諏訪サイクリング II・守屋山ハイキング I
01|下諏訪駅~下社秋宮|御射山社
02|~御作田社~注連掛~木落し坂~下社春宮|旧御射山・車山神社
03|~釜口水門~岡谷駅~藤島神社~洩矢神社~茅野駅
04|茅野駅~守屋山(守屋神社奥宮・里宮)~御柱屋敷~
05|上社前宮|水眼の源流
06|~守矢史料館(守矢邸・御頭御社宮司総社)
07|~北斗神社~上社本宮
08|~大祝邸~木落し公園~茅野駅|御座石神社|青柳駅~御射山社
09|茅野駅~葛井神社~足長神社~八劔神社~手長神社|立石公園
10|~上諏訪駅~兒玉石神社~先宮神社~高島城~下諏訪駅
2016年4月30日(土) 1日目
諏訪大社下社春宮を出て、
次の目的地は藤島神社と洩矢神社です。
R185から地道に乗り継ぎ、下諏訪市街から諏訪湖畔へ。
路側帯は狭いものの、交通マナーが良く安全に走れます。
諏訪湖北岸の漕艇場に下りました。
このまま湖岸通りに沿って、西の岡谷方面へ向かいます。
ロードバイクに乗ったサイクリストの姿がちらほら。
諏訪湖には一周16kmのジョギングコースが整備されています。
自転車なら、飛ばせば2時間ぐらいで一周できる距離。
探訪しながらだと丸一日あっても足りません。
1500、岡谷湖畔公園を抜けて北西端の釜口水門。
天竜川の起点であり、約213km流れて静岡県の遠州灘に注ぎます。
釜口水門から南東方面の眺望。
対岸には上諏訪市街が見えます。
永明寺山(1119.6m)の稜線の向こうには八ヶ岳。
この辺りではよく目立つ、堂々としたシルエットの山域です。
正式には八ヶ岳連峰であり、夏沢峠以北を北八ヶ岳、以南を南八ヶ岳と呼ぶことも。
最高峰は南八ヶ岳に位置する赤岳(2899m)。左上の写真、中央の一番高いピークです。
2013年8月の「八ヶ岳トレッキング」から、赤岳山頂の様子。
東方では、「風神録」の舞台となった八ヶ岳。
「儚月抄」によると、富士山に住んでいた咲耶姫は、
その昔、八ヶ岳が富士山より高いことに怒って八ヶ岳を粉砕。
姉の石長姫はすっかり嫌気が差し、八ヶ岳に移住してしまいました。
幻想郷の妖怪の山は、咲耶姫に砕かれる前の八ヶ岳なのだとか。
同じく「八ヶ岳トレッキング」から八ヶ岳南端、編笠山山頂(2524m)の眺望。
守屋山・諏訪盆地・諏訪湖は、上から見るとこんな感じ。
南東には日本最高峰の霊山である富士山(3776m)。
条件が良ければ
「永夜抄」、「儚月抄」の藤原妹紅のエピソードや、
秘封倶楽部の「卯酉東海道」でお馴染みの山ですね。
富士山自体に登ったことはありませんが、
木花咲耶姫命を祀る富士山本宮浅間大社については、
2013年4月の「東海道ツーリング」でカバーしています。
釜口水門から諏訪湖。
諏訪湖に注ぐ川は砥川・上川・宮川など色々。
流れ出るのは天竜川のみとなっています。
小休止したら、JR中央本線を越えて岡谷駅へ。
このペースだと茅野に着くのは17時半になりそう。
駅前からR14、岡谷街道に乗り換えて西へ。
長野自動車道をくぐります。
1528、R14沿いの藤島神社。
天竜川の北岸、川岸上1丁目交差点を過ぎたところ。
大体この付近が建御名方神の入諏伝説の地のようです。
建御名方神は、国津神の代表格である大国主命の第二子。
天津神が葦原中国を統治するため派遣した建御雷神に挑みますが、
えらい目に遭わされて出雲国から科野国の州羽(信濃国の諏訪)に逃走。
命乞いをして4本の御柱を建て、諏訪の地から出ないことになったそうな。
国譲りにおけるエピソードは、全くかっこいいものではありませんね。
2013年5月の「山陰ツーリング II」では、
葦原中国を開発した大国主命を祀る出雲大社や、
国譲りの舞台となった稲佐の浜をカバーしています。
そちらのレポも併せてどうぞ。
諏訪神社の縁起を記した南北朝時代、
延文元年(1356年)の『諏訪大明神画詞』によると、
諏訪に侵入した建御名方神の軍勢は、洩矢神を長とする先住民族と天竜川を挟んで対峙。
洩矢神は鉄の輪を持って戦いますが、建御名方神の投げた藤の枝により無力化されました。
戦いに勝利した建御名方神は、諏訪大明神として諏訪の地を治めることになります。
「土着神の頂点」こと洩矢諏訪子は、言うまでもなく洩矢神がモデル。
スペカ「諏訪大戦~土着神話vs中央神話」は、天竜川を挟んだ戦いのこと。
神奈子様のテーマ曲「神さびた古戦場」も、この戦いのテーマ曲と言えます。
かなすわのバックストーリーは、基本的に諏訪の伝説そのまんま。
8月補完分。建御名方神が投げた藤の枝が繁盛して、
藤洲羽の森になったのが藤島神社の始まりと伝わります。
但し現在の社、というか祠は遷座されたものらしい。
一応書いておくと、洩矢神と建御名方神のエピソードは、
土着神話を中央神話に組み込むための後付け設定と考えられます。
そんなことを言い出すとロマンが無くなりますから、深読みはしない方向で。
アカデミックな観点から神話の真偽を追及するつもりはありません。
では、捷径橋で天竜川南岸へ渡ります。
跨線橋でJR中央本線を越え、洩矢神社へ。
一帯は左右を山に挟まれた隘路になっています。
天竜川沿いに岡谷街道を通って諏訪に攻め込む建御名方神より、
諏訪湖側の入口で防御する洩矢神のほうが明らかに有利な地形。
隠蔽に適した山から撃ち下ろしたり、後方に回りこんで挟撃することも可能。
・・・なのですが、建御名方神の軍勢のほうが強かったようです。
1545、洩矢神社。
出発からここまで約17.8kmでした。
山手の住宅街の中に位置しており、
諏訪大社のように分かりやすい標識はありません。
探訪の際は、社の位置とルートをよく調べておきましょう。
祭神は、先住民族の長であった洩矢神。
戦いに敗れた先住民族は虐げられたり滅ぼされてしまったわけではなく、
洩矢神は新たな統治者である建御名方神を助けて諏訪の開発に尽力されました。
その神徳を称えるため、藤洲羽の森の対岸に社が建てられたそうです。
神紋は丸に一枚柏。例によって創建年代は不詳。
藤島神社と同じく、何度か遷座しているらしい。
建御名方神の子孫は諏訪氏を名乗って当地を治め、
諏訪神社上社において大祝と呼ばれる役職を務めました。
大祝は建御名方神の依代、生神と言える存在であり、
上社の御神体だったと伝わります。
一方の洩矢神には一男一女がおり、
女の多満留姫は建御名方神の第二子である出早雄命の妻に。
男の守宅神の子孫は、上社の神長(後に神長官)を務め、守矢氏を名乗りました。
神長とは筆頭神官の役職であり、大祝を補佐して祭祀を取り仕切った存在。
諏訪の祭政における実権は、守矢氏が持ち続けることになったのです。
尚、下社の大祝は神八井耳命の末裔とされる金刺氏が務め、
上社の諏訪氏と不毛な対立抗争を繰り広げる時代もありました。
金刺氏は戦乱の中で滅亡して武居祝が後継者となるのですが、
この辺りの歴史はややこしいので割愛させてください。
守矢一族の氏神様をお祀りする社。
とても落ち着いた空間です。
当地では、古代よりミシャグジ神が崇敬されていました。
ミシャグジ神とは自然に宿る精霊で、今風に言うとアニミズムでしょうか。
諏訪大明神を祀る諏訪神社においても大変重要な存在であり、
神長の守矢氏にはミシャグジ神を降ろす秘法が伝わり、
代々、上社の祭祀を司ってきました。
東方では、諏訪子様はミシャグジ神を司る神様という設定。
バックストーリーやスペカ、祟符「ミシャグジさま」で触れられてますね。
祟符とあるように恐ろしい祟り神で、冒涜すると大変なことになるらしい。
というわけで、古代から現代に至るまで丁重にお祀りされています。
境内には祠がいくつかあります。
洩矢神の子孫を祀っているのかな?
洩矢神社の小宮御柱祭が行われるのは10月のこと。
まだ御柱は建てられていません。
ミシャグジ神は、洩矢神や諏訪大明神と同一視されることも。
興味深いことに、御柱はミシャグジ神の依代として使われたと伝わっています。
諏訪神社が創建されるずっと前から、御柱信仰の原型は存在しており、
長い歴史の中で多くの要素が習合し、現在の様式になったのでしょう。
ちなみに、ミシャグジ神は蛇神と考えられています。
諏訪子様は蛙、神奈子様は蛇がモチーフの神様ですが、
これは蛙を生贄にする上社の蛙狩神事に当て嵌めたものだとか。
色々なイメージが混ぜこぜになっているのは、東方ではよくあること。
東方の絵馬がいっぱい。
ここは土着信仰、ネイティブフェイスの本場。
「風神録」から9年経っても訪れるファンは絶えません。
東方をきっかけに、諏訪信仰の歴史に迫っていく舞台探訪。
本レポでは諏訪独特の信仰を、東方の元ネタ情報を交えつつ紹介しています。
難解な考察・考証や深読みは避け、現代に伝わる事柄をできるだけ簡潔に説明。
諏訪信仰について、なんとなく理解していただけたら幸いです。
境内の様子。地元の方による手入れが行き届いています。
以前はマレットゴルフ場があったとか。
小宮御柱祭が終わり、11月補完分。
更なる補完のため洩矢神社を再訪しました。
境内の様子。同じような写真ばかり撮っているのに、
訪れるたびに雰囲気が違うからネタ切れになりません。
拝殿の右手前には、建てられたばかりの洩矢神社一之御柱。
先端が曲がっているのが特徴的です。
左奥の三之御柱。祠にも新しい御柱が建てられています。
奥に見えるのは真言宗醍醐派御嶽弘覚教会の修練道場。
右奥の四之御柱。レポは淡々と書いていますが、
色んな御柱を直で見ることができて感動してます。
・・・境内を出て、中央自動車道西宮線沿いに進みます。
昭和56年(1981年)に設置された開通記念碑がありました。
その先にあるのは、菅原道真を祀る菅原宮。
同じく昭和56年に設置された遷座記念碑によると、
中央道を通すため当地に移転されてきたようです。
菅原宮正面の高架下をくぐって中央道の南へ。
洩矢神社の旧社地に向かいます。
少し歩くと、農地の一角に小さな社が。
ここが旧社地でしょうか。
昭和53年(1978年)の遷座記念碑によると・・・
古代より南信濃路に威勢を以て君臨した洩矢大神の住居跡を祀る社が、
中央道の開通に伴い移転。ここを新社地に定めたとのこと。
それ以前にあった古い社の位置は不明。
恐らく開通工事で撤去されてしまったのだと思います。
洩矢神社はここから更に遷座し、現在では中央道の北に位置。
この旧社地も移転されたものだったということが分かりました。
石碑には洩矢大神御舊趾とあります。
旧社地になっても御柱が建てられ、大切にお祀りされていました。
先住の神様が、今でも篤く信仰されている社。
ここまで11月補完分でお送りしました。
境内を出て、天竜川沿いに諏訪湖西岸のR16へ。
時刻は1620、気温は18℃。夕方になってしまいました。
1645、諏訪湖南東端で諏訪市に入りました。
対岸には下諏訪市街が見えています。
歩道が無くなり、路側帯を安全に走行。
山側にはミシャグジ神を祀る社がいくつかありますが、時間の都合でカット。
茅野方面へ飛ばしますヨ~
諏訪大社上社本宮前を通過。
明日、守屋山を下ってから探訪します。
1710、茅野市に入りました。
R197に乗り換え、上川橋で上川を渡ります。
ここも御柱祭一色ですね。
1735、JR中央本線の茅野駅西口。
長い一日が終わりました。
予約しておいた「ちのステーションホテル」にIN。
走行距離は約32.4kmとなりました。
駅前のデイリーヤマザキで食糧を補給。
明日の守屋山探訪の準備を済ませておきます。
多分、ノンストップの行程になるでしょう・・・
ローカルチャンネル、LCVの御柱祭特集を見ながら質素な一人宴会タイム。
「風神録」の本場は語り尽くせないほど素晴らしい。初日から充実のプランでした。
明日の天気を確認して、2030に就寝。
2日目の守屋山探訪に続きます。