮なお祭りになっています。
境内入口には大銀杏とかんざし灯籠が建っています。文政10年(1827年)に奉納された珍しい形状の灯籠。尾道の石工、善三郎の代表作として知られます。当時は八坂神社ではなく厳島神社でした。
この灯籠には幽霊の伝説もあります。昔、この辺りの芝居小屋に貧しいお茶子の娘がおり、裕福な浜問屋の若旦那が恋をしてしまいます。若旦那の父は身を飾るかんざしも持たない娘との縁談を許さず、悲しみに暮れた娘は井戸に身を投げてしまったのでした。悲恋の物語ですね。
以来、大銀杏の下にかんざしを求める幽霊が出るようになり、娘の無念を哀れんだ町の人々が立派な灯籠を奉納することに。それが「かんざし灯籠」と呼ばれる所以だと伝わっています。尾道の町には色んな人間模様があったのでしょう。
江戸時代中期に建てられた厳島神社の拝殿。安芸国(広島県)の厳島神社から勧請したと思われます。祭神は宗像三女神の市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命…のはず。住吉神社(p.5)と同じく、海上安全の社として創建されたのでしょう。
八坂神社としての祭神は明治時代に改められ、素戔嗚尊、櫛稲田姫命、稲田宮主須賀之八耳神の三柱に。『古事記』と『日本書紀』の八岐大蛇の伝説に登場する神々です。ちなみに素戔嗚尊という神様のルーツもよく分かっていないことで有名。本レポでは、そこまで難しい内容に踏み込むつもりはないので……
2019年12月14日。拝殿の左手前に鎮座する末社。一説によると猿田彦命をお祀りしているらしい。
2019年12月14日。拝殿の右手前に鎮座する末社。「正一位長官稲荷大明神」の標柱があり、こちらの社は稲荷神社と思われます。
2019年12月14日。八坂神社から北の亀山八幡宮に延びる参道。二つの神社が向かい合って鎮座しています。
2019年12月14日。南北の参道と交差する本通り(昔の西国街道)。商店街(p.4)の東端、尾道通りと呼ばれています。参道脇には亀山八幡宮の御旅所が設けられていました。
2019年12月14日。江戸時代初期に奉納された八幡宮の石鳥居。万治2年(1659年)と刻まれ、尾道市内では最古。笠木と島木が一体で、反りがあるのが大きな特徴です。
2019年12月14日。亀山八幡宮の神門。石の鉾がかっこいい。参道を横切る形でR2と山陽本線が通されており、踏切より南は久保地区、北は西久保町になります。
2019年12月14日。八幡社前踏切を渡り、亀山八幡宮の境内へ。難しい宣揚文が刻まれた注連柱(標柱)があります。踏切が神社の入口のようになっているのが面白いです。
社伝によると応神天皇22年(291年頃)、天皇が淡路・播磨・小豆島を経て当地に国見の巡幸をした際、海辺に玉子に似た光り輝く石を見つけ、亀に似た小さな丘の上でお休みに。後に、里人が祠を建てて聖地として崇めるようになったのが当社の始まり。亀に似た丘ということで、亀山と呼ばれました。
社としての創建は平安時代初期の貞観年間(859年~877年)。貞観2年(860年)、豊前国の八幡宮(大分県の宇佐神宮)の神託により、平安京の南西を守護する八幡宮(後の石清水八幡宮)が創建されました。亀山は京の都から宇佐へ勅使を派遣する際の参詣・宿泊地となり、石清水八幡宮の祭神を勧請して亀山八幡宮に発展しました。明治以降は久保八幡神社とも称しています。
応神天皇(誉田別尊)は仲哀天皇と神功皇后の子。p.5で紹介した住吉三神の伝説に関係の深い人物です。仲哀天皇が住吉三神の託宣に従わず崩御してしまった後、神功皇后は我が子を身籠ったまま軍勢を率いて九州から出発。三韓征伐を成して筑紫国(福岡県)で誉田別尊を産みました。
母の胎内で戦いに加わった誉田別尊は胎中天皇とも呼ばれ、生まれながらの武神として、軽島豊明宮(奈良県)で天下を治めました。古墳の時代の大王と考えられていますが、実態はよく分かっていません。『古事記』と『日本書紀』の記述に基づいて西暦に当て嵌めると、在位期間は270~312年になります。(便宜的な年代)
八幡大神のルーツは不明。あまりにも難解だから詳細は割愛するとして…九州北部に移り住んだ渡来氏族、秦氏が奉斎する神様が地元の宇佐氏の信仰と結びついて発展したとする説があります。諸説あるうちの一つであり、推測に過ぎないことをご理解ください。
古くから神仏習合の神様だった八幡大神。神託により朝廷を助けたエピソードがいくつも記録されており、東大寺の大仏造営を助けたり、道鏡の陰謀を阻止したことも。奈良時代末期には護国霊験威力神通大菩薩の尊号が贈られ、八幡大菩薩として崇敬されるようになります。
平城京から平安京へ遷都した後も朝廷に重視され、平安初期の貞観2年、都の南西を守護する八幡宮が創建。東で平将門の乱、西で藤原純友の乱が相次いで発生した時は、八幡大神に奉幣が行われ、国家鎮護の神様として頼られていました。おそらく、この時期までに応神天皇と習合したと考えられています。
ただでさえ霊験あらたかな八幡大神が応神天皇と同一視され、皇祖神や武神の要素が加わり、国家鎮護のみならず武士の守護神に。尾道に鎮座する八幡宮も、大名や武将に崇敬される社だったと思います。しかし上述の祇園社と同様、明治時代に仏教と切り離されました。現在の八幡宮に仏教要素は残っていません。
2019年12月14日。二の鳥居脇に設置された軍配灯籠。基壇に軍配が埋め込まれた珍しいデザイン。奉納は江戸時代末期の天保5年(1834年)。これも尾道の石工による作品です。
2019年12月14日。二の鳥居は江戸時代中期の正徳6年(1716年)に奉納。柱に彫られた文字は「藝備國主四品侍従源朝臣吉長」。第5代の広島藩主、浅野吉長が寄進した鳥居です。これは貴重な文化財ですね……!
元は常称寺の祇園社に奉納された鳥居。明治時代の神仏分離で祇園社が引き離された際、何かの縁で八幡宮に移設。残されて良かったです。
踏切が鳴って二の鳥居から参道を振り返ると、山陽本線の真っ黄色の電車が走っていきました。八幡宮の創建当時は境内から海が見えたはず。
2019年12月14日。本殿へ向かう前に境内社を紹介します。二の鳥居の左手、事代主命をお祀りする恵比須神社。こうして由緒や祭神を表記してくれるとありがたいです。
2019年12月14日。恵比須神社の隣に稲荷神社。宇迦之御魂神をお祀りする社です。
2019年12月14日。正式には二の丸稲荷神社といいます。江戸時代末期に尾道の相撲で活躍した力士、陣幕久五郎と妻おゆきの信仰が篤く、おゆき稲荷とも称します。
2019年12月14日。稲荷神社の左隣には松尾神社。大山咋神と市杵嶋姫神をお祀りする社です。元は浄土寺(p.6)境内に鎮座していたのが豪雨で流失。八幡宮境内に勧請されました。
2019年12月14日。石段の右手に鎮座する和霊神社。山家清兵衛公頼公命をお祀りしています。
公頼は伊達政宗に仕え、宇和島藩(愛媛県)の家老になった人物。宇和島藩のお家騒動で家族ともども殺害されるという悲惨な最期を遂げ、後に陰謀に関与した者が次々に変死。公頼の怨霊の仕業と恐れられました。江戸初期の承応2年(1653年)、宇和島にて公頼をお祀りする和霊神社が創建。各地に勧請され、尾道の和霊神社もその一つと思われます。
2019年12月14日。石段を登って本殿へ。遠い昔、応神天皇が休んだという小高い丘です。
2019年12月14日。住吉神社(p.5)にも展示されていた力石。元々は神霊の依代の石を持ち上げる卜占の一種、または成人の通過儀礼のために担ぐ石であったのが、本来の意味を失い若者の力自慢の道具になったとか。
尾道が北前船の寄港地になった江戸時代、港の荷役を行ったのは沖仲仕と呼ばれる人達でした。彼らはとんでもなく重い力石を担いで力自慢を競い、見事担ぎ上げた者は名前が刻まれました。
祭神は品陀和気命(応神天皇)、帯中津日子命(仲哀天皇)、息長帯日売命(神功皇后)。神話や伝説の成り立ちを学びながら神社を巡り、尾道の歴史について理解を深めるのです。
2019年12月14日。静かな境内の様子。いかにも観光地な海岸通りとは別世界のようです。社殿は江戸時代前期の元禄5年(1692年)に再建。昭和6年(1931年)に拝殿が改築されています。
2019年12月14日。拝殿の左手、竈神の奥津彦命と奥津姫命をお祀りする荒神社。元は常称寺下の石屋町に鎮座し、尾道の石工に崇敬されました。左隣に「筑後國久留米 水天宮」の標柱。こちらは由緒不明です。
2019年12月14日。拝殿の左奥には船魂をお祀りする貴船神社と、高良玉垂命をお祀りする高良神社がありました。
2019年12月14日。拝殿の右手には伊勢神宮遥拝所。「天照皇大神宮」と刻まれています。
2019年12月14日。拝殿の右奥に鎮座する高御倉(石工)神社。石工の祖神、建真利根之命をお祀りする社です。
『新撰姓氏録』によると垂仁天皇御代(紀元前29年~紀元後70年頃)、皇后の日葉酢媛命の石棺を作って石作大連公の姓を賜ったとあり、火明命の六世の孫、建真利根之命の後裔と解釈できます。以来、石作連は各地で石工を営むことになりました。
長い年月が流れ、江戸時代中期の享保年間(1716~1736年)。摂津国(大阪府)の石工であった福嶋村雲藤原徳栄が尾道に移住。当地の石工連中に、石作大連公建真利根之命を祀る社の建立を発議。享保16年(1731年)、亀山八幡宮境内に石工神社が創建されました。
扁額に高御倉大神と刻まれた石鳥居は文政5年(1822年)に奉納。多くの石工が暮らし、石細工が盛んだった頃の尾道を感じられます。尾道は港町や宿場町だけでなく、石の町の歴史も持っていたのです。
尾道久保町郵便局前交差点を北に入り、山陽本線の架道橋をくぐると西國寺の参道です。この古びた橋台も、明治時代の山陽鉄道の名残。100年以上前、レンガを積んで建設されました。
2017年9月9日。西國寺の参道。北に見えるのが西國寺山(116m)です。
明治時代に市内を横断する形で鉄道が整備。高架や踏切を通って山手の寺社に向かうという、尾道独特の参道が出来上がりました。この路地もいい雰囲気です。
2017年9月9日。行基によって開かれたと伝わる西國寺。西國寺山(愛宕山)南麓に大伽藍を誇る古寺です。
「かみちゅ!」は神社がメインの作品なので、尾道の歴史を象徴する古寺は全く登場していません。アニメや映画のロケ地巡りだけで探訪レポを完結させると、尾道という町について理解できないまま終わってしまいます。一部の風景だけでなく、地域全体の歴史を学びながら歩く。それが探訪活動なのだと、最近思うようになりました。
2017年9月9日。愛宕山への入口となる仁王門。江戸時代初期の慶安元年(1648年)に建てられました。江戸中期の元文5年(1740年)には地元の豪商、泉屋新助によって大修理が行われています。
2018年3月31日と2017年9月9日。仁王門の扁額には、西國寺の山号である「摩尼山」。両側には仁王尊(金剛力士)の健脚にあやかって大草鞋が奉納されています。
2017年9月9日。中世に再建された金堂。左手に英霊殿と加茂明神社が鎮座しています。
西國寺の創建は奈良時代前期。天平年間(729~749年)に当地を訪れた行基が、加茂明神の霊夢を見て開山したと伝わっています。山号は摩尼山。本尊は秘仏の薬師如来。現在は真言宗醍醐派の大本山です。
平安時代中期の治歴2年(1066年)に諸堂を焼失。行基の時代の金堂や本尊は失われてしまいましたが、当時の住職の慶鑁和尚が山城国仁和寺の性信法親王に師事し、白河天皇に復興を願って永保元年(1081年)に再建を果たしました。この時、愛宕山の南麓に大伽藍が整備されています。
翌年の永保元年(1082年)、白河天皇の祈願所に。更に天仁元年(1108年)には白河法皇の勅願寺となり、備後国のみならず西国有数の規模を誇る大寺院に発展。200年後の正和元年(1312年)、花園天皇の綸旨により「西国一」を意味する「西國寺」に改称されました。
中世、浄土寺(p.6)が足利氏の庇護を受けたように、西國寺は備後守護職の山名氏ゆかりの寺院として知られます。南北朝時代の永和年間(1375~1379年)に再び諸堂を焼失するも、至徳3年(1386年)、山名氏によって速やかに金堂が再建されました。後に、足利義教の寄進で三重塔が建立されています。
遣明船の交易に携わっていた山名氏にとって、商業港の機能を持つ尾道は瀬戸内の重要拠点でした。当時の西國寺は、浄土寺と同じく商人達の心の拠り所。山名氏は瀬戸内の有力者との関係を重視して西國寺を庇護したと思われます。
2018年3月31日。桜が満開の季節に再訪しました。石段の上から見下す尾道水道も良いですね。フィルムはFUJIFILM Velvia 100(リバーサル)です。
3回目の補完探訪から使い始めたMINOLTA α8700i。大ヒットしたα7000の改良型。非常に扱いやすいカメラです。オートフォーカス&自動露出なのでリバーサルでも心配無用。広角レンズのおかげで、横長な風景も全部収まります。
(詳細は「GEARS」を参照)
桜の季節の尾道はカメラマンが多く、昔αを使っていたおじさんに声をかけられることも。カメラ3台態勢で行動していると写真家にしか見えないし、実はα7000とα7700i、各種レンズも持っていたりするのですが、本質的にはカメラマニアじゃないからカメラのことは知りません。本当です。
2018年3月31日補完分の金堂。奥の高台には三重塔がそびえます。金堂は至徳3年(1386年)、山名氏によって再建。中世の尾道浦の雰囲気を伝える重要文化財です。
2017年9月9日。尾道出身の彫刻家、児玉康兵氏による作品。「空環宝珠」なるオブジェが設置されています。
尾道三山(千光寺山・西國寺山・浄土寺山)が、向島の岩屋山(pp.1-2)に向いていることを発見した児玉氏。古代の尾道は陰陽思想に基づく宗教都市だったと主張され、岩屋山を望む作品、「空環宝珠」を奉納したそうです。物好きな人ですねえ……
室町時代の永享元年(1429年)、足利義教によって建立された三重塔。金堂と同じく重要文化財に指定されています。残念ながら、崖崩れのためアクセス不能でした。
2017年9月9日。次の探訪ポイントは御袖天満宮。西國寺の参道から西の路地に入ります。路地には猫がいっぱい…さすが猫の町です。
2017年9月9日。山手の民家を抜ける尾道らしい路地。観光地化されないありのままの姿です。
明治以降、山の斜面に無秩序に民家が建てられ、密集する民家の間を縦横無尽に抜ける路地が形成。必然的に坂が多く、坂の町と呼ばれるようになりました。こういう路地を歩き回って寺社を巡るのが楽しいんです。
2017年9月9日。大山寺(p.8)の手前まで来ました。1枚目は「かみちゅ!」ピンナップ、みこちゃんが立ってる場所。これは分かりにくい。当時の探訪者はよく探し当てられましたね。
2018年3月31日。大山寺から御袖天満宮に下る路地。猫ちゃんが佇んでいたので、こっそり撮影。
2018年3月31日。猫ちゃんに気付かれてしまいました。後をつけられながら路地の探訪を続行。
次ページ、ようやく御袖天満宮です。