諏訪サイクリング II・守屋山ハイキング I

01|下諏訪駅~下社秋宮|御射山社
02|~御作田社~注連掛~木落し坂~下社春宮|旧御射山・車山神社
03|~釜口水門~岡谷駅~藤島神社~洩矢神社~茅野駅
04|茅野駅~守屋山(守屋神社奥宮・里宮)~御柱屋敷~
05|上社前宮|水眼の源流
06~守矢史料館(守矢邸・御頭御社宮司総社)
07|~北斗神社~上社本宮
08|~大祝邸~木落し公園~茅野駅|御座石神社|青柳駅~御射山社
09|茅野駅~葛井神社~足長神社~八劔神社~手長神社|立石公園
10|~上諏訪駅~兒玉石神社~先宮神社~高島城~下諏訪駅

2016年5月1日(日) 2日目

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諏訪大社上社前宮を出て、R152で本宮方面へ。
この先でR16に乗り継ぎます。

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1352、R16沿いの神長官守矢史料館。
東方ファンの間では超有名ですね。

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平成3年(1991年)、茅野市によって整備された小さな博物館。
代々神長を務めた守矢家の敷地内にあります。

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守矢家の表札。現在の当主は守矢早苗氏。
洩矢神から数えて78代目となります。

上社の筆頭神官である神長は一子相伝の役職。
ミシャグジ神の祭祀といった秘法は口伝で受け継がれてきました。
しかし、明治5年(1872年)の太政官布告により世襲制の神官は廃止。
大祝と神長は解職され、その重要な役目を終えることになります。

最後の神長は76代の実久氏で、77代真幸氏には一部の祈祷のみ伝授。
真幸氏の孫である早苗氏には特に継承されることなく、守矢の秘法は消失。
諏訪信仰を体現する神長の歴史が失われたのは、本当に残念なことです。

東方的には、「祀られる風の人間」こと東風谷早苗のモデル。
守矢神社の風祝を務め、一子相伝の秘術をマスターする現人神。
上社の大祝と神長を合わせた設定で、諏訪氏と守矢氏の末裔みたいな存在。
明言されているわけではありませんが、かなすわの子孫と考えられます。
でも、実在の早苗氏と同じ名前にしてOKなんでしょうか・・・?

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左手には神長守矢家祈祷殿。
明治8年(1875年)に取り壊され、その後再建されたもの。
祈祷を行ったり、守矢の秘法を伝授していたそうです。

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門をくぐると左手に守矢邸。早苗氏の実家です。
正面には、ミシャグジ神をお祀りする御頭御社宮司総社。

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右手にあるのが守矢史料館。
地元出身の建築家、藤森照信氏のデビュー作です。
古代的かつ現代的なデザインで、入口には4本の柱が並んでいます。
照信氏の名付け親は真幸氏で、守矢家とは長い付き合いだとか。

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守屋山ハイキング II」から抜粋。
入口の柱には鳥のようなものが刺さってます。

これは薙鎌と呼ばれる鉄製の神器で、
古くから御神体や神幣として用いられてきたマジックアイテム。
現在の御柱祭でも、御神木の表示として打ち込むことになっています。
守矢史料館の薙鎌は早苗氏と当時の茅野市長が打ち込んだそうで。

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入館料はたったの100円。
早苗氏のお話や守矢氏の家系図が載っている
『神長官守矢史料館のしおり』は200円です。
レポ執筆の参考にさせてもらいました。

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中の人の解説を聞きながら見学。

今から1500~1600年以上前、洩矢神を長とする先住民族がおり(略)
出雲から侵入した建御名方神に敗れるものの、その子孫は神長となり(更に略)
神長の守矢氏は祭祀の実権を握り、守屋山の神様を降ろす力を持っていたとか・・・
おっ?守矢氏が降ろす神様といえば、ミシャグジ神のことではないですか?

はい、その通り!
守屋山は古代より、ミシャグジ神の宿る山として崇められていました。
守矢氏にとって、まさに信仰の山、マウンテン・オブ・フェイスという位置付け。
当地で暮らした人々からすれば守屋山は恵みの水をもたらす神聖な山であり、
古い里唄にも、そんな山の様子が歌われているそうな。

縄文時代の自然崇拝から始まったと考えられている諏訪信仰。
守屋山そのものが崇拝対象だったのが、いつしかミシャグジ神の山という信仰に。
守矢氏は麓から磐座を通してミシャグジ神を祀り、降ろしていたことから、
諏訪大明神を祀る諏訪神社でも、神聖な山として崇められたのでしょう。
そういった信仰が語り継がれてきたからこそ、地元の方は今でも
守屋山を神体山として認識されているのだと思います。

これで守屋山の位置付けについて十分納得しましたが、
7ページ目の上社本宮でも、中の人に尋ねてみることに。
私は、守屋山は神体山であると信じます。

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こちらは御頭祭の復原展示。
雄鹿の頭が並ぶハンターのトロフィーみたいなコーナーです。
江戸時代中期のスケッチを元に、前宮の十間廊で行われた祭祀を一部再現。
実際の神事では75頭も用意され、数が足りない時は猪やカモシカで補完したそう。
ずっと昔には、子供を生贄にすることもあったと伝わっています。

古代より、人々は生きていくために動物を狩りました。
その収穫を神様に感謝して、このような祭祀が始まったのでしょう。
残酷だと感じるかもしれませんが、これが人間の営みの歴史。
もちろん、狩猟(駆除含む)が必要なのは現代でも同じです。
猟友会のハンターは冷遇されてますけどね。

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右下の立派なトロフィーは耳裂鹿。
神様に供える獲物の中には必ず耳の裂けた鹿がありました。
神の鉾にかかったと言われ、上社七不思議の一つです。

神奈子様は新しい.375RUMのボルトアクション。
諏訪子様は相当古い.35Remのレバーアクション。
早苗さんは最新の12番セミオート、みたいな勝手なイメージ。
ちなみに現在の御頭祭では、3頭の剥製で代用しています。

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2009年撮影分。
ミシャグジ神の誓約の印に用いた、サナギ鈴(佐奈伎鈴)なる鉄鐸。
鉄板を丸めて鈴のようにしたもので、神使が専用ポーチに入れて携行します。
誓約を破ると、ミシャグジ神の祟りがあると信じられてきました。

当地には古代より製鉄技術が存在しており、
天竜川の戦いで、洩矢神が用いた鉄の輪はサナギ鈴という説も。
もっとも、建御名方神の製鉄技術のほうが優れていたようです。

この奥は企画展コーナーになっており撮影禁止。
江戸時代初期のものと考えられる『上社古図』の復元版もあります。
昔の諏訪神社周辺の様子を描いた貴重な史料なので、是非ご覧ください。
古図によると、当時の守屋山頂には守矢大臣宮があったらしい。

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史料館を出て、御頭御社宮司総社へ。
この辺りには縄文時代の遺跡が沢山あります。

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四隅に御柱が建てられた社殿。
丘の上に位置し、特別な社という風格です。

この社はミシャグジ神の祭祀の中枢とされ、
早苗氏によると守矢家の大事な信仰対象だったとか。
ミシャグジ神には色々な当て字や呼び名がありますが、
守矢家ではミシャグチ様と呼ばれていたそうです。

社の背後に続くのは、ミシャグジ神の山として崇められた守屋山。
ミシャグジ神を降ろす場であった前宮も、守屋山をバックにしていましたね。
昔の人々には、神長がサナギ鈴を鳴らすとミシャグジ神が山頂から飛んで来るように見えたとか。
但し1407mのピークの稜線に隠れており、ここから直接見えるわけではありません。

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古代の信仰を色濃く伝える社。
社殿には鹿の頭骨が供えられていました。

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祠にも小さな御柱。
御柱の原型は、諏訪大明神がやってくる以前から
存在していたと考えるのが自然ではないでしょうか。

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ここから8月補完分。
真夏の諏訪はとても暑いです・・・

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まずは守矢史料館にIN。
諏訪信仰について色々質問しつつ見学。

中の人によると・・・
諏訪信仰は自然崇拝そのもので、古代の素朴な「心」。
絶対的な教義というものが存在するわけではありません。
ミシャグジ神や洩矢神、諏訪大明神も、水の神様として崇敬されたり、
風神、狩猟神、農耕神、軍神、はたまた龍神や蛇神だったりすることも。
どれが正しい信仰だとか言い出すと、不毛な宗教戦争になってしまいます。

諏訪信仰の歴史については様々な説がありますが、
あまりにも昔のことで、もはや明確な答えなど存在しないのです。
長く語り継がれてきた信仰を、現代的な定義に当て嵌めようと試みたり、
アカデミックな考察・考証まがいの観点で答えを求めるのは野暮な話。

私のアプローチも、現代的な価値観に毒されていました。
もっと純粋な気持ちで、諏訪の信仰を感じようと思います。

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せっかくの機会なので、守屋山で物部守屋が祀られている由来について質問。
ここで登場するのが守矢氏の家系図で、武麿(弟君)なる人物を挙げられました。
・・・なんとこの人物、守屋の次男だとか。

諏訪の地に逃れた物部武麿は守矢氏の養子に迎えられ、
洩矢神から数えて27代目の当主になったと伝わっています。
最近、物部氏の末裔を称する奈良の宮司一族が守矢家を訪れ、
物部氏と守矢氏の家系図を照合したところ、武麿の存在の一致を確認。
守矢に物部の血が流れている・・・ロマンがあって、とても面白い話です。

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御頭御社宮司総社。鹿の頭骨が綺麗に並べられています。
私はミシャグジ神が狩猟の神様であると感じました。

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社殿裏手には古くなった御柱。

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社殿左奥、小高い丘の上にある神長官裏古墳。
7世紀頃の築造と推定され、守矢家では武麿の墳墓と伝わります。
武麿が物部一族だとすれば、諏訪にやってきたのは飛鳥時代初期。
古墳の築造された年代と、ほぼ合致することになりますね。

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石室の様子。内部は抜き取られています。

これは100%妄想ですが、
当地に流れ着いた武麿はミシャグジ神の宿る山で守屋を祀り、
それが由来となって守屋山と呼ばれるようになったのかもしれません。
子孫は守屋の名から守矢氏を称し、先祖を洩矢神とする信仰が生まれた・・・
つまり・・・洩矢神も守矢氏も、物部守屋がルーツだったんだよ!!!

まあ、こんな安易な発想では武麿が27代目という家系図に合わないし、
先住民族の長である洩矢神が架空の神様になっちゃうから駄目ですね。
とにかく古い時代のことですから、はっきりした答えはありません。
分かっていない部分は妄想で補うしかないのです。

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右手の畑を抜けて、大祝や神長の墓所へ。
墓地の写真は撮りません。

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川沿いに車道を歩くと、左手に奇妙な建物が。
道端には相本社の御柱が安置されています。

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藤森照信氏による超ヘンテコな作品群。
左が「高過庵」、右が「空飛ぶ泥船」です。

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これが空飛ぶ泥船。
ぶっ飛んだデザインです。

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そして高過庵。
ここまで8月補完分でした。

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諏訪信仰の歴史を垣間見れた気がして、かなりの収穫。
7ページ目、上社本宮に続きます。

「中部地方の旅」のレポ一覧に戻ります。
「東方巡遊記」に戻ります。